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三章 海龍王

この回で燐姫のお兄さんが登場します。

その日の夜は寺の宿坊を借りて、休むことにした。

狭くはあるが、きちんと寝床がある。

由津彦は履いていた藁沓(わらぐつ)を脱ぐと、寝転がった。 (ああ、久方ぶりにまともに寝られそうだ。燐姫様が俺の体に入られてからは、ろくに寝てなかったからな)

伸びを小さくすると、荷物の入った麻袋を枕代わりにして、眠りについた。

昏々と深い眠りに由津彦は落ちていった。



朝方になり、由津彦はふと、目を覚ました。

宿坊は暗く、窓がない。

朝なのかどうか、それすらもわからないのだ。

それでも、起きあがって、外へ出てみた。

引き戸を開けると、まぶしい日の光が射し込む。目に入ってきて、一瞬、瞼を閉じてしまう。

由津彦はまた、目を開けると、顔を洗うために井戸を探した。

しばらく、寺の庭を歩き回っていると、浄真の姿が見えた。何やら、水で濡れた布で柱や床を熱心に拭いている。

掃除をしているのだと気づいて、声はかけずにおこうと、歩き始めた。

「…おや、由津彦殿ではないか。こんな早くに、目を覚ますとは」

向こうも気づいたらしく、声をかけてくる。

由津彦はどうしようか、迷ったが。

浄真に答えることにした。

「…ええ。今、起きた所です。浄真殿はお掃除をなさっているのですか?」

「ああ、見ての通りだ。由津彦殿は何をしていたんだ?」

反対に質問されてしまう。

仕方なく、歩き回っていた理由を素直に言った。

「その、顔を洗いたくて。井戸を探していました。場所がわからないもので」

すると、浄真は心得た顔で井戸はあちらだと指をさして、教えてくれた。

「すまぬな、わたしも昨日のうちに、君に井戸などの場所は教えておくべきだった。いきなりなものだったから、忘れていたよ」

本当にすまないと謝ってきたが、由津彦は大して、気にしていないと返した。

浄真の言われた通りに行くと、確かに、井戸があった。

釣瓶を使って、水を汲み上げると、手を浸した。

そのまま、冷たい水で顔を洗うと、気分は不思議とすっきりする。

何度も顔を洗うと、帯に挟んでおいた布で水気を拭う。

歯も磨いたりすると、宿坊に戻った。



髪を持っていた漆塗りの櫛で梳いて、整えると、紐でひとまとめにする。

身支度を整えると、由津彦は荷物を持って、宿坊を出た。

寺の本堂に行くと、浄真は掃除を終えたらしく、御仏の像の前でお経をあげていた。

その声は低く、よく通るものだった。

由津彦が中に入ると、足音で気づいたのか、お経がやんだ。 浄真がゆっくりとこちらを振り向く。

「…由津彦殿か。腹が減ったのかな?」

おどけるように問われたが、真面目に頷いた。

「ええ、その。食事は俺が作ってもよいかと訊きたくて。それで、こちらへ来ました」

「そうか。だったら、台盤所にまで案内しよう。野草と海草しかないがね」

昨日であらかたの材料を使ってしまったからと言われたが、それにはふれずに、台盤所まで付いていった。

言葉通り、材料は野草と乾燥させた海草だけだった。

米と粟や稗なども少しずつはあったので、由津彦は腕まくりをして、待っていてくれるように浄真に言った。



実は両親を亡くしてからは、姉とお婆様に一通りのことは叩き込まれている。

炊事に始まり、洗濯や掃除、その他の細々としたことは一人で行っていた。

だから、竈の使い方や調理の仕方はお手のものである。

まず、米を櫃から、お釜に移して、井戸から汲み上げた水でよく洗う。

粟や稗なども混ぜて、水を適量、入れる。

そして、竈の火を起こすために、火打ち石を棚から取り出して、穴の中に入れた松の葉や落ち葉に近づけた。

かちっと音を立てると、火花が飛び散る。

それが葉に着くと、ぼっと、炎が舞い踊った。

「お米はこれでよしと。後は汁物とにらぎだな」

一人でてきぱきと動いて、食事を作る。 由津彦はやりがいを感じながら、仕度を進めたのであった。


出来たのは、雑穀入りの強飯と海草の汁物、野草の煮付けだった。

ある材料でしたので、質素ではあったが。

浄真は(おのこ)なのにやるな、とほめてくれた。

「できましたよ。まあ、あまり、立派なものではありませんが」木の椀や土器の皿に、盛りつけると、お膳に乗せて、側で見守っていた浄真に手渡した。

「おお、なかなか、うまそうではないか。君、こういう、お刀自殿みたいなことが出来たのだな」

にかっと笑いながら、浄真は感心したように言う。

その後、もう一つのお膳にも食器を並べると、本堂に運んだ。


二人で静かな朝食を取る。

朝のすがすがしい光の下で木彫りの御仏は、穏やかで気品をまといながら、こちらを見ている。

その下で黙々と食事を進めた。

お仏前には、何ともいえない香の薫りがたゆたっていて、鼻腔にまで届く。

自然と背筋が伸びて、眠気は吹き飛んだ。

食事を終えると、浄真は機嫌よく、ごちそうさまと手を合わせて、完食した。

「いやあ、こんなまともな食事は三日ぶりだ。しばらく、托鉢もせずにいたから、食料も底をつき始めていたんだ。君が食事を作ってくれたから、本当に助かった」

由津彦は吹き出しそうになりながらも、何とか、こらえた。 「…そんな。でも、昨日はちゃんと召し上がられていたではないですか」

「いや、昨日は客である君をもてなすことに頭がいってしまって。だから、まともに食事をする気分になれなかったんだよ」

そう言われては、返答のしようがない。 浄真は笑いながら、由津彦の肩を叩きながら、まあ、気にしないでくれと言ったのであった。



一宿一飯の礼は返したし、昼に近い刻限になったので、寺を出ることにした。

最後に、浄真は山の巫女に聞くのではなく、海に行き、自分の教えた法華経とやらを唱えるように提案してくれた。

法華経は龍を天へ戻らせるまじないの一つにもなるらしい。 それを頼りに、海のある方角ー北を目指して、歩き始めていた。

浄真は変わっていたが、親切にしてくれた。

『君の中の姫さんがちゃんと、天へ戻れるように祈っているよ。元気でな』

そう言ってくれたのが未だに、脳裏を離れない。

由津彦は空を見上げながら、にこやかに笑った。


海の近くまで来たらしい。

潮の香りが風で運ばれてくる。

由津彦は三日ぶりの海に、生き返るような心地でいた。

今まで、何かに追い立てられるように、急いでいたが。

緩やかな速度で歩いていた。

森を抜けて、砂浜におりてみた。

ざざんと波の音がして、海鳥が鳴きながら、飛んでいる。

「…ここまで来れば、経文を唱えても大丈夫かな。海龍王、娑迦羅龍王、わたしの呼びかけにお答えください」

そう念じて、教えてもらった経文を写した紙を懐から、取り出した。

読んで、声に出し始めると、夢中で唱えた。

半分くらいまで終わっただろうか。

いきなり、目の前の水面から、ぶくぶくと泡が出てき始めた。

気づいたが、無視して、続ける。

最後の辺りになって、ざばあと大きな音を立てて、角の生えた何者かが水面から、顔を覗かせた。

とても、大きな頭で青い瞳のそれは、首までを出してくると、じっと、由津彦を見つめてくる。

だが、近くで見ると、青に翡翠の緑が合わさったような色であった。

だが、由津彦の中から、燐姫のうれしそうな声が響いた。

『…兄様!お久しぶりです』

その声が聞こえたのか、それは首を少し、傾げてみせた。

その仕草は巨体に似合わず、愛嬌がある。

『…その声は。燐なのか?』

低くはあったが、まだ、若い声だった。由津彦は中の燐姫のはしゃぎっぷりに、疑問をおぼえる。

「姫は知っておられるのですか?」

『はい。この目の前の龍はわたくしの兄です。椎奈さんには話しましたけど、名を翠玉といいます。由津彦さんとは初対面でしたね』

龍こと翠玉は驚いたらしく、目をくるんとさせて、由津彦に顔を近づけさせた。 『椎奈だと?燐を助けて、最期を看取った巫女殿のことか?だが、姿は見あたらんな』

「…椎奈は俺の先祖に当たります。燐姫が亡くなられてから、百年近くは経っていますからね。その間、姫を祠に封じて、村の守り神として、祭ってきたんです」

由津彦の説明に翠玉はふむと頷きながら、考え込んだ。

『そうか。椎奈殿の末裔だったか。どうりで、いろいろと知っているわけだ。わたしは父上から、話は聞いている。それで、人よ。わたしに話したいことがありそうだな。何用かな?』

その問いに、由津彦は答えた。

「翠玉様。その、白雲の剣をご存知でしょうか?俺はそれを探しているんです。竹早命様のお社の場所もよければ、教えていただきたいのです。お願いします」

たどたどしくはあったが、翠玉にそう言いながら、頭を下げた。

すると、翠玉は由津彦を値踏みするように、目を細めた。

『それを知って、何とする?燐であっても、取り戻せなかった剣をそなたが探しているのは、何故か』

「…燐姫を俺の代で解放したいと思ったんです。剣を奪った神のことについても、決着をつけたいと幼い頃から、思っていた。そのために、祖先から伝わるいましめを破った。終わらせたいと願っています」

きっぱりと言い切ってみせた由津彦に、翠玉は感心したように、笑った。

口を大きく開き、顔を上に向けた。

『ははっ。なかなか、面白い。人の身で燐を救いたいと思ったか。まあ、その気持ちだけは受け取っておこう。わかった、一つ、良いことを教えてやろうかな。燐の持っていた剣は確かに、竹早命が持っている。社はここから、南の方角にある。だが、今野からは遠いぞ』

それを聞いても由津彦は、翠玉をまっすぐに見据える。

「遠かろうと、行ってみせます。燐姫を昔の役割から、解き放って差し上げたい。剣は海龍王のご一族にお返しいたします」

中の燐姫も驚いたらしく、由津彦の体から、出てきた。

相変わらず、透けた状態だったが。

人ではなく、小さな龍の姿だった。

金と銀の混じったたてがみと鱗に金の瞳の可愛らしい龍だった。

『由津彦さんはそのために、わたくしの封印を解いたのですね?最初はわたくしの人の姿を目当てにしていたのだとばかり、思っていましたけど』

「…そりゃ、ないですよ。姫、俺だって、ちゃんと考えて、行動してたんです。あなたを解き放ちたいと思ったのは本当ですから」

真剣に見つめながら言うと、翠玉が大きな体で割り込んできた。

『…二人して、わたしを無視するな。時に由津彦といったか?』

「はい、何でしょうか?」

男二人でじっと、にらみ合いがしばらく、続いた。

燐姫は心配そうに兄と由津彦を交互に見る。

『…燐はそなたには渡さぬぞ。人の男の体の中に入っているだけでも、腹立たしいのに。そうだな。では、こうしよう。わたしが人の姿になろう。そして、そなたが燐に手を出さないか、見張ることにする』

そんなことあるわけないだろうと思った時には、翠玉の体は瞳と同じ、翡翠色の光に包まれていた。 まぶしくて、目を細めると、翠玉は黒髪を束ねた翡翠色の瞳の若い青年の姿に変わっていた。

涼やかな切れ長の瞳が印象的な凛々しい立ち姿であった。

「…ふう、人の姿になるのは久方ぶりだな。燐、これからはこの兄が一緒だからな。安心すると良い」

にこりと優しげに笑ったが、燐姫は不安そうにしている。

由津彦はいきなりのことに頭がついていけないでいた。


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