三話
月の光が原野を冷たく照らしている。不思議なもので、現実には見たことをない風景をみて、まるで現実のようだと感じている自分がいる。
静かだった。これから、二年近くもかけた目的を果たそうという時に、心も体も、とても静かだった。
その情報を仕入れることができたのは、本当にただの偶然に過ぎなかった。
そしてようやく辿りつけたその日に、ほとんど見ることもない彼女の夢を見たのも、何かの暗示なのか。
人は、都合よく見たい夢を選ぶことはできない。
彼女が、夢の中で俺の前に姿を表すことは、数えるほどに少なかった。
人の心は、どれだけの期間、共にいた人を覚えていられるのだろうか?
俺を呼ぶ声、目覚めた時の温もり、優しい香り。
もう、思い出すこの感覚が正しかったのか、それさえもわからない。
それでも、必死になって思い出を再生する。いつか、それがすり切れてしまうのを恐れながら、それでもただ必死で。
その努力が報われなくなったとき、最後に残るのは、その香りか、声か、それとも姿だろうか。
だが、そんな日々も、もう終わりを告げる。
静かに、時を待ちながら、俺は思いを巡らせていた。
◇◆
夜の闇の中で、戦気とでも呼ぶのだろうか、戦いに呼応するかのように揺れ動く空気の流れがさざめいていた。
それを放っているのは三人。
どこかで狩りを終えてきた直後なのだろう。まだ全身に闘気が漂っている。
――こんなものを感じ取れるようになったのも、この二年間の生活によるものだ。
嫌な予感や気配。
現実世界では信じることがあまりなかった、そういった形のないものが、この世界ではどれだけ自身を助けてくれたことか。
ここは『Babylon』における中層区の中で、最も人気の薄い区域。
『死霊の荒野』
そのフィールドは、そう呼ばれていた。
俺の知る限りでは、得られる経験値が特段高いわけでもなく、かと言ってレアなアイテムをドロップするわけでもなく。遺跡が点在しているほかは特に見るべきところもない場所。
どちらかと言うと、資料を取り揃えたのに使わなかったもの達を、空いたリソースで揃えた、幾分趣味の入った人間により作成されたフィールドだ。
その名前に違わず、湧出する死霊系モンスターの気味悪さからも、わざわざここに訪れるプレイヤーは少ない。
その日、俺がその場所を訪れたのは、ボロボロになったある中堅プレイヤーが死に際に託した言葉によるものだった。
…………会うはずだったうちのもう一人は、既に俺が到着した時には、光を散らし、残っている男も、少しずつ光に包まれ始めていた。
彼等は『中間の住人』という、小さな探索ギルドに所属し、街で暮らすプレイヤーのために、様々な素材を採取し、錬金術師や料理人、鍛冶屋へと卸すことを生業にしている、脱出するためではなく、生存するために行動している、大事なプレイヤー達。
――そして、もう一つ、俺がソロで活動する上で、様々なアイテムについて融通を図ってくれていた人々だった。
彼等の名は、最後に情報を伝えてくれたのがエクシズ、そして、先に逝ってしまったもう一人の男を、セイムという。
『これは、あくまで俺達の意地で、自己満足の罪滅ぼしなんだよ』
ソロとしてPKプレイヤーを追っていた俺に協力を申し出た彼等は、「何故?」、そんな俺の疑問にそう答え、訳がわからないながらも、その時の彼等の表情に圧されるように情報や素材の交換などをするようになって一年になるだろうか。
「なぁ、トールさんよ。すまなかったな、あんたのその役目は、本当は俺達のものだったかもしれないのに……あの時、俺達が……」
俺に、自分たちを害したPK達が消え去った方角を告げた後、エクシズはそう言いながら俺の手を掴んで、そして消え去った。
本来であれば、俺が到達する前に彼は死に、俺に情報を流すこともなかったのだろうが、その場に命をつなぎとめていたのは、執念か。
何が彼をそこまで駆り立てていたのかも、最後の言葉が何に対する懺悔であったのかも、俺にはわからない。
人の命を散らすエフェクトはもう何度も見た。
――――だが、何時まで経っても、人は人の死には慣れない。きっとこれは、俺の性なのだろう。
だからこそ、自分の目的と、請け負った分の思いをのせて、俺はここに来た。
探し求める人間への手がかりを求めるために、また、友人達の敵を取るために。
そして今、隠蔽のスキルが圧倒的に高い俺とクロの存在には気づかず、その三人は通りすぎようとしていた。
俺とクロの属性は共に『影』。
最も隠蔽スキルに長けている属性だ。
まだこの時、PKプレイヤーだと気づいてはいても、その事実に俺は最初気づいてはいなかった。
――が、クロがその顎で俺の裾を引っ張り、そして何事かと問いかけた俺に対し、首振りで意思を伝えてくる。
(二番目の男?)
怪訝に思いながらも、そのクロの喚起は俺の脳裏の記憶とその男の容姿が一致する事を呼び覚ます。何故、クロが少し興奮状態を示しているのかも、理解した。
(……! 見つけた)
そして、気づいた事を知らせ、気づかせてくれたことの感謝を込めて、俺はクロの頭をなで、頷く。
クロは、誇らしげに無言で喉を震わせ、影に溶けるように消える。合わせるように、俺もまた行動を開始し、三人の前に音もなく姿を晒した。
「……久しぶりだな、会いたかったよ」
そうして、静かに言葉を投げかけた時には、俺の手から放たれた黒き短剣――いや、苦無と呼んだほうがわかりやすいだろうか――によって一人の影は縫い付けられている。
双剣技『影縫』。
物語の中にはよくある、影を縫いつけ行動を縛る技。有名な技だけあって非常に使い勝手もよく、相手より器用(DEX)と腕力(STR)が高ければ効果も高いこの技は、俺の十八番の様になっている。
「……てめぇは!? 何故こんなところまで……チッ、ガイル! 時間を稼ぐ、転移を――」
最初は気づかなかったようだが、黒のコートに身を包んだ双剣士、それで正体がわからないほどには馬鹿ではなかったようだ。
腰の剣――いや、刀か――を抜きざまに構え、背後に声をかけたその男は、答えの代わりに返ってきたうめき声に、狼狽の声を上げる。
「…………なっ!?」
振り向いた男の視線の先で、影の中に半身を引きずり込まれ、そして投げ出されたローブの男が、白目をむいて倒れ伏していた。その後に、静かに姿を表すのは、成長した黒影虎、クロだ。
俺が姿を表した時には、既に背後で退路を立っていた俺の相棒は、堂々とした風情でその巨躯を示す。口の周りを舌でなめ、前足を低く唸るように威嚇する様は、もうあの猫のようであった頃の面影はない。
「くそがっ」
そう吐き捨てるとともに、自棄になったかのように俺の元へと突っ込んでくる男。刀を両手で握り、低い体勢で向かってくる速度はなかなかのものだ。
初撃、袈裟斬り。
スピードに自信があるのだろう、迷いのない踏み込みと共にはじき出されたその一撃を、しかし俺はわずかに身をそらして避けた。
「まだまだ!」
一撃を躱された男はそれでも勢いの良い言葉とともに、手首を返した返しの一刀から始まる連撃をくりだす。
「畜生が! 何で当たらねぇ!」
しかし、俺はただほとんど動くことなくかわし続けた。
そんな俺に、男が焦りを混じらせた言葉とともに、上体を反らしてその刀を振り下ろす。本来なら連撃を加えた後にとどめを刺すための、溜めを込めた一撃、だが――――
(……遅い)
振り下ろしの一瞬で、その横に回りこむ俺に驚愕の表情を向けながらも、その刀は空を切った。
「……ッ!」
そのまま、技の直後の硬直によってがら空きとなった男の脇に、俺は短剣の柄を打ち込む。
続いて、苦悶の表情を浮かべながら下がった顎にも、一撃を加えていく。
そうして、姿を晒して数分も経たない間に三人共に無力化した俺は、クロの影に囚われた三人を見ながら、淡々と告げた。
「半年ぶりだな、確か、ソイ、と言ったか? あいつの居場所の情報を教えてもらおうか」
半年前の『虚無の楽園』の隠れ家で逃した家の一人、ソイと呼ばれていたその男は、身動きの取れないまま半眼でこちらを睨みつけて、しかし、その言葉に小さく嗤った。
どこか疲れたような、そんな嗤いだ。
こんな笑みを浮かべてまで付き従うほどに、ニルは影響力のある男なのか。
「……殺せよ」
そして、そう呟く。
他の二人の反応は、まだわからない。それを見て、俺は言葉を紡ぐ。
「……殺せ、か。敢えて『牢獄』に送るほうがいいのかな?」
その俺の言葉に、怪訝な顔をする三人。だがしかし、続く俺の口から発せられた言葉に、息を呑んだ。
「犯罪者プレイヤーのあんた達に一つ聞きたいんだが……なぁ、あんたら現実に家族がいないのか? 友人は、いないのか? …………どんな気持ちだろうな、生きて帰ってくるって信じている人間が、帰ってきた人間が進んで人殺しをしていましたって理解るのはさ――――ん? 少し顔色が変わったな」
たとえ自棄になっていても、現実への思いが残っている。いや、目を閉じ、考えないようにしていたと言うべきか。それを、俺はゆっくりと思い出させる。
三人とも、誰かを思い浮かべてしまったのか、反応を示した。それだけで、何も言わなくても十分だった。
だからこそ、現実を俺は突きつける。
「……あんたらは知らないかもしれないが、フェイルは、あいつはクリアするよ」
そうして、確信を持って続けられた俺の言葉に、今度ははっきりと動揺を見せる。『大半の犯罪者の心理は、想像力の欠如から生まれる』、そう言ったのは、誰であったか。
彼等の一人が、その居場所を漏らすまで、死を乞うまで、そう時間はかからなかった。
それに、俺は笑って答えた。
「御苦労さん…………これから先、死ぬことも許されず、皆がクリアの歓喜を迎える時を、その頭上に輝く赤きマーカーの示す絶望とともに迎えるがいいさ」
そして、俺が彼等をきっちりと『牢獄』に送った時の表情が如何なるものであったかは、ここには記さないでおく。
◇◆
(来るのだろうか?)
俺は、そんな自問を繰り返す。
この先にいるのは、全盛期に比べたら少ない人数のPK達だ。影に潜んだクロが、既に確認している。
後は、その時を待つだけ。
ネイルが、うまくやってくれるはずだ。
自問をしながら、不思議と疑いはなかった。
そして、そんな俺の心境を裏付けるように、知った反応が俺に届く。そして、その声も。
「…………相変わらず早いな。少し、待たせたかい?」
夜の闇の中でも、月は光と影を作り出す。
その銀の髪と鎧に身を包んだ青年は、当たり前のようにそこにいた。月の光が彼の姿を照らし出している。
「……いや、俺が早すぎただけさ、今度の空は、青空でなく、夜空だけどな」
「……知らせてくれたことに、感謝している」
「礼は言うなと言っていただろう? と続けなければ駄目か?」
いつかの一場面を思い出し、俺がそう言うと、フェイルは苦笑するように笑った。
遠方で、複数の反応が混ざり合うのを感じる。
ネイル達の作戦が始まったのだろう。
「……行こうか」
これから行うことは、これまで行なってきたことは、どう言い繕っても正しいことではないとはわかっている。
だが、俺にとって為すべきことで、そして久しぶりに隣にいるフェイルにとっても、何かのけじめの一つなのだろう。音もなく、姿を現したクロにとっても、そうなのかもしれない。
あの日、落としていたかもしれない命と、失われたもの。
時間だけでは、けじめのつかないものもある。
虚無の終わりを告げるための夜が、始まろうとしていた。