⑤
冬は、慈悲を知らなかった。
大地は分厚い氷に閉ざされ、アルデバラン侯爵家の領地は「呪われた地」として周囲に知れ渡っていた。
食糧は底をつき、援助の手は次々と引かれていく。
かつて友好を誓った領地でさえ、距離を取り、沈黙を選んだ。
関われば、災いが移る。
その恐れは、雪よりも冷たく、確実だった。
レオンハルトは奔走した。
誇りを捨て、頭を下げ、条件を呑み、未来を切り売りしてでも、食糧を確保しようとした。
だが、どれほど必死でも、世界は彼を受け入れなかった。届く返答は遅れ、あるいは、最初から届かなかった。
その年の冬のある夜。
館の最奥、鉄の燭台の下でクラリッサは冷たい石床に膝をついていた。
暖炉の火は消え、空気は凍りついている。
厚い壁の向こうから、風の唸りと、誰かの笑い声が混じって聞こえた。
祈りなのか、呪詛なのか、もはや判別もつかない。
反響するその声は、彼女の心を削り、逃げ場のない闇へと追い込んでいく。
世界が、はっきりと彼女を拒絶していた。
深夜、吹雪は狂気のように窓を叩く。
雪は、まるで無数の白い手となって、彼女を呼び、引きずり出そうとしているようだった。
クラリッサは、もう疲れ果てていた。
生まれた瞬間に母を奪い、父をこの世から消し、
愛した人を孤立させ、領地を滅ぼし、
最後には、誰からも居場所を奪われた。
きっと最初から居場所なんてなかったんだろう。どうして父はわたしも連れて行ってくれなかったんだろうか。わたしのような不幸の象徴を。
侯爵家に降りかかった災害は偶然ではなく、自分という存在そのもののせいだと、彼女はわかってしまった。
以前の晩餐会で、手渡されていた毒がある。
「いざという時のために」と、誰かが善意の顔で差し出したそれ。
今になって思えば、あれは善意ではなかったのだろう。
クラリッサは震える手で瓶を取り、唇に触れさせる。躊躇はなかった。
これは逃げではない。
皆を、これ以上不幸にしないための、最後の役目だ。
毒は、冷たく、静かに喉を落ちていった。
彼女は床に横たわり、最後に微笑んだ。
春の湖畔で、誰かに見つめられた、あの一瞬を思い出しながら。
翌朝、領地は異様な静けさに包まれていた。
館の奥。
眠るように横たわる彼女の傍らに、白薔薇の刺繍が施されたハンカチが落ちていた。
レオンハルトは、それを拾い上げた。
布に残る、かすかな香り。
甘く、切なく、二度と戻らない温度。
その瞬間、彼の中で何かが完全に崩れ落ちた。
最初に来たのは、後悔だった。
ほんの一言。
ほんの一度、手を伸ばす勇気。
それすら選ばなかった自分への、静かな断罪。
次に、自己嫌悪が襲う。
彼は膝をつき、ハンカチを握り潰す。
当主として、夫として、彼は、何ひとつ守れなかった。
彼女の思い詰めた表情に気がついていたのだ。
忙しさにかまけて放置していた。まさか、彼女が死を選ぶだなんて想像もしていなかった。
本当に?
本当は知っていたんじゃないか。心のどこかで彼女の死を願っていたのではないか。
涙は雪に吸い込まれ、叫びは壁に遮られ、
世界は、あまりにも静かだった。
その静けさが、彼を許さなかった。
窓の外、凍りついた湖面に、幻のような微笑みが浮かんでは消える。
春の光の中で、確かに存在していた笑顔。
最後の理解が、彼の胸を貫いた。
守れなかったのではない。自分が、彼女を殺したのだ。
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