二話
ザァ――――。
目の前のシャワーから心地よい温度のお湯が噴き出している。
それを一身に浴びているレナは、ふう、と首を上げお湯を喉から下にかかるように調整しながら目を開き、外装を全て解除した自分の肌を流れるお湯を見ながら人心地のため息を付いた。
薄い水色の長い髪が両耳から水の重みに従って垂れ下がり、大きくはないが、きちんと存在感を示している双丘を覆い隠している。
流れていくお湯は、少し身体を傾けると、浴びなくなった部分に水滴が残り、雫が鎖骨の部分を通り抜けてスレンダーと言って良いだろう体躯を流れ落ちる。その水の滴る様は、肌の艶やかさと弛緩した筋肉の流れをもってどこか色めかしさを醸し出していた。
浴室に備え付けられている小さな姿見に見えるのは、眼の色を髪に合わせて薄い水色にしている以外は特にいじっていない、瞳が少々大きい事の他は特に特徴のない顔。ここに来る際に色々と調整しては見たものの、センスなのかそれとも元の顔のバランスによるものなのかどうしても違和感を覚えて元のままにしたのだった。
その移る姿が湯気で少しの曇りがある部分まで、詳細にこの世界は再現されている。
(いつ見ても、よくできたものね)
再び目を瞑り、頭からお湯を浴びながら、レナはそんな事をふと思う。
都内の大学に通っていたただの大学生だったレナには、この世界を作り上げているVRシステムと呼ばれている技術がどれほどのレベルのものなのかはわからない。だが、今風呂でお湯を浴びている彼女に齎されているこの感覚は、少々の違和感はあれども現実に限りなく近いものだった。
生産職となったプレイヤーには女性が多かったこともあり、風呂やちょっとした化粧品などがこの二年で充実してきている。レナの所属しているギルドの団長の知り合いということもあって手に入れた、その天才的な独創力を元に作成された猫耳印の乳液などはレナの必需品となっていた。最も、こちらでケアしようとしまいと、なにか変わるわけではないのだが。それでも風呂あがりや寝る前など、そういった日常的なものに触れるとどこか安心する自分がいる。
(化粧は女の装備っていうしね)
そんな事を頭の片隅で考えながら蛇口を捻ってお湯を止めたレナは、木造ながらにすべすべとした質感のあるバスタブに左足から入り、再び声を漏らす。
「…………あぁ」
全身に広がっていく暖かさが、彼女の心身共に和らげていく。
もうこれで思い残すことはない、という想いと、明日もまたこの風呂に浸かりたい、という今となっては料理を食べることとともに唯一無二の日々の生きがいのようになった入浴に対する思いが全身を包んでいく。
気怠い、だが心地良い時間。
だが、そんな弛緩した頭の中で、先日の一件が思い起こされ、レナのその満足感に他の感情が入り交じった。
『黒き死神』と呼ばれていた男がいた。
ただでさえ少ない人数の中、捕獲モンスターを連れているというだけでなく、PKをするプレイヤーを狩るために街にも戻ること無く、補給は各場所にある村などのNPCから仕入れ、時折様々なフィールドの情報をもたらす以外は、攻略を目指すプレイヤー達とは関わりのない他に追随を許さないPKKプレイヤー。
直接言葉を交わしたことはないが、何度か顔だけは見たことがあり、名前だけは知りすぎるほどに知っていた。
冷たい目をした、目付きの悪い男。
様々な噂、過去のその男の恋人だったという女性の最期の噂も含め、それらを聞いてはいたが、レナの脳裏に浮かんだ印象はそれだけだった。
攻略組にいて命をかけて戦っている人間達は尊敬する。
だが、強くとも、いや、強いにもかかわらずその力をPKプレイヤーを狩ることに向けるその男を好きにはなれなかった。PKであろうとPKKであろうと、人殺しには変わりない、レナはその自分の思考を感情的なものであると認めながらも、間違っているとは思わなかった。
そして、フィールドに出ているとはいえ最前線のボス戦に参加するほどのレベルがあるわけでもない、そしてPKどころか不特定多数の人に関わる事自体を忌避する彼女にとって、そんな男との関連は無いに等しい――――そのはずだった。
発端は、あの芝居がかった巫山戯た団長が一人の双剣士を連れてきたことから始まった。
「話がある、紹介したい人がいるんだけれど、ちょっといいかい?」
今から三日ほど前、外で何やら騒いでいる双子の声を聞きながら、久々の休息に微睡んでいたレナは、そんなネイルのノックと続く言葉に現実へと意識を移した。
身を起こし、手早く上着の外装を羽織ったレナは扉越しにその言葉に答える。
「何なの? 今日は攻略前の休息って話だったと思うけど」
「うん、だから何処かに行く話ではないよ、ただ、これから仲間になるメンバーに紹介は必要だろう?」
相変わらず前置きのない結論ありきの説明だが、ギルドな誰かを加入させるべく引っ張ってきたのはわかった。
「…………男? 女?」
「男だよ、僕にとっては付き合いの長い……君も、名前くらいは知ってるんじゃないかな? 最も、『黒き死神』なんていう似合わない名前のほうが有名だけどね……そうだな、もしかしたら君とは気が合うんじゃないかな?」
「…………は?」
そんな寝ぼけた頭に続けられた会話で、間の抜けた声を出してしまったのはレナのせいではないだろう。そのくらい、当たり前のようにネイルが告げた名前は現実感の薄いものだった。
数分後、屋敷の庭に出たレナは、双子に群がられている虎と、それを見ているようで、どこか遠い目をした黒い服に身を包んだ男を目にしていた。
レナの隣にいたネイルが手を上げ、そしてレナのことを紹介し始める。
(ふうん、なんだか雰囲気が変わったわね)
こちらに顔を向けてきた男に対して、レナはそんな事を思う。
かつて見た時には、周囲の何も見えていないような刺々しさを醸し出していた空気は消え、鋭さの代わりにむしろ凡庸さを漂わせたその黒衣をまとった男は、こちらに向けて頭を下げてくる。
「トールだ、武器は双剣に投擲用の針と苦無、職種は『暗殺者』だ。そしてこっちは黒影虎のクロ。よろしくな、えっと……レナさんでいいのかな」
「レナでいいわ、職業は『聖騎士』、武器は細剣」
隣で話し続けるくどいネイルの口上は無視して、お互いに簡単な自己紹介を行う。
名前を呼ばれたことでかこちらに視線を向けてくる黒影虎に少し興味はあったが、そこまで慣れ合う気も起きなかった。だから思いのまま言葉を続ける。
「……後、団長が決めたことで、その子達も反対してないみたいだから貴方がギルドに入ること自体は構わないわ、でも、だからと言って馴れ馴れしくはしないで……」
「……わかった」
トールが一瞬笑顔をやめ、そしてそれでも笑顔を作りながらそう短く答えた事で、噂で聞いていた中での目の前の男の評価をほんの少しだけ上昇させておく。
今の言い返すこともなく、無駄に時間を取らせることもなく了解の意のみ伝えるその態度は悪くなかった。
そして別に敢えて慣れ合わなければ普通に接する程度にはレナにも対人の礼儀は持ち合わせているつもりだ。
そんな風に頭で考えたレナは、軽く会釈で答えて背中を向ける。
だが、義務は果たしたとばかりにレナが再び屋敷へと戻ろうとした時に、いつものごとく、ではあるのだが空気を読まないネイルの言葉が響いた。
「相変わらず厳しいねぇ、僕はいつデレてくれるのかと期待しているのに」
内心では相変わらずなのはどっちか、と怒鳴りつけたいところだが、そうすると余計に疲れることはこの半年ほどで学習している。
黙ってさえいれば目の保養になるいい男なのに、一度話しているのを聞くとその外見すら下に補正されて評価が下がっていくというのはどうなのだろうか。逆のパターンはよく聞くのだが。
見ると、トールが複雑な表情を顔に浮かべていた。
読み取ると、ネイルのペースに絡まれた同情と、それに対して普通の反応を示す人間に対する安心感、しかし馴れ馴れしくしないでと言われたばかりで同調もしづらいといったところか。
(……随分普通な人ね、なのにどうして……?)
再度評価を上方修正すると共に、今度は疑問がレナの頭に湧いてくる。
あくまで噂は噂。
だが火のないところに煙は立たないということわざ通り、その中にも真実はあり、そしてその通り名の表していることは紛れもない真実。
だが、レナの乏しい人生経験と対人関係において、目の前の男と人を殺したものとは結びつくものではなかった。
そうして少し無遠慮に観察していたのかもしれない。いや、他人から見たら睨みつけているように見えたのか、少しトールが申し訳なさそうな表情に変化しているのに気づく。
「レナ姉、あんまりいじめるなよ。トールの兄ちゃんもクロも良い奴そうだしさ」
「…………このもふもふは中々やる。レナもすべき」
二人にもそう見えたのか、ユーキとサクヤが目の前に立ってそんな事を言ってきていた、そしてその後ろで微笑みをたたえて直立しているセバス。この小さいながらに問題児しかいないギルドの唯一の良心とも言うべきその老人の瞳が伝えてくるものに、どこか据わりの悪いものを感じてレナは背中を向けようとしていたトールへと再び向き直り、口を開いた。
「ごめん、口が悪いのは元々だから気にしないで……後、別に全く口も聞くなとは言ってないから、弾くつもりもないし……」
口から慣れない謝罪の言葉を漏らしながら、レナは内心で何を言ってるんだろうと頭を抱えた。面倒くさい。これでは言い訳のようではないか。
案の定――――
「おお! トール! 僕にもデレなかったレナがとうとう……」
「……あのなネイル、一つ言っておくが俺は例え嫌われていようともこのレナって子に味方するからな……あんたも大変だな、急な無理ですまん。そっちが気にする必要もない、ギルドに受け入れてくれるだけでありがたい」
ネイルのレナを見ての発言に、トールが呆れたように呟き、そしてこちらを見て改めて頭を下げてくる。
これにはレナも少々罪悪感を覚えた。
目の前の男は噂や以前見かけた雰囲気から異なり、ただの人のいい青年のように見える。さすがに先ほどのように初対面で拒絶の言葉を向けたのはまずかったかなどと、近頃働かせることのなかった対人関係スキルをフル稼働させようとして…………そして最初からそんなものはなかった事に気づいて機能を停止させた。
その結果――――レナの口から出てきたのは相変わらず言い訳のような頭をさらに抱えざるを得ない言葉。
「……え……う……私こそ、言い方が悪かった……かも」
そんなたどたどしい日本語に、ネイルとユーキが「おお、また」などと騒ぎ、サクヤが観察するように、セバスが相変わらずの笑みをたたえている。
「……まぁ、何だ、迷惑をかけることがあるかもしれないが、よろしく頼むよ」
そんなトールの言葉で、レナのペースは狂ったままに出会いの一幕は幕を閉じた。
(強い……何、これ)
トールを迎え入れた後の昼下がり。
トールの戦い方を見たいという双子の意見もあって、それぞれのスタイルを確認するために出た近場の程よいレベル帯のフィールド、『北域の山岳』でレナはそんなことを内心で呟いていた。
ここでは、頂上に近づくに連れて雪山の様相が増してくる。そのあたりに差し掛かるとレナはともかくとしてユーキやサクヤには厳しい。
そのため今日はそこまで辿り着くつもりもないが、今は中腹あたり、それなりに街の周辺としては難易度の高い敵も現れてくる頃である。
特に、初期はそれほどでもなかったのが、50層をクリアした後にレベルの高いモンスターが現れるようになり、それによって何人かが犠牲になったのは記憶に新しかった。最もその事実によって、危機感を覚えた街のプレイヤーが戦い方を少しづつ前線組から教授されることでレベルを上げていったという全体的な底上げの契機ともなったのだが。
先ほども、硬い体毛に身を守られた三体の竜人、雪の見え始める高さに至る前では最強の敵、『ドラゴニア』のパーティが湧出して来たところだった。
それぞれ一体は長刀、二体は弓を構えこちらに向かってくる。
「レベル的に、そうだな、後ろから撃たれるのは面倒だし弓の二体は俺とクロで撹乱する。ユーキ、サクヤ、レナは残りの一体を、セバスさんとネイルは、機を見て回復と攻撃魔術を頼む」
トールはそう言うや、ポップしてきた三体の間をくぐり抜け、通りざまにその二体に剣戟を繰り出し敵意を奪った後、瞬時に回りこみ視界から消えた。その後を向きを変えた二体にクロが影から現れ弾き飛ばす。
あっという間に分断させられたその敵パーティは、最初に言われていた通り、残りの一体がこちらに、二体が再び姿を表したトールとクロのもとに向かっていく。
ネイルが強いのはわかる。彼はああ見えて最前線でも指折りの、それも炎系等を用いる魔術師の中では断トツにレベルの高いプレイヤーなのだから。最大大手のギルド『銀の騎士団』に所属し、そこを抜けて新しくギルドを立ち上げた今でも攻略のパーティに参加することは多々あるし、レナ自身も最前線とまではいかないものの、そこそこのレベルで攻略組と呼ばれる人間達を見ることもあった。
だが、そんなレナの見知った強さとは何かが異なる、自身の動き、技の特徴を全て見通したような戦い方。戦い殺すことに特化したようなその最適化ぶりはどこか異常を感じさせる。
(ソロでやっていたプレイヤーがどうしてこんな…………)
古くから戦いに明け暮れていたトールを見くびっていたわけではない。
だが、ソロでやっていた、それも凄みを感じさせることのないその男にパーティ戦などできるのかと思っていた部分は間違い無くあった。しかも皆がモンスターと戦い、塔を攻略し、現実に向けて頑張っていた事に参加していなかった人間などが、という思いもまた。
しかしその認識は今目の前で覆され続けている。
何故なら――――。
「この組み合わせならば、ほぼ初撃は右からの振り下ろしパターン、その場合は避けると連撃に繋がるから、ユーキはその一撃を確実に止めろ、その後一秒の硬直後バックステップで距離を取るからレナが追い越して体勢を崩せ、続けてサクヤ、とどめは頼む。基本的に爬虫類系統は氷系には弱い」
自分もまたモンスターの相手をしながら、レナ達三人に対して先程から次々と送られてくる的確な指示。レナはそれに心の声を中断させて反応する。トカゲ型の長刀と持ったそのモンスターが今トールが指示した通りの攻撃を見せる、そしてわかっていれば対処は十分、前衛のユーキが持った剣で受け止め、弾いた。
赤い髪を視界の端に収めながら、後ろへと下がろうとするトカゲにレナのレイピアが追撃。細剣の特性を生かして連撃で削りながら体勢を崩していく。
「……射出三秒前、二、一……氷結弾、展開」
そのカウントに合わせて、最後に相手の武器を持つ手を弾きレナが後ろに下がると、その横を通り抜けた氷をまとった矢がよろめいたトカゲの喉元に突き刺さる。その可愛らしい外見とは裏腹に強力な攻撃力を持つ弓魔師が放った矢は、トカゲを一体の氷像にした後、霧散させた。
呆気無い終幕。
これまででも勝てない敵ではなかったが、一撃も食らわず、ここまで危なげないと思われる戦い方で勝ったことはなかった。
それに――――。
(……戦いやすいわね)
それは、認めなければならなかった。
そして、最初に自分が関わりあいになりたくないという軽い拒絶を示した理由もまた無くなりつつあることに。
元々現実にいた頃から男嫌いで通っていたレナは、最初の混乱後のパーティででも嫌な思いをした事によってその特性に磨きを増していた。
そんなレナが『小さな箱庭』に入ったのは、日常品を手に入れるためい必要なクエストで、この世界では珍しい双子を目にし、必要性から簡易のパーティを組んだところから始まった偶然によるものだ。そのパーティを組む経緯すら、あれよあれよという間に勢いに流されてしまったにすぎないが。
そしてその後ギルドに入るかという誘いに頷いたのは、夕食くらいはと足を運んだレナの前に現れた、その規模の小さなギルドには不釣り合いすぎる屋敷と執事(プレイヤーだとは後で知ったが)が魅力的であり、その三人以外にはリーダーしかいないというレナにとっても悪くない条件だったからに過ぎない。
…………ちなみに、リーダーがあれと知っていたら入っていなかったと今でも思っている。
だが、半年を暮らしてしまった今ではその風呂と寝心地の良いベッド、護衛として戦いに赴きつつも、現実でもやっていたからと家事スキルが全般に高い執事付きの魅力はもう手放せるものではなかった。
どこかで異分子が入ることによって、この地獄のようだった一年間をようやく抜けて手に入れた、この半年で家と呼べるようになった帰る場所を失うことへの恐れ。
「お疲れさん、三人とも中々のレベルなんだな」
言葉が聞こえる。考え事を中断してそちらを見ると、指示を送りながらも自らは戦っていたトールが、脇に黒影虎、クロを従えてこちらへと歩み寄ってくるところだった。
背後の煙を見ると、ある程度削った所にネイルが炎弾を撃ち込んで吹き飛ばしたようだ。
双子が駆け寄り、背後を変わらぬ安定感で警戒していたセバスも何もいないことを確認して気配を緩める。
「すっげー、なぁトール兄、何であんなに相手のすることわかるんだ?」
「…………パターンは複雑のはず。不可思議」
確かに、それはレナも疑問に感じはする。
基本AIが優秀なのか、上層に登った結果なのか、この世界のモンスターはたのMMOに比べて行動が読みにくい敵が多い。
実際に目で見て体を動かすということがそう感じさせているのかもしれないが、相手が仕掛ける前から三人の攻撃でどう動くかなどそう毎回読みきれるとは驚きを通り越して疑問だった。
もしかすると――――。
そう頭の隅にその噂がよぎった時。
「……彼が作ったんだから、変更があるにしても基本的な動きは読めるってことなんじゃないかい?」
疑問はネイルが何気なく言った言葉で確信に変わる。トールはその言葉に絶句しているように見えたが、それを見てレナは内心で頷いた。
(……噂も一つは事実だったってことね)
曰く、『黒き死神』は開発者チームの一員。
曰く、帰る術があるのに自身の殺人衝動のためにそれを公開しない。
曰く、実はあれは開発者側が送り込んだ制裁用NPC。
などそんな怪しげな噂は聞いたことがあった。
「今更だろう? 君がそうであるのは前線のプレイヤーなら知っているさ、第一そうと解っていたから毎回必ずクリア後にフェイル達に情報を渡していたのだろうし」
「……だが、せめて心の準備くらいさせろ」
「何言ってるんだい。そんなの待ってたら軽く一月は経ってしまうだろう」
「もういいよ……だが、批判の言葉があれば受ける」
ネイルの変わらないペースにそう何かを諦めたように言って、こちらを向いたトールの言葉はしかし真剣だった。しかし、この場に限っては、少なくとも私以外にとっては正しく伝わっていないだろう事を思い、レナはため息をつく。
「すっげぇ! トール兄がさっきのを作ったのか? どうやって!?」
「…………批判なら存在。可愛いモンスターがもっと必要」
「そうですね、ここでは執事服は自作せねば手に入りませんので、そのへんを充実させていただけるとありがたかったのですが」
三者三様の焦点の外れた言葉に、トールは再び絶句している。
最も、三人目はわかって敢えて言っているのだろうが。
全く茶番だ、そんな事を思いながらも珍しくレナの口元も緩む。それにしてもあの執事服って自作だったのか、執事恐るべし。
「……文句はもうこの二年で言い尽くしたからね、今更そんな事聞かされてもね、便利くらいにしか感じないわよ」
まだ呆けたようなトールに、レナもそんな言葉をかける。
不思議と、そんな姿の彼は面白いと思わないでもなかったから。
「……ありがとう」
そして、その後トールは一度だけそう言い頭を下げた後、それ以上何も言うことはなかった。
お礼の意味も、そしておそらくは彼の中にある懺悔も。
その後は、その知識をフルに使ってレナ達に戦い方を教えてくれる、それは最前線のプレイヤーとはまた違う考え方の方法であったりして、勉強になったことは事実だった。
「ふっ、僕の狙い通りだね」
そんな事を後ろで呟いていたネイルの調子の良さに苛つきを覚えながらも、レナもまた、トールのギルドへの加入を、形のみではなく認めたのだった。
「うう……ん……あれ、もう出るんだ、まだ時間はあるのに」
浴室から上がり、外に出たレナは、塔に向けて歩くネイルとトールを見つけ、そう呟いた。今日が偵察後の初の70層ボス本格攻略の一日だ。
最前線ではないレナ達『小さな箱庭』の人間にできることはない、それは、レベル差と言う意味での厳然たる事実。できることがあるとすれば、それは――――
その日、彼女にしては珍しいことをした。
手を合わせ、そして目を瞑る。
(どうか、あの二人が無事に戻ってきますよう)
神への祈り。
人に作られた世界に神はいるのか、それは誰にもわからない。
だが、数々の祈りが通じたのか、その日、誰一人欠けること無く70層は攻略された。
そして、再び閉じられた世界はその範囲の中で広がりを見せ始める事になる。
~ Babylon 現在到達層 70層 ~