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第三話 過去

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 「分かりました。じゃあ何時もの様に3時に伺います…はい、そうですね、宜しくお願いします。」受話器を静かに置いてマールボロに火をつけた。瞼を閉じてこの後の展開を想像してみる。まあ、なるようにしかならないか。どうってことないさ。

 僕はこの青山のマンションでデザイン事務所を営んでいる。スタッフは僕とアルバイトの女の子が一人だけ。そしてここに僕は住んでいる。目を悪くする前、今から5年程前、僕は勤めていた銀座にある広告代理店を辞め、自分のマンションで個人営業をするようになった。何とか喰っていけるだけの収入はかろうじてある。会社を辞めた理由は幾つかあるが、目の病気が徐々に悪化し隠し切れなくなったことと、その事を知って喜ぶような連中が沢山居るような会社に残る理由が無かったからだ。それに僕は酷く疲れていた。外資系の大きなスーパーストアの広告戦略を任され、毎日文化も価値観も違うアイルランド人やフランス人と意見のすり合わせをし、日本人の価値観を切々と説いた。彼らは優秀なビジネスマンだったが、根本にある人種的偏見を捨てようとは決してしなかった。ある程度の戦略は成功し、彼らの会社は日本上陸の第一歩を無事踏み出すことが出来た。千葉県の湾岸開発地区にある巨大なショッピングセンターは、まるでガリバーの為に作ったかのような要塞じみた建物で、下町の商店街育ちの僕からしたら全く現実感の無い遊園地にしか見えなかった。ともあれ、一段落ついたので僕はこの仕事から降りたいと直属の上司に告白した。妻との離婚問題も難航していて、とにかくまとまった休みが欲しかったのだ。彼は当然のことの様に僕を説得しようとした。会社の売り上げを大きく左右するプロジェクトを今更他人には任せられないと。僕は代わりにやりたがる人間は社内に幾らでも居る、暫く休みが欲しいのだ、と正直に云って、とりあえず1ヶ月の休暇を貰った。

 僕は久し振りに人間らしい生活を取り戻した。朝はハムエッグを作ってトーストを焼き、身支度を整えて散歩に出る。青山通りから表参道を下り、歩道橋のところから右手に入って千駄ヶ谷小学校の方へ抜ける。そして神宮の森から青山ツインタワーの交差点までゆっくり歩き、青山通りを渋谷方面に戻ってくる道順だ。都心にしては緑の多いこの辺りは、もの想いに耽るには最適である。僕はこれからのことを思った。

 僕の抱えている眼病は網膜の病気で、治療法の無い眼病だ。発病したときは日常生活に支障は無かったが、徐々に悪化するにつれ、車やオートバイの運転が出来なくなり、真っ直ぐ泳げなくなり、A4サイズの書類に目を通すことが出来なくなった。10年という長い時間を掛けて。今は杖なしでは何処へも行けない。

 女房とは暫く会っていなかった。彼女は将来を悲観していた。口では何時までも一緒に居て貴方を支える、と言ってくれたが、心の奥底では、よりによって私の夫がどうしてこんな病気に、どうして私がこんなめに、と内心思っていたのだろう。ある日突然「貴方を愛し続けるのはとても辛いことだ」と書き残して出ていってしまった。僕は僕で、仕事中心の毎日から抜け出せず、好きにさせてしまった。彼女は僕より4つ下で、立派な両親に育てられた末っ子だから、ずっと僕に甘えたかったのかもしれない。僕は今後のことを考え、彼女とは離婚したほうがいいと思った。僕がいずれ失明した時、彼女は受け入れる努力とストレスを強いられる。彼女はまだ若いし綺麗な女性だから幾らでもやり直しがきくだろう、と。

 話は簡単には進まなかった。彼女の両親が僕の病気について、結婚前から分かっていたのではないか、大事な娘を傷つけた責任を取れと、弁護士をたてていいだした。その後彼女の新しい恋人が〈詳しく知らないが、赤坂あたりの暴力団関係者を知り合いに持つ、との事だった〉僕に金を寄越せとしつこく迫った。もちろん相手になどしなかった。そんなこんなで離婚の話は複雑になり、弁護士もあれこれ言ってこなくなった。

 僕は会社を辞めることにした。鬱陶しいのはもうごめんだ。多少の蓄えもあるし、じっくり今後の人生を考えようと思った。しかしそうは。いかなかった。会社を辞めた直後から、僕の携帯は〈仕事関係と思われる電話には決して出なかった〉仕事の依頼メッセージで一杯になり、その中には昔世話になって断ることの出来ないものもあった。そうして…今まできてしまった。

 当時に比べて全く見えなくなってしまったが、書類は全てスキャナで読み取って拡大して読む。どうしても出来ないことはアルバイトの女の子にやってもらう。何とかなるものだ。

 「社長、田中さんからお電話です」彼女は早稲田の学生で、とても綺麗な喋り方をするのに感心して、働いて貰うことにした。友人からの紹介だ。

 「わかっているよ、同じ部屋に居るんだからさ」彼女がそっと受話器を渡してくれた。

 受話器をあてると聞き覚えのある声だった。

 「アキラ?私よ。久し振りね。」

 彼女は香織、離婚した妻だった。

 

 

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