海龍王二
ぼうっとしていたら、翠玉に小突かれた。
「こら、由津彦。竹早命のお社に早く、向かうぞ。ぼさっとするな」
由津彦は抗議をあげるでもなく、黙って、ついてくる。
それに驚きながらも、翠玉はにんまりと笑った。
(こいつは面白い。燐のためなら、どんなことでも立ち向かうつもりか。見上げた根性だ)
これは愉快と思う翠玉を燐姫は何事も起こらなければと、心配していた。
由津彦の行動の根源は、燐姫への淡い想いだ。
そして、祖先のしでかした禁術への罪悪感と使命感。
子孫である自分の代で終わらせたいと強い決意を示してみせた。
それらを考えながら、翠玉はさてと本題に思考を戻してみる。
(やれやれ。燐の封印を解いたは良いが。剣を取り戻すとなると、わたしが本気を出して、戦わなければならぬ。この若者に力を貸すだけの価値があるかどうか。見定める必要があるな)
考えをまとめると、由津彦にこう言った。
「…そなた、竹早命にどうやって、剣を返していただくつもりだ?ただで、返してはいただけぬことくらいはわかっているだろう」
厳しい表情で尋ねると、由津彦は黙ってしまう。
どうも、具体的な案は考えていなかったらしい。
翠玉はため息をついた。
「…そなたは根が単純だな。神と戦うことは一筋縄でいかぬことくらいは肝に命じておけ。由津彦自身で竹早命に立ち向かったとしても、勝てぬ。人の身で戦うのだったら、相応の準備と覚悟がいるぞ。燐は優しいから、こういうことはいわぬだろうがな。わたしはそなたを甘やかすつもりはない」
はっきりと言われて、由津彦は己の考えの甘さを突きつけられる思いだった。
最初は手がかりを見つけて、一人で向かうつもりだった。
だが、自分が死んでしまったとしたら。燐姫の身が危うくなる。
剣も取り戻せないかもしれないのだ。
だったら、頭を使って、竹早命に挑むしかない。
そう、神と戦うのだったら、同等の力を持った神に協力を頼むのも一つの方法だ。
そして、剣を取り戻すのだったら、策を巡らす必要がある。 そこまで、考えて、由津彦は翠玉にこう言った。
「…翠玉様、俺が燐姫様の代わりに竹早命に近づきます。そして、強い酒を飲ませる。眠っている隙に、剣を奪ってください」
「……そなた、竹早命に酒盛りでもさせるのか。だが、男であるそなたが誘っても、怪しまれるだけではないかな?」
翠玉に却下されてしまったが、食い下がる。
「だったら、こうしましょう。燐姫の名を出して、竹早命をおびき寄せる。そこに若い娘がいたら?おいしい酒と肴があったら、竹早命も飲む気になる。若い娘に是非と勧められたら、よけいに断りにくくなります」
そこまで言われて、翠玉は眉をしかめた。
「色仕掛けで誘い込もうというのか!妹をそれに使おうというのではないだろうな?」
「…違いますよ。燐姫は翠玉様のお側にいられたらいい。若い娘役は俺がやります」
さらりと言われて、燐姫も翠玉も開いた口がふさがらなかった。
二人とも男である由津彦が若い娘の役は無理だと、思ったからだ。
だが、伝承の中に、かの大和建命が熊曽建を討つために、紅い袴をはいて、女装をしたことを思い出した。
その伝承にあやかろうとしたのだ。
由津彦の策は、ばれてしまえば、元も子もない。
それに、由津彦にお世辞でも、女装が似合うとはいえないだろう。
自覚はあるのか?
翠玉も燐姫も由津彦に一抹の不安を覚えた。
そして、夕刻になる頃に竹早命のお社まで、後半分のところまで来た。
だが、由津彦はへとへとで、今にも倒れそうであった。
翠玉は人の姿から、龍の姿に戻り、上から、由津彦に怒鳴りつけた。
『…由津彦!早くせぬか』
いらだった様子である。
それに、燐姫が止めに入った。
『兄様。由津彦さんは、昼餉を取った以外は歩き通しだったのですから。もう、そろそろ、休ませてあげた方がいいです』
妹にこうまで、真面目に言われては、聞き入れるしかないか。
翠玉はため息をつきながら、燐姫の言うとおりにした。
『わかった。燐の言葉通りだな。人は夜になったら、休むのが常だ。由津彦、今から、野宿をするぞ。薪を探してこい』
えらく、ぞんざいな兄の態度に由津彦は怒りを感じていた。 (この、えらそうに言いやがって。燐姫の兄君だから、堪えているが。これが龍でなかったら、殴りつけてるところだ)
怒りと疲労のせいで、すでに、体力や気力は消耗している。燐姫は由津彦の中に戻っている。
その戻る時にも、翠玉は文句をいって、邪魔をしてきた。
しまいには、牙をむいて、襲いかかってきたほどだ。
由津彦は法華経の一節をとっさに唱えたので、事なきを得たが。
肝を冷やした時であった。
『…あちらに林があります。野宿をするにはもってこいの場所ですね』
燐姫の言葉に由津彦は元気づけられる。 見つけた林の中に一歩、踏み込んだのであった。
翠玉に言われた通り、薪用の枯れ枝などを拾ってきて、ついでに食べられそうな木の実を取ってくる。
野草や薬についての知識はお婆様こと田津留仕込みである。 今の季節では、食べられる木の実の種類は少なかったが。
それでも、麻袋の中から、乾飯や火打ち石を取り出した。
『ふむ。割と、手慣れているな。わたしにも木の実を分けてくれ。腹が減った』
「龍はあまり、食べないと聞きましたけど」ぼそりと言ったが、翠玉には聞こえていたらしい。
翡翠の瞳でぎろりと睨みつけてきた。
『失礼な。我らも腹が減る時はある。普段であっても、人と同じような食事はしているぞ』
そんなに、威張って、言うことだろうか。
由津彦はぐっと、堪える。
「…まあ、木の実で良さそうな物はありましたから。俺は乾飯を食べます。水も汲んできますね」
火を起こさずに、立ち上がった。
翠玉はそれを無言で見送った。
水を汲みに、川や池を探す。
近くから、さらさらと流れる水の音がした。
それを頼りに、由津彦は林を突き進んだ。
茂みを抜けてみると、小川があり、陽光を反射して、きらきらと水面が光っている。
「よかった、川があって。水を汲めるな」
一人、安心しながら、竹筒や木の大きめの椀を袋から、取り出した。
それらに水を入れると、もう一度、立ち上がり、その場を後にした。
翠玉が待っている林の入り口付近まで戻ると、由津彦は空に向かって、声をかけた。
傍目から見たら、おかしな光景だが。
この場には由津彦と翠玉、燐姫しかいない。
「翠玉様。水を汲んできましたよ!」
大声で呼びかけると、翠玉は林の木の上まで、下りてきた。 『わかった。水と木の実で腹を満たすとしよう』
そう言うと、由津彦が笹の葉に乗せておいた木の実を半分、口の中に入れて、たいらげてしまう。
牙の生えた口が近くにあって、由津彦はその大きさにたじろぐ。
『…ふむ。なかなか、美味だな。由津彦、そなた、割と知っているのだな』
何を、とは訊かなかった。
神の食事を普通、人は直接、見てはいけないらしい。
だから、由津彦は翠玉から、目をそらした。
しばらく、沈黙が下りる。
しびれを切らしたらしく、翠玉は話しかけてきた。
『由津彦、おまえも食べれる時に食べておけ。木の実と乾飯だと、腹は張らないだろうが』
一言多いと由津彦は内心、そう思った。
夕刻になり、由津彦はこの林の中で野宿をすると決めた。
翠玉は龍の姿で休むようであった。
中の燐姫は今まで、静かであり、何も話さない。
それをおかしく思うこともなく、由津彦は火をおこした。
袋から、木製の椀を出して、乾飯と水を入れる。
即席のご飯と木の実をかき込んで、簡単に食事を終える。
『…野宿とはいえ、落ち着いた食事が取れて、良かったです。兄様がいてくださいますから、よけいな者は近づいてこないでしょう』
椀を竹筒の水でゆすいでいると、燐姫が話しかけてきた。
その水を捨てると、由津彦は既に、眠りについたらしい翠玉を見上げる。
「そうですか。確かに、妖しげな者や亡霊はいないみたいですね。この林の中は居心地が良い」
『ええ、空気が澄んでいて。久方ぶりに、海に近い所に来たからでしょうか。懐かしくもあります』
心底、安堵したように言う燐姫に由津彦は複雑であった。
いずれ、竹早命のお社に着いたら戦いや別れが来る。
由津彦の中にいる燐姫とも別れなくてはならない。
それを考えると、胸がかき乱されるような心地になる。
『由津彦さん?』
燐姫の声で由津彦は我に返る。
「…あ、すみません。少し、考え事をしてしまって。もう、夜も遅いし。眠ってしまいましょう」
焦ったようにいうと、向こうも納得したのか、何も言わなくなった。
微弱だが、清らかな気が由津彦の中で息づいている。
その心地よさのせいか、由津彦は座ったままで眠り込んでしまった。
ふと、目を覚ました由津彦はすぐ側に、翡翠の瞳の青年が座って、こちらを見ているのに気づいた。 瞼を開けると、翠玉が自分を凝視しているのがわかった。
炎の明かりを受けて、翡翠の瞳が金色がかっているように見える。
それはひどく神秘的で、目が離せなかった。
「ほう、気がついたか。気配は消していたつもりなのだが」
目を細めて、感心したように言う。
だが、由津彦からすると、皮肉を口にされているようで、あまり、気分はよろしくない。
「…あなたから言われても、あまり、嬉しくはありませんね」
つい、口に出してしまったが。
翠玉は面白そうに、笑ってみせた。
「そうか。私もおまえから、ほめられても嬉しいとは思えないな。燐はまた、体の中に入ったな?」
「ええ、今は眠っておられます。翠玉様は俺の事、嫌いなんですか?」
質問に質問で返せば、小馬鹿にしたように、鼻で笑われる。 何とも、嫌みな笑い方である。
龍って、こんなに意地悪だったか?
由津彦は内心、そう思った。
「…ああ、嫌いだな。妹に乱暴狼藉を働いた竹早の神も嫌いだが。無理矢理、燐を封印し、長い間、縛り続けていた巫女殿も好かないな。そして、その封印を解いて、体に宿させているおまえも」
翠玉の目が冷たく、由津彦を見据える。周りの空気が一気に冷えていく錯覚に陥りそうになった。
「…由津彦、おまえに言ったって、無駄なのはわかっているが。妹の燐は白雲の剣を取り戻そうとして、命を落とした。看病し、最期を看取ってくれたことについては感謝している。だが、妹は死した後も剣の事でこの世にとどまり続けている。未だに、縛られている。燐を早く、楽にさせてやりたい」
由津彦は答えることができなかった。
翠玉が長い間、燐姫のために怒り、悲しんできたことがひしひしと伝わってきたからだった。
そして、燐姫の自由を誰よりも願っていることを。
「…翠玉様は本当に妹思いなんですね。だから、俺や椎奈が許せない。そして、竹早の神も」
由津彦が言うと、翠玉は切なげな表情になった。
「おまえにはわかるまい。百年間、ずっと、探し続けた私や父上の事など。燐が儚くなったと聞いた時は、妃であった母は嘆き悲しんだ。それこそ、天地の終わりのごとく。私や父、弟や妹たちもどれだけ、悔しく思ったか。あんな思いは二度とごめんだ」
吐き捨てるように、翠玉は言ったのであった。