閑話 時間は誰にも平等に流れ
水瀬奏音の休日は、一週間で溜まった洗濯をして、家の掃除をするところから始まる。
6畳と8畳の部屋に3畳の台所。バストイレ別、朝日が眩しい東向きの窓のついた二階建ての角部屋。
彼女の通う大学までは電車で二駅。兄の通う大学までは徒歩十分。
それが奏音の住む世界の中心だ。
奏音は昔から絵を書くことが好きだった。
それを一生の仕事にしようなどとは思ってはいないが、何か物を作るということに関わりたくて美大を受け、合格した。一年先に東京に出ていた兄と一緒なら、ということで実家からでも通えなくはなかったその大学から近い部屋に引っ越してから約二年半程が経っていた。
――――結果として、暮らし始めて半年ほどで一人暮らしになってしまったわけだが。
『奏音のお兄さん、すごい美形だね、紹介してよ』
その台詞を友人に言われたのは、一体どれほどの回数だろうか?
『……お兄さん、変わってるわね』
そして数日後、どこか同情のこもったような目でそう訂正されるのもどれだけ経験したことだろうか。
それもまた、既に奏音のなかではテンプレートと化した一連の流れだった。
祖父がイタリア人である奏音と兄は、いわゆるクオーターと呼ばれる部類になる。そんな中でも、日本人の血が大いに外に出た容姿平凡な奏音と違い、一つ上の兄は隔世遺伝とでも言うのだろうか、誰もが振り向くような綺麗な容姿をしていた。
変なテンションとこだわり、そして芝居がかった演出が好きで、同じ高校にいた頃によく聞いた言葉は――――
『黙っていれば最高級の男なのに……』
である。
頭も良く(奏音は努力して中の上から上の下をさまよっていたが)、運動神経も抜群にいい(奏音は努力して三年間バレー部の声出し要因だったが)、スタイルも顔もいいのに、女の人があまり寄り付かない、というか、寄ってこられては去って行かれる兄を表した、端的かつ絶妙な言葉。
『残念な美形』。
それが二年ほど前にこれまたテンプレのごとくゲームの世界に旅立っていき、そして帰ってこなかった兄の全てである。
ふと、クローゼットの近くにおいた家族の写真をみて、奏音は呟く。
「はぁ、もう私のほうが学年上になっちゃったよ、馬鹿兄貴」
――リン――リン――。
そんな呟きを吐いた奏音に答えるかのように音が部屋に鳴り響く。
洗濯物を干し終え、普段着から出掛ける用に着替えをしていた奏音は、携帯を取りに行く。
相手は、二年前、ある意味兄のお陰で出会った奏音の恋人だ。
今日は共にその場所へと赴くついでにデートをしようと約束していたのだった。
「遼? ――――そう、早いね、ちょっと待ってて、直ぐに降りるから」
同じ立場に陥った親しい人を持ち、そして奏音と年も近く話があった遼とは、出会ってから二ヶ月ほどで付き合い始め、今でも円満な関係を築いている。
二年前から今まで、兄が巻き込まれたことに驚き、呆れ、そして増えていく死者の数に焦りを覚え、そんな中でもあの兄は変わらないのではないかという考えに至った後、その焦りや心配は日常のものとなっていた。
「相変わらず10分前行動の人だなぁ……よし、完璧」
そう、眼鏡をかけた理知的で端正な顔立ちとそのままに、真面目な電話の相手を思って笑いながら姿見の前で身だしなみを整えた奏音は、くるりと背中を見せながら自身の姿を確認し玄関に向かう。
「さて、馬鹿な兄貴の顔でも見に行きますか」
ぐっと伸びをして、ブーツを取り出して履き、玄関のドアを開けて下で待っているだろう遼の元へと歩き始める。
その努めて明るくした声は、失う恐れを振り払えていたのかどうか。
時は西暦2029年12月、奏音の兄が仮想の現実に旅立ってから早二年と少しが経とうとしていた。
「――オッケー、待ってる――ううん、急がなくていいからね、はいはい」
都筑遼は、通話を終えてボタンを押してモニターを閉じた。
約束の、迎えに行くと言っていた時間まではまだ少しある。
おそらく彼女は今頃着替え終わって部屋の戸締りをしている頃だろう。
待たせるのが苦手な遼は、少し早めに来て一服しているのが常であった。
「……フゥ」
自身の車を脇に寄せて停車し、窓を開けてタバコに火を付けた遼は、繋がっている音楽を止め、ラジオのチャンネルを回した。
ノリの良いギターソロがやみ、静かにクリスマスソングが流れ始める。
昨晩から今日の時間を作るために仕上げていたレポートのせいで少し気怠いが、あの元気のいい奏音を前にすればそれも忘れられるだろう。彼女といる時間はとても楽しく、あまり感情の浮き沈みが無いと言われる自分も明るくなれる気がする。
(ふふ、真面目一辺倒だった僕がこんな事を考えていると知ったら、姉さんはどう思うかな)
ふと自分の恋人である奏音の兄とともに長い眠りについている姉のことを思う。
一言で言うならば、才色兼備。
弟である自分の目から見ても、そのスラっとしたスタイルに冷たい眼差しをもった美人といえる顔立ち、幼い頃から礼儀正しく、なんでもそつなくこなす姉はその言葉が似合うと思わざるを得なかった。
たまに家に遊びに来て姉を見た友人に、お姉さん美人だな、と言われても、紹介してくれ、とは一度も言われたことはない。
それもまた遼の姉を表すわかりやすい一例だろうか。
そんな姉がVRシステムを用いたオンラインゲームに興味を持ち、運よく当選したと言ってきたのは二年以上も前になる。その時はそれが最後に交わした言葉になろうとは思っていなかったが。
ログアウト不能。
デス・ゲーム。
それらの言葉を題材にした小説や映画を見たこともあれば読んだこともある遼にとっては、馴染みがありつつも現実味のない言葉。
それに現実的という言葉が似合い過ぎるほどに冷静な姉が巻き込まれたということは、それこそ現実は小説より奇なりを地で行く出来事であった。
死者数が伸びていく様子も、ニュースで流れる様々な情報も、何もかも非現実的な現実に起こった事実だ。
煙草を吸うと、火の色が大きくなりながら、口元へと辿り、その分灰の領域が大きくなる。大体半分まで吸って、備え付けの灰皿に捨てるところで彼女が降りてくる。
いつも時間ぴったしね、そう言って遼に対して笑いかける奏音こそが、いつも時間通りだと遼は思う。
「お待たせ、じゃあいこっか」
今日もまた、同じタイミングで奏音が助手席に慣れた仕草で乗り込んでくる。それに笑って頷き返し、遼はサイドブレーキを下ろして車を発進させた。
向かう先は『Babylon』ログイン施設。
二年前に15000人を受け入れ、そして返すことのなかった建物だ。
(また随分と厳しい車の隣が空いてるな)
いつも通り建物の裏手の駐車場へと車を進めた遼は、空いたスペースを探して見渡す中で、黒光りのロールスロイスの隣しか空いていないのを見て、静かにため息をついた。
「すごい車ね」
「全くね、間違ってもぶつけないようにしないと」
同じ事を思ったのだろう、奏音もまたそう呟くのに言葉を返しながら、その隣にしか開いていなかった駐車場へと遼は車を停める。隣がこすってはいけないと思う車の時は緊張するも、さすがに運転歴も三年になれば慣れたものだ。
「お疲れ様……じゃあいこっか」
「そうだね」
そう言って車を後にしようとした二人に、背後から低く野太い声が聞こえ、呼び止める。
「……お二人さん、これから中に入るのかい?」
声の主は、たった今ぶつけないようにといった車の中から出てきた、これまたその筋の人と思われる威圧感を備えた男だった。
その急に声をかけて来た男を見ながら、遼と奏音は警戒するように半歩後ずさる。
黒のスーツである、それはまだいい。
その中のカッターシャツを押し上げる見た目にも見事な筋肉。
綺麗に刈り揃えられた坊主頭に短く整えられた顎髭。
そしてその顔にはサングラスがかけられており、頬からこめかみにかけて、見事、と言いたくなるような刀傷が伸びている。
ここまで揃えば、遼が身構え、奏音がその後ろに隠れようとしたのも無理はないであろう。だが、それを見てその男は意外にも柔らかい微笑を浮かべて言った。
「……あぁ、いきなり声をかけてすまねぇな。今日一緒にいた子があまりにも普通に接してくれるもんで、ついな」
その敵意も害意もない、と表したげな声と笑みに、遼も警戒は解かないながらに身構えていた体の力を抜いて答える。
「いえ、こちらこそすいません。……それで、確かに僕たちはこの施設に用があるのですが、それが?」
「もしも、中で中学生位の女の子を見かけたら、玄馬が裏側の駐車場に車を止めたと言っていたと伝えてもらえるかい? 表で下ろしていたんだが、駐禁を取られそうだったんでね、中は携帯も使えない、弱ってた」
「……あの」
遼の疑問の声にそう答えてまたニヤッと笑う玄馬という男。
それに更に質問をするように奏音がおずおずと問いかける。
「どうしたね? あぁ、もしも見かけどおり怪しいと思うなら、これを持って行ってくれ、その子に見せればわかる」
そう奏音の様子に何かを納得するかのように、遼に向けて名刺を差し出す。
どうも自分の外見がどう見られるかはわかっているらしいし、それほど悪い人でも無さそうだ、そう感じて差し出されたそれを受け取った遼とそれを覗きこんだ奏音は見事に押し黙る。
『便利屋G&R 代表 玄馬一志』
「「………………」」
ここで遼と奏音の二人が怪しすぎるこの名刺に無言の意を連ねたこともまた、無理はないであろう。だがそれを気にする様子もなく、玄馬は続ける。
「見ての通り便利屋なんて稼業をやっている、ちょっとした荒事から、どうしようもない揉め事まで、なんでも相談にのるぜ? ……と、営業はいいや、まぁ俺はそういうもんだ、で、頼まれてくれるかい?」
そんな飄々とした、というかどこかとぼけたような玄馬に、最早、請け負ってるの結局荒事ばっかじゃないかとか、便利屋の営業しながら俺達に頼みごとかよ、とか色々な突っ込みが浮かんできたが、それより先に不思議と笑いが浮かんできて遼は奏音と顔を見合わせて笑う。
そして、怪訝な顔をする玄馬に奏音は口を開いた。
「あはは……なんかおかしい、さっきのは玄馬さんがどうこう、じゃなくて、中学生の女の子っていうだけじゃわからないかな、って思ったんですけど」
そんな奏音の言葉に、あぁそうか、すまないと頭を掻いて玄馬もまた笑って、そしてその件の少女について、頭を悩ませるように説明する。
「マヤ、っていう子で……そうだな、あんたらが見かけて、お嬢様だな、と思ったらおそらくそれが当たりだ……すまんが頼む」
(ふふ、結局良くわかんないんだけど)
(まぁ、それらしい子を見かけたら、呼び止めて伝言すればいいよ)
(そうね)
「わかりました、見かけたら声をかけておきます……ちなみに、玄馬さんもお知り合いが中に?」
玄馬の説明に小声で囁きあっていた二人であったが、気を取り直して遼が玄馬に答える。
犠牲者も出たことから少しずつ面会ができる範囲も広がりつつあるとはいえ、まだよほど近しいと証明されている人間以外は内部に入ることはできないでいた。
「……あぁ、俺の盃を交わした義弟が中にな、その女の子ってのはそいつの姪だ。全く、血よりも濃い盃の義兄弟だってのに、一向に俺には面会の許可がおりやしねぇ……あんたらもなんだろう?」
「えぇ、僕は姉が、彼女は兄が……いつか許可が下りるといいですね」
それは許可が下りにくいだろうな、と不謹慎ながらまたその玄馬のぼやくような言葉に笑みをこぼしつつ遼はそう言う。
「あぁ、ま、そう簡単にくたばるやつじゃないとは思っているがな……呼び止めちまって悪かったな、行ってくれ」
遼の言葉にそう言って、また車内へと戻っていく玄馬に会釈をして、遼は奏音と共に施設受付へと向かった。
「ふふ、何か見かけによらず面白い人だったね」
「そうだね、いろいろな人がいる」
受付でそれぞれ内部で眠る人間との関係を示す証明書を提出し、待っている間遼と奏音は先ほどの玄馬とのやり取りについて会話を交わしていた。すると二人を呼ぶ声が聞こえる。
「都筑さん、それに水瀬さん、お待たせしました。こちらの許可証を首からかけて、お入りください」
そう言った受付の女性に頭を下げ、遼と奏音は奥へと歩いていく。
そうしてプレイヤー達が眠る、空調の効いた部屋へと向かう途中であった。一人の少女が向かい側から歩いてくる。
「……ねえ遼君、あれ、玄馬さんの言っていた子じゃない?」
「そうかもしれないね、確かにお嬢様って感じだ」
二人はそう頷き合う。どうやらわからないと思っていた玄馬の説明は真実を表現したものであったらしい。
清楚、という言葉を形にすればこうなるのだろうか、といったような純白のワンピースに流れるような肩より下に届くかという長さの黒髪。
背筋は伸び、そのただ歩いているだけの一挙一動にどこか品がある。
確かにお嬢様だと思ったら当たり、という言葉のとおりだ。
「あの、もしかして、マヤちゃんかな?」
「……そうですが、あなた方は?」
奏音が名前を呼ぶと、こちらを見据えてどこか警戒するように観察してくる少女。急に見知らぬ男女に声をかけられたのだから当然だろう。それに手をひらひらと振って笑顔で奏音は続ける。
「さっき駐車場で玄馬さんっていう方に頼まれたの、裏手の方の駐車場に車を止めているから伝えて欲しいって、一応証拠としてこの名刺をもらったわ……ねぇ、遼君、さっきの名刺」
「うん、ちょっと待って……これ、どうぞ」
奏音の促すような声に、遼は財布を取り出して先ほど受け取った怪しさ満点な名刺を抜き出す。この怪しいアイテムが怪しくない証明なのも笑えるな、遼はそんなことを考えながら少女に差し出してみせた。
「あぁ、カズさんの、そうでしたか、わざわざ有り難うございます、私は月野麻耶と申します」
「あ、どうもご丁寧に、私は水瀬奏音、こっちの眼鏡のお兄さんは都筑遼よ、急に驚かせてごめんね」
「いえ、むしろカズさんにお願いされたなら、その台詞はこちらのものかと思われます」
その名刺を見て納得した様に首を振り挨拶した後、挨拶を返した奏音と紹介された遼に向けて、そうでしょう? と言いたげに首をかしげて笑う麻耶に、確かに、と納得して二人共笑う。
同時に、目の前の少女に対して好感も持った。
どうしてなかなか、良い感じの少女だ。
「お二人はこれから面会ですか? よろしければ、同じ境遇の者どうし、この後のお昼でもご一緒したいところですが……美味しいランチのお店を知っているのです」
そう思ったのは麻耶も同様だったのか、二人にとっても悪くない提案がもたらされる。
「あら、いいわね、遼君?」
「いいんじゃないか? 僕も君以外にこの中に知り合いがいる人はちゃんと話したことはないし、いい機会かもしれないね」
「では、私は待合室の方でお待ちしておりますので、後ほどに」
そう頷いた奏音と遼に、麻耶は告げて軽く会釈すると立ち去っていった。その仕草もまた、どこか洗練されたものを感じさせる。
「ほら、いつまでも他の子に見とれてると妬いちゃうわよ?」
「馬鹿……じゃあ後でね」
「うん、後で……お姉さんによろしくね」
そんなやり取りをしながら、二人もまた各々の家族の待つ部屋へと向かった。
去っていくものも訪れるものも、そして訪れることができないものも心中にあるものは変わらない。
その場所は仮想現実と現実の繋がる場所。
眠る彼等にとって、命懸けの仮想現実で時間が流れるように、現実でもまた、出会いは起こり、時間が流れ行く。
(どうか、僕(私)達の大事な人が、無事に目を覚ましますように)
それが、共通の願い。
その場所へと訪れる人々が願う、ただ一つの想い。
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