九話
薄い暗がりの中が、落ち着く。忌まわしく暗かった『牢獄』から脱出してから、しばしの日数が経過していたが、もとより夜型であった自分にとっては、光の中よりもこの方がいい。
そんな事を感じながら、シェイドは、昨日から潜伏していた小さな休憩用の村の近くにある、フィールド上のとある森の中にいた。
二日前までいた場所に比べれば、ここのモンスターは大したことはなく、戦うつもりがなければ散歩にはちょうどいいのだった。
足元で、ポキリ、と枝が折れる音がする。
シェイドは今でも、ここが現実ではなくゲームの中であるということが信じられないでいた。ここは、二ヶ月ほど前までいた現実とされているものよりも余程『現実』らしい。
あの頃は、ただつまらなかった。
何かに熱中するということも特に無かった。
惰性、という言葉を全身で感じながら、ただ在るだけ、流れのままに日々を過ごす生活。
そんなある日、兄がPCの画面を見ながら『当選した』と静かに、しかし興奮したように呟いた。二人で興味を持っていたVR技術を用いたMMORPGのキャンペーンの話だった。そして、一体どのような手を用いたのか、自分の分まで持ってきてくれたのには本当に驚いたものだ。
ログインした後、あのアルとかいうAIの声がこの世界に響いた時、シェイドは未だ実感が持てずにいただけであったが、兄は違った。
小さく哂ったのだ。
――――とても、とても嬉しそうに、そして、この上なく面白いものを見つけた子供のように。
兄は、昔から優秀だった。
人当たりも良く、有名な大学にもストレートで合格したことで、近所の評判も良かったので、成績も悪くないながら兄と比べれば平凡、友人も多くなかったようなシェイドは、よく兄を見習えと言われていたものだ。
しかし、シェイドはそんな兄との仲は悪くなかった。むしろ、心酔していたといっていい。
兄が自分と同じ……いや、むしろ比べ物にならないほどに、全てをつまらないと感じていることも、時折凍りつくような冷たい目をすることも、知っていたからである。
それはどこかおぞましいもの、そして、そうであると分かった上で魅入らずにいられないナニカ。
そしてシェイドは、この世界に閉じ込められたことで、兄の中でその頃に感じたものが成長し、今もふくれあがっているように感じている。
それを他のプレイヤー達も感じたのだろうか。
あの日、街を脱出した後、犯罪者とされた者達は思いもよらぬ統率がとれた行動をしていた。知らぬものが見れば、規律正しい集団に見えるはずだ。
――頭上に、赤いマーカーが存在を示してさえしていなければ。
兄の指示で、同様にただ現実に帰りたいわけではないもの、境界線上にいるものを試している途中で捕らえられたのは誤算ではあったが、結果としては良かったのかもしれない。開放された時、あの場にいて、そして選別に残ったプレイヤーの全員が兄に服従したのだから。
現在シェイド達は、今はまだ姿を隠し、点在する小さな村を移りながら、レベルを上げ続けていた。
シェイドは、そんな風にこの集団を恐怖という力で纏め上げた兄を魔物だ、と思う。
正直なところ、モンスターなどよりよほど恐ろしいとも。
『畏怖』という言葉が思い浮かぶ。日常では使うことのなかった言葉が、この世界では色々と腑に落ちることもあるのが、シェイドには皮肉に感じられた。これは、兄に従っている他の人間にとってもそうなのかもしれない。
少なくとも、シェイドが命がかかっているにもかかわらず、ひたすらにモンスターを狩り、レベルを上げているのはそのためだ。捕らえられている間、全くレベル上げを行なっていなかったため、当たり前ではあるのだが、脱出したものの自分たちにはまだ戦える状態ではなかった。
おそらく、兄が様々な準備を行なっていなければ、すぐに捕まってしまっていただろうとシェイドは考えている。
兄は別段、特別に力が強いわけでもない。外見も凡庸にも見える。そこまで口数が多いというわけでもない。
ただ、時々呟く言葉が、響き、染みこむ。
そして、何故か離れられなくなるのだ。
この兄は、昔から人の心の中にある襞のようなものに入り込むのがうまかった。
そして、その結果としてなのか、不思議と呟くだけで意に沿って行動する人間たちが増えていく。
その代表でもある自分は、もしかしたら生まれた時から囚われているのかもしれない、とシェイドはそう思った。
明日から、少し行動を変えるらしいと聞いている。前線で綺麗事を並べ立てている、銀の騎士団とかいうギルドの人間に、この世界の現実を知らしめるとも、兄は呟いた。
自分を捕らえたのも、そのギルドに関わりのある人間だとも後から説明された。
あの、必死な目をした黒髪の盗賊を思い出し、イラつきがシェイドの心を支配する。そして、兄と共に真理というやつを魅せつけてやるのだ、とも思う。
もう、戻れない。
いや、兄と共にここに在れば、あのつまらない現実に戻りたいとも思わない。
そんな事を暗がりを歩きながら考えつつも、シェイドは自分の瞳はかつてのうつろな色から昏い輝きへと変わっているのには気づいてはいなかった。
ただ、かつては得られなかった充足感だけが、内にあった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
途切れ途切れの眠りだった。その間に、様々な人間が、様々な場面で現れる。ふと目を覚ます度に、どちらが夢なのか現なのかわからなくなったりもする。
(…………ん)
トゥレーネは、ふと寝返りを打った拍子に微睡みから意識を戻した。口の中の違和感から髪を噛んでいるのを感じ、目を開ける。
少し、体の芯が冷たい感覚があった。現実であれば、冷や汗をかいていたかもしれない。特に心配事があるわけでもないが、時々トゥレーネは起きたときにそういう事があった。
そんな時、右側の手のひらに温もりを感じる。
クロの毛並みだ、人の体温よりも少し暖かい温もり。トールなどはその行動に色々と驚いているようであったが、トゥレーネにとっては細かいことは気にしないでよかった。
(……ふふ、可愛いなぁ)
心に、暖かさが戻る。
トゥレーネの右側にはクロが丸まり、その奥のもう一方のベッドに目を向ければ、気持ちよさそうに目を閉じる、少女の顔が見えた。
このところ、トールのところに泊まることもあったが、基本的にはアイナと暮らすこのギルドの持つ建物の部屋にトゥレーネは寝泊まりしている。
幸福だった。
現実にいた頃に、夢見た想像よりもずっと。
こんなに幸福でいいんだろうか、とトゥレーネはそう思う。
そして、初めて知る。幸福であることは、同時に怖いのだと。
そして心のどこかで、これがいつまでも続くはずがないと、そんな事も思ってしまっている自分がいるのを、トゥレーネは感じていた。
――初めて人が死んだ時、心に芽生えたのは恐怖だった。
それは大事な人間が出来るほど、その密度を増していく。
でも、それに耐えられなくなる前に、いつも一つの顔が浮かんでくる。初めて助けられてからも、ずっとそうだった。特に格好いい面持ちではない。それでも目付きの悪い顔が、優しく、そして時折ばつ悪げに微笑むのが、トゥレーネは好きなのだ。
少し前に身体を合わせ、そして醜いと感じている傷も心も受け入れてくれたトールは、優しかった。自分が、夢のなかで考えていたような優しさとは比べものにならないほどに。手で、その目で、温かい心でそれが感じられる。
一緒に住む事になったアイナは、可愛らしい妹のようで。初めのうちは気を遣わせてしまっていたが、今ではトゥレーネにとって、もう無くてはならない存在だ。
そして、一月前からよく話すようになったローザは初めて出来たと言ってもいい、同年代の心許せる友人だった。
教会にいた頃は、あの家族の輪だけがかけがえの無いものであったのに、ここに来てからはそれがどんどん増えていく。
トゥレーネがあのまま現実にいたならば、きっと話す機会もなかった人とも仲間になることができた。
大柄な剣士のリュウは、常に周りを見てくれているし、いつも安心感を与えてくれる。実際戦闘になっても、後方のプレイヤーに攻撃がいかないよう、体を張って守ってくれる。
魔術師のネイルもまた、時々おかしなことを言っては笑いを誘い、それでいて後方からの支援はきっちりとやる、頼りになる人間だった。
キャルは、フィールドに出ている人間のために、毎日アイテム等の開発に勤しんでいるし、ジンの『満月亭』は、皆の憩いの場所だ。
銀の騎士団の団長でもあり、攻略組の代表格でもあるフェイルは、穏やかではあるが真っすぐで決断力もあり、人をまとめている。そして、トールとは正反対に見えるのに、気が合っているようだ。時々トゥレーネが嫉妬のようなものを感じるほど、分かり合っているように見える。
先日も、『満月亭』に戻ると、二人で色々なことを話していた。戻った時にアイナに聞くと、今後の方針についての内容であったらしい。
裏方でいいと、あまり前面にいたくないと言いながら、それでもよく考えこんでしまうトールにとっても、大勢の人間をまとめ、弱いところを見せないようなフェイルにとっても、いい関係なのかもしれないとトゥレーネは思っていた。
今日からは、犯罪者プレイヤーの捜索ばかりに力を入れるのではなく、現実に戻る事を最優先して、『言霊』モンスターの探索に出るのだと聞いている。
(トール君も、あんまり悩みすぎないといいんだけれど)
トゥレーネ自身の事もあり、また、この世界に関わったものとしても、逃亡したプレイヤー達の事を悩んでいるのはわかる。ただ、あまり背負い込み過ぎないでほしい、というのもトゥレーネの本音だった。
「…………ん、おはよう」
ボーっと様々なことを考えていたトゥレーネは、目を覚ましたらしいアイナの声で、我に返った。
「おはようございます、アイナちゃん。少ししたら、ご飯にしましょうか」
そんな言葉に頷くアイナに微笑みながら、トゥレーネは身を起こした。
不安な心は、仲間のことを考えているうちに、どこかに消えていた。
クロが、二人の動きに反応したのか、小さく伸びをする。
それはいつもの、静かな朝だった。




