閑話 黒影虎の夢 ~小さき村の教会にて~
月が、出ていた。
夜闇を照らす、陰の灯り。
それが仄かに、石畳に覆われた古びた壁を照らしている。
そこは小さな、街とも呼べない『Babylon』北部地域に点在する村の一つだった。
村の中央には、小さな村にふさわしいこれまた小さな教会がある。
その入り口に、一体の獣が横たわっていた。
静かに眠っているように見えて、時折耳がぴくりと動き、鼻がひくつく。
おそらく、立ち上がれば人の腰ほどの高さになるであろうか。
その流れるような毛並みは、陽光のもとでは流麗に輝き、月夜のもとでは、幻想的に映えた。そんな彼の守る入り口の奥には、戦友でもあり、その主である黒き衣を纏った双剣士がしばしの眠りについている。
彼もまた、来るべき戦闘に備えるべく、その身を休ませ、人の言葉で言う微睡みに身を任せていた。
創りだされたものであるA・Iも夢をみるのか、という問いに答えることはできない。
だが、眠りにつくことはある。
その結果、過去に保存された事象が途切れ途切れに再生されることが、『夢』と呼ばれるものであるならば、これはそんなとあるA・Iの夢の一幕の話。
まだ、彼が幼き頃の一幕が、脳裏に浮かんでは消えていく。
◇◆◇◆◇◆◇◆
光が部屋に差し込み始めていた。
暗がりの中にあった部屋の内観が照らしだされ、朝の訪れを告げる陽の光による温もりを感じる。
彼は、静かに光に薄く伸びた影の中から顔を出し、柔らかなベットの上で伸びをした。
しなやかな動作で、首を伸ばし、主人のあるべき場所を見ると、その姿が見えない。
それもそのはず、彼女は頭からシーツをかぶり心地良い眠りの中にあった。だが、よくよく見ればそのシーツは頭から腰までを覆っているのみで、逆側では長い足が惜しげも無く晒されている。
行動を共にする、黒服に身を包んだ青年などが見れば、理性をなくすか、後退りして見なかったことにするような光景。
しかし、子供とはいえ誇りある黒影虎の端くれたる彼には、そのような感情はない。
(…………仕方がないなぁ)
そんな声が漏れてきそうな仕草で、彼はシーツを口でくわえて引っ張った。
彼女がうまい具合に自分に絡みつけているので、シーツを元のように全身にかぶせるのも一苦労だ。
そして、朝の日課を終えた彼は、もう一方のベッドで気持ちよさそうに眠る、良い匂いがして柔らかい少女の元へと歩み寄る。
こちらは、行儀よく彼がその意識を閉ざした時に記憶した体勢のまま、すやすやと微睡みの中を漂っていた。
「んぅ……――、ちゃん? …………おはよう」
頬を撫でる感触に気がついたのか、少女が目をうっすらと開き、たどたどしい声を上げる。彼はその鈍色の髪に鼻先をくっつけながら、甘えるように鳴いた。
「キュル」
「……ふふ、おいで」
そして、暖かく、穏やかな少女の誘いのままに、腕の中で彼は丸くなる。
◇◆◇◆◇◆◇◆
《穏やかな時間が、ゆっくりと流れていた》
◇◆◇◆◇◆◇◆
「ちょっと待っててね、クロちゃん」
目の前に湯気を立てた白身魚が置かれている。
それを、少女の腕の中に抱かれながら、クロは興味深そうに見つめていた。そんなクロを愛おしげに撫でながら、少女は湯気に息を吹きかけ冷まそうとしている。
姿形はそうであるとはいえ、熱を感じるものはあれど問題ないはずだが、何故かクロは少女の気が済み適温となって差し出されるまで、身動きすることなく待っていた。
「……トール、クロはやっぱり猫舌なのかい?」
「技術というものは、本当にすごいものですね…………どうしました? トールさん?」
「聞かないでくれ…………俺も本当にこれを設計したのが自分なのかを悩んでいるところだ」
山吹色のローブを羽織り、椅子に座って楽しげな口調で尋ねるネイルの言葉に、完全に黒猫にしか見えない事に戸惑うように答えるのはトールだ。
そしてそのトールの様子に、肩をすくめるローザ。
当のクロは、そんな会話がなされていることも気に留めず、満足したアイナが床においた皿に、黙々と手をつけ始める。
「……美味しい?」
「キュ」
問いかけに、短く鳴き声を上げ、与えられたものを平らげていく。
そしてその様子を、いつまでも飽きない様子で眺めるアイナ。
「……きっと、悪いことではありませんよ」
「そうだな」
そんな彼女らを、眩しいものでも見るかのように、彼等は見ていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
《泡のように浮かんでは消える、取り留めもない時間》
◇◆◇◆◇◆◇◆
始まりの街『バベル』を縦断する大通りにて、一人と一匹は所在無さげに佇んでいた。
街を行き交うものの中には、クロを珍しげに眺め、そしてその隣にしゃがみこんでいるトールに目を向け、そして更に奥にいるものの様子に微笑んで、立ち去っていく人もいる。
「……疲れたな」
「……グル」
クロは、地面にしゃがみ込んだ体勢のまま、ふと呟いたトールに、同意の意味を込めるかのごとく、ため息を付いた。
先程から、どれだけの時間こうしているだろうか。
夕暮れが、一日の終わりを告げようとしていた。
クロとトールが今ここで所在なさげにしている理由を作っている二人は、NPCとの素材交換の交渉に必死になっている………………あぁ、どうやら今打ち負けたようだ。
「うぅ、駄目でした」
「…………駄目」
そして、しょんぼり、というオーラを漂わせながら二人してとぼとぼと歩いてくる。
――――が、しかし
「でも、次の店では、負けません!」
「…………頑張る」
トゥレーネの言葉に、意志を込めた瞳をもって、深く頷くアイナ。
「………………なぁ、クロ」
「グルル……」
「…………だよなぁ、先に帰るか」
「グル?」
「やっぱ駄目だよな…………はぁ」
彼等は、諦めたような表情と、苦笑の色を貼り付け、そろって肩を落とす。
◇◆◇◆◇◆◇◆
《彼等の日常は、そこにあった》
◇◆◇◆◇◆◇◆
黒衣が、遠ざかっていく。
その背中は、振り向くことはない。
「クロちゃん……トールさんを、お願い。クロちゃんも、また、一緒に御飯、食べようね」
「…………」
「私も、私も頑張るから……だから」
「グル」
一声だけ鳴いて、クロはアイナの頬を舐めた。
小柄なアイナの頬には、首を伸ばすと届くようになっている。
舌先に、塩辛い雫が溢れた。
「…………キュル?」
「うん、大丈夫。……大丈夫だから」
声色に反応し、アイナが無理に笑顔を作る。
それは、親愛の表現。
別離の悲しみ。――――祈りの情緒。
そして、クロは、すっとアイナから離れ、主の後を追おうとする。
「……ちょっと待ち、クロ」
そんな彼を、彼と少女の天敵であった女性が、静かに呼び止める。
そして、何だ? とでも言いたげに振り向いたクロの耳筋を撫で、そして小さな十字架を見せた。
「あんたが、そんなふうに見えても実はA・Iなんはわかっとる。…………でもな、あんたがトゥレーネの事を悲しんで、トールのことを心配して、そして、アイナのことが大好きなんやと、あんたがそう思ってるんやとうちは信じたい。だから、これを渡すわ。……アイナには、これや。ええか? これは、一回だけしか使われへん。でもな、一回だけは、アイナがあんたに助けを求めたい時、その手助けをしてくれるやろう。…………なぁクロ、その時、あんたに応える心があるんやったら、その笛に耳を澄ませてやって」
彼女はそう言って、クロが無言で動かずにいるのを同意と受け取ったのか、そっと耳にその手の中の十字架を寄り添えた。
それは、静かに表面に同化し、見えなくなる。
「グル、グルル」
クロは、短く二回唸り、そして足に力を込め、相棒の元へと駆けていく。
その唸りは、確かな約束。
◇◆◇◆◇◆◇◆
『それは、遠く遥かな昔に交わされた誓い』
◇◆◇◆◇◆◇◆
それらが、何層にも定められた記憶容量の中で、大切に守られて保存されているのは、捕獲モンスターのA・Iにも影響を与え、始まりをもたらしたこの世界の主によるものなのか、それとも独立した機構としての黒影虎――クロの意志によるものなのかは、誰にも語ることができない。
朝の光が、クロのもとに降り注いでいた。
背後から、感じ慣れた気配に振り向いたクロは、彼の毛並みと同様の黒色に身を包んだ主を見る。
そんな彼に、トールは呟き、微笑んだ。
「……昨日、昔の夢を見たよ、クロ」
「…………」
「とても遠くに感じる、あの日々の夢を」
「…………グル」
「…………さて、行こうか、今度こそ、俺達自身のけじめを付けるために。頼りにしてるぜ、相棒?」
「グル!」
彼等は、歩き出す。
一人は、想いを背負い、一匹は、誇りを胸に。
~ 『Babylon』開始 730日目 名も無き村の教会にて ~