第67話 迷いの芽
泉の水が再び流れて三日。水路の底には、まだ乾いた土の色が筋になって残っている。北側の畑は持ち直した。葉は少し色を取り戻し、土は湿りを保っている。
だが南側は違う。間に合わなかった。水が届いたときには、根の先がもう戻らないところまで来ていた。畑の半分は枯れ、収穫は確実に減る。
それでも村は静かだった。北の畝と南の畝のあいだに、誰も線を引こうとしない。
「神託だから」
その言葉は変わらない。アルノーは村の道を歩いていた。誰も怒らない。誰も責めない。
それが逆に胸に重かった。怒る相手がいれば、まだ収まりようもあるのに、この村にはそれが無い。畑の端で若い農民が土を掘っていた。
まだ二十歳にも見えない。枯れた苗を抜き、根の付いていたところを一度ならしてから、新しい苗を植え直している。
「手伝いましょうか」
アルノーが声をかける。若者は驚いた顔をするが、すぐに首を振った。
「大丈夫です」
少し沈黙が流れる。土を掘る音だけが続いて、それが止まってから、そして若者がぽつりと言った。
「……北側の畑は助かりましたね」
「ええ」
アルノーは答える。
「うちは南でした」
若者は土を掘り続ける。手も止めず、顔も上げず、隣の畑の話をするような調子だった。怒っているわけではない。ただ事実を言う。
「神託ですから」
若者は続ける。
「仕方ないです」
アルノーは言葉を探す。何を言っても、この若者が失った半分は戻らない。慰めの言葉は見つからない。
「でも」
若者は小さく笑う。
「もし会議だったら」
手を止める。言いかけたことの先を、言っていいのかどうか、そこで一度考えたようだった。
「たぶん」
「もっと揉めてたと思います」
アルノーは黙る。会議なら揉めた、という言い方の中に、責める色はまったく無かった。
「でも」
若者は空を見る。恨む相手を探している目ではなかった。
「少しだけ」
「考えてしまうんです」
土を指で崩す。乾いた塊が、指の下で崩れ、粉になって畝の間へ落ちた。
「どうして北なんだろうって」
その声は小さい。誰かに聞かせるためでも、答えを待つためでもない。怒りではない。ただの疑問。アルノーはその言葉を胸に持ったまま村を離れる。
神殿の回廊では、若い修道士たちが小さな声で話していた。柱の陰に寄って、通る者があれば口をつぐむ。
「今回の神託は」
「南の畑がかなりやられたらしい」
「でも病は止まった」
「だから正しい」
会話はそこで終わる。病は止まった、だから正しい。その順番で並べれば、話は毎回そこで閉じる。だが一人の修道士が言う。
「……もし」
少し間を置く。言葉にしてしまえば戻せないと、この場にいる誰もが知っている。
「もし会議だったら」
別の修道士がすぐに遮る。
「迷いは信仰不足だ」
沈黙。だがその沈黙は、以前とは少し違った。遮られた側が、納得して黙ったのではなかった。回廊の奥で、リリアーナは静かにそれを聞いていた。
迷いは消えていない。ただ声に出されないだけだった。だが今、
ほんの小さな芽が出ている。疑問。それはまだ弱い。簡単に踏み消せる。
誰かが叫んだわけでも、誰かが疑いを口にしたわけでもない。ただ、答えの出ている場所で、答えの形をしていない言葉が二つ出た。それでも確かに、星導教の静かな世界の中で、人の迷いが、もう一度、
芽を出し始めていた。
怒らない人たちの回です。
南側の畑を失った若者に、恨みを言わせませんでした。仕方ないです、で終わらせて、そのあとに小さく、どうして北なんだろう、と置く。これが芽です。踏めば消える大きさにしました。
修道士の側にも、同じ芽を出させています。もし会議だったら——言いかけて、迷いは信仰不足だ、で遮られる。遮られたあとの沈黙が、以前とは少し違います。
声に出されない形に変わっただけで、迷いは消えていません。
次回、神託官が手を止めます。




