九話
そこは戦場の一角。
当初、中心点であるべきであった最奥部場所から外れた、しかしフィールドとしては中央に位置する場所で生じた死霊の王とその眷属の群れに囲まれながら、一人の剣士と一人の武僧は戦場を駆ける。
コーダは、ただ必死に剣を振るっていた。
想像以上の速さで再び湧きだしてきた死霊とともに、周囲は完全にその王の支配下にあった。逃げ場は既に無い。アイナ一人だけでも逃がそうと考えた末の問答の時間の影響は確かにあったものの、断られるまでもなく無理であったかもしれない。
死霊達が、しなるその楔の剣によってなぎ倒され、吹き飛ばされながらエフェクトの光となって散っていくも、倒したそれらはまた補充され、しばしの時間を稼ぐに過ぎなかった。
――だが、その間が二人を生かし続けている以上、手を休める訳にはいかない。あまりに分の悪いイタチごっこ、コーダはそれを理解しながらも愚直なまでにできることを行っていた。
しかしいずれ限界は訪れる。先程から、そんな眼前のコーダの反応が遅れてきているのにアイナは気づいている。
それでも、アイナにできることは補助魔術と回復魔術をかけ、時折コーダが撃ち漏らす数体を撃破すること。二人共前線に出たその瞬間に、バランスが崩れ、生と死の均衡が片方に振りきれてしまう。
自身の中の制御しきれない性質を抑えながら、アイナもまたできうることを行っていた。
(……すごいです)
正直このどうしようもない状況の中でアイナ目の前の剣士に対しては感嘆すら覚えていた。
アイナがコーダを認識したのはつい最近のことだ。
初期から、最前線にいたアイナが認識していなかった。つまり、それはコーダが決して最前線で戦ってきた歴戦の戦士ではないことを意味する。
長時間の戦闘は、体力よりも先に精神力が削られていく。レベルとしての問題ももちろんの事ながらあるが、どんなに能力が上がっても、MP(精神力)としてではない、心の力(精神力)が強くならなければ、命を落としていく。
少なからず、それで一人で飛び込み、機を誤り、エフェクトを散らすプレイヤーを見てきた。
前衛となるプレイヤーは、戦いの中でできる限り攻撃は避けるものの、時には食らわざるをえない場合もある。
躱し、いなし、防ぎながらもこの攻撃ならば喰らってもまだ大丈夫、そう判断し戦闘を行なっていく。
極論を言えば、HPが『101』の時に、『100』のダメージを負っても、死ぬことはないのだ。
しかしながら、画面の中のアバターとそのHPを冷静に見ながらプレイするわけでもなく、実際に攻撃と痛みを受けながら攻撃を喰らいつつ反撃をするということは、VRMMOでもありデス・ゲームと化してしまった現状では非常に難しいと言わざるをえない。
逃げず、突っ込まず、そして周囲のパーティを把握して信頼する。
ダメージを受けても、その瞬間の反撃によって間合いを作れば、仲間が回復してくれるはず。
飛び退いて間を詰められれば、その一瞬は稼げたとしても、その後後衛が戦闘に本格的に巻き込まれることによって回復が間に合わなくなってしまい全滅する可能性。
それを、瞬時に考え、そして考えている通りに行動するには、精神力と経験が必要となる。
また、後衛にとっては前衛の視点では見えない動きの指示、前衛の動きに合わせた買う服のタイミングと補助、そして一掃するための魔術の使い所が重要となる。
情報を与えられ、計算し答えを導き、出した答えをまた信頼する。一人の場合のみならず、他人もまた計算に入れてなおそれを行えることが、コーダの異常性。
そして現状、それが二人を生かしていた。
「……はぁっ、はぁ」
束の間、再び後方に佇む死霊の王がおのが眷属を呼び寄せるまでの僅かな時間。
荒い息を吐くコーダに、アイナが回復をかける。体力は回復するも、少しずつ削られた精神的な疲労までは消えない。
それでもコーダはあたかも全回復を果たしたかのように、笑ってみせた。その笑みが、アイナの心をざわめかせる。
「コーダ、さん」
「そんな顔せんでええよ、こいつらの相手も慣れてきたからな。ただな、正直な話、後そう長くは保たへん……でも、来てくれるんやろ? それやったら、もうちょいと頑張らなな」
「……はい」
アイナの声に、コーダはそう言ってまたも湧き出る死霊たちへ構えを取る。
表情は堅いが、それでも後方のアイナへの気遣いは忘れない。そこには、普段のアイナの機嫌にあたふたしながら、おどけてみせるコーダはいない。
ただ一人の、生命を懸けた戦場で希望を待ち、耐え続ける剣士の姿があった。
そうして、同様の鬩ぎ合いが続いた。それは時間にすれば数分に満たないが、二人にとっては限界へと刻々と近づく長き長き時。
またしても、一瞬の時間を稼ぎ切ったコーダが、ステップで下がる。
限界を迎えつつも、それでも守るアイナを背にして前を向く精神力は、驚嘆に値すると言っていいだろう。
ある意味、剣を振るい動き続けていること、それもまたコーダの気力を保たせる一因となっていた。
「コーダさん、直ぐに回復を」
「すまんな、頼むわ……にしてもそろそろ――」
何度目かの掛け合い、そして回復と共に、また次へと構える――――そのはずであった。
コーダ達は気づいてはいなかったが、湧き出る死霊たちを生み出す行為は、静かに王の生命をもまた、削り取ることに成功していた。
だが、その結果がまた、行動パターンの変化として現れる事が多々あるこの世界において、耐えているのみのつもりのそれが相手にも傷を負わせていたという事実は幸運だったのか、不運だったのだろうか。
空気が、変質した。
王が、唸りを上げる。
そして、死霊を支配する王を中心として広がったそれが、戦場を支配した。
闇。一寸先どころか、眼を閉じているのかすらもわからないほどの闇。
コーダとアイナの二人を含めた周囲を、漆黒の円丘が覆い潰した。
(…………っ!?)
その慣れた懐かしい感覚に、背筋が凍りつくような悪寒がアイナの身体を駆け巡る。
アイナの視界を闇が纏い、薄暗くも見えていた周囲も、照らしていた月の灯りも掻き消える。自らの手の先も視えず、眼を開けているはずなのに何かを見ているという気がしない。
「……っ!? なんやこれ」
コーダの叫びが聞こえた。慌てた様な素振りを示しながらも飄々としていた彼が上げる、初めての狼狽を含んだ声。
それほどまでに、人にとって『視えない』と言うことは大きい。
その声に、この状況が自分に起きたことだけではない、事実を認識したアイナは、安堵の息を吐きつつ静かに目を閉じる。
咄嗟に、まさかここでも、と言う思いから寒気が這い上がったものの、コーダの狼狽の声が、奇しくもアイナをその感情から救い上げてくれる。
むしろ今、戦闘中に『眼』を奪われるという絶体絶命の状況下でアイナは、少しだけこの感覚に懐かしさを覚えてすらいた。
視界を奪われた状況。
見ようとしても見えず、五感のうちの一つを失った世界。
足音の反響、世界に漂う様々な香り、人々の発する感情を帯びた気配、触感が伝える情報から、見えないものを想像し、創造し、行動する。
この世界に来てからは、新鮮な感覚を得る事によって使用することのなかったアイナの生まれながらの能力、欲するのではなく、必然的に得なければならなかったそれらが、ここにきて郷愁の感覚とともにアイナに舞い降りた。
それは、この世界に来て、『銀の騎士団』アイナとなる前の少女にとって、とても……とても慣れた状況であったから。
光のない世界。
少女はずっとその中で生きてきた。
眼という機能自体に異常は何も無いものの、生まれながらにして光を感じる力が無かった少女は、仮想現実という、光を求めて旅立ったこの世界で、生まれて初めて自身の境遇に感謝の念を抱く。
今この時、自分がこの場にいるという事。
そしてこの状況下でも、いつもであれば暴走しがちな自分が最も冷静になることができるということに。
だから、彼女は彼に近づき、声をかける。
まだ付き合いが浅いながらに我儘を聞き入れ、ここに連れてきてくれた、そして、そんな少女の願いを叶えようと、逃げろと、行けと言ってくれた相棒に。
「……大丈夫です、コーダさん」
「アイナちゃん……か?」
唐突に、背中に触れた手に一瞬取り乱す気配。だが、アイナの落ち着いた声に、コーダは問いかける。そんな彼に、アイナは言葉を続けた。
「私は、見えなくてもわかるんです……だから、信じてくれますか」
そう言い、落ち着かせるようにコーダの背中に身体を預ける。
他でもない人の温もりこそが、閉ざされた光の中で、唯一人に落ち着きをもたらすと、そう知っていたから。かつて、アイナの周囲の人がそう導いてくれていたように、これまで守り続けてくれていた目の前の剣士に伝えるために。
「大丈夫です、私が、コーダさんの目になります」
アイナは告げる。
そして、聴覚を、嗅覚を、説明の出来ない第六感とでも言うべき全てを総動員して空気の流れを、消すことのできないモノの気配を辿っていく。
死霊の王。
闇を統べるもの。
それが、怯えて動けないはずの獲物に近づいてくるのを感じる。視界を失ったからこそ、感じる。人の身でないはずの敵から、嘲りとも、傲慢とも呼べる淀んだ流れが発されていることを。
自身の領域に踏み込んだ愚か者の生命を刈り取るべく行動するその心を。
馬鹿にするな、アイナはそう思う。
どれだけの時を、この暗闇で過ごしてきたと思っている。
どれほどの時を、光に憧れながら過ごしてきたと思っている。
どれだけの諦観と希望のもとこの世界にきて、そしてどれ程の喜びと哀しみを持って、生きてきたと思っている。
「……任せたで」
そんな中、コーダのその声は、直接アイナの身体に伝わってくる鼓動とともに、迷いなく響いた。それに、アイナは震える。
信頼に応えたい。
信じ、信じられ、守り、守られるということ。
それは、何より勝る快感。
(……不思議なもんやな)
コーダはそう内心で呟いた。
未だに視界は閉ざされている。不安は、消えたわけではない。
だが、背中から伝わってくるその温もりが、感覚が、コーダに安心をもたらしてくれている。肩ほどしか無い、小さな、守るべき対象であった少女に、勇気づけられている。
一人では、おそらくコーダはこんな状況下、直ぐに逃げ出していたことだろう。
だが一人では、きっとコーダはこんな感覚を味わうことなど無かった。
少しだけ、わかった気がする。
何故、フェイルを始めとする者たちがあんなにも戦いに身を投じていられるのか。
アイナの指示が伝わる。コーダはほぼその指示のタイミング通りに、得物を振るった。不思議と迷いはない。
預けているその信頼がコーダの身体を動かし、そして剣先がコーダへと結果を伝えてくれる。
剣戟が、その闇を織り成していたモノを切り裂いた。
「…………!?」
動揺など覚えないはずのそれの動きが、あたかも驚愕したかのように鈍る。そして――闇に閉ざされていた世界に、月の光が差し込んでいく。
「……やったか?」
そう呟いたコーダの声、恐る恐るアイナは目を見開いた。
しかし、それに言葉を返そうとする間もなく、アイナの身に悪寒が走る。思考がその悪寒の答えを出すその前に、アイナはコーダに抱きかかえられた。
抱え込まれた感触と、続いて襲い来る衝撃。
「ガ……ァ……!?」
「きゃ……っ!?」
次にアイナに生じたのは、衝撃の後の浮遊感。そして、受け身の暇すらなく二人共に地面へとたたきつけられる。息が、詰まる。
「……くそったれ、油断した」
そう言いつつ、アイナから腕を解き、立ち上がろうとしたコーダの顔色が変わった。手が、動かない。手だけではなかった、体中の全てが、長時間正座をしていた時の足のように感覚を伝えることができないでいる。
アイナもまた、同様に固まり反応を示さない自身の身体に身を強張らせた。
「コーダ……さん、これ?」
「麻痺、か」
その、紡ぎだした言葉に、どうしようもない絶望が滲んでいた。
動きを止めなかったからこそ拾えていた生命、可能性。
それが、閉ざされたことをアイナは悟る。気配を感じる。先程までの傲慢に、苛立ちを交えたその暗き気配を。
コーダもまた、近づいてくるそれに、僅かながらにアイナを抱きしめた手に力を込めた、少しでも守るために。アイナもまた、自身の中で回復のための詠唱を紡ぐ。それでも麻痺した状態の中での詠唱は、普段の何倍もの時間がかかる事は揺るがしようのない事実だった。
(……神様)
アイナはそのコーダの無念さ、悔しさ、全てを感じながら、祈る。
信じていたこともない神様に。
願うことの虚しさをこの二年間感じ続けながらも、それでも。
努力が全て報われるとは限らない。
また、祈りが通じるかどうか等。
だが、この時、二人の生き延びようという意志と努力、そして願いは、少女が放った笛の音は、彼に届いた。
「……ガ……ァ……!?」
地面に伏したまま、背後における様子の変化に、コーダは痺れている首を僅かに向ける。その目が、驚愕に見開かれ、次の瞬間、頭の中に降り立ったそれに、口元が緩む。
絶体絶命のピンチに現れる仲間。
まだ出会ったことは無かったその仲間ではあるが、コーダは眼前に現れたその黒き虎に、苦笑せざるを得ない。
「どっかで、この状況まで出待ちしとったんちゃうやろな? タイミング、良すぎるやろうが」
「…………クロ……ちゃん?」
「グルル……グル!」
コーダの、この状況であるのに何処か気の抜けたような言葉と、目の前の出来事を信じていいのか、それを確かめるようなアイナの問いに、現れた獣、クロは唸りで返した。
喚び出されし死霊の王。
それから彼等を救ったのは、黒き獣。死神とともにあり、かつて歌姫に愛でられた影を操りし虎は、いつかの誓いをもってその牙をむく。
その、人外の争いは、そう時間はかからなかった。
傷ついていた死霊の王と、人とともに戦いに慣れた黒影虎。影より背後を取り飛び上がった虎の牙が、死霊の最後に残ったゲージを刈り取っていく。
死の王を冠するその身体から、黒き光が漏れていた。
そして、それが弾けた後には、先程まで死霊の群れで埋め尽くされていたとは信じられないほどに静かな、遺跡の点在する荒野が広がっていた。
「終わり、なんか?」
「……そうみたいです」
クロの戦闘の間に麻痺を解き、立ち上がりそう言いながらまたふらっと地に倒れ込もうとするアイナを、コーダは慌てて腕を回して抱きとめる。
鼻先に掠める甘い香りと、先程までの戦闘中には感じる余裕がなかった柔らかな肢体に、咄嗟に手を離しそうになりながらもほっと息をついたコーダは、隣で佇む、そんなコーダを見て少し呆れた様子を見せている――ように感じる――黒影虎、クロに目を向けた。
「……ありがとうな、俺が言うことちゃうんかもしれんけど、助かった、礼を言うわ」
それに対して、クロは笑ったようにコーダには見えた。コーダにとって、モンスターとして以外の捕獲されたものを見るのは初めてである。
アイナから話を聞いてはいたが、コーダはクロが醸しだす人間臭さに驚く。そうしているうちに、クロが近づいてくる。
「……グルル」
大きな獣が、少女を安心させるように鳴く。
アイナもまた、コーダの手から離れ、その月の光に輝く毛並みへと、顔を押し付けた。
「……クロちゃん、ありがとう。ありがとう。元気でよかった」
助けられたお礼を言いつつも、その見を心配するようにアイナが言葉を紡ぐ。少女など一飲みにできるのではないかというその巨躯をゆっくりと少女に摺り寄せ、クロもまた唸りを上げた。
少しの時間をそうしていた後、クロが首を上げ、遠くを見つめる。続けて低く屈み、何かを促すように鳴いた。
「……乗れ、って事か?」
「行きましょう、コーダさん」
その姿に、コーダが確認するように告げると、アイナはコーダを振り向きそう言った。クロもまた、それに頷くように再度唸りを上げる。
黒影虎が、月明かりの下、二人を乗せたまま疾走する。
そして黒き虎に乗り、立ち入ったその場所は、コーダがこれまでに見たどんなものよりも美しく、そして悍ましい、そんな戦場だった。




