一章 始まりの物語一
青い海の水の中、金とも銀ともつかないきらめく鱗と同じ鬣を揺らめかせながら、一頭の龍が優雅に泳いでいた。
ひたすらに、縦になった目である物を探していた。
それはこの龍が大事に守っていた剣である。
父から、託された『白雲の剣』であった。
龍こと燐姫は、父が龍の頭である龍王であった。
〔早く、見つけないと!父上に申し訳が立たない〕
気持ちは早くと、せき立てられる。
ずっと、探し回っていたが、一向に見つからない。
今まで、ずっと、飲まず食わずで探し続けていたので、体も心も弱っていた。
燐姫は白雲の剣を幼い頃から、守り続け、何百年もの時を過ごした。
だが、白雲の剣は日の本の国の神である竹早命によって、奪い取られてしまったのだ。
『竹早様。私に剣をお返しください。白雲の剣は我ら、龍の一族にとっては宝なのです』
人の姿で頼み込んだ事が頭の中に浮かぶ。
金とも銀ともつかぬ髪に琥珀の瞳。
透き通るような肌をして、整いすぎたともいえる顔立ちのこの世のものともいえぬ美しい娘。
その娘ー燐姫に竹早命は残忍な笑みを浮かべる。
『そなたが我に従うのだったら、返してやってもいい。だが、従わないのだったら、返さぬ。こんな見事な剣を龍に持たせるのはまことに、惜しい』
鍛冶や武器を司るといわれる神が鍛えてくれた剣は両刃のもので、鞘や鍔の部分には、白雲が彫り込まれた細身のものであった。
『その剣は父上から、与えられたもの。私が守るべきものです!』
『…そなたが私の妻になるのだったら、考えよう。龍王が許すわけないだろうが』
燐姫は唇を噛みしめながら、元の龍の姿に戻る。
竹早命から、無理矢理、剣を取り返そうとしたが。
即座に、よけられる。
素早い身のこなしに、燐姫はいらだつ。 『かわいげがないな。異国から、やってきたそなたらを受け入れてやっているんだ、我らは。この剣を天の高天の原にいられる姉神に献上しよう。喜んでくださるだろうな』
姉神と呼ばれた御方を燐姫は知っている。
天をあまねく、照らす日の大御神が脳裏によぎる。
『…あの日の大御神様に献上をすると?我らの宝を気に入られるはずなど…』
何とか、持ち去られるのを防ごうと、前に周りこむが、竹早命は舌打ちをした。 そして、黙って、鞘から、剣を抜いた。 燐姫の左わき腹の部分に、焼け付くような痛みが走る。
斬られたのだと気づいた時には、竹早命の姿はなかった。
薄れゆく意識の中、父の龍王にわびながら、燐姫は目を閉ざした。
大けがを負った燐姫は、療養のため、海の浅瀬に向かった。 すると、向こうから、気配がする。
青い影に燐姫は反応した。
見えてきたのは燐姫よりも一回り以上、巨大な体躯の龍であった。
青い透明感のある鱗と同じ色の鬣の美しい龍であった。
それに、勇壮な雰囲気もあり、気高ささえ、感じさせる。
『…父上!こんな所にまで、来られるなんて』
口を開けて、話しかけた。
『燐、こんな浅瀬でどうしたというのだ。怪我をしたというのに』
低い、威厳のある声で尋ねられた。
そう、目の前にいるこの巨大な龍こそが燐姫の父ー東海龍王であった。
『父上、申し訳ありません。わたくしが守っていたカヌチヒコ様の剣が奪われてしまいました。白雲の剣は我ら龍と、日の本の国の神ヶとの盟約の証として贈られた大事な品なのに』
すると、龍王は片目をひょいと見開くと、ふむと唸った。
少し、考え込んで、燐姫にこう言った。 『…白雲の剣を奪ったのは、もしや、竹早の命なのか?』
燐姫は肯いてみせた。
さらに、龍王は驚いたらしかった。
『あの方がそんなことをなさるとはな。我ら龍を愚弄なさり、一族の宝ともいえる剣を取り上げられるとは。そなたではなく、兄の翠玉に授けた方がよかったな。そうしておけば、そんな怪我を負わせずにすんだ』
龍王は、ため息をついた。
水中であるため、ごぼこぼと白い泡になって、それは外へと消えていった。
『本当に、申し訳ありません。父上、いえ、王にはなんと、お詫びすればよいのやら』
『気にすることはない。我らでも探しだし、竹早命を見つけだしてみせよう。そして、剣を返していただけるように、頼んでみる』
元気づけるように、父王は言ってくれたが、燐姫は首を横に振った。
『父上、わたくしは納得できません。怪我が直り次第、速攻、探しに行きます。陸にも上がって、調べにいきますので』
龍王は目を細めて、何といったらいいのかと逡巡したらしかった。
燐姫は龍王に頭を下げると、背中を向けて、陸に向かった。
それから、燐姫の孤独な旅が始まった。 海の神や天の神などに、白雲の剣の在処を聞いてみる。
傷は水気を使って、ひとまずは閉じてみせた。
まだ、痛みはしたが、それを押して、剣を探し続ける。
時には、海や真水の流れる川に池、湖に潜った。
天を天駆けて、他の龍や風の神などに問いかけて、剣を持った竹早命を見かけなかったか、尋ねてみた。
だが、誰も知らないと言う。
たまたま、聞くために呼び止めた男神こと龍の若者に声をかけた時など、勘違いをされた事があった。
『…剣か。私は見ていないね。それより、あなたは声からすると、若い娘さんのようだな。もし、よかったら、私と共に湖へと行かないかな?』
『…それはお断りします。わたくしもそんなに、暇ではないので。わたくしの名は燐。東海龍王の娘です』
きっぱりと言ってやれば、若者は目を見開いて、焦り始めた。
『東海龍王の?!それは失礼した。私はしがない者でして。そんな上位の方とは知らず、とんだご無礼を』
そう言いながら、若者はそそくさと去っていってしまった。
燐姫は半月経っても、見つからないので、神々に聞くばかりではなく、地上にも降り立とうと決めた。
だが、体力は底をつきそうになっている。
ろくに、食べ物を食べず、眠っていないため、心身共に弱ってしまっていた。
砂浜を見つけると、近くまで行き、龍から、人の姿に変化する。
たちまち、異国風の上衣に袴を履いた美しい娘の姿になった。
金とも銀ともつかぬ髪は同じ色彩の紐で束ねて、まとめた。 ゆっくりと歩きだし、燐姫は人で勘の良い者からも聞き出そうと意気込んだ。
だが、なかなか、人とすれ違わない。
村らしきものも見えないのだ。
痛む左わき腹を押さえながら、燐姫は歩き続けた。
必死に足を動かしながら、人の姿を見つける。
遠目に、粗末な巻頭衣に身を包んだ人々に安堵しながら、燐姫は一歩を踏み出す。
だが、足が言うことをきかず、波打ち際のこともあって、たやすく、転んでしまう。
柔らかな砂とざざっと打ち寄せる波の音を聞きながら、燐姫は意識が遠のいてゆくのを感じた。
あれから、三日は経つ。
そう思ったのを最後に、目をつむり、燐姫は完全に意識を閉ざした。
椎奈はたまたま、海辺を歩いていた。
朝方から、不思議な夢を見たからだった。
金とも銀ともいえる鬣と鱗を輝かせながら、天を飛ぶ龍が自分の元へ降りたった。
だが、龍はたちまち、鱗がはがれていき、淡い光をまといながら、消えていく。その中から、この世の者ともいえぬ神々しい娘が姿を現した。
娘は腹を押さえながら、ゆっくりと倒れ込む。
椎奈は慌てて、駆け寄ると娘を抱き留めた。
思ったよりも娘は軽く、その感触に椎奈はさらに、驚いた。 娘は口元から、一筋の血を流しながら、息絶えていた。
思わぬことに、右往左往している所で、目が覚めた。
(…あの夢に出てきたのは、水蛇だった。しかも、あんな黄金色の水蛇は滅多に見ることはできない。その後で、現れたあの美しい郎女は水蛇ー水神様の変化した姿なのか?)眉根にしわを寄せて、考え込む。
龍の夢を見たためか、水に関連した場所に行こうと思い、海辺に来てみたが。
何もなさそうだ。
そう、思った時に、きらりと光る物が目に入る。
「あれ?あんな所に、人が…」
つい、声に出してしまっていた。
気がついたら、自然と足が動く。
砂で転びそうになりながらも、倒れているらしい人の元へと向かう。
近くまで来てみると、そこには、弱々しい気をまとった一人の娘がうつ伏せになって、倒れていた。 金とも銀ともつかぬ髪は、日の光を受けて、ほのかに輝いている。
それに目を奪われそうになりながらも、椎奈は娘にそっと、触れてみた。
ひんやりとしていて、触っている感覚はあった。
腕を取って、脈を測ったら、弱くはあったが、心の臓は動いているらしかった。 水にぐっしょりと衣は濡れてしまっている。
椎奈は少しの間、躊躇ったが。
すぐに、決心すると、倒れている娘の腕を自分の肩に掛けて、引きずるようにして、歩き始めたのであった。
ぱちぱちと火がはぜる音で燐姫は、重たい瞼をうっすらと、瞼を開けた。
体中がだるくて、重苦しい。
けれど、温かくて、自分をくるんでいるらしい布から、日溜まりの香りがする。 心地よくもあって、また、眠りについてしまいそうになった。
ふいに、口を無理矢理、開かされて、苦い物を飲まされた。これによって、ふわふわと漂っていた意識がはっきりと覚醒する。
「…に、苦い!」
ついには、素っ頓狂な声を出してしまっていた。
すると、口の中から、どろりとした液体が漏れ出そうになる。
燐姫は慌てて、口を閉ざした。
「…あんた、目を覚ましたんだね。顔色が悪いし、衣もずぶ濡れだったから。海辺で倒れていたのを見つけたの、あたしなんだよ。でもまあ、気がついてくれてよかった」
簡単に説明をしてくれたのは、どうやら、若い娘のようだった。
燐姫はまず、尋ねるべきことを考える。だが、疲労と気疲れのせいか、うまく、まとめられない。
「それで、ここはどこなのでしょう?」
真っ先に浮かんだ言葉はこれだった。
すると、娘は気を悪くしたようなことはなく、答えてくれた。
「…ここかい?ここは、羽立の村だよ。で、あんたがいるのはあたしの家。あたしね、巫女をしているから、邸といえるものは持っているんだけど」
燐姫はそれに、安堵の息をついた。
巫女だったのなら、もしかしたら、白雲の剣について、訊けるかもしれない。
「…あ、助けてくださって、ありがとうございます。わたくしはその、吾妻から、来ました」
燐姫はそれだけを答えた。
部屋の中は薄暗く、かろうじて、人がいるとわかるくらいだ。
娘は吾妻と耳にして、驚いたらしく、手に持っていた椀を落としそうになった。 「吾妻といったら、弟橘姫が海神を鎮めるために、海に飛び込んだいわれのある所じゃないの。そんな遠くから、来たのね」
燐姫は弟橘姫と聞いて、同時に倭建命を思い出した。
倭建命を龍は苦手としている。
それは、八俣大蛇を倒し、その尾から、取り出された剣だからである。
八俣大蛇は元は、龍の一族だったらしい。
八頭の龍を封じ込めたモノのなれの果てだと、父の龍王は忌々しそうに語っていた。
「…それよりも、今はお薬湯を飲まないとね。何も、飲まず食わずでいたから、果物とかを食べたりするくらいにしておいた方がいいわ」
それには、燐姫も頷いた。