第83話 矛先
鐘の音が、空気を裂いた。怒号が一瞬だけ止まる。全員が、同じ方向を見る。
神殿。
「……神託だ」
誰かが呟く。その言葉で、場の温度が変わる。怒りは消えない。
だが、揺らぐ。鐘が鳴れば手を止める体が、この土地には染みついている。レオンハルトは動かない。ただ、群衆を見ている。
アルノーは息を呑む。
「……止まるのか」
「一度は」
リリアーナが静かに答える。だが、完全には止まらない。人々の間に、ざわめきが戻る。
「神託なら……」
「いや、でも……」
揺れている。その時、広場の端で誰かが叫んだ。
「リュミアのせいだ!」
空気が変わる。誰のせいでもなかったものに、名前が付いた。
「荷を全部持っていかれた!」
「神託で優先されたんだろ!」
声が広がる。
「そうだ!」
「うちの仕事がなくなったのはあいつらのせいだ!」
怒りが、一方向に流れ始める。責めても罰されず、届く距離にあり、確かに得をしている相手。神ではない。軍でもない。他の都市
アルノーの顔が強張る。
「……まずい」
「ええ」
リリアーナは短く答える。
「矛先が、定まりました」
群衆の中で、あの若い男が立っている。
「取り返せばいい」
その一言が、火種になる。奪われたものは取り返せる、という話の形は、誰にでも分かりやすい。
「リュミアから取り返せばいい!」
声が重なる。
「そうだ!」
「向こうが奪ったんだ!」
論理は単純だった。だが、強い。細かい筋道を要らなくするぶん、速く広がる。レオンハルトが一歩前に出る。
「止まれ」
短い命令。だが、完全には届かない。
「将軍!」
誰かが叫ぶ。
「助けるって言っただろ!」
「なら仕事を寄越せ!」
「それとも奪えって言うのか!」
言葉が歪む。助けると言った以上、望むものを寄越せ、という筋に置き換わっていく。レオンハルトは静かに言う。
「奪えば、戦争になる」
その一言で、空気が一瞬止まる。だが、すぐに別の声が上がる。
「もう負けてるだろ!」
沈黙。もう負けている、という一言に、将軍でさえ返す言葉を持たなかった。それは、事実だった。アルノーは拳を握る。誰も間違っていない。
だが、誰も正しくもない。その時、神殿の扉が開いた。音は大きくない。
だが、全員が振り向く。白い衣。銀の髪。ルシア・エルフェルト。
彼女はゆっくりと階段を降りてくる。急ぎもせず、止まりもせず、一段ずつ足を置いていく。群衆が自然と道を開ける。
神託官。その存在だけで、空気が変わる。アルノーは息を呑む。
「……出るのか」
リリアーナは答えない。ルシアは広場の中央に立つ。全員が、彼女を見る。
怒りも、不安も、すべてが一度、止まる。読み上げるものも、根拠として掲げるものも、その手にはない。彼女は星図を持っていない。
それでも、口を開く。
「神託は」
静かな声だった。
「リュミアを優先と示しました」
群衆がざわめく。否定ではない。肯定だった。
「なぜだ!」
叫びが飛ぶ。ルシアは答える。
「全体の流れを守るためです」
正しい。全体の流れを守る、という答えは、全体の外に置かれた者には届かない。だが、足りない。その時、若い男が前に出る。
「じゃあ俺たちはどうなる!」
ルシアは彼を見る。そして、一瞬だけ、言葉を止めた。沈黙。
神託官が、迷う。答えを配る側が、答えを持っていない。それだけで、空気が変わる。アルノーの心臓が強く鳴る。
レオンハルトの視線が鋭くなる。リリアーナは、ただ見ている。
そして、ルシアは言った。
「……分かりません」
その一言で、世界が、揺れた。神託は答えを出すもの。だが今、
神託官が、答えを持っていなかった。群衆がざわめく。そして、
誰かが言う。
「じゃあ」
「誰が決めるんだ」
その問いは、誰にも向けられていなかった。だが、確実に、全員に突き刺さっていた。
怒りが、隣の都市へ向く回です。
取り返せばいい。単純で、強い。誰も間違っていないのに、誰も正しくない状態が完成します。
ルシアには、星図を持たせずに出しました。そして、分かりません、と言わせています。神託官が答えを持たない——積んできたものが、全部この一言に賭かっています。
最後の問いは、誰にも向けられていません。だから、全員に刺さります。
次回、境界を越えます。




