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不幸のどん底こそが最上の幸福だった。君といた地獄を、僕は一生忘れない  作者: 高橋 淳


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冬は、慈悲を知らなかった。

大地は分厚い氷に閉ざされ、アルデバラン侯爵家の領地は「呪われた地」として周囲に知れ渡っていた。

食糧は底をつき、援助の手は次々と引かれていく。

かつて友好を誓った領地でさえ、距離を取り、沈黙を選んだ。


関われば、災いが移る。


その恐れは、雪よりも冷たく、確実だった。


レオンハルトは奔走した。

誇りを捨て、頭を下げ、条件を呑み、未来を切り売りしてでも、食糧を確保しようとした。

だが、どれほど必死でも、世界は彼を受け入れなかった。届く返答は遅れ、あるいは、最初から届かなかった。


その年の冬のある夜。

館の最奥、鉄の燭台の下でクラリッサは冷たい石床に膝をついていた。


暖炉の火は消え、空気は凍りついている。

厚い壁の向こうから、風の唸りと、誰かの笑い声が混じって聞こえた。

祈りなのか、呪詛なのか、もはや判別もつかない。

反響するその声は、彼女の心を削り、逃げ場のない闇へと追い込んでいく。


世界が、はっきりと彼女を拒絶していた。


深夜、吹雪は狂気のように窓を叩く。

雪は、まるで無数の白い手となって、彼女を呼び、引きずり出そうとしているようだった。


クラリッサは、もう疲れ果てていた。


生まれた瞬間に母を奪い、父をこの世から消し、

愛した人を孤立させ、領地を滅ぼし、


最後には、誰からも居場所を奪われた。

きっと最初から居場所なんてなかったんだろう。どうして父はわたしも連れて行ってくれなかったんだろうか。わたしのような不幸の象徴を。


侯爵家に降りかかった災害は偶然ではなく、自分という存在そのもののせいだと、彼女はわかってしまった。


以前の晩餐会で、手渡されていた毒がある。

「いざという時のために」と、誰かが善意の顔で差し出したそれ。

今になって思えば、あれは善意ではなかったのだろう。


クラリッサは震える手で瓶を取り、唇に触れさせる。躊躇はなかった。

これは逃げではない。

皆を、これ以上不幸にしないための、最後の役目だ。


毒は、冷たく、静かに喉を落ちていった。


彼女は床に横たわり、最後に微笑んだ。

春の湖畔で、誰かに見つめられた、あの一瞬を思い出しながら。




翌朝、領地は異様な静けさに包まれていた。



館の奥。

眠るように横たわる彼女の傍らに、白薔薇の刺繍が施されたハンカチが落ちていた。


レオンハルトは、それを拾い上げた。


布に残る、かすかな香り。

甘く、切なく、二度と戻らない温度。


その瞬間、彼の中で何かが完全に崩れ落ちた。


最初に来たのは、後悔だった。

ほんの一言。

ほんの一度、手を伸ばす勇気。

それすら選ばなかった自分への、静かな断罪。


次に、自己嫌悪が襲う。

彼は膝をつき、ハンカチを握り潰す。

当主として、夫として、彼は、何ひとつ守れなかった。

彼女の思い詰めた表情に気がついていたのだ。

忙しさにかまけて放置していた。まさか、彼女が死を選ぶだなんて想像もしていなかった。


本当に?

本当は知っていたんじゃないか。心のどこかで彼女の死を願っていたのではないか。


涙は雪に吸い込まれ、叫びは壁に遮られ、

世界は、あまりにも静かだった。


その静けさが、彼を許さなかった。

窓の外、凍りついた湖面に、幻のような微笑みが浮かんでは消える。

春の光の中で、確かに存在していた笑顔。


最後の理解が、彼の胸を貫いた。

守れなかったのではない。自分が、彼女を殺したのだ。



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