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「救うか滅ぼすか、転移先が二つありました」──二つの世界、ひとりの少年。選ばれるのはどちらの命か。

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/11/01

 午後五時の図書室は、冬の匂いがしていた。

 暖房の風が届かない窓際の席。ガラス越しに見えるグラウンドでは、サッカー部が夕闇のなか最後のシュート練習をしている。

 柊真はシャーペンを握ったまま、ノートに書いた年号の横に「?」をつけた。

 五十六年。第二次大戦。冷戦。――その隣に、もうひとつの見出し。


 幻想民族誌 第九章:氷の神話と火の神話。


 受験勉強の合間の息抜きだった。たまたま棚の奥で見つけた古い本を、なんとなく開いた。それだけのはずだった。


 ページをめくったとき、声がした。


 「――我が氷の国を救って」


 空耳かと思った。だが、次の瞬間、別の声がかぶさる。


 「――我が炎の都を裁いて」


 紙面のインクがゆらめいた。

 文字が、融けるように、燃えるように、光へと変わっていく。

 瞬きする暇もなく、視界が二つに割れた。


 右目には、白。左目には、紅。

 心臓が二つあるような感覚。息を吸うたびに冷気と熱気が交互に肺を焼く。


 柊真は、立ち上がろうとした――だが、椅子はもうなかった。


     *


 白銀の荒野。

 彼は雪に埋もれた神殿の前に立っていた。

 凍てつく風が髪を切り裂く。呼吸をすれば肺が痛い。

 石柱の影から、一人の少女が現れた。


 白い衣。透きとおる瞳。

 それだけで、この世界の色を象徴していた。


 「……あなたが、召喚に応えてくれた方ですね」


 その声には、氷のような澄んだ響きがあった。

 少女は自らをルーフェリアと名乗った。氷の国〈リュミエール〉を統べる女神。


 「我らの太陽は堕ちました。空の欠片も凍り、民は眠るように死を迎えています。あなたの力で、どうか――」


 彼女の言葉は、息の白に溶けていった。

 足元の雪が光を放ち、彼の手には古代語の刻まれた短剣が握られていた。

 柊真は唇を震わせ、何かを問おうとした――その瞬間、視界が揺れた。


     *


 炎。

 世界が赤に塗りつぶされる。

 まぶたの裏まで焼けるような熱気。砂漠の都市。崩れかけた塔の上で、もう一人の女神が立っていた。


 「遅いわね、救世主」


 燃える髪をなびかせ、唇の端を笑みで吊り上げる。

 その名はアズハ。炎の都〈アルディア〉の支配者。


 「この国は、欲望の炎で焦げついている。貴族は富を溜めこみ、魔力炉は暴走寸前。救いなんてない。――だから滅ぼすの」


 彼女は指先で炎を摘み、柊真の頬に押しつけた。

 熱い、けれど痛くはない。不思議な感触。

 「あなたは裁定者。私の代行者。滅びの秤を動かす権利を持つ人間」


 何を言っているのか理解できなかった。

 彼はただの高校生だ。勉強が嫌いで、将来も見えなくて、世界の終わりなんて考えたこともない。


 「二つの世界は繋がっているの。どちらかを救えば、どちらかが消える」


 アズハの瞳が深紅に輝く。

 同時に、氷の世界でルーフェリアの声が囁いた。


 「どちらも生かす道を、探して」


 真逆の願い。

 そして柊真は、両方の声を聞いたまま、現実に戻った。


     *


 教室の窓の外で、街灯がともる。

 時計は午後七時を指していた。

 柊真は机に突っ伏していた。汗で制服が張りつき、頬には冷たい涙の跡。


 ――夢、だったのか?


 だが、机の上には残っていた。

 氷の刃と、炎の紋章。両方が小さなペンダントのように重なり合って。


 彼は手のひらでそれを包み、胸に押し当てた。

 鼓動が、二つのリズムで響いた。


     *


 翌日。

 放課後の廊下で、幼なじみの美咲が声をかけてきた。


 「ねえ柊真、顔色悪くない? 昨日また夜更かししたでしょ」


 「……まあ、ちょっと」


 曖昧に笑いながら、彼はロッカーを閉めた。

 美咲は不安そうに眉を寄せる。


 「進路希望、まだ出してないよね。どうするの?」


 「世界、救おうかな」


 「は?」


 冗談のつもりだった。けれど、笑えなかった。

 どこかで、誰かが本当に凍えていて、誰かが本当に燃えている――そんな気がしてならなかった。


     *


 夜。

 柊真の部屋の時計が零時を指す。


 光が走った。

 ベッドの上に、二重の円環。白と紅。

 そして彼は、また世界の狭間に立つ。


 右の手には氷の短剣。左の手には炎の紋章。

 両の視界に異なる月。


 「……やっぱり、夢じゃないんだな」


 ルーフェリアの声が降る。


 「三日後、決断して。どちらを救うか」


 アズハの声が重なる。


 「三日後、裁いて。どちらを消すか」


 世界が二つの心臓の鼓動に合わせて震える。

 柊真は膝をつき、空を仰いだ。

 氷の月は静かに輝き、炎の月は熱く笑っていた。


 ――どちらも、確かに生きている。


 それを壊す権利が、自分にあるのか。

 答えはまだ、どこにもなかった。


     *


 翌朝。

 彼はいつも通り登校した。

 だが、街の景色に違和感を覚える。

 空気の層のように、二つの風景がわずかに重なって見える。

 凍る木立と、燃える街灯。二つの現実が、世界の縁で擦れあっている。


 「君、見えてるのね」


 声をかけてきたのは、見知らぬ転校生だった。

 銀色の髪、紅い瞳。――どちらの女神にも似ていた。

 彼女は淡々と名乗る。


 「観測者リラ。あなたの“選択”を記録する者」


 柊真は息を飲んだ。

 リラは窓の外を見やりながら、低く告げる。


 「この世界は、秤の中央に立っている。あなたが片方に傾けば、もう片方は沈む。それが“二重召喚”の罰則」


 「……罰、則?」


 「あなたが二人の女神を同時に受け入れたから。普通はどちらかしか選ばれない」


 リラは微笑んだ。けれど、その瞳の奥は氷のように冷たかった。


 「三日後、秤は動く。覚悟して」


     *


 その夜。

 柊真は机に向かい、再び「幻想民族誌」を開いた。

 そこには小さく、手書きの走り書きがあった。


 《両界はもとは一つの楽園だった。氷と炎は、かつて交わり、命を創った。》


 ページの隅に、二人の女神の肖像。

 双子のように似た横顔が、古いインクで描かれている。


 「……双界の根は、ひとつ?」


 柊真は指でその線をなぞった。

 もし二つの世界がもとを辿れば一つなら、滅ぼす必要なんて――。


 思考の途中で、視界が暗転した。

 彼の部屋の窓が、外側から赤く染まる。


 ――燃えている。


 世界が、音もなく、彼を呼んでいた。


     *


 目を開けると、炎の都アルディア。

 空が裂け、紅の雨が降っている。

 遠くの塔が崩れ、群衆が叫びながら逃げ惑う。

 アズハが塔の頂に立ち、柊真を見下ろす。


 「遅いわ。滅びはもう始まってる」


 「やめろ! まだ救えるはずだ!」


 「救い? この街は救われすぎて腐ったのよ」


 アズハが腕を振る。炎の波が押し寄せる。

 柊真は反射的に短剣を掲げた。氷の光がほとばしり、炎と衝突する。

 天地が震え、爆風が吹き荒れた。

 視界の片隅で、ルーフェリアの声が響く。


 「柊真……あなたが傷つくなら、私が代わりに――」


 「やめろ! どっちも、消えてほしくない!」


 叫びは風に飲まれ、二つの女神の姿が重なって揺らぐ。

 その刹那、炎が凍り、氷が燃えた。


     *


 朝。

 柊真は自分の部屋で目を覚ました。

 夢だった、と言い切るにはあまりに現実的だった。

 手のひらの中には、焦げついた雪片のようなものが残っていた。


 「……俺、どうすればいいんだよ」


 呟いた声は、部屋の静寂に吸い込まれる。

 壁の時計が三日後の約束を刻むように、カチ、カチ、と音を立てた。


     *


 放課後。

 図書室に戻ると、あの本はもうなかった。

 代わりに、一枚のメモだけが残されていた。


 《決断の日、あなたが選ばなければ、世界が選ぶ》


 柊真は目を閉じた。

 氷の月と炎の月。どちらも、誰かの祈りでできている。

 その祈りを断ち切ることが、本当に正しいのか。


 「……俺が、決める」


 手の中のペンダントが光を放つ。

 世界の境界が、再び開いた。


     *


 雪と炎が混ざり合う夜。

 柊真は二つの大地の狭間に立つ。

 ルーフェリアとアズハが、向かい合っていた。

 どちらも、同じ顔をしていた。


 「気づいたのね」

 「私たちはもともと、一人の女神だった」


 柊真の喉が鳴る。

 彼女たちは微笑む。悲しそうに。


 「分かたれたのは、人の祈り。救いと滅びを、別々に願ったから」


 柊真は両手を伸ばした。

 氷と炎が、彼の腕の中で交わる。

 熱く、冷たく、痛いほど優しい光。


 「俺が、どっちも選ぶ」


 世界が震えた。

 雪が溶け、炎が静まり、夜空に新しい月が浮かぶ。

 白でも紅でもない、青の月。


     *


 現実世界。

 目を覚ますと、朝の光が差していた。

 カーテンの隙間から、柔らかな風が流れ込む。


 柊真は机に置いた「幻想民族誌」を見る。

 表紙は白紙になっていた。

 ただ一行だけ、文字が残る。


 《第三の月、青の時代が始まる》


 彼は笑った。

 ほんの少しだけ、世界が広く見えた。


 窓の外、校庭の空。

 そこに、青い月がうっすらと残っていた。


 ――それが、彼の“決断の始まり”だった。




 午前四時。目覚ましの鳴る二分前に、柊真は目を開けた。

 夢見が悪かったわけでもない。むしろ、頭の奥で氷と炎の呼吸が規則正しく重なっている。鼓動が二拍子で進むのに、からだは一拍の朝を迎える。そんな妙なズレが、ここ数日の常だ。


 制服に袖を通す前、机の上のペンダントに指をのせる。

 白銀の欠片と朱の輪。触れるたび、温度差が掌を行き来する。

 今日は調べる。どちらの言い分が正しいか――いや、正しいという言葉が役に立たないなら、少なくとも自分が納得できる理由を探す。三日後に選ぶのが自分だというのなら。


 登校の足取りはいつもより早かった。始業より一時間も前に学校へ着き、まだ鍵の冷たい図書室へ入る。貸出記録の棚。昨日は見当たらなかった「幻想民族誌」の所在を司書に尋ねると、返ってきた答えは首を傾げるジェスチャーだけだった。

 棚の代わりに、天井から射す斜光の中で埃が踊っている。そこにふっと新しい背表紙が現れた。目の前の空気がゆれる。白い装丁、薄い金の箔押し。

 あの本は、世界の側からやって来る。


 柊真は開く。

 ページの余白に、見覚えのない地図が描き足されていた。黒い線で双つに引き裂かれた楕円。右半分には氷河の記号、左半分には火山の記号。そして、楕円の中心には、空白の輪。


 虚無の回廊、と小さな文字。

 そこから二つの世界へ道が伸びている。


     ◇


 零時、鐘の音に似た反響が胸の奥を叩く。

 世界が割れ、一方の視界は白に満ちた。


 氷の国〈リュミエール〉。

 神殿の階段は雪に沈み、祈りの旗は凍りついて動かない。祭壇の背に立つ光の柱は弱まり、風の音ばかりが響いていた。

 巫女のティラが待っていた。年の近い少女だが、立ち姿は年輪のように落ち着いている。白い外套の兜巾からのぞく髪は薄い亜麻色で、瞳は氷の色だ。


 「来てくれたのですね。記録庫へ」


 彼女に導かれ、石造りの廊下を進む。壁には刻文、床には古い星図。奥の扉を開けば、冷たい空気が鋭く肺を刺した。

 記録庫は地層のように積み上がる書板で満ちていた。氷を薄く切り取った板の中に、墨が走る。熱源を避けるため、灯りは月光を導く反射鏡に限られている。青白い光が棚の縁を撫で、文字の影を浮かべる。


 「ここに、女神の来歴が残っています。すべてではありません。失われた断片も多い。でも、あなたが知りたいことの骨はある」


 ティラは手袋を外して、氷板のひとつを持ち上げた。

 表面に触れると、文字が光を帯びて読みやすくなる。

 柊真は息を呑む。そこに描かれていたのは、双つの女神ではなく、一柱の像だった。輪郭は曖昧で、髪は氷と炎の境目のようにグラデーションを帯びている。目は蒼。


 「ルーフェリアとアズハは……本来、ひとりの神だった」


 ティラは静かに頷く。


 「古き時代、世界はひとつの泉から生まれたそうです。泉を護る神がいました。人々が救いを乞えばその手を取り、裁きを叫べば刃を振るう。矛盾のままにすべてを引き受ける存在です。やがて祈りは二つに分かち合えず、神は裂けた。救いと裁きに」


 「分かれたのは、人の側の願いのせい、ってことか」


 「原因を言い切ることはできません。ただ、裂け目の跡が世界に残りました。太陽が落ち、氷が世界を抱き、燃えさしのような都が生まれた」


 ティラは別の氷板を示す。そこには不思議な子守歌の譜面が残っていた。

 凍てつく夜にゆりかごを揺らし、蒼い月を迎える歌。

 読み進めると、その歌詞の一部が、どこかで聞いたリズムに重なる。昨夜、炎の市場で聞いた露店の節回し。旋律だけが世界をまたいで生き延びている。


 「私たちは、この歌を最後の夜に歌います。延命の歌です」


 ティラは微笑んだ。美しい笑みだが、どこか遠い。


 「救うことは延命にすぎない。私たちはもう、終わっているの」


 言葉は軽く、内容は重かった。

 柊真は思わず顔を上げる。


 「終わってるって、どういう意味で」


 「世界が薄いのです。地平線が紙のよう。風が端をめくって、中身のない白がのぞく。私の父は狩人でした。ある朝、雪原の向こうへ消え、帰らなかった。後を追って行った叔父が言うには、歩いているうちに空が近くなり、ある点から先は、星も風もない壁のようなものがあったと」


 ティラは氷板を両手で抱え、胸の前で固く合わせた。


「私たちの世界は、写しのようなもの。オリジナルの本から剥がれた紙片。救っても、紙片は紙片のまま」


 そう口にしてなお、彼女の手は冷たく震えていた。

 救いを信じたい人の、諦め方だった。


 「それでも君は、祈るのか」


 「もちろん。終わりの身なりを整えるのは、祈りの役目ですから」


 彼女は笑ってみせ、間を置いたあと小さく付け加えた。


 「でも、本当は終わりが怖い。だから、救世主にすがる」


 その率直さに、胸が痛む。

 彼女の絶望は静かな氷の表面みたいに澄み、割れ目は深い。そこに落ちれば、底なしだ。


 「ティラ、記録庫を見せてくれてありがとう。もう少し見ていいか」


 「ええ。あなたの目で確かめて」


 柊真は棚を巡り、言葉の欠片を拾い集めた。古い地図。半分ずつ欠けた法の石。青い月を描いた壁画。

 どれも、ひとつであったはずの何かを、二つに割った跡だ。


     ◇


 同じ零時、もう一方の視界は紅に満ちる。


 炎の都〈アルディア〉は、今日も熱かった。

 市場は騒然としている。魔力炉の燃料を巡る取り合い。軍服のような制服を着た警備兵と、市井の人々がぶつかり合っている。

 抗議の歌が飛び交う。音程は乱れ、リズムは早い。だが、ふいに耳が覚える旋律が混じった。氷の子守歌のねじれた断片だ。


 学徒のレイナは、信号弾の煙の向こうに立っていた。肩までの黒髪を後ろで束ね、眼鏡の奥の目は鋭い。まだ若い。だけど若さは躊躇に直結していない。

 彼女は柊真を見ると、躊躇なく腕を掴んだ。


 「来て。議事堂前が崩れかけてる」


 走る。地面の石畳が地鳴りで跳ねる。塔の石が剝がれ、赤い砂が舞う。

 議事堂前。大人たちが声を張り上げ、壇上では古い議員が何かを読み上げている。救済案。徴収率の見直し。聞こえの良い単語が並ぶ。人々の怒気はそれを吹き飛ばすように熱い。

 レイナは前に出て、短く叫んだ。


 「焼け残りの約束はいらない!」


 どよめきが起きる。彼女の声は硬い石を割るように通る。

 柊真は止めるべきか迷った。だが、彼女の言葉は煽りではない。整然とした論理が炎の芯に通っている。


 「滅びこそが救い。古い秩序を焼き尽くせば、新しい花が咲く。あなたたちは怖いだけ。見慣れた檻にしがみつくために、救いという名の毛布を配る」


 壇上の議員が顔をしかめる。周囲から怒声。押し合いが始まる。

 レイナは振り返って、柊真の目を見る。言葉ではない問いが落ちてくる。あなたはどちらに立つの、と。


 「……俺は、誰も焼かれなくていい道があるなら、それを探したい」


 「それはない。生まれ変わるときは、いったん壊す」


 彼女ははっきりと断じて、しかし声の最後にほんの微かな震えを混ぜる。


 「壊すのが怖いから、壊さないほうが優しいと信じたいだけなの。私だって、本当は怖い」


 その告白に、柊真はティラの静かな笑みを思い出した。

 氷の巫女と炎の学徒。立場も言葉も違うのに、痛みの温度だけは同じだ。どちらも自分の世界の終わりを、別々のやり方で受け止めようともがいている。


 議事堂の階段が崩れ落ちる瞬間、レイナが身を乗り出した。落石の下敷きになりかけた少年を引き上げる。背中に石片が当たって彼女がうめく。

 柊真は反射的に左手を突き出した。炎の紋章が脈打ち、空中に薄い膜が張られる。落ちる石が弾かれて、粉になって散った。


 「……助かった。ありがとう」


 少年は涙と煤で顔をぐしゃぐしゃにし、何度も頭を下げた。

 レイナは肩で息をしながら、横顔だけで笑ってみせる。


 「救いを否定してるのに、助けるんだな」


 柊真が言うと、彼女は短く目を細めた。


 「滅びを選びたいのは、私の理屈。目の前の痛みを見過ごせるほど、強くも賢くもない」


 炎の波が遠くで揺れ、鐘の音が二度三度、鉄の空気を叩いた。


     ◇


 その日の放課後、現実世界の校舎の角で、観測者のリラが待っていた。

 銀色の髪に紅い瞳。二つの女神の中空の影を引き受けたような顔立ち。だが、彼女の表情からは神性の匂いはしない。人の側でしかできない種類の心配を、眉間の皺に隠している。


 「進んでいるわね、調査」


 「進んでるのかどうか、よくわからない。わかるほど、わからないことが増える」


 「それが理解の手応えよ。で、どっちに傾いた?」


 「傾いてない。傾けたくない」


 リラは肩をすくめ、淡く笑った。


 「秤に立つ者が、両方の皿に足を突っ込んだまま立つのは、いちばん難しい。ほとんどの人は途中で落ちる。片方へ」


 「俺は落ちないって言ったら、笑う?」


 「いいえ。期待する」


 期待、と彼女は言った。観測者が対象に抱くには危うい言葉だ。

 リラは窓の外に目をやり、低く囁く。


 「虚無の回廊に行くべき。境でしか見えないものがある」


 「行き方は」


 「あなたはもう、入口を持っている」


 リラの視線は柊真の胸元のペンダントに落ち、そのまま何も言わず踵を返した。背中を夕焼けが染め、歩みは軽いが、影は長い。

 観測者もまた、秤の上で揺れている。


     ◇


 夜。世界が二重に開く瞬間、柊真は両手でペンダントを握った。

 心の中で、白と紅に向けて同じ言葉を転がす。

 今から中間へ行く。止めないでくれ。見届けてくれ。


 視界は白にも紅にも寄らず、青でもなく、色を失った。

 音が消える。風が消える。足音だけが、遠いところで自分のものではないように響く。

 虚無の回廊。地と天の境目がない場所。前後左右の感覚が薄れ、歩くたびに過去と未来が静電気のように肌に触れる。


 遠くに影が立っていた。

 それは女神の影――だが、輪郭は二つに揺れ、中心で重なり合っている。

 近づくほどに、氷の吐息と炎の囁きが交互に耳を打った。


 「お前の心は、どちらを愛している?」


 声は二重に響いた。ルーフェリアの澄んだ響きと、アズハの烈しい反響が、同じ音程で重なる。

 愛している、という言葉に、柊真は立ち止まる。どちらを愛しているか。

 ティラの静かな手の震え。レイナのまっすぐな声の最後の微かな揺れ。

 世界の正義ではなく、人の温度が胸の奥に刺さっている。


 「答えられない」


 正直に言う。

 影は小さく笑ったように見えた。笑い方も二重で、片方は雪解けの音、片方は火の粉の踊る音だ。


 「愛は秤になじまない。ならば、理で選ぶ?」


 「理でも選べない。どっちにも理がある。どっちにも嘘がある」


 「嘘?」


 「救いには見ないふりがある。滅びには見たいものだけを見る目がある。どっちも、人が人でいるための嘘を必要としてる。俺は今、どっちの嘘も抱えきれない」


 言葉にして初めて、自分が何に苦しんでいるのかが輪郭を持った。

影はしばし沈黙し、それから指を鳴らした。音はしないが、空気がひとつ畳まれる感覚がある。


 虚無の壁に、映像が灯った。

 白と紅の境目に、昔の世界が見える。太陽の高さがまだ今より低く、海は深い青、森は濃い緑。大陸がひとつで、人の街は川のように緩やかにつながっている。

 その中央に、蒼い泉。泉の縁に、一人の女が座っている。髪は雪の白から火の紅へ、ゆっくりと色を変える。表情は静かで、微笑は微熱を帯び、瞳は深い湖の色だ。


 「これが、かつて一柱だった女神の記憶」


 影が囁く。

 泉の前に、人々が集う。病の子を抱く母。罪を懺悔する男。戦場から戻った兵士。

 女はそれぞれに手を差し伸べ、時に刃を持ち、時に抱きしめる。

 やがて、人々の言葉が分かれはじめる。救いだけを、裁きだけを、と。

 声は増え、やがて合唱は二つの旋律に分かれてしまう。

 女の髪が、真っ二つに裂けたように見えた。

 泉に落ちる光が白と紅に分かれ、世界の輪郭が破れ目を持つ。


 「あなたたちが求めた。私たちが割れた。だから世界は二つに分かれ、どちらも本物で、どちらも写しになった」


 影の語りは告白めいていて、しかし責める色を含まなかった。

 ただの事実の陳列。けれど、その事実は重い。

 柊真は言う。


 「なら、片方を選ぶってことは……片方の思想を滅ぼすってことだ。人間の争いじゃなく、神々の論争を俺が代理で終わらせる」


 影は頷き、次の問いを差し出す。


 「お前は、それに耐えられるか」


 答えは喉で溶けた。

 耐える、という単語は、傷に塩をすり込むときに使う種類のものだ。

 ティラの歌声。レイナの怒り。どちらも世界の心臓の鼓動だ。

 その片方を止めることが、秤を安定させる方法だとして――。


 「選ばなければ、両方が滅ぶ」


 重なる声が虚無を満たす。

 その警告はもう脅しではなかった。二つの世界の地平が薄くなり、端から白い紙の縁がめくれていく映像が、虚無の壁に滲む。氷原の空が折れ、炎の都の塔が紙のように波打つ。

 現実が、仮の現実であることを隠しきれなくなっている。


 「……選べってことか」


 「選べ。でも、選び方は一つではない」


 影の声が、ほんの少しだけ色を変えた。

 氷の澄明でも、炎の激越でもない。第三の色。蒼。

 虚無の回廊の天井に、星とも月ともつかない光が灯る。

 それは記憶の残り火か、これから生まれる何かの予兆か。

 柊真はその光を、第三の光と呼んだ。


 「第三の光?」


 「二項の外側に立つ視点。救いと裁きの前提を、もう一度生む視線」


 影は両手を広げた。掌のなかで、白と紅の小さな粒が交差する。粒は触れ合うたびに青い火花を散らし、やがて一瞬だけ色をやめた。

 無色の瞬間。そこに、空白ではない手触りがあった。


 「覚えておけ。青は混合の色ではない。分かれる前の、無色の記憶に近い。思い出せるなら、つなげられる」


 「どうやって」


 「それは人の仕事。神は裂けた。だから、織り直すことは、神にはできない」


 影はゆっくりと後ずさり、虚無に溶けはじめる。戻る先は、氷と炎の二方向だ。どちらも未練がましく振り返って見つめてくる気配がある。

 柊真は一歩踏み出した。

 膝は震える。足首は氷の冷たさと炎の熱さの中間で迷い、汗は冬の朝みたいに冷たいのに、こめかみは夏の午後のように熱い。


 「待ってくれ。もう一つだけ」


 影が足を止める。

 柊真は深呼吸し、問いを投げた。


 「俺が両方を愛していると言ったら、それは秤を壊す理由になるか」


 影は短い沈黙のあと、かすかな微笑を浮かべた。

 氷も炎も、ほんの少しだけ柔らかくなる。


 「愛はいつも秤を壊す。だから世界は愛を怖がる。でも、壊れた秤の代わりに、手で抱きしめることを覚えたとき、人は少しだけ世界より強くなる」


 言葉は詩のようで、同時に具体でもあった。

 ティラの歌と、レイナの叫びを、手で抱きしめる。延命と破壊を、両方抱えたまま、どちらにも言い訳しないやり方。

 それは理屈にならない。けれど、理屈の前にあるものだ。


 「第三の光を見たなら、行きなさい」


 影が指差したのは、虚無の回廊の中央の空洞だった。そこに、細い橋のような光条が一本だけ伸びている。左右に張った見えない糸の上を、綱渡りするみたいな道。


 「その先に、根がある。二つの世界の根。旧世界のコピーが分岐した、本の綴じ目」


 根、という単語に、胸が跳ねた。

 綴じ目を見られるのなら、閉じられた頁を縫い合わせる方法があるかもしれない。


 「ただし、根は痛む。触れれば、どちらかの悲鳴を聞くことになる」


 「もう聞いてる。どっちの悲鳴も」


 柊真は歩き出した。足裏が音のない橋に触れ、そのたびに胸の鼓動が大きくなる。

 一歩ごとに、氷と炎の記憶が閃光のように脳裏を行き来する。ティラの指先。レイナの横顔。ルーフェリアの静謐。アズハの苛烈。

 その全部が、同じ泉の水音に収束する。


     ◇


 根は、図では見たことのない形をしていた。

 木でも川でもなく、繊維に近い。透明な糸が束ねられ、ところどころが赤く焦げ、ところどころが白く凍り、中心にかすかな蒼が流れている。

 近づくと、糸が震えた。

 世界の外側にあるはずの痛みが、骨の内側に伝わってくる。


 「ごめん」


 誰に向けたのかわからない謝罪が口をついた。

 右手の短剣を逆手に持ち、刃を糸に当てる。切るためじゃない。絡まったところを、ほどくために。

 短剣は氷の光を帯び、左手の紋章は炎の律動を刻む。

 両方の力を同時に使うと、刃は無色に近づいた。

 蒼い火花が、小さく散る。


 そのときだ。

 遠くで、鐘が鳴った。氷の国の月鐘と、炎の都の火鐘が同時に。

 重なった音が虚無の回廊を震わせ、橋がたわむ。

 糸が悲鳴を上げた。凍った部分が一斉に軋み、焦げた部分から煙が上がる。

 柊真の視界が揺れ、膝が折れそうになる。


 「やめろ」


 誰かの叫びが耳に届く。

 ティラの声に似て、レイナの声にも似て、女神の声にも似て、リラの声にも似ている。

 それでも柊真は、刃を離さなかった。


 壊すために触れているんじゃない。

 戻すために触れている。

 口の中で、聞いた子守歌をなぞる。氷の旋律と炎の拍子。二つを合わせるのではなく、前に流れていたかもしれない無色のリズムを探る。

 音のない歌。

 刃が、かすかな手応えをつかむ。

 絡まった繊維の結び目が、ゆっくりと緩む。


 「そう」


 背後で、影が小さく息をついた。

 無色の火花が一つ、二つ。

 蒼の筋が太くなると同時に、氷と炎の両方で、遠い歓声と遠い嘆きが重なった。

 誰かが助かった。誰かが失った。

 選ばなくても、選ばされる。世界とはそういう総和でできている。


 「……まだ、足りない」


 柊真は立ち上がり、もう一度ペンダントを握りしめた。

 白と紅の欠片が、掌の熱の中で淡く震える。

 掌の真ん中に、ほとんど見えないほど小さな光点が生まれた。

 第三の光。

 蒼が、点から線へ、線から面へ、面からごく薄い膜へ。


 膜は糸の周囲に広がり、凍りと焦げの境目を包んでいく。

 それは接着ではない。包帯に近い。時間を稼ぐための覆い。

 延命か、と問われれば、きっと延命だ。

 でも、ただの延命ではない。

 新しい肉が下で育つための時間。縫い合わせる針を探すための猶予。


 「ありがとう」


 誰の声かは、もう判別できなかった。

 氷の澄んだ響きも、炎の低い唸りも、同じところへ落ちていく。

 女神が一柱だったときの、泉の水音に。


     ◇


 現実に戻ると、朝の光がもう白く強かった。

 校舎の壁は冷たく、渡り廊下のガラスの向こうで、グラウンドの砂が光る。

 柊真はベンチに座り、しばらく息を整えた。

 胸の鼓動は、二拍でも三拍でもない、聞き慣れないリズムで落ち着く。

 いつも二つに割れていた視界が、一瞬だけ一つに重なり、すぐにまた元の二重に戻った。


 「顔色、悪い」


 声に顔を上げると、美咲が不安そうに覗き込んでいた。

 彼女はポケットから飴を取り出し、無造作に差し出す。


 「糖分。あと、水」


 「ありがと」


 飴の甘さが、夜の虚無の味を少しだけ押しやる。

 柊真は、自分の口からどこまで話していいのか測りながら、言葉を選ぶ。


 「もし、二つの意見があって、どっちも正しくて、どっちも間違ってたら、どうする」


 「どっちも大事にする。で、どっちにも怒る」


 美咲の答えは、拍子抜けするほど真っ直ぐだ。

 けれど、その真っ直ぐさが今は羨ましい。


 「怒る、か」


 「うん。正しいつもりで誰かが傷ついてたら、怒る。間違ってるつもりで誰かが守られてたら、喜ぶ。なんか変?」


 「全然」


 柊真は笑った。

 感情は秤を壊す。影はそう言った。

 壊れて困る秤もある。けれど、壊さなきゃ見えない目盛りもある。


 風が吹き、校舎の影が伸びる。

 その影の端で、リラが壁にもたれ、目だけで合図を送った。

 時間はない、と言っている。


     ◇


 夜が来る。

 氷の国では、ティラが子どもたちを集め、最後の夜に歌う歌を教えている。

 炎の都では、レイナが仲間と地図を広げ、古い魔力炉の系統を赤い線で囲んでいる。

 どちらの横顔にも、恐れと決意が混ざる。

 柊真は、二つの世界を渡り歩きながら、虚無の回廊の根へ通う道を頭の中に地図のように描いた。

 包帯は一度だけでは足りない。何度も巻き替え、滲む血の色で圧迫の強さを変える必要がある。


 アズハは遠くの塔から彼を見て、唇の片端を上げる。


 「面白いことを思いついた顔」


 「延命だよ」と返すと、女神は肩をすくめた。


 「延命は退屈。けど、退屈の先にしか見えない夜もある」


 ルーフェリアは凍る湖のほとりで、彼の手に自分の指を重ねた。

 指は氷のように冷たいのに、心は痛いほど温かい。


 「あなたの包帯は、痛みを先送りにしているだけかもしれない。それでも、息継ぎの時間は尊い」


 神々の言葉が、初めて似た温度で揺れた気がした。

 どちらも彼の選び方を、完全には否定しない。

 秤の皿はまだ水平から外れていない。


 そのとき、空に薄い影が走った。

 白でも紅でもない、細い線。

 第三の光が、二つの世界の空に同時に現れ、すぐに消えた。


 見たのは柊真だけではない。

 ティラは歌の途中で顔を上げ、レイナは地図の上に影を落として目を細めた。

 彼女たちは互いを知らない。けれど、同じものを見た。

 知らない誰かの息継ぎの気配を、同じ高さで吸い込んだ。


     ◇


 虚無の回廊。

 根に新しい包帯を巻きながら、柊真は影に問う。


 「第三の光は、記憶なのか、未来なのか」


「記憶は未来の雛形になる。未来は記憶の使い方で形を変える」


 「ずるい答えだな」


 「ずるくない答えは、秤を安心させるけど、世界を退屈させる」


 影の口調は、どこかリラに似ていた。観測者と女神の影は、ときどき似た響きになる。

 観測する者は、世界を少し上から見下ろせる位置に立つ。落ちれば、ただの人だ。

 人であることの重さを、柊真は今日になってやっと、正面から握りしめられた気がする。


 「俺は両方に怒る。両方を抱える。両方に包帯を巻く。で、三日後に間に合わせる」


 「包帯は間に合わせるための道具。間に合うかどうかは、手つきのせい」


 「じゃあ、見てろ。手も震えるし、汗で滑るけど、ちゃんと結ぶから」


 影は何も言わない。

 かわりに、虚無の天井の第三の光が、ほんのわずかに明るさを増した。


     ◇


 朝のチャイムが鳴る。

 現実世界の教室で、先生が小テストを配る。世界史。

 紙の上に並ぶ年号と事件。○○会議。△△革命。

 人の選択の積み重ねが、黒い文字になって並ぶ。


 ペン先が止まる。

 最後の設問に、空欄。

 問いはこうだ。


 「どの選択が正しかったと思うか。自分の言葉で書け」


 柊真は笑う。

 ずいぶん乱暴な問題だ。でも、世界はいつもそうだ。乱暴で、無遠慮で、こっちの準備を待ってくれない。

 紙の端に、小さく書く。


 「正しかった、ではなく、正しくし続けた、だと思う」


 提出して教室を出ると、廊下の端にリラが立っていた。

 彼女は手のひらを軽く上に向けて、短く頷く。

 行こう、という合図。

 残り、二日。


 氷と炎の双界は、今日も薄く擦れながら回っている。

 両方の空に、ごく細い第三の光が、見えるか見えないかの濃度で横たわっていた。


 ――その光が、ただの延命で終わるのか。

 ――それとも、二つの論争を出発点にする新しい呼吸へ育つのか。


 答えは、まだ虚無の回廊の奥にある。

 でも、もう手探りではない。

 無色の手触りは、確かに指先に残っている。



 決断の日は、思っていたより静かに始まった。

 午前零時を回る直前、世界は二つの月をゆっくりと重ね、影と光が薄い膜のように折り重なっていく。氷の国〈リュミエール〉の蒼白い月と、炎の都〈アルディア〉の朱の月。互いの縁が触れた瞬間、見慣れた街並みの輪郭が紙の端みたいにめくれ、向こう側に別の現実が透けて見えた。


 柊真は、二つの場所に同時に立っていた。

 右の視界には雪に沈む大神殿。氷柱でできた高い扉が、祈りの歌に合わせてわずかに震えている。巫女のティラが階段の下で待っていた。白い外套の裾に霜がつき、息は細い煙になって空へ溶ける。

 左の視界には赤い塔の頂。焼けた石の匂いと、乾ききった風。学徒のレイナが崩れかけの欄干に手をかけ、下に広がる都市を見下ろしている。夜なのに街は明るい。溶岩の川が筋を描き、魔力炉の警報灯が立てつづけに点滅している。


 「こっちを救って」

 「――あっちを滅ぼして」


 同時に届いた声は、懇願の形を取りながら、その裏にそれぞれの論理の骨格をはっきりと透かせていた。ティラは救いの儀式を整えるための準備の指示を飛ばし、レイナは破壊の連鎖を最小化するための停止コードを仲間に伝えている。どちらも、迷いながら、迷いをごまかさないやり方で最善を尽くそうとしていた。


 柊真は、どちらの階段も降りなかった。

 両方の場所で、同じ高さに立ったまま、短く息を整え、口をひらく。


 「――どっちも、救うよ」


 その一拍目の台詞は、誰にとっても侮辱ではなかった。軽さで逃げるための言葉ではなく、重さを抱えて進むための宣言だということが、彼の顔色と背筋の張り方に出ていた。ティラはわずかに目を伏せ、レイナはほんの一瞬だけ肩の力を抜いた。


 「なら、見届ける」ティラが言う。

 「なら、怒るべき時は怒るから」レイナが言う。


 月が重なりきる。世界中の鐘が、遅れて一斉に鳴りはじめた。氷の国の月鐘と、炎の都の火鐘。金属の音と、焼けた空気のうなりが、二重に重なって鼓膜を震わせる。虚無の回廊へつづく目に見えない扉が開くのを、内臓の裏側で感じた。


     ◇


 虚無の回廊は、今夜はじめて「風」を持っていた。

 前にはなかった。音も温度も奪い取る無の廊だったはずが、細く流れるものがある。触れればたぶん、痛みと似ている。だが、痛みよりは少しだけ優しい。包帯の下でじんわりと沁み出る血が、皮膚を湿らせるような感触だ。


 観測者のリラが入口に立っていた。銀色の髪が、風のないはずの空間で細く揺れる。瞳は紅でも蒼でもなく、今夜は色が薄い。彼女は説明をしない。ただ、指で一本の線を描く。前へ、と。


 「戻れなくなっても、記録は続ける。あなたの選択の先に、世界がどんな言葉を発明するか、見届ける」


 それは祈りに似ていた。観測者にとって祈りは禁じ手のようなものだろう。それでも今夜、彼女は禁を踏む。


 柊真は頷いて、歩き出した。

 足下にうすい光の橋が伸びる。左手の炎の紋章が静かな拍を刻み、右手の氷の短剣が呼吸のリズムを整える。両方を同時に握るほど、刃は無色に近づいていく。第三の光が、掌の中心に小さな点となって灯る。


 根に至る。

 二つの世界を縫い止めているはずの繊維は、今にも音を立ててちぎれそうだった。白い凍結と赤い焦げが互いに食い込み、結び目は膿んでいる。重なった月の引力が綴じ目を引っ張り、縫い目がギシギシと軋むのが指の骨に伝わる。


 「始める」


 誰にともなく言って、柊真は刃を当てた。切るためではない。ほどくため。

 氷の刃が凍結の縁を解かし、炎の紋章が焦げを柔らかくする。二つの力を交互ではなく、同時に、同じ場所へ。白と赤が混じって青になるのではない。白と赤の前にあった無色へ、ひと呼吸だけ戻してやる。


 世界がうなった。

 ティラの祈りの歌と、レイナの停止コードが、回廊の天井に反響する。歌とコードは似ていた。規則と希望の混じった音列だ。氷の拍子は延命のために緩やかで、炎の数列は破局を制御するために鋭い。二つを同時に浴びると、耳の奥の奥で第三の旋律が生じた。どちらのものでもない、しかしどちらでもある、無色のフレーズ。


 「――柊真」


 声がした。女神の影が、二つの輪郭のまま現れる。ルーフェリアの澄んだ面差しと、アズハの烈しい横顔。重なり合いながら、目だけが同じ蒼で光る。


 「問う。媒介となる覚悟はあるか。お前が裂かれ、記憶が分散するのを、恐れないか」


 「恐いよ」


 「なら、やめるか」


 「恐いまま、やる」


 返事はすぐに出た。恐怖が消えたからではない。恐怖は消えない。消えないものと一緒に歩く手順を、彼はこの数日で覚えた。


 「では、儀を重ねる」


 女神の影が両手を広げる。回廊の床から細い柱が幾本も立ち上がり、柊真の体の周りで輪を作った。古い世界の文字が光り、氷の文様と炎の紋が、互いの線をなぞって重なっていく。

 柊真は膝をつき、ペンダントを胸の上に置いた。二つの欠片の真ん中に、第三の光が小さく脈打っている。


 「短く、言葉を」


 「お願いします、じゃない。やらせてください、でもない」


 柊真は、あの日図書室で開いた本の白紙の最初のページを思い出した。言葉を探し、見つけ、選び取る。


 「結ぶ。俺自身を糸にして、結ぶ」


 回廊が青く光った。

 氷が歌い、炎がうなり、無色の点が一気に線へ、面へ、そして薄い膜へと広がる。膜は根の周囲に伸び、白と赤の境界を包んだ。包帯のように、しかしただ覆うのではなく、内側から滲み出る再生の気配をうながす。


 反動が来た。

 肩から裂けるような痛み。胸骨の中央がぱきりと鳴り、視界が右と左にぐっと引き裂かれる感覚。記憶がひとかたまりであった場所に、突然細かな裂け目が走る。小学校の裏庭で転んだ時の匂い。初めて買った参考書の重さ。美咲がくれた飴の甘さ。ティラの指の冷たさ。レイナの息の熱さ。全部が一瞬にして、手からこぼれる砂粒みたいに拡散していく。


 「――っ」


 声にならない声が喉で燃え、凍った。

 それでも両手は離さない。短剣の柄は熱を持ち、紋章が掌を焼く。焼けた匂いと、冷え切った痛みが同じ場所で混ざると、体がどこかで軽くなる。苦痛の向こう側に一枚膜があって、そこに乗ると、痛みの形そのものが見える。


 ティラの声が、遠くで重なる。

 「ありがとう。選んでくれて」


 同じ言葉が、別の熱で重なる。

レイナの声だ。

 「ありがとう。選び直してくれて」


 世界が息を吸った。

 氷の国の空がきしむ音が止まり、炎の都の塔の亀裂が一瞬だけ閉じる。回廊の中央で、女神の影の輪郭が近づいた。裂け目に蒼い光が満ち、二つの顔がゆっくりと重なっていく。髪は白から紅へと渡り、その流れの中に無色の帯が一本だけ走る。

 かつて一柱であった女神が、反転を終えて戻ってくる。


 「戻ったわけではない」


 彼女は言った。声は澄んでいて、熱があった。

 「あなたが、私を新しくした」


 そこで、柊真の視界が一度、完全に消えた。

 体が倒れたのかもしれない。けれど、倒れるほどの重さももう感じない。代わりに、枝分かれする記憶の細い糸が、世界のいろんな場所に結びついていくのを、遠くから見るみたいに知っていた。


     ◇


 再構築は、一瞬であり、永遠でもあった。

 氷でも炎でもない、蒼い黎明が、地平の向こうから広がる。空の青さは朝の冷たさではなく、深い湖の底から光が上がってくるような濃さで、遠くの山脈の稜線に薄い蒼の輪郭が現れる。

 雪原には透明な樹が生え、その樹皮は氷のように見えて、触れればほのかに温かい。枝先で咲く花は火の粉の形をしているが、燃えない。触れれば柔らかく、指に薄い湿り気を残す。

 街路には水路が掘られ、そこを流れるのは水ではなく、蒼い霧。霧は冷気を吸い、熱をほどき、家々の壁の裂け目をゆっくりと塞いでいく。人々の頬は紅潮し、目は涙で潤むが、それは悲しみの涙ではない。痛みのあとにやってくる、感覚が戻っていく時の涙だ。


 蒼の国に、名前はまだない。

 人々は自分たちの舌で、それぞれの言葉から新しい音を持ち寄り、やがて一つに落ち着いていくだろう。今は呼び名のない時間を、誰もが驚くほど静かに受け入れている。

 ティラは白い外套を脱ぎ、蒼い帯を腰に巻いた。彼女は神殿の石段を降り、子どもたちの手を順番に握る。歌は変わった。延命の旋律ではない。迎える歌でも、見送る歌でもない。名前のない、しかし誰もがすぐに覚えられる歌。

 レイナは塔から下り、議事堂の広場で長机を並べた。燃えすぎる魔力炉の主系統は停止し、代わりに霧の水路を動力に変える仕組みを、学徒たちが図に描く。古いものを焼きもせず、ただ置き換えるでもない。手を入れて、少しずつ別の形にしていく。彼女は工具を握る手を止めて空を見上げ、うなずいた。怒るべき対象がまだあることを確かめ、しかし今は怒りだけに居座らせない。


 誰も、「柊真」という名を知らない。

 彼の顔も、声も、どこの記録にも残らない。残ったのは、散った記憶の温度が、いくつもの人の手の温もりに混じっているという事実だけだった。

 ただ、一冊の本だけが、蒼い国の最初の図書室の棚に並んだ。表紙は布張りで、題は簡潔だ。


 『救うか滅ぼすか、その問いのあとで』


 開くと、最初の一行に、こう記されている。


 ――あなたが救うのは、どちらの世界ですか?


 問いは、答えを持たない。けれど、問いの形が綺麗だ。綺麗な問いは、誰かの生活の手つきに変わる。蒼い国の人々は、毎朝その一行を読み、台所で鍋の火を調整する時、通りで困っている人に手を伸ばす時、議論の机で言葉を選ぶ時、少しだけ肩を落として、また上げる。


     ◇


 現実世界の図書室。

 受験前の午後、窓から差す光が机の上の塵を照らす。

 美咲は、見慣れない背表紙を見つけた。白地に蒼の箔押し。本の題は、奇妙に胸にひっかかった。

 手に取る。紙の質は新しい。けれど、インクの匂いはどこか懐かしい。

 ページを開く。最初の一行が目に飛び込んできた。


 ――あなたが救うのは、どちらの世界ですか?


 美咲は思わず、顔を上げる。

 図書室の奥、窓際の席。いつもなら柊真が座っているはずの場所は、空いていた。椅子の背に、誰かの指が残したような小さな引っかき傷がある。

 彼に渡そうと思ってポケットに入れていた飴が、指の中で少し柔らかくなっている。

 美咲はその一行をもう一度読み、ページをめくった。


 書き手の名前は、どこにもない。

 けれど、行間にいる誰かの気配は、確かなものとしてそこにいた。問いが、ただの命令や教訓ではなく、手紙のように届く。投げつけられるのではなく、渡される。


 ふいに、図書室の扉が開いた。

 銀色の髪の転校生――リラが入ってくる。相変わらず感情の色は薄いが、目の底にわずかな疲れの皺が浮かんでいる。

 彼女は本棚の前で足を止め、少し迷ってから、美咲の近くの席にそっと座った。


 「それ、いい本」


 「知ってるの?」


 「ううん。今、知った」


 リラはそう言って、微かに笑った。観測者が「今、知った」と言うとき、それは世界の側からの知らせを受け取ったということなのだろう。

 彼女は机の上に手を置き、本の角に触れる。指は冷たいが、触れ方は丁寧だ。


 「ねえ」美咲は迷いながら口を開く。「あなたは、どっちを救う?」


 「今は、ここ」


 リラは図書室の光景を見回す。埃が踊る。窓の外でグラウンドの砂が光る。誰かの咳払い。紙の音。

 彼女は小さく息を吸い、吐いた。


 「でも、どっち、という問い方じゃないやり方を、探す人がいた」


 美咲は黙って本に目を落とす。問いのあとに続く文章は、物語の形をしていた。世界の裂け目に手を伸ばす誰かの話。氷の国と炎の都。第三の光。包帯の使い方。

 読み進めるうちに、美咲は指に残っていた飴を机の上にそっと置いた。紙の包み紙が光を弾く。

 誰かが戻ってくる場所は、こうして作るのだと思う。


     ◇


 蒼い国の夜。

 女神は泉のほとりに立っていた。髪は白から紅へとゆっくり色を変え、その流れに無色の帯が混じる。泉の水面には星が映り、波紋は静かだ。

 彼女は両手を水に浸す。冷たさと温かさが同時に骨に届き、痛みは痛みの形をやめて、ただの記憶に変わる。


 「あなたは、どこ」


 問いは風に投げられ、どこへも届かないようで、どこにでも届く。

 返事はない。けれど、泉の底の砂が少しだけ動き、薄い泡がひとつ浮かび上がった。

 女神は微笑む。泣いてはいない。ただ、目の端にかすかな水気が残る。それは悲しみではない。新しく覚え直した感情の名前が、まだ決まっていないだけだ。


 「では、私が言葉を探す。あなたが結んだものに、名前を」


 彼女は水から手を上げ、空を見上げた。

 二つだったはずの月は、今はひとつの大きな輪郭に溶けている。色は薄い蒼。輪郭の外側に、白と紅の髪の毛ほどの縁取り。

 新しい祈りは、誰かを滅ぼすためのものではない。

 誰かの延命だけで終わるものでもない。

 祈りそのものが世界の手つきになる。鍋の火を弱める手。見知らぬ人にドアを支える膝。机の上で言葉を選ぶ間。

 その手つきに、名を与えるのが神の仕事であり、人の仕事だ。


     ◇


 虚無の回廊の奥。

 細い光の橋は、今夜はもう使われていない。代わりに、橋の下に薄い霧が流れる。そこに、文字にならない音が積もっていく。笑い声、怒鳴り声、祈り、歌。

 柊真の気配は、霧の中に薄く散っていた。輪郭はない。けれど、霧に手を入れれば、指先にぬるい温度がまとわりつく。

 そこに、戻るべき形はない。

 けれど、呼べば、どこにでも立ち上がる気配がある。図書室の机の上。蒼い国の水路の橋のたもと。ティラの歌声の間。レイナの図面の余白。リラのまぶたの裏。美咲の飴の紙の皺。

 霧は、呼ばれた場所でだけ、短い時間、姿を持つ。姿といっても、形は曖昧だ。誰かの肩に触れる風、ページをめくる指先、鍋の火を弱める手首の角度。

 第三の祈りは、そういう形でだけ現れる。

 そして、そういう形でしか、続かない。


     ◇


 翌朝。

 美咲は本を閉じ、貸出カウンターに向かった。

 「これ、借ります」


 司書は一瞬だけ不思議そうな顔をしてから、にこりと笑って頷いた。貸出カードに本の題を書き込む。ペン先が紙を滑る音が、やけに心地よい。

 図書室を出ると、廊下の向こうにリラが立っていた。彼女は無言で親指を立て、すぐに背を向ける。


 美咲はポケットの飴を取り出し、ひとつ口に放り込む。甘さが広がる。

 これを誰かに渡す日が、また来る。

 その時どんな言葉を一緒に渡せるか、彼女は自分の舌で確かめながら階段を降りた。


 外は、いつもより少しだけ蒼かった。

 世界はたぶん、昨日より少しだけ、第三の光のことを覚えた。


 そしてページの最初の一行は、読み手を替えながら、今日も静かに問いを続ける。


 ――あなたが救うのは、どちらの世界ですか?


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