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ヒマワリの髪飾り

作者: ナオユキ

 庄内ミツコの祖母には若い時から大切にしている宝物があった。ヒマワリの形をした髪飾りである。


 特に高価な品だというわけではない。かといってその辺の日用品店に最低価格一律で投げ売りされている安物よりはもう少し格好がよい。娘時代に祖父から買ってもらったのだそうだ。祖父のことを孫のミツコは話に聞くだけしか知らない。ミツコの父を産んですぐに若くして死亡したからだ。仏壇には遺影のかわりの写真が掲げられているが、二十五歳でこの世を去った祖父は写真の中ではまだまだ夢も情熱もさかんな青年の快活な笑顔をしている。ミツコの祖母は夫を失って後、再婚をしなかった。当時、夫と同年の二十代で未亡人となった彼女にはいくつかの縁談が持ち込まれたのだがどれもすげなく断った。亡夫に操を立てたのだ。この手で触れず、声もなくなっても、彼女にとっては夫だけが想い人であった。


 その夫の形見である髪飾りを彼女が宝石のように愛護するのは当然である。ミツコもまた、祖母の髪飾りが好きで、祖母と心を同じくして宝物だと思っていた。


「おばあちゃん。髪飾りを見せて」


 早い朝、雀がちゅんちゅんと鳴き交わし、庭の青々と咲いた紫陽花の葉っぱに露の玉がひかり、白い日光がななめにさしこんでくる七時前、小学五年生のミツコはこれから朝食をとって学校に行かなくてはならなかった。


「おやおや、今日はやけに早くからミツコと会ったね。いやじゃないよ。そんな顔はしないでおくれよ。髪飾りかい? ミツコも好きだねえ。それにしても、時間はいいのかい?」


「うん、いい。でも、ぐずぐずはしていられないよ。早く、早く!」


「はいはい。年寄りを急かさないで。最近は何をするにしても思うようにいかなくてね」


 ミツコが部屋のふすまを開けた時、彼女はまだ布団をおしいれに片付けたばかりの寝起き加減であった。それでも、朝早くから孫の元気な姿が見られて嬉しい様子である。六畳の和室にはタンスと化粧台、床に尻をついて座ってちょうどよい机、そして小さな仏壇がある。自然とその部屋には線香の香りが漂う。しっかりと生理整頓の行き届いた様子はその部屋の使い主の人となりを示す。


 老女はタンスの引き出しから小さな箱を取り出す。その結婚指輪に対するほどの丁重さで中身を守る箱の中には、ヒマワリの髪飾りがつつましく眠っていた。


「かわいいなぁ」


 ミツコはしみじみと言った。長年の老女の想いを吸ったその素朴な宝物は他人の推し量る価値から脱して気品さえ漂わす。装飾部分の色がはげかかっていないことから黄色の花びら、焦げ茶色の種子、緑の茎までそれぞれ別々の鉱物を使用していることがわかる。


「私が小娘だった時代にテツゾウさんがくれたのさ。あら、笑うなんて…こんな皺くちゃおばばにだってミツコみたいにかわいい時があったんだよ。あれは初めての二人きりでのお出かけだったな。神社でお祭りをやっていたからふたりとも浴衣を着て行った。ふふふ、私達、手をつないで歩いたよ。今思えば恥ずかしいね。テツゾウさんは十五歳くらいから町の石切り場で働いていたからゴツゴツと大きい手をしていたね。日本人にしては背が高い方でチビの私は話しかける時はいつも見上げてた。無骨な男のくせに、その日は緊張してたんだか妙に大人しくして表情をこわばらせていた。なんかカッコつけてるナー…って思ったけど、それが嬉しかった。神社にはたくさん出店があったけれど、私達もお金持ちではなかったから、ふたりでリンゴ飴だけ買ってもう帰ろうとしていたんだ。そこで私はふろしきを広げてたくさんの品物を並べているおじさんに気がついた。どうして気になったかと言えば、そこは屋台でもなかったし、売っている品も古めかしいし、他のお店がせっせと客寄せの声をはりあげているのにおじさんだけは打ち黙ってパイプ椅子に座っているしで、全然商売をしている風ではなかったからね。きっとあれは町から町を旅して商売する行商人っていう人だったと思うよ。私はテツゾウさんに頼んでちょっと立ち止まってもらった。そして、そこのお店の品物の中にこの髪飾りがあったんだ。これが目にとまるとなぜだかどうしても欲しくなってたまらなくなってしまった。自分達の財布の状況では贅沢はできないとわかっていたけれど、これを逃がしたら後で絶対後悔すると直感した。それで恐る恐るテツゾウさんに聞いてみることにした。予期していなかったらしくテツゾウさんは最初驚いた。おじさんに値段を聞くと高くはないけれど、かといってすぐに財布を出せるほど安くもなかった。でも、私は絶対にこれが欲しいと言って曲げなかった。普段だだをこねない私の頼みだったからテツゾウさんも仕方がないといった感じで買ってくれた。後で話を聞くと、その日、街の装飾店で贈り物を買ってくれるつもりだったらしいけれどこの髪飾りのせいで他の物が買えなかったのだそうよ。だけれど、私は後悔しなかったし、これで良いと思ったわ。だってこれがとても気に入っていたから他のどんなに高い物にも興味が湧かなかったもの」


 ミツコは一言も口をはさまず祖母の語り口に耳を傾けていた。髪飾りのいわれの次は祖父について聞きたくなった。


「テツゾウさんと私はどっちもこの町で生まれて、小さい頃からいっしょに遊んでいた。小学校にもいっしょに通って、好きになったのもお互い同時だったと思うよ。私達、それくらい通じ合っていた。結婚したのは十七の時。今の時代なら早いって言われるだろうけれど昔はそうではなかった。テツゾウさんは真面目で働き者で、いっしょに暮らして楽しかった。でも、七年後、私達が二十五歳になった頃、テツゾウさんに赤紙がきた(赤紙っていうのは戦争に行きなさいっていうお国からのお手紙だよ)。私は不安だった、もし帰って来なかったら私はムネオ(ミツコの父)とふたりきりで取り残されてしまう、だだっ広い海に放り出されるようなものだと思った。それでも、お国のために働くことは当然のことだし、女は耐え忍んで夫を見送ってやらなければ戦いに行く夫が安心できない。テツゾウさんも私を元気づけるために言ってくれた、『もし僕が戻ってこれなくても、悲しんだり、誰かを恨んだりしてはいけないよ。僕の命はこの国を支える石の一つになるのだから。君が歩くこの土、君が食べる野菜、君が見る大空、僕はそれらになりに行くのだよ』あの人の優しい顔、眼差し、どれも忘れられないよ。だってそれがあの人の最後の姿だったから。戦争が終わって、復員してきた人たちの中にテツゾウさんと同期で戦地に行った人がいて私に教えてくれた、たしかにテツゾウさんが死んだことを。ありがたいことにその人が亡き骸を葬ってくらたんですって。でも、その瞬間は悲しくて、悲しくて、その報せをくれたその人を地獄の悪魔みたいに憎んだ。あとで謝ったけれど錯乱した私はよほどひどいことを言ったらしいよ。テツゾウさんが旅に行く前に置いてくれた言葉なんて私はちっとも心に入れてなかったのかって自分で呆れるくらい。その人の話によると、テツゾウさんの所属した部隊は戦地の国のある町の大きい病院を中心に陣地を張って、敵国と攻防を続けていた。日本側は粘り強く頑張っていたそうだけど、ある夜、業を煮やした敵国がついに本格的な空襲をしかけて来て日本側の陣地をほとんど焼き尽くしてしまった。日本側は陣地を捨てて敗走し、テツゾウさんはその攻撃のさなかに致命傷を負って逃亡先の地で命を落としたそうなの。テツゾウさんの死を報せてくれたその人は従軍の間ずっとテツゾウさんの友達でいてくれたらしく、逃亡の時も負傷して動けないテツゾウさんを背負って走ったのだって。その時の光景が戦争が終わった今も目に浮かぶようだ、とその人は体を震わせたわ。空から無数の火の玉が降ってきて、あたり一体は火の海になってしまって、燃え盛る火の熱と倒壊する建物の轟音、あちこちに転がる人の死体、耳から離れない銃声、周囲を取り囲む真っ赤な火の壁の中で陣地にしていた病院の真っ黒い影が悲鳴を上げながら火に飲まれていく。私は涙が止まらなかった。そんな恐ろしい場所にテツゾウさんはいたのかと思うとかわいそうでならなかった。時間が経つにつれて夫のいない現実には慣れてきたけれど、私はいまだに土や食べ物や空にテツゾウさんのことを思うことはできないんだよ。私がテツゾウさんを思うのはただこの髪飾りにだけなんだよ…」


 話を終え、彼女は静かに口をつぐんだ。しばし清澄な沈黙が場を満たした。しかし、ミツコはがまんできずに口を開いた。


「ねえ、おばあちゃん。今日、夕方から花火大会があるでしょう? 私、この髪飾りをして行きたいな。だめ?」


「だめじゃないさ。貸してあげるよ。かわいくして行っておいで。そうだ、ついでだから私が昔着ていた浴衣も貸してあげるよ」


「本当? やったぁ!」


 すると、台所の方から声がした。


「ミツコー? 何やっているの? 学校に遅れるよー?」


「お母さんだ! 早くご飯食べないと! ねえ、おばあちゃん、あと一つだけ頼み事。髪飾り、今借りていい? 学校の友達に見せたいんだ」


「いいよ、いいよ。孫の頼み事を聞いてやるのは私ら年寄りの楽しみなんだよ」


 そのふうわりとした笑顔に安心して、ミツコは髪飾りを手にして部屋を飛び出していった。


 学校に行くと、ミツコは早速髪飾りを級友達の前に出した。


「わぁ、かわいい。いいな、ミツコちゃん」


「おばあちゃんの? すごい。何年前の?」


「おじいちゃんからのプレゼントなんだ。すてきだね」


 祖母の宝物がほめられる度にミツコは嬉しかった。それが自分の物ではなく、祖母の物であったからなおさら嬉しく感じたのかもしれない。


「今日の花火大会にはこれをつけて行くつもりだよ。あとおばあちゃんから浴衣も借りるんだ」


「ミツコちゃんちのおばあちゃん、優しくていいなー」


 一通り自慢し終わると、ミツコは窓際の席で暇そうに外を眺めている友人の所へ行った。


「おはよう。ナツミ」


 相手はあいさつを返しはしなかったが、ミツコをチラッと見やると「ああ」とだけ言った。


 加山ナツミはミツコの一番の親友であったが、誰に対しても無愛想で、それはミツコ相手でも同じであった。特に、今日は一段と機嫌が悪そうだった。しかし、ミツコはそれに頓着せず、調子を狂わすこともなかった。


「ねえ、ねえ、これ見て見て。かわいいでしょー?」


 ナツミは瞳だけを動かして、自分の前に出された友達の手の上の物を見た。そしてすぐに瞳はミツコの顔に戻った。


「ミツコさー。あんな風に見せびらかすのはどうかと思うよ。それ、借り物で、自分のじゃないんでしょ? 大切な物ならなおさらしまいこんでおかなくちゃ。学校に持ってくるなんてもうしない方がいいと思うよ」


 ミツコはムッとして言い返した。


「何でさ? いい物なら外に出して人に見せた方がいいじゃん。ずっとしまってたらもったいないよ」


「でもね、自慢なんて何の意味もないよ。大切な物って、誰かに自慢した途端、とてもつまらない物に変ってしまうことがあるんだ」


「これがつまらない物だって言うの!?」


「はっきり言って、ミツコが得意になって言うほど、私は興味ないね」


「あっそ! ナツミのいじわる。根性曲がり。花火大会にはナツミと行きたいって考えていたけれど、やめた! もう他の人を誘っていくもんね」


 ミツコはナツミの席から離れて、他の級友の輪に混じっていった。ああは言ったけれど、ミツコは予期していた。いや、心の中で決めていた。放課後までにはナツミと仲直りしてふたりで花火大会に行くだろうと。こんなケンカはいつものことで、ケンカのうちにも入らなかった。ナツミは辛辣で無愛想だし、ミツコが短気で考え足らずなのは互いに了解していて、そのせいで衝突することはあっても、絶交はしなかった。ふたりは根っこのどこかで結び合っていたのだ。


 だが、ミツコの予期ははずれることになる。給食の時間が過ぎて、午後の授業を受けている時だった。突然、教室に生徒指導担当の教員が慌しく入ってきて、担任教師と二言三言ひそひそと話し会うと、担任は「庄内、ちょっと来い…」と呼んだ。自分に注目する教室全体の視線を恥ずかしがりながら、ミツコはしずしずと担任の後を追った。


「授業はいったん中止だ。お前達は自習をしていなさい」


 ざわつく教室。ミツコもこれがただ事でないと悟り、にわかに緊張してきた。


 廊下を歩く途中で、担任はミツコを呼んだわけを聞かせた。


「おばあさんが階段から落ちて、救急車で病院に運ばれたそうだ」


 ミツコは仰天して体が硬直した。まさかそんな、という空虚な問いが心の中を木枯らしのように吹き抜けていた。職員室で電話を渡されると、母であった。


「ミッちゃん? 今病院なんだけど、先生から話は聞いたでしょ?」


「うん。でも、どうしてこんなことになったの?」


「大変だったのよ。昼近くになってトヨさん(祖母の名)が、『髪飾りがないよ』って大騒ぎして、あっちこっち物をひっくりかえして探し回ったあげく、二階の私達夫婦の部屋にまで探しに行こうとして、階段を登る途中で転んだんだよ。」


 ミツコは全身の血が冷たくなるのをつぶさに感じた。


「こんなことは初めてだったから、私はすっかり胆を潰しちまったよ。トヨさんも歳だし、ついに起こるべき事が起こったか、と暗い気持ちになったね。どうしたんだろうね、急に。今まで平和にやってこれたのに…」


「お母さん。今朝ね、おばあちゃんからあれを借りて来たんだよ」


「え? 学校に持っていったのかい?」


「そ……そうだよ」


 ミツコは、学校に余計な物を持ってきたことを先生に知られたくなかったために、顔が赤くなり、声を小さくせざるをえなかった。


「あちゃ…。馬鹿なことしたね。トヨさん、最近物忘れが多くなってきたから、ミツコに貸したことを忘れてしまったんだね。それに、あれを自分の命の次に大事していたから、いつもある場所から消えてて頭が混乱してしまったんだね」


「おばあちゃんの具合はどう? 治るの?」


「泣かなくても大丈夫だよ。命に別状はないから。ただ腰を打ってしばらくは思うように動けなくなるらしいよ。あと頭も少し打って脳震盪を起こしたらしくて、意識がないままなんだ」


「意識がないって…本当に大丈夫なの?」


「お医者さんがそう言ってたよ。まあ、こっちは私だけでいいから、ミッちゃんは学校が終わってから病院に来てね」


 電話を終えると、ミツコは教室に戻ることにした。先生達からは「すぐに病院に行かなくていいの?」と聞かれたが、「母が学校終わってから来いと言っていました」と伝えた。皆、心配そうにミツコを見ていた。


 教室に戻ると担任は知りたがりの生徒たちに今回の事を簡潔に発表した。生徒達はもっと聞きたがったが、先生の傍らに立つミツコの深刻な表情にそれ以上の質問は控えようという空気ができた。ミツコは席に戻ると、授業が再開した。


 放課後の掃除は級友の気遣いによって免除してもらった。ミツコは急いで道具をかばんにつめこみ、下駄箱の場所まで足早に行った。靴を履こうとしているところへ、後からナツミが追いかけてきた。


「ミツコ。おばあさん、なんで階段から落ちたの?」


 いきなり答えに窮する質問をされて、ミツコは下を向いて何も言えなかった。


「あの髪飾りを探してたんじゃないの? おばあさんの大切な物だって言っていたよね? ミツコ、実は黙って持ってきたんじゃ?」


「それはちがう! ちゃんと断って借りてきたんだよ。でも、おばあちゃん、物忘れで…。ねえ、ナツミ、どうしよう。私、大好きなんだよ。もしもことがあったら…」


「おばあさん、死ぬよ」


 ミツコは信じられないという思いでナツミを見た。


「どうしてそんなこと言うの? 大嫌い!」


 ミツコはその場を走り去った。


 病院に着いた。母と白衣の医師が待っていた。ふたりに連れられて病室に行く。ベッドには今朝方仲良く語り合った相手が青い顔をして横たわっていた。


「おばあちゃん? おばあちゃん?」


 何度も呼びかけながら体をゆすったが、返事は聞かれず、ピクリとも反応しない。


「先生。いつになったら意識が回復するのでしょう?」


「まあ、脳震盪も軽いものですし、そんなに長くはかからないかと思います。明日には目を醒まされるのではないでしょうか」


「ほら、よかったねミッちゃん。明日には良くなるんだって」


 母が励ましてくれるが、ミツコにはいわく言いがたいモヤモヤとした暗雲があって、胸内を覆っていた。不吉な予感、目に見えない凶事がせまり来るのではないかという恐れでミツコはジッとしてさえいられなかった。


 こんな状況では花火大会になど行けないだろうとミツコは思った。とても友達とはしゃぐ気分ではなかった。その時、髪飾りのことに思い至り、祖母に返さなくてはと思った。もしかしたら、髪飾りを返した途端、祖母の目が醒めるのではないかという希望を抱いた。


 かばんから髪飾りを取り出そうと中を探ったが、ほぼ予想外のことであった、髪飾りがどこにも入っていないのである。体の中に竜巻が起こった。ミツコはカバンの中身を床にぶちまけて、それでも無いことがわかり、悲鳴さえ上げて教科書や筆記用具を壁に叩き付けた。自分が髪飾りを借りたために招いてしまった災い、その髪飾りを無くしまった自分への怒り、ミツコは己の衣服を破り捨てたい衝動にかられた。


「やれやれ、どうしたんだろうねこの子は。こらやめなさい。静かに! わけを聞かせて。なになに、あんたも髪飾りを探しているの? まったくあれも因果な品物だね。うちの家族をどんどん不幸に引っぱっていって、今どこに逃げちまったのかねぇ」


「ちがうよ、お母さん。髪飾りは悪くないよ。全部私なんだ。私のせいなんだ。おばあちゃんが死んだらどうしよう!」


 ミツコはわんわんと泣いた。母は娘を抱きしめて「大丈夫さ、大丈夫さ」と繰り返し言って、慰めた。そのうち父も病室にやってきた。父は事情を全部聞いても、ミツコを叱らなかった。家族三人で肩を抱き合うと、椅子に座り、ベッドの傍らから眠る老女を見守っていた。


 病室には赤い夕日がさしこみ、内側をオレンジと影の黒色との二色に染め上げた。ヒロヒロヒロ、とどこかの木上でひぐらしが鳴く。カラカラと廊下を走っていく看護台車の音。


 それまで三人は居心地の良い沈黙の中いたが、やがて、母が言った。


「今晩は私が泊まって行くよ。お父さんは明日も会社だろうし、ミツコも学校があるんだから、もう家にかえりなさいな」


 ミツコと父は、母の申し出に従った。帰りは父の車に乗せてもらった。


 街に出ると、今夜の花火大会のために車や人で混雑していた。打ち上げ花火が始まるのは日が沈んでもっと暗くなってからなのだろうが、お客はそれ以外にも出店を目あてにしてこんな早くから集まるのだ。商店街の道端にはたくさんの出店が首をそろえて並び立ち、それぞれ一刻も休むことなく煙とお客を吐き出している。実に楽しそうな光景で、何も無ければミツコもあの中に混じっていたのであるが、今の状態でそれらを眺めていても、まるで自分とは関係のない物に対するように何も感じなかった。


「花火はすぐそこの大川だったよな。この町は妙に打ち上げ花火に力を入れているから、今年も盛大にやってくれるだろうな。ミツコ、ちょっと見てから帰るか?」


 悲しむ娘を元気づけたいがための父の真心である。しかし、今のミツコには蜜も毒。


「ううん。見ない。家に帰りたい」


 それから父は何も言わず黙って運転した。ミツコも何も言わず、頭を窓にあずけてぼんやりと外を眺めていた。


 交差点にさしかかり、車が停車した。


 その時、ミツコは、並ぶ出店の中の一ヶ所に、他の店とは趣きに異なる商売をしている人を発見した。大きなふろしきを広げた上に古めかしい物品をただ置き、パイプ椅子に釘付けにされたようにうごかない男の店。それはまさしく祖母の話に出てきたところの髪飾りを買い求めた奇妙なおじさんの店のイメージそのままであった。


 ミツコはほとんど自分が何をしているのか理解せぬまま車から飛び出し、男の店に向かった。後ろから父が大声で呼び止めたがミツコは聞いていない。考えていたことは、そこに行けばあの髪飾りがあるのではないかという確信に近い想像であった。


 人の群れをかいくぐり、ミツコはついに目的の店の前に来た。そこで彼女を待ち受けていたのは驚愕と落胆であった。驚いたのは、本当にあのヒマワリの髪飾りと同じ物が売ってあったこと。落ち込んだのは、その髪飾りがまさに今、他人の手によって買われてしまったことだった。


 お客と店主の男の間に割ってはいると、ミツコは金切り声で叫んだ。


「それをもう一つ下さい!」


 男はジッとミツコに目を注いだ。そして、噛んで含めるような変に冷静な口調で答えた。


「一個しか売っていないんだよ」


 ミツコのショックは大きかった。さっきのお客はまだにそこにいて、ただならぬ様子の児童の動静を見守っていた。それに気づくと、めげかけた心を奮い立たせ、勇気を限りに言った。


「お願いします! それをゆずって下さい!」


 深々と頭を下げる。一秒…五秒…十秒。相手は何も答えない。もしかしたら逃げれらたかと思い顔を上げれば、相手はまだそこにいた。


 少女と少年の二人連れだった。どっちも浴衣を着ていたが、特に印象に残るのは少女の方で、白地に金魚模様をあしらった物を着ていた。髪飾りを買ったのも彼女だった。


 彼らは返答をしなかったが、どちらも優しそうな相貌である。すると、やっと少女は声を出した。


「ナツミよ。ナツミが持っているわ」


 ミツコのお願いに対する返事にしては見当違いも甚だしかった。答えられた方もとっさには理解が追いつかず、混乱した。少女はそれ以上を言うつもりはないらしく、少年と手をつないで背を向け、歩き去ろうとした。


 待って、とそう言いかけた時、後ろからすごい力で手を引かれた。父だった。怒りと心配で顔が歪んでいる。よほど焦って追ってきたのか息切れがしている。車は道路の端に緊急停車したのだろう。


「頼むから、危険なことをするな!」


 父は安心して娘の肩をつかんだ。後ろを向いてみると、二人連れはとうに雑踏の中に消えていた。強引に手を引かれて、また車に乗せられた。不思議な気持ちを引きずりながらミツコは家に帰っていった。


 ナツミが持っている。


 その言葉が気になった。車が家に着くとすぐさま飛び降り、父の制止をふりきって走り出していった。夏の暑い時期とのことで汗がとめどなくふき出したが、今は気にならない。


 加山家は貧しく、家とは名ばかりのプレハブ小屋である。ナツミをそのことを恥じて友達を呼びたがらない。クラスでもナツミの家を知っているのはミツコのみであった。


 呼び鈴を押すと、出てきたのは、薄汚れたTシャツとパンツ一丁、はげ頭で小柄な中年の男だった。ナツミの父親である。


「あいつはまだ帰ってきてないよ。今は一体どこを放浪しているのかね」


 彼はあまり娘のことを心配していないようである。その点はミツコの父と対照的だった。ミツコはお礼を言ってその場を辞した。


 ナツミの居場所。ミツコには心当たりがあった。ここから町の反対側の山の中にふたりで見つけた秘密の遊び場があった。ミツコはそこに行ってみることに決めた。


 町の中心を貫流する大川。そこに渡された橋を進み行く。日はすでに沈み、宵の暗さも深くなり、外灯がともった橋は白く輝いているようである。川原の茂みからジロジロと虫の声が立ち上る。


 山を登る道は闇の濃さが格段にちがう。ねっとりと触れるくらいに濃厚なのだ。足元もさだかでないため木の枝をふむことでおきるパキッという音にさえ心臓がはねあがる。一人で行くには心細さがつのる。


 頭上からドン! ドン!と耳を圧する大音が落ちてきた。パッ、パッと赤や緑の光が暗い道を一瞬だけ照らす。花火大会が始まったのだ。打ち上げ場所が近いため花火が鳴るたびに男の人に拳骨されるような衝撃が襲ってくる。


 目的の場所に到着した。一軒の打ち捨てられた廃屋が生い茂る雑草と夜の闇の中に隠れていた。花火の影響からか辺りが煙りくさい。草の中でさわぐ虫がすごかった。開けた空に下弦の月が浮かぶ。


 ナツミは外にいた。家の玄関の前に座っていた。ミツコが来たのが分ると出迎えるためだとでもいうように立ち上がった。暗さに慣れてきたため、ナツミがどんな表情をしていたか見て取れた。寂しそうに、笑っているのだ。


「ミツコ。待っていたよ。ほら、ここは花火見物には絶好のスポットなんだよ」


 たしかに、町の側に目を向ければ、まるですぐ目の前で花火がはじけているように見えた。また一つ、花火があがる。


「ふう! すごい。ほらほら、ミツコもそこに座ってよ。いっしょに見物しようよ」


「髪飾りを返して、ナツミ」


 ミツコがそういうと、ナツミは素直にヒマワリの髪飾りを取り出し、ミツコの前に出した。しかし、返そうとはしなかった。


「返す前に、私の話を聞いてよ。」


 赤い花火がはじけ、ナツミの顔をイチゴ色に染めた。


 ミツコはうなずいた。


「私の家、貧乏でしょ? 家族も親父だけだし。お袋、どうしていないと思う? 私が保育園に通っていた時に、ある日突然いなくなったのよ。覚えてる、あの時、私は買い物に行くお袋にアイスも買ってきてくれるように頼んだっけ。お袋は分った、分ったって笑って出て行った。でも、全然分っていなかったのね。だってその頼んだアイスを食べることはできなかったんだもの。最悪だよね。食べ物の恨みは恐ろしいんだ、一生恨むよ……。まぁ、逃げたくなる気持ちも分るんだ。親父、ぐうたらでろくに働きもしないし、私の学校費用だってギリギリで、中学校までは良くてもその先はさっぱり分らないって始末なんだよ。そんな状態で二人も子供を抱えてたら、そりぁ失踪したくもなるよね。黙っていたけど私には兄貴がいるんだよ。五つ年上で十六歳。どうして今家にいないか、ミツコにわかる? 兄貴ね、少年院にいるんだよ、二年前の十四歳のときに事件起こしてさ。え、知ってたの? 風の噂で聞いたことがあるって? ああ、そうか。表沙汰にはなっていないけれど、やっぱり知れちゃうもんなんだね。それでも、何も聞かないでいてくれたんだ? だから、私はあんたが好きなんだ。唯一、友達だと認めるのはあんただけだよ。それじゃ、兄貴が何をしたかは知ってる? そこまでは知らないよね。うん、たしかに兄貴は犯罪者だよ。でもね、昔はそうじゃなかった。気が弱い性格でさ、いっしょに遊んでいても小さい私のほうがしっかりしてたくらいだよ。ボケッとして、ノロマで、花を見るのが好きだっていう変なヤツだった。でも、その性格が祟ったのかもしれない。中学生になって、兄貴は奇妙な連中とつるむようになった。きっとむりやり仲間にされたんだろうけれど、朱に交われば赤くなるだね、だんだんと兄貴も変っていった。目つきが悪くなって、ふさぎ込むようになった。口のきき方は乱暴になるし、家に帰ってくる時間も遅くなるし、親父とはケンカばかりするしで、家の中が荒れていった。お袋が消えた後、うちが曲がりなりにも秩序を保てていたのは兄貴のおかげだったんだって、その時気づいたよ。そして、あの事件。決定的な出来事ってのは必ず前触れを伴うものなんだね。事件のおきる一ヶ月前から、兄貴の素行は一段と悪化して、仲良くしていた私まで殴ったり蹴ったり、首を絞めてきたりしたんだ。『冗談だよ、冗談だよ』って言いながら首を絞めてくる兄貴の目は明らかに異常だった。あの期間、私は兄貴の顔をまともに見れたことはないんだよ。怖かったからさ。兄貴の顔は、まるで真っ黒に塗りつぶされたようになっていて、ただ黄色の眼だけを大きくギョロつかせていた。本当だよ、私は兄貴がお化けになったんじゃないかと思った程なんだ。それから、五日間くらい、兄貴は私たちの前から姿を消した。次に会ったのは留置所の中だったよ。通りすがりの女の人を襲って金品をうばった少年犯行グループの主犯としてね。未成年で、しかも十四歳、被害者も死んではいなかったから少年院に入るだけですんだけど、私は一つだけ納得してない。兄貴が主犯なわけないんだ。証拠はないけど、兄貴は巻き込まれただけなんだ。それだけなんだ……。長々と無駄な話をしてしまったね。私は、あんたがうらやましかった。仲の良いおばあさんがいて、二人の宝物を見せびらかすミツコがまぶしくて仕方なかった。だから今朝、あんたにつっかかったし、おばあさんが死ぬだなんて脅しを言ってしまったんだ。これを盗んだのも単に妬ましさあまってのこと。それ以外には何の気持ちもないよ。ミツコを恨んではいないし、ミツコのおばあさんには死んでほしくない。ただ一つだけ、私のお願いを聞いてくれないかな? この髪飾りをゆずって欲しいってお願いを…」


 ドン! バラバラバラ…。


 ナツミは青く染まる。


 ミツコの、友達に与えられる答えは一つだけだった。


「その願いは聞けないよ、ナツミ」


「大切にするから。壊したり、無くしたり、絶対にしないから!」


 ミツコは、黙って首をふる。


「くれなきゃ、絶交だよ。二度と口も聞かない。顔も合わせない。それでもいいの? 友達を捨てても、これを持っていくの?」


「いけないよ、ナツミ。それはおばあちゃんの宝物なんだ。私にとっても大切な物なんだ。あげられないよ」


 複数の花火が連続して絶え間なく打ち上げられる。赤、青、紫、金色、白………。


 最後の花火が終わるまで二人ともお互いを見交わしていた。あたりが元の闇に返り、花火大会終了の放送がされた。町を丸ごと包み込む夜の静寂が二人のもとにもやって来た。


 ナツミはポツリと言った。


「わかった……」


 髪飾りを握った手を前に差し出しつつ、ミツコの方へと歩いてきた。


 ごめんなさい、彼女の口がその言葉をつむごうとしたその瞬間、ナツミは糸の切れたマリオネットように地面に倒れてしまった。


 石にでもつまずいたのかと思い、駆け寄ってみたミツコだったが、その彼女もまた全身から力が抜けて倒れてしまった。気づけば辺り一帯は白い煙でもうもうと曇っていた。話し合いに夢中で認識していなかったのだ。ミツコは何がおこっているのか必死に体を起こして見ようとした。


 廃屋が佇む広場を取り囲む林の向こうから赤々とした明かりが揺らめいていた。


 山火事! 


 ミツコは瞬時に悟ると、ナツミを起こすために地面を這った。知らぬ間にガスを吸い込んでいたために体の自由がきかない。ナツミのところまでにはいけそうになかった。意識がどんどん濁ってくる。


 火の壁、火の海、火の熱……。祖母の話がまざまざと思い出された。せまり来る火の手を背景に人影のようなものがあった気がした。


 おじいちゃん?


 やがて、ミツコは意識を失った。



 ………………目を覚ますと、ミツコはいつの間にか山のふもとにいた。


 隣にはナツミが眠っていた。二人ともあちこちに擦り傷や火ぶくれができていたが、ほとんど無傷に近かった。火の手なんて影も形も気配さえない。


 涼しい森の呼気がだるさの抜けきらない体をいやしてくれる。そのまましばし気持ちよいまどろみに身も心もあずけていると、遠くからサイレンの音がしてきた。走ってきた救急車が、ミツコ達の所で止まった。


「君達! 大丈夫かい!?」


 駆け寄ってきた救急隊員に、ミツコは力のない声で質問した。


「火事は……どうなったの?」


「消防隊が出動して、無事、鎮火されたよ。危なかった。通報が早めにされて本当に良かったよ。君達のことを報せてくれたのも同じ通報者だったよ。君達の他には誰もいないのかい?」


 隊員の男は周囲を見回す。


「誰を探しているんです?」


「通報者は若い女性らしいのだけれど、火事現場の付近もいなかったし、ここにもいないってのは、ちょっと困ったなぁ。詳しい話を聞きたかったのに」


 ミツコとナツミはその場で救急車に乗せられて病院に搬送された。大した傷も負っていなかったので、多少の手当てを受けてその晩のうちに家に帰ることができた。迎えに来た父と母にはこっぴどく叱られてしまった。しかし、ミツコは少し前に家を飛び出した時よりも元気になっていた。なぜなら、彼女の手には目を覚ましたナツミから正式に返してもらったヒマワリの髪飾りがあったから。


後日、ミツコが受けた説明によると、山火事の原因は打ち上げ花火の落下片が山中に落ち、草木に引火したためだったという。大川での花火大会を来年も開催してよいものか地元民の間で議論がなされていくだろう。


 次の日、学校が引けるとミツコは祖母のお見舞いにいった。髪飾りがあれば祖母の病態は回復すると考えていたが、それはミツコの取り越し苦労であった。行ってみればすでに祖母は意識を取り戻し、母と普通に話をしていたのだから。


「おばあちゃん。これ、ごめんね」


 ミツコが髪飾りを渡すと祖母はそれを手にして心底嬉しそうにして、額に押しつけた。


「ただいま」


 それが髪飾りに向けたものか、ミツコたちに向けたものかは定かでなかった。


 一週間もすると彼女は退院した。歩行には杖が必要になったが、まだまだ自分の力だけで立つことができた。それからしばらく経ったある日、彼女は孫を部屋に呼びつけた。


「ミツコ、前に浴衣を着せてあげるという約束をしたでしょ? 今出してあげるよ」


「もう花火大会は終わったよ。そんなどうでもいいことは覚えているんだから」


「あら、そうだったかい? だったら今度ある夏祭りにでも着てお行きよ。この髪飾りとあの浴衣を着たミツコを見てみたいんだよ」


 彼女はうきうきとたくさん物が積まれたおしいれの奥から縦横に広い紙箱を取り出した。中から出てきた物を見てミツコはビックリした。


 白地に金魚模様をあしらったその浴衣に…。



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― 新着の感想 ―
[一言] 時を超えた祖母と孫娘の共演には心が温まる思いがしました。 しかし、ところどころある人物達の言動にはこちらの憶測でゾクリとさせられるものがありました。 温冷共に良い作品でした!
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