黒鉄卿の鎧が、少しずつ桃色になっていく件
アルシェリア王国騎士団長、レオンハルト・フォン・ヴァルツハイム。
四十二歳。身の丈六尺を優に超える大男であり、鍛え抜かれた肉体と、いかなる戦場でも揺らぐことのない胆力を持つ。黒鉄の鎧と大剣を愛用し、敵味方から「黒鉄卿」の異名で呼ばれる王国最強の騎士であった。
部下には厳しく、己にはさらに厳しい。酒も賭博も好まず、女性との浮いた話もない。その私生活は、長年仕えてきた副官セルマにとってさえ謎に包まれていた。
もっとも、本人にしてみれば至極当然のことである。
知られてはならないのだ。決して。何があろうとも。
自宅の寝室が、淡い桃色の壁紙とレースのカーテンに彩られ、大小さまざまなぬいぐるみで埋め尽くされていることなど。まして、その部屋のクローゼットに、少女向け魔法劇『星の姫君プリムローズ』の衣装が何着も並んでいることなど。
知られるわけにはいかなかった。
レオンハルトは、かわいいものが大好きなのである。
ふわふわのフリル。丸い動物。大きなリボン。淡い桃色。きらきらしたハート。いずれも心の底から愛していた。
ただし、本人は自分がかわいいなどとは微塵も思っていない。むしろ、その対極にいることを自覚している。あくまでかわいいものを愛でたいのであって、むくつけき筋肉の塊である自分が、それを身につけたいわけではない。
その二つは、まったく別の話であった。
そして、これまでの人生において、その区別が問題になることは一度もなかった。
ある日までは。
*
「避難民はすべて保護したか」
「はい。現在、南の街道へ誘導しております」
「よし。残敵を掃討する」
王国北部の小村が、魔王軍の斥候部隊に襲撃された。レオンハルト率いる騎士団は、住民の避難と敵兵の撃退に当たっていた。
戦況は優勢だった。魔族の兵士は人間よりも頑健だが、騎士団の練度ではこちらが勝る。何より、レオンハルト本人が圧倒的に強い。
村の広場を横切ったところで、彼は瓦礫の脇に小さなものが落ちているのを見つけた。
桃色の兎の髪飾りだった。
丸い顔。短い前足。ふっくらした頬。耳の内側には薄桃色の布があしらわれ、小さな白い尻尾までついている。
レオンハルトは拾い上げた。
……ほう。これは、なかなか。
耳の付け根の絞りが絶妙だ。頬の丸みもよい。特に、この尻尾。実に愛らしい。
……かわいい。たいへんかわいい。
いったい誰が作ったのだ。なかなかの腕前ではないか。
しかし、今は戦場である。持ち主は避難した子供だろう。後で返せるよう、髪飾りを籠手の留め具に挟んだ。
そのとき、物陰から魔族の兵士が飛び出してきた。
「団長!」
部下の声と同時に、レオンハルトは大剣を抜いた。敵が振り下ろした斧を受け止める。
つもりだった。
ところが、斧はあっけなく弾き飛ばされ、魔族の巨体が背後の石壁に叩きつけられた。
「……む?」
軽い。剣が異様に軽い。
続けて現れた敵へ踏み込むと、今度は自分でも驚くほど身体が前へ出た。振るった大剣は敵の盾を両断し、鎧ごと魔族を吹き飛ばした。
……何だ、これは。
レオンハルトは己の剣を見下ろした。刃に異常はない。しかし、今の一撃は明らかにおかしかった。
その後も彼は数体の魔族を倒し、部下とともに村を制圧した。
避難民の中から髪飾りの持ち主が見つかったのは、戦闘終了後のことである。
「あっ、うさぎさん!」
幼い少女が駆け寄ってきた。レオンハルトは膝を折り、髪飾りを差し出す。
「落とし物だ。大切にするように」
「ありがとう、騎士さま!」
少女は兎を胸に抱きしめ、母親のもとへ戻っていった。
……うむ。大切にするがよい。あれほどかわいい兎なのだからな。
レオンハルトは満足げに頷いた。
そして、その後の残敵掃討で、先ほどの異様な力がすっかり消えていることに気づいた。
*
それから数日が過ぎた。
王都へ帰還したレオンハルトは、いつもどおり訓練を続けた。大剣の重さは変わらない。踏み込みも、いつもどおりだ。
あの日は何だったのか。戦場に発生した未知の魔力にでも当てられたのだろうか。そう考え、ひとまず忘れることにした。
ところが、その夜。自宅の寝室で兎のぬいぐるみを手入れしていたときのことである。
首元のリボンが少しほつれていたため、丁寧に縫い直していた。白いレースに、淡い桃色のリボン。
……よい。やはり、この組み合わせはよい。
何より、リボンの結び目が素晴らしい。少しだけ左右非対称になっているところに、柔らかな愛嬌がある。
……かわいい。クソッ、かわいい。
つい夢中になり、余ったリボンを自分の手首に結んだまま、重い衣装箱を動かそうとした。
すると。
「……む?」
箱が片手で持ち上がった。
軽い。妙に軽い。
レオンハルトは箱を下ろした。もう一度持ち上げる。やはり軽い。
試しに手首のリボンを外す。持ち上げる。……いつもの重さだ。
再びリボンを結ぶ。軽い。
「…………」
レオンハルトは、手首を見つめた。
いや。まさか。そんなことがあるものか。
彼は別のリボンを取り出した。今度は濃い赤色で、さほど気に入っていないものだ。
結んでみる。……ほとんど変わらない。
次に、お気に入りの兎のワッペンを胸につけた。すると、鉄製の衣装箱が再び軽くなった。
さらに、ハート形のブローチ。こちらは一段と強い。
……おかしい。明らかにおかしい。
同じ金属の飾りでも、形が好みに合わなければ効果が弱い。逆に、ごく安価な布製品でも、気に入っているものなら強くなる。
……つまり。
……これは。
俺が、かわいいと思うものを身につけると……?
レオンハルトは激しく首を振った。
馬鹿な。そんな理屈があるか。
しかし、試すたびに結果は同じだった。
彼は棚から、とっておきのブローチを取り出す。淡い桃色の宝石を、金色の縁取りで囲んだ小さなハート。
……かわいい。この輪郭。この柔らかな曲線。実にかわいい。何という完成度だ。
これを胸元に留め、再び衣装箱を持ち上げる。
箱が、ほとんど重さを感じさせずに浮いた。
「…………」
……クソッ。
レオンハルトは頭を抱えた。
その晩、彼は夜更けまで実験を繰り返した。
神から授けられる固有の能力が実在することは、誰もが知っている。しかし、それは王国の長い歴史を通じても、数えるほどしか記録されていない奇跡である。まして能力の詳細を鑑定するなど、神の御業そのものだ。
自分に何が起きているのか、確かめる方法はなかった。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
かわいいものを身につけると、強くなる。
……いや。こんな馬鹿げた話を、いったい誰に相談できるというのだ。
翌朝。
黒鉄卿レオンハルトは、いつもの黒い鎧を身につけて訓練場に現れた。
ただし、下着の胸元には、小さな兎のワッペンが縫いつけられていた。
*
それから、騎士団長の戦績は少しずつおかしくなり始めた。
魔王軍の重装兵を一撃で倒し、大型魔獣の突進を正面から受け止め、城門を破ろうとした攻城獣を大剣の一振りで退けた。
もともと王国最強の騎士である。多少の驚異的な戦果なら、部下たちも見慣れていた。しかし、最近のレオンハルトは、いくら何でも強すぎた。
「団長。最近、ますます剣が冴えておられますね」
副官セルマが言った。
「……そうか」
「何か鍛錬の内容を変えられたのでしょうか」
「少しな」
「左様ですか」
セルマは頷き、それ以上尋ねなかった。
騎士が己の戦い方に合わせて武具を改造することは、珍しくない。レオンハルトも、長年そうしてきた。そして本人も、近頃は熱心に装備の改良を続けている。
最初は鎧の裏地を桃色にした。次に、剣の柄へ小さな房飾りを加えた。
しかし、どうも物足りない。
確かに強くはなるのだが、もっと強くなれるような気がする。
レオンハルトは自室で、鎧の裏地を眺めていた。
……かわいい。この桃色は実にかわいい。
しかし、裏地なのだ。裏地がかわいくても、鎧そのものは無骨な黒鉄のままである。それでは、いささか不十分ではないか。
……いや、待て。
不十分とは何だ。これは軍装だぞ。騎士が身につける鎧なのだ。
……しかし、もう少し丸みを持たせてもよいのではないか。
レオンハルトは、籠手を改造することにした。
手首の曲線を柔らかくし、淡い桃色に塗装する。仕上げに白い縁取りを加えた。
……。
よい。実によい。
この桃色。なんとかわいい色なのだ。特に、白い縁取りとの相性が素晴らしい。
かわいい。たいへんかわいい。
……いや、しかし。これは軍装として、少々華美ではないか。
……まあ、籠手の色を変えた程度だ。武具の改造など、誰でもやっている。問題あるまい。
翌朝。
「団長。籠手を新調されたのですか」
「いや」
「……ずいぶん、個性的な配色ですね」
「気まぐれだ」
「左様ですか」
副官セルマは、それ以上何も言わなかった。
その日の戦闘で、レオンハルトは魔王軍の精鋭部隊を、ほとんど一人で撃退した。
そして帰還した夜。彼は籠手を眺めながら、ふと考えた。
……ハートをつければ、もっとかわいいのではないか。
……。
いや。
……しかし。
ハート。
……かわいい。
数日後、胸当てに小さなハートが加わった。
*
魔王軍も、黙ってやられていたわけではない。
王国騎士団長の戦闘能力が異常に向上していることは、すでに敵軍でも重大な問題になっていた。未知の強化魔法か。古代の魔道具か。あるいは、伝説に伝わる神授の力なのか。
何にせよ、正面から戦って勝てる相手ではなくなりつつある。
そこで魔王軍は、戦術を変えた。レオンハルトのいる場所を避け、複数の街道から同時に侵攻する。補給路を断ち、守備隊を分散させ、彼が一人では対処できない状況を作り出した。
王国軍は、次第に苦しい戦いを強いられるようになる。
一方、レオンハルトも装備の改良を続けていた。
籠手は桃色。胸当てにはハート。肩当てには小さな花飾り。剣の柄には白いリボン。
戦闘能力は、改良のたびに増していった。
副官セルマは、この頃には明確な疑問を抱いていた。
団長は以前から武具を改造していたが、ここまで頻繁ではなかった。しかも装備の変化と戦績の向上が、どうも一致している。
そこで彼女は、同じ工房に籠手の塗装を依頼した。団長と同じ顔料を取り寄せ、同じ色に仕上げる。
翌朝、訓練場で試してみた。
……特に変化はない。
剣を振る。いつもどおりである。
同僚の騎士にも試してもらったが、結果は同じだった。
桃色に塗装された、ごく普通の籠手。それ以上でも、それ以下でもない。
「……」
セルマは机の上に置かれた籠手を見つめた。
いったい何なのだろう。団長が装備を変えるたび、明らかに強くなっている。しかし、同じものを身につけても何も起きない。
しかも、その改造がどうにも……。
桃色。ハート。リボン。花飾り。
……。
……いや。まさか。
彼女は、ひとまず考えるのをやめた。
根拠がない。そして、もし仮に、思い当たったことが事実だったとしても。
……そんなことを、団長に尋ねてどうするのだ。
一方、レオンハルトの苦悩も深まっていた。
鎧をいくら改造しても、根本的には無骨な鎧である。何かが足りない。もっとこう、全体に柔らかな印象が欲しい。
……いや、待て。
何を言っているのだ、俺は。これは軍装だ。魔族を斬り伏せるためのものだぞ。
……しかし。
もう少し、かわいくしてもよいのではないか。
そして、彼はとうとう兜に二つの突起を加えた。
左右対称に立った、丸みを帯びた猫の耳。内側は、薄桃色。何度も角度を調整した、自信作である。
……かわいい。
この耳。なんという絶妙な角度だ。前から見てもよい。横から見ても実にかわいい。
特に内側の桃色が素晴らしい。
クソッ!
かわいい!!
ただし、これを自分がかぶった姿については、考えないことにした。
翌朝。
副官セルマが、団長の姿を見た。
「……団長」
「何だ」
「その兜は……」
「……」
「……」
*
魔王軍の主力が王都へ迫ったのは、それから半月後のことだった。
先遣隊の報告によれば、魔王自身が軍を率いているという。
王都では翌朝の決戦に備え、夜遅くまで軍議が開かれた。守備隊は城壁を中心に配置。主力騎士団は王都前面の平野で敵を迎え撃つ。
レオンハルトは、魔王本人への対処を任された。
しかし、勝算は定かではない。魔王の配下である将軍たちでさえ、現在の装備でようやく圧倒できるようになった相手である。その将軍たちを従える魔王が、どれほどの力を持つのか。誰にも分からなかった。
軍議を終えたレオンハルトは、深夜に自宅へ戻った。
桃色の籠手。ハートの胸当て。花飾り。猫耳の兜。
すべて丁寧に手入れしてある。明日の戦いで、これらがどこまで通用するか。
……分からない。
レオンハルトは、寝室の奥にあるクローゼットを見た。
そこには、まだ試していないものがあった。
ずっと前から、考えていたのだ。もしも、今の装備では足りなくなったら。もしも、本当に、ほかに手段がなくなったら。
……。
彼は、クローゼットの扉を開けた。
そこには一着の衣装が吊るされていた。
少女向け魔法劇『星の姫君プリムローズ』。主人公が物語の最終決戦で身につける、伝説の衣装である。
薄桃色のドレス。純白のレース。三段重ねのフリル。背中の大きなリボン。胸元には、丸みを帯びたハートの装飾。そして、先端に星とハートをあしらった魔法の杖。
すべて、レオンハルト自身が長い年月をかけて作り上げたものである。
彼は子供の頃から、この衣装を愛していた。舞台も、絵本も、何度見返したか分からない。細部まで調べ、材料を集め、縫製を学び、少しずつ完成させた。
彼にとって、何より大切な宝物だった。
そして数週間前、現在の戦況を考え、この衣装をひそかに自分の寸法へ仕立て直していた。
着たかったわけではない。断じて違う。騎士団長として、万一に備えたに過ぎない。
……そういうことにしていた。
ただし、一度も試着はしていない。自分が着た姿など、見たくもなかったからだ。
しかも、もし本当に強くなれると分かってしまえば、騎士団長として、戦場で使わない理由がなくなってしまう。
だから、試さなかった。
しかし。
明日は、魔王との決戦である。
レオンハルトは、衣装を取り出した。
……かわいい。
なんと、かわいい。
特にこの胸元のハート。丸み。色。光沢。すべて申し分ない。その周囲を囲む、純白のレース。
……かわいい。実にかわいい。
しかも、三段重ねのフリル。
三段だぞ。
一段でも十分にかわいいというのに。二段でも相当にかわいい。それが三段。
……なんという贅沢な。
クソッ。
かわいい。
本当にかわいい。
レオンハルトは、衣装を抱きしめた。
そして、鏡を見た。
そこには、身長一九〇センチ近い、筋骨隆々の中年男性が立っていた。
……。
……これを。
俺が、着るのか。
……かわいくない。まったく、かわいくない。
この肩幅。この腕。この顔。どこをどう見ても、かわいさの欠片もない。こんな男が、これほどかわいい衣装を着るなど。
衣装には何の罪もないというのに。
……いや。
しかし、明日は魔王との決戦だ。王都には何万もの民がいる。部下たちも、命を懸けて戦う。
少しでも勝算を高められるなら、試さぬわけにはいかない。
……分かっている。分かっているのだ。
だが。
……これを、俺が。
……。
クソォッ!!
*
翌朝。
王国軍は、王都前面の平野に整列していた。
重装歩兵、弓兵、騎兵。各部隊の軍旗が朝風にはためき、兵士たちは静かに出陣の命を待っている。
副官セルマは最後の配置を確認していた。まもなく団長が到着するはずだった。
そのとき、兵士たちの間に奇妙なざわめきが広がった。
セルマは振り返って、思わず息を止めた。
そこには、騎士団長が立っていた。
薄桃色のドレス。純白のレース。三段重ねのフリル。背中には大きなリボン。胸元には、きらきらと輝くハート。
手には、星とハートをあしらった魔法の杖。
そして。
その衣装から、今にもはみ出さんばかりの筋肉。苦悩を押し殺したような、鬼気迫る表情。
……黒鉄卿レオンハルトだった。
セルマは、しばらく何も言わなかった。
桃色の籠手。ハートの胸当て。花飾り。猫耳の兜。これまでの装備の変化が、脳裏に浮かぶ。
……。
……ああ。
……そういう。
……いや。
…………。
団長と目が合った。
「……」
「……」
二人とも、何も言わなかった。
セルマは、ゆっくりと敬礼した。レオンハルトも、いつもどおりに答礼した。そして、騎士団の先頭へ向かって歩き始めた。
兵士たちは道を開ける。
誰も、何も言わない。何も言えない。
遠くに、魔王軍の旗が見えた。
魔王は軍の先頭に立ち、王国軍を見渡していた。そして、ひときわ目立つ桃色の人物に目を留める。
「……何だ、あれは」
配下の将軍たちにも、答えられなかった。
ただ、その人物が王国最強の騎士団長であることは、すぐに分かった。何度も魔王軍を苦しめてきた、あの黒鉄卿だ。
しかし、その姿は以前とは似ても似つかない。
魔王は眉をひそめた。
ふざけているのか。いや、あの男がそんな人物ではないことは、これまでの戦歴から知っている。
ならば、何かある。
魔王は慎重に距離を取り、黒炎の魔法を放った。
城壁を一撃で破壊できるほどの威力を持つ魔法である。
レオンハルトは、ハート形の杖を構えた。
その杖は、もともと舞台の小道具を模して自作したものだった。木を削り、丁寧に塗装し、装飾を施しただけの品である。
しかし。
かわいい。この杖は、実にかわいい。
特に先端のハート。なんという美しい曲線だ。
……いや、待て。
黒炎が迫っている。
レオンハルトは杖を振るった。
轟音。
黒炎が、空中で弾け飛んだ。
「……!」
魔王が目を見開いた。
レオンハルト自身も驚いていた。
……すさまじい。これほどの力とは。
……しかし、この杖。やはり、かわいい。先端のハートが……。
……クソッ!
集中しろ、俺!!
魔王は続けて魔法を放つ。しかし、そのいずれもレオンハルトには届かない。
黒炎を防ぎ、稲妻を受け流し、巨大な氷の槍を杖の一振りで砕く。
魔王は剣を抜いた。
近接戦闘ならば。そう考えたのだろう。
しかし、その剣もレオンハルトに届かなかった。杖で受け止められた刃が、鈍い音を立てて曲がる。続く一撃が、魔王の胸当てを砕いた。
魔王は大きく後退する。
その隙を、王国軍は見逃さなかった。
「騎兵隊、前進!」
セルマの号令で、王国軍の騎兵が動く。
魔王軍は、レオンハルトへの対処に気を取られ、側面の守りが薄くなっていた。騎兵がそこへ突入する。
魔王軍の隊列が崩れ始めた。
魔王は戦況を見渡す。
騎士団長は、これまでの想定を遥かに超えて強い。このまま戦えば、自分が倒されるか、軍全体が包囲される。どちらにしても、王都攻略どころではなくなる。
「……全軍、退却」
魔王軍は、王都から退き始めた。
王国軍の兵士たちから、歓声が上がる。
王都は守られた。
王国最強の騎士団長は、ついに魔王を退けたのである。
しかし、レオンハルトはただ一人、沈痛な面持ちで立ち尽くしていた。
胸元では、ハートが輝いている。背中では、リボンが揺れている。風に吹かれ、三段のフリルがふわりと広がる。
……終わった。
……すべて、終わった。
*
魔王軍撃退から七日後。
王宮では、王都防衛の功績を称える叙勲式が執り行われていた。
レオンハルトは、久しぶりに黒鉄の鎧を身につけ、国王の前に跪いていた。
「レオンハルト卿。貴殿の働きは、まさしく王国を救うものであった」
「……身に余る光栄にございます」
「よって、その功績を讃え、新たな称号を授ける」
国王は立ち上がり、高らかに宣言した。
「王国騎士団長レオンハルト! 貴殿を、ここに『桃色の戦姫』に叙する!」
「…………」
謁見の間に、万雷の拍手が響いた。
国王は満足そうに続ける。
「あの愛らしくも勇壮な姿こそ、王都の民に希望を与えた!今後もその戦装とともに、我が国を守り続けてほしい!」
「…………」
レオンハルトは頭を垂れたまま、微動だにしなかった。
「……どうした、卿?」
彼は、四十二年の人生で最大の精神力を振り絞った。
「……ありがたき幸せに、ございます」
*
それから、およそ二百年後。
王国歴史学会編纂『アルシェリア王国史・英雄列伝』には、次のように記されている。
レオンハルト・フォン・ヴァルツハイム(王国暦四八二~五五一年)。王国騎士団長。通称「黒鉄卿」。
魔王軍による王都侵攻を阻止した、王国史上屈指の英雄である。
とりわけ、桃色の華麗な戦装をまとい魔王を退けた一戦は、後世まで語り継がれている。
戦後、国王より「桃色の戦姫」の称号を授けられる。この名は国民に広く親しまれ、現在に至るまで王国を代表する英雄として敬愛されている。
(了)




