六章戦い
由津彦は武芸や巫力の修行を始め出してからはめきめきと上達してきていた。それでも、麻那斯には敵わない。彼が強すぎるからだと由津彦は考えていた。
剣を握りながら、間合いを詰める。じりじりと隙を伺いながら相手の出方を待つ。
由津彦は目の前の麻那斯と睨みあう。剣を構えてじりじりと歩み寄った。
その瞬間、由津彦は片足を前へと踏み出した。麻那斯はさっと横に避けようとする。剣は構えたままだったのでがきぃんと鋼のかち合う音が辺りに響いた。それと同時に麻那斯の左頬に小さな切り傷ができて赤い血が地面に一筋落ちた。剣を構え直した麻那斯が今度は由津彦の懐に飛び込もうとする。走って一気に間合いを詰めて重い一撃を繰り出した。
寸手のところで由津彦は剣を横に流して受け止める。腕に痺れがくる斬撃だった。
麻那斯が相当な使い手だとわからしめるものであった。由津彦は後ろへ飛び退き、距離を取る。体勢を立て直してから再び、斬りにかかった。
何度も剣を振るってはいなされる事が何十回と続いた。勝負はなかなかつかない。
だが、先に体力ぎれしたのは由津彦だった。「…麻那斯。もう、降参です。やはり、あなたは強いな」
大粒の汗を流し荒い息をつきながら、由津彦は剣を地面に置いた。その場にへたりこんでしまう。さすがにこれほど、剣を扱ったのは初めてだ。
だが、麻那斯は満足そうに笑いながら頬から流れる血を手で拭う。
「…腕を上げたな。俺に傷をつけたくらいだからまあまあといったところか。後は翠玉様にも稽古をつけてもらうだけだな」
麻那斯の言葉に由津彦は苦笑いした。翠玉は麻那斯以上に厳しいのを思い出したからだ。「お手柔らかにと言っておきます」
「…そうだな。その方がいいだろう」
そんなやりとりをした後、二人はそれぞれの部屋に戻った。
由津彦が部屋に戻ると以前と同じように火多岐がいた。にこやかに笑いながら由津彦に話しかけてくる。
「由津彦さん。今日もお疲れ様。巫力の稽古もしないとね」
「ああ、わざわざ迎えに来てくれたのか。すまない」
「別にいいわよ、お礼なんて。ただ、今日は尾勢の姉様はこの館の奥で占をしているから。由津彦さんに稽古をつけられないの。だから、あたしが代わりに来たのよ」
そうかと頷くと由津彦は麻那斯からもらった剣を壁に立て掛けた。それをちらりと見ながら、火多岐は由津彦に近づいた。
彼の手を不意に触れた。骨張った手に少女特有の柔らかな手が触れて由津彦の心の臓が跳ね上がった。
「ひ、火多岐さん?」
「…由津彦さん。あなた、疲れているみたいね。顔色が青白いわ」
そんなことはないと言って手を振り払おうとしたが。火多岐は思ったよりも強い力でさらに手を握りこんでくる。
「…由津彦さんは何故、燐姫様と旅をしているの。そして、解放をしたいと思ったのはどういうきっかけがあったのか。今まで気になっていたの。教えてもらっていいかしら?」
「……火多岐さんは確か、俺の村の言い伝えを知っていたよな。小さい頃にそれを聞いた時、燐姫を美しくはあるが哀れな方だと思った。だからかな、姫の封印をいつか解いてみたいと考えるようになった。けど、それをすれば。村を追い出されてしまうから、手を出せずに何年も経ってしまっていたんだ」
そうと火多岐は頷いた。由津彦は遠い所を見るような目付きで話続けた。
「そして、十七の年の春頃にとうとう姫の封印を解いた。おかげでお婆様をたいそう、怒らせてしまってな。村を追い出されてしまった。お婆様から、条件として姫の魂を解放し、黄泉の国に送る事を突きつけられて。それを受け入れるしかなかった」
淡々と語る由津彦に火多岐はなんともいえない気持ちになった。火多岐は由津彦の手を力を込めて握り直した。そして、労るように手の甲を撫でる。
「…そう、大変だったのね。さぞかし、辛かったでしょうに。燐姫をあなたが好きなのはよくわかったけど」
最後にちくりと言われて由津彦は目を見開いた。
「…え。火多岐さん?」
そんな彼の様子に火多岐はくすりと笑う。
「気づかないとでも思ったのかしら。恋慕の想いを持っていなかったら、村のしきたりを破る事まではやらないはずだもの。けど、燐姫はあくまで神であってあたしたちと同じ俗世で生きてはいない存在の方よ。それは忘れないでね」
念押しをされて由津彦は黙りこんだ。確かにその通りなのだが。
けじめはつけないといけない。いつかは燐姫は自分から離れていく。
それを思い浮かべようとするとずきんと胸が痛んだ。由津彦はやるせない思いになってしまう。火多岐は手を離すと背伸びをして由津彦の首に両腕をからめて彼の頭を優しく抱きしめた。
驚いた由津彦は身を引こうとする。だが、火多岐は逃がそうとはしない。より、力を込めて頭を抱き込んだ。
「…由津彦さん。あたしね、あなたを見ていると何故か放っておけないの。だから、今だけはあたしだけを見て。しきたりや姫の事は考えなくていいから」
「…俺は」
「由津彦さんは悪くないわ。剣を奪った神様が悪いの。だから、あまり思いつめないで」
由津彦は瞳から温かい何かが流れているのに気づいた。それは涙であった。火多岐は由津彦の背中に片手をやると撫で始めた。
しばらく、由津彦は火多岐のぬくもりに身を委ねたのであった。
由津彦はしばらく、火多岐と抱き合っていたが。後からやってきた麻那斯に引き剥がされた。彼はこの時、「妹に何をしている?!」と由津彦に凄んでみせた。
おかげで体が縮みあがる思いをしたのであったが。何せ、普段でも目付きの悪い麻那斯なのだが妹の火多岐が関わっているため、余計に怖さを増している。由津彦は慌てて火多岐から離れた。
「…す、すみません!もう、しませんから!」
「本当に火多岐には手を出さないな?」
「出しません!」
ならばと言って麻那斯は目付きを普段のものに戻すと火多岐に由津彦の部屋を出ていくように促した。仕方ないと思いながら、火多岐は彼の部屋を出る。
それを見送った後、麻那斯に稽古を明日からは以前の二倍にすると告げられた由津彦であった。
麻那斯が出ていった後、内から燐姫の澄んだ声が響いた。
『…由津彦さん』
「燐姫。どうかしましたか?」
『いえ。あまりに騒がしかったので目が覚めてしまって。火多岐さんといいましたか。良い娘さんのようですね』
不意に言われて由津彦は顔が熱くなるのを止められなかった。燐姫はそれを感じとってか、くすりと笑った。
『照れておられますね。火多岐さんは由津彦さんに色恋めいた気持ちをお持ちのようです。どうしたいですか、由津彦さんは』
「…か、からかわないでください。俺は姫の事が好きなんです。火多岐さんの事は何とも思っていませんよ」
そう言い返すと燐姫はあら、それは残念と笑いながら悪戯っぽくいった。だが、火多岐は燐姫と趣が違うだけで顔立ちが可愛らしいし性格も気立てが良くて巫女でなければ、引く手あまたな娘といえる。だから、ああいう風に恋の呼び掛けをされると燐姫への気持ちが揺らいでくるような気がした。
由津彦は複雑になりながらもため息をついた。燐姫も何も言わずに由津彦の好きにすれば良いと思ったのであった。