第二話 彼女
「開いているからそのまま入って」
ドアを開けるとエアコンの乾いた冷気が鬱陶しく雨に湿った肌を乾かそうとした。僕はスーツのジャケットを脱いでリビングのソファにそっと掛けた。ネクタイは元々していない。
キッチンから飲み物を持って彼女がやってきた。足音はあくまで優しく、ゆっくりと静かだ。彼女はテーブルに飲み物をそっと置いて、「雨が降ってるのね。ここのところずっと振ったり止んだりだからずっと外には出ていないの。貴方なら分かるでしょう?」といった。
僕は彼女と接する時、緊張感を持たずには居られない。僕にとって彼女は絶対であり、無くてはならないものだからだ。僕は、彼女に依存して生きている。彼女がもし居なくなってしまったら…。そんなことを考えただけでも果てしない闇が急速に広がり、何処かに吸い込まれてしまうような感覚に襲われる。
「何を黙ってるの?」彼女の声は繊細だが力強く優しい。僕はこの声が好きだ。いや、声だけじゃない。彼女が好んで付けているクリニークのフレグランス、近づくほどにその香りは彼女の存在を現実的な幸福感で包んでくれる。真っ直ぐで長い髪はいつもサラっとしていて、指先が触れるだけで僕は彼女を強く引き寄せずには居られない。そう、僕は彼女の何もかもが好きなのだ。「ごめん。ここへ来るといつも緊張しちゃうんだ。何時まで経っても慣れない。アルコールを入れてから来ようかといつも思うんだけど、この後まだ予定があるしね。きっとなにしても駄目だと思うよ」そう云って彼女が用意してくれたアイスコーヒーをブラックのまま含んだ。少しだけ緊張感が解けた気がする。
「いいのよ、どうしていつも緊張しちゃうのかしら?私、もしかして変なオーラだしてるのかもね。でも本当にいいのよ。私達、特別なお付き合いだけれど…貴方も一応お客様だから。私も十分すぎるほどのお金を頂いてるし、本当にリラックスしていいのよ。時間が勿体無いからそろそろ始めましょう。」と云って優しく僕の手を握った。
僕と彼女の関係はとても複雑で、説明するには何人もの登場人物とその生い立ち、人間関係のあやみたいなものを含めなければ説明がつかないし説明しても余り理解できないだろう。しかし彼女がどういう女性でどうして僕が彼女に強く惹かれるようになったかを説明することはそれほど難しくない。
「さあ、部屋に行きましょう。」彼女の声が耳元で囁く。優しさの中に俄な強制の匂いを含んでいる。壁をそっとなぞりながら廊下を進み、奥の部屋の扉を開けて僕は先に入る。後から入った彼女がドアを静かに閉めたとき、そこから全てが新しく始まるのだ。
僕はべつに性的倒錯者じゃない。彼女もそうだ。しかし僕達は…この極めて偏った環境と性的嗜好のかたちでしか愛し合えない。僕の心から愛する人は盲目で…サディスティックな性的サービスを仕事にしているSM嬢なのだ。そして僕は…金銭の授受によってのみ彼女に触れることを許される、彼女でなければ全てを開放できない…盲人なのだ。