七章別れと再会一
由津彦たちは寺で一晩泊まらせてもらってから燐姫を送るための準備に取りかかった。玄海に教えられながらまずは薪用の枯れ枝などを拾い集めてくる。
火多岐は燐姫を送るために禊をした。寺の近くに泉があったのでそちらでやる。
もう、秋も過ぎて冬に近い季節だったが。火多岐は構わずに手を水ですすいだ。衣服は白一色である。
頭にも白い布を巻き、神道風にしていた。一心に水に一歩ずつ入り込んだ。火多岐はそのままに手を合わせながら腰まで水に浸かった。
神を思い浮かべながら、火多岐の禊は続いた。
そうして、時間は過ぎて皆の準備は整った。火多岐も禊を終えて合流した。玄海も驚きながらも荷物を背負って海を目指す事になった。
濡れた髪や体を拭いて来ていた火多岐は衣服をそのままに由津彦や麻那斯の後ろに続いた。
「…火多岐。海までは遠い。これを上に着ていろ」
「わかったわ。兄様」
麻那斯が白の上着を渡すと火多岐はそれを羽織った。見るからに寒そうだったので由津彦と玄海は内心、胸を撫で下ろしたのであった。
そうして歩いている内に日はだいぶ昇ってきて昼間になっていた。まだ、行程の半分ほどになっているだけだったが。由津彦達は休憩する事にした。
姿が見えなかった翠玉も龍の姿で飛びながら付いてきている。由津彦と麻那斯も馬に乗らず、徒歩で目的の場所に向かっていた。「…燐姫を送るのに随分と時間が掛かってしまった。麻那斯や火多岐さん、玄海さんまで巻き込んでしまい申し訳ないな」
由津彦が言うと麻那斯と火多岐は顔を見合わせた。玄海も不思議そうな顔をしている。
「何を言うかと思えば。由津彦らしくもない」
麻那斯が言えば火多岐もくすくすと笑った。
「そうよ。あたしたちは別に迷惑だなんて思っていないわ。由津彦さん、大変そうにしていたもの。手を差しのべるのは人として当たり前よ」
「まあ、そうだな。お前一人だとどういう失敗をしでかすかわかったもんじゃないから」
二人に言われて由津彦はうっと唸りながらも黙った。図星だったからだ。それでも、嫌な気分はしなかった。
「由津彦殿。わたくしも巻き込まれたなどと思っておりません。そこまで悩まなくとも良いですよ」
玄海も気を使ったのか励ますように言った。由津彦はありがとうと小さな声で呟いた。翠玉も穏やかな目でその光景を見守っていた。三人は笑いながらも由津彦が泣いているのを見て見ぬふりをしたのだった。
海にたどり着くと由津彦と麻那斯が背負っていた薪を下ろした。それを一ヶ所に集めておく。玄海が直に薪の前で座禅を組んだ。
数珠と経本を胸元から取り出すと由津彦に近くに来るように言った。
「由津彦殿。わたくしの後ろに立っていてください。火多岐殿も同じようにしてくださると助かります」
「わかりました。麻那斯はどうすればいいですか?」
由津彦が問いかけると玄海はそうだなと言いながら麻那斯を見た。「…麻那斯殿はわたくしの横にいてください。弓は持っていますね?」
「ああ。持っているが」
「でしたら、それを持って弦を鳴らしてください。魔除けになります」
「弦を鳴らす?本当に魔除けになるのか」
麻那斯が不審げに言うと玄海は仕方ないとため息をついた。
「異国などではそういったまじないがあるそうです。今は時間が惜しい。麻那斯殿、説明は後でいくらでもしますから。とにかく始めましょう」
玄海が強い口調で言うと麻那斯は不満そうにしながらも弓を構えて弦を鳴らした。それに続けて読経が行われた。由津彦と火多岐も集中を始めたのだった。
しばらくして、薪に火をつけて燃やし始めた。玄海はさらに声を張り上げて読経を続ける。汗が玉のように浮き出る暑さの中、麻那斯は弓を鳴らし続けた。由津彦は目を閉じて集中を続けている。火多岐も手を合わせて東海龍王に祈りを捧げていた。
由津彦はふいに目眩を感じた。彼の体が金と銀の燐光を放ち始める。すうと黄金の鬣と白銀の鱗が美しい龍が由津彦の中から出てきた。透けた状態だったが火多岐や麻那斯の目には見えた。
『…ああ、懐かしいですね。やっと父上や母上の所に行ける。海に帰ってこれた』
澄んだ高い声は由津彦の中から聞こえていた燐姫のものだった。二人はじっと龍を見つめる。
『ああ、燐。やっと会えたな』
兄の翠玉が感激したらしく燐姫に近寄った。
『兄上。今まで長い間、ご心配をおかけしました。本当にごめんなさい』
『別に気にしなくていい。竹早命に襲われた時は助けてやれなくてすまなかった』
『兄上。もう昔の事です。でも、私が地上にいられる時は短いようです。お別れを言わなくてはいけませんね』
燐姫はそう言うと由津彦に視線を向けた。
『由津彦さん。今まで私のために色々と奔走をしてくださりありがとうございました。おかげで兄上にも再会できました。それに浄土に行けるようにもしてくださって。感謝してもしきれません』
由津彦は燐姫の声を聞いて彼女が言わんとしている事を曖昧になりつつある意識の中で気づいた。
「…燐姫。俺の方こそ今まで助けていただいてありがとうございました。けど、これでお別れですね」
そう言うと燐姫は悲しそうに目を細める。
『由津彦さん。一度はお別れになりますが。また、会える時は来ます。私、生まれ変わったとしてもあなたの事は忘れないでしょうから』
燐姫はそう言いながら火多岐と麻那斯にも視線を向ける。二人は頷きながら姫の言葉を待った。
『火多岐さんと麻那斯さん。あなた方にもお礼を申し上げます。由津彦さんを助けてくださり、ありがとうございました。後、玄海殿も。私が成仏しやすいようにしてくださり助かりました。これで安心して浄土へ行けます』
「姫のお役に立てたようで何よりです。さあ、御仏がお迎えに来られましたよ」
玄海が告げると同時に白と金の眩い光が辺りを覆いつくした。由津彦たちはあまりのまぶしさに目を閉じた。翠玉だけは御仏の姿をはっきりと捉えていたらしい。
『…東海龍王の姫よ。よう今まで頑張った。その報いとして浄土へ向かうがよい。そこで龍として生まれ変わりなさい』
はっきりと頭の中に不思議な声が響いた。
『いいえ。仏様、私は龍として生まれ変わりません。人として生きたいと思います』
『ほう、人として生きたいと。そうすると今までのように空を飛んだりできなくなるぞ?』
御仏が問いかけると燐姫はしっかりと頷いた。
『ええ。それでもかまいません。ですから、兄上。勝手をする私をお許しください』
燐姫は龍の姿ではあったが頭を下げた。翠玉は仕方がないと大きくため息をついた。
『…そうか。わかった。では本当にお別れだな。燐、達者でな』
燐姫は深々と翠玉に頭を下げた。そして、御仏の後ろに従う。眩い光の中、燐姫は最後の力を振り絞って天へと昇っていった。
翠玉はそれを見送りながら何ともいえない心境であった。
燐姫が天、浄土へと去っていった後で眩い光はやんだ。由津彦たちが閉じていた瞼を開けると既に燐姫の姿はなかった。代わりに寂しそうな翠玉がいた。
「…燐姫はもう行かれたのね」
火多岐がぽつりと言うと麻那斯も頷いた。由津彦は意識がぼんやりとしながらも燐姫が自身の中にいないのを感じ取った。
「ふう。これで龍の姫は旅立たれましたね。だが、人に生まれ変わりたいとは。異なことをおっしゃる」
「そんな事言ってたか?」
麻那斯が不思議そうに問いかけると玄海は頷いた。
「言っておられましたよ。もしかしたら、近い内にどこかで人の子としてお生まれになるかもしれませんな」
かかと笑いながら玄海が言った。それに火多岐は顔を赤らめる。
どうしたのかと麻那斯は思ったが意識を失った由津彦に驚いてそれどころではなかった。てんてこまいの忙しさの中でざざんと波の音が鳴ったのだった。