始まりの物語二
今回でやっと、由津彦が登場します。
とてつもない苦い薬を飲まされたが、燐姫は堪えながら、文句は言わなかった。 椎奈は燐姫がもたないことをわかっていた。
だから、せめてと、自身で調合した薬を飲ませ、汁粥など、食べやすいものを取らせる。
だが、食べはしても燐姫の顔色はよくならない。
そして、ある時、椎奈は燐姫の気配が微弱なものになっていることに気がつく。 「…燐さん、あんた、手が透けてしまっているよ。前から、おかしいとは思っていたけど」
そう言えば、燐姫は驚いたように自分の右手を顔の前にかざしてみせる。
「本当ですね。でも、仕方ないかもしれません。私は人ではないですから」
静かにそう告げた燐姫に、椎奈は息を呑んだ。
「…人じゃないって。あんた、もしかして、やっぱり、神様か何かってこと?」
椎奈が問いかけると、燐姫は困ったように笑いながら、肯いた。
「そうです、椎奈殿。わたくしは龍なんです。父は東海龍王ーまたの名を娑迦羅龍王。母も龍王の妃で。そして、カヌチヒコという神様に剣を作っていただき、それを守る任をまかされていました」
娑迦羅という名前を聞かされた椎奈は唖然とした。
未だに、都に異国から、新しい御仏の教えが入ってきたことは、地方では知られていない。
椎奈がわからないのも当然であった。
「…娑迦羅だって?そんな名前は聞いたことがない。でも、もしかして、海龍王様のことかい?」
「そうです。海龍王の娘です。わたくしは本当は海の中で暮らしていましたから」
そこまでいった後、驚く椎奈に燐姫は説明をした。
自分が海龍王から、授けられた剣を竹早という神に奪われてしまったこと、それを探すために奔走していたことなどを。 人の姿に変化して、探していた所で倒れてしまったことまでを話すと、椎奈はそっと、燐姫の手を取った。
泣きながら、椎奈は彼女の手をさすった。
冷たくて、ほっそりとした手に彼女の命数が少ないことに気がつく。
「燐姫様、あたしでよければ、剣を探します。そして、竹早尊様にその剣を返していただけるようにもお願いしてみます。あなたは、傷を治して、ここにいらしてください!」
そう言いながら、椎奈は燐姫の黄金の瞳を見据えた。
涙が流れるが、椎奈は燐姫の返事を待った。
「…そういっていただけただけでいいです。わたくしや椎奈殿では竹早命様にはかなわないでしょう。兄の翠玉だったら、戦えたでしょうが」
苦笑いしながら、燐姫はそう答えた。
「…翠玉様ですか?」
椎奈が怪訝な表情をすると、燐姫はこう、付け足した。
「わたくしには、二人の兄と妹がいます。上の兄が次期龍王で、名を翠玉というのです」
椎奈がはあと驚きながらも言う。
海龍王も子沢山だなと思いながらも、椎奈は兄の翠玉について、尋ねてみた。
「…兄君の翠玉様はどんな方だったのですか?」
すると、燐姫は悲しそうな顔をしたが、ぽつぽつと話し始めた。
「兄はその、わたくしよりも性格は真面目でお役目大事の方でした。龍の姿の時も凛々しくて。知識も武芸も確かなものを持っていましたね。人の姿の時は目の色が翡翠色で髪は黒髪で。同じ、龍の一族の若い娘達は「翡翠の瞳がきれい」だと、騒いでいました」
椎奈に、兄の事を話してはくれたが、燐姫はどこか、辛そうだった。
そして、話し終えると、何かに吸い込まれるように、眠りについていた。
あれから、五日が経ち、燐姫は静かに息を引き取った。
「…椎奈さん、ありがとう。今までで、こんなに親しくした人はあなたが初めてでした」
密やかな声でそういった後、瞼を閉じる。
燐姫は亡くなったのだと気づいた椎奈は、嗚咽の声は上げなかったが、涙を流した。
そして、光と共に消えゆこうとしていた燐姫に、祝詞を唱えた。
(燐姫、消えないでください!)
その願いを強く念じながら、燐姫の魂を宝玉の形で封じた。 少しずつ、宝玉に姿を変えた燐姫に、椎奈は申し訳なさを覚えた。
本来は死にいく燐姫をこの世に留まらせてはいけない。
それはわかっていた。
けれど、燐姫は志半ばにして、生涯を終えてしまった。
まだ、彼女の探していた剣は見つかっていない。
(絶対にあなたの代わりに、白雲の剣を見つけてみせます。それまではあたし達があなたの御霊をお守りしますから)
そう、胸中で誓いながら、椎奈は村の長の邸まで、向かった。
巫女として、指示を出し、海の近くの洞穴に燐姫の祠を作らせた。
「…椎奈様。燐姫様はいったい、何者なのです?」
村の長がそう尋ねてきた。
髪を一つに束ね、日に焼けた肌をした四十程の男である。
目元に少し、しわがあったが、黒い瞳には生気があふれている。
「…燐姫は海龍王の娘だとおっしゃっていました。後、カヌチヒコ様のお作りになられた剣を他の神様に奪われたとかで」
「海龍王の娘ですと?ということは、水神様だったのですか。だが、剣というのは…」
混乱する長に、椎奈は簡単に説明をした。
燐姫が白雲の剣を守っていたことやそれを失したがために、探し回っていたことを。
そして、人里にも訪れて、手がかりを探していたこともいった。
最後には亡くなってしまったことまでを話すと、長は沈痛な表情でそうですかとだけ、答えた。
そして、二人は白雲の剣や燐姫の事を子孫達にも伝えていこうと決めたのであった。
椎奈は年を取って、老婆になるまで、剣の手がかりを探し求めた。
だが、誰も知らず、あきらめる他なかった。
ただ、椎奈は木霊や死者の魂が見え、声を聞くことができた。
それに聞いてみたり、占をしたりもした。
けれど、竹早命の名を聞いただけで、木霊達は怖じ気付いて、応えてはくれなかった。
仕方なく、海神であるという龍神に話しかけてもみる。
『…我らも探したが、既に、天上へ持ち去られた後だった。竹早命を追いかけてみよう。ただ、白雲の剣はもう、日の大御神に献上されたやもしれぬ。そうなると、返してはいただけぬかもしれない』
水面から、顔だけを出した青い鱗の龍が応えてくれた。
椎奈はその大きさに圧倒されたが、龍は同じ色の瞳を細めると、彼女にこう言った。
『我が娘の燐を介抱してくれたそうだな。既に、亡くなったとはいえ、看取り、祠まで作ってくれたとか。父として、礼を言いたい』
そういわれて、椎奈は驚いた。
「…い、いえ。あたしがやれたのはごく、わずかな事です。燐姫様は亡くなってしまわれて、悔しいとすら、思っていますのに」
『そのようなことはない。燐も喜んでいるだろう。娘の最期を看取れなかったのは残念だったが』
はあと返すと、龍はざばっと水面を波立たせて、海の中へと帰っていった。
それを見送りながら、応えてくれたのが燐姫の父君だと気づいたのであった。
そして、椎奈は六十の年で亡くなり、娘から孫、曾孫にと燐姫の話は口伝てで、語り継がれていった。
そして、玄孫の代になり、田津留という娘にもその話は伝えられた。
田津留はその後、同じ村の若者と夫婦になり、娘と息子に恵まれた。
だが、娘は国造の息子と恋に落ち、身分違いだと周囲から、反対されながらも、子を二人、もうけた。
姉の壱夷と弟の由津彦だった。 娘は由津彦に巫としての素質があると見抜くと、巫女であった田津留に占の仕方などを教えてくれるように頼み込んだ。
「母さん、由津彦には巫になれるだけの力があるの。だから、母さんの手元で育ててほしい」
頭を床に擦り付けながら、頼んでくる娘にため息をつきながら、田津留は首を縦に振った。
「…わかった。そなたから、そう頼み込んでくるとは思わなんだが。由津彦に素質があるのは確かだからな。わたしが預かろう」
「ありがとう。あたしもいつまで、壱夷と由津彦の側にいられるか、わからないから。そう言ってもらえて、肩の荷が下りたわ」
本当に安心したような顔に田津留は不吉なものを感じ取る。 「そなたらしくない物言いだな。まるで、先が短いような事を口にするとは」
娘は悲しそうに笑いながら、そんなことはないと言ってみせた。
田津留はぱちぱちとはぜる炎の音に我に返る。
薄暗い室内で、どうやら、考え事をする内に眠ってしまったようだった。
まさか、常世に行ってしまった娘の夢を見るとは、思わなかった。
占をするために用意していた薬の粉を囲炉裏にさっと、振りかける。
「…さて、由津彦と壱夷、他の孫達が大人になるまでは元気でいないといけないな。全く、あれも勝手なことをしてくれる」
そう呟きながら、ぶつぶつと巫女特有の祝詞を唱えた。
白雲の剣の在処を探すのと、祠に誰かいないかを見るためだった。
しばらく、念じてみたが、剣は見つからない。
祠には一人の青年がやってきているらしかった。
肩まで伸びた髪を一束ねにして、切れ長の茶褐色の瞳が浮かび上がる。
麻で作られた上衣と袴を履いていて、体格は細身ながらも、無駄な贅肉はついていない。
しなやかさもある少年に田津留は盛大にため息をつきたくなった。
(あんの阿呆。懲りずに、また、燐姫様の祠に来ている。静かに眠らせて差し上げたらいいものを)
呆れかえって、田津留は立ち上がった。
祠のある洞穴に松明を持って、入り込んだ由津彦は小さな朱色の祠を見上げた。 あの中に、美しい姫神様が眠っておられる。
そんな伝承を伝え聞いたのは、六つの頃だった。まだ、父も母も健在だった。
金と銀の混じった長い艶やかな髪、黄金の瞳、そして、白い透き通るような肌。 この世のものとは思えぬ美しい海の姫神様に、由津彦は頭の中で思い浮かべたものだった。
百年も昔に、ある剣を探して、海の中や地上を旅して回ったという。
だが、見つからず、ここ、羽立の村に流れ着き、亡くなったらしい。
そこまでを思い出すと、由津彦はじりと一歩、祠に近づいた。
ゆっくりと進んでいく。
そして、手を伸ばして、祠の扉を開けようとした。
「…こら、由津彦!また、おまえは燐姫様の封印を解こうとしたな?!」
背後から、女のものらしい怒鳴り声が響いた。
低く、しわがれたものであったが。
由津彦は舌打ちをしながら、後ろを振り向いた。
「何だ、お婆様じゃないか。いいところだったのに。邪魔しないでくれよ」
がっかりしたような口調で言われて、田津留はよけいに腹が立った。
「我が孫ながら、なかなか、言うようになったな。だが、燐姫様の祠に近づくなと何度、忠告されれば、気がすむんだ?」
田津留の言葉にも、由津彦は動じない。 どこ吹く風である。 「燐姫様のお姿を拝することができたら、かな。それが叶ったら、祠には近づかない。燐姫様はすごい美人だと聞いたし。楽しみなんだよな」
これには、田津留も頭の中の何かが切れる音がしたと感じる。
気が付いたら、由津彦の耳をつまんで、引っ張っていた。
「…いたっ。痛いって!お婆様、わかった。俺が悪かった!」
「ふん。おまえの言葉が信じられると思えば、大間違いだ。毎度、わたしの目を盗んで、祠にまで来おって。ここは人が立ち入ってはならぬと何度もいうたであろうが」
「…そうだったっけ?」
由津彦がすっとぼけていたら、よけいに耳を引っ張る力が強くなり、痛いとうめくしかできなかった。




