第9話 静かに流れる噂
王宮の回廊は、いつもと変わらない。
人の行き交う数も、声の大きさも。
それでも、リリアーナ・エヴァレットは空気の変化を正確に捉えていた。
――視線が、合わない。
正確には、合わないように避けられている。
露骨ではない。
だからこそ、意図がはっきりしていた。
「……おはようございます」
侍女の一人が、少し遅れて挨拶をする。
声は丁寧だが、どこか距離がある。
「おはよう」
リリアーナは、いつも通りに応じた。
それ以上、何も付け加えない。
歩を進めると、前方で小さな会話が途切れるのが分かる。
振り返る者はいない。
(始まった)
噂は、声を張り上げて広がるものではない。
むしろ、確認を避けることで定着する。
書庫に入ると、文官たちが視線を交わし、小さく会釈をした。
以前のように、相談を持ちかけてくる者はいない。
「こちらの案件ですが……」
年配の文官が、一歩だけ踏み出す。
「聖女様の判断を仰ぐことになりまして」
「そうですか」
それだけ答える。
訂正もしない。
理由も聞かない。
その態度が、かえって場を落ち着かせた。
(噂は、否定しなければ事実になる)
廊下を抜け、中庭に出る。
日差しは柔らかく、風も穏やかだ。
そこで、貴族の娘たちが小さく話しているのが見えた。
「最近、第一王子殿下と聖女様、よく一緒にいらっしゃるわね」
「ええ……婚約者様は、あまり見かけなくなった気がして」
声は低い。
だが、隠す気はない。
リリアーナは、歩みを止めない。
正す機会は、いくらでもあった。
だが、それをしなかった。
噂を否定するには、
「否定する理由」が必要になる。
そして今、
それを口にすること自体が、立場を危うくする。
執務室に戻ると、机の上に書簡が一通置かれていた。
王家の印。
内容は、簡潔だった。
――近日中に、非公式の話し合いを設けたい。
理由は、書かれていない。
リリアーナは、書簡を一度だけ読み、元の位置に戻した。
(段取りは、想定通り)
噂が先。
説明は後。
順序を間違えなければ、人は疑問を持たない。
窓の外では、聖女エミリアが人に囲まれているのが見えた。
笑顔で、丁寧に頷いている。
その輪の中に、アルベルトの姿もある。
――誰も、間違っているつもりはない。
それが、一番厄介だ。
リリアーナは視線を戻し、静かに書類を閉じた。
今日一日で、
彼女の立場が何か変わるわけではない。
ただ、修正されなくなった噂だけが、
ゆっくりと形を持ち始めている。
(次は、説明だ)
それが何を意味するか、
彼女はもう知っていた。
だからこそ、何もしない。
静かなまま、
噂が“事実”に変わるのを待っていた。
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