青の街 2
人間界 日本のとある街の古びた洋館
マディラが一階の廊下を歩くと、薄暗がりの中でふと立ち止まった。
視界の端に揺れるように映る幻影が、彼女の思考をかき乱す。
気づけば、古びた洋館の中にいるかのようだった。
窓には黒ずんだ蔦が絡まり、まるで侵入者を閉じ込めるかのようにしっかりと張りついている。
応接間は広々としていて、かつてはダンスホールだったのかと思わせるほどの空間だが、薄暗く不気味で、どこかひんやりとした空気が漂っていた。
部屋の中央には、中学生くらいの髪の長い女の子が椅子に縛られている。
彼女の表情には、恐怖と苦痛が滲み出ていた。マディラが息を呑むと、その周囲には三人の人物が見える。
屈強な体格の男が腕を組み、まるで見張りのように立っている。
髪の長い女性は冷ややかな視線を女の子に注ぎ、何かを見透かすような冷酷さが感じられた。
さらに、その横には、背が高くひょろりとした青年が不気味に微笑み、じっと女の子を見つめている。
少女は苦しげな顔で何かを自白させられているようだが、催眠術にかけられているのか、表情がぼんやりと曇っている。
マディラはこの光景に耐えられなくなり、頭を強く振る。すると、幻影がかき消されるように消えていった。
しかし、安堵する暇もなく、彼女の目に別の光景が飛び込んできた。
同じ古びた応接間で、今度は白いフードを被った男性が現れ、中高生くらいの男子に向かって鋭い真空の刃を放っていた。
刃は冷酷な音を立てて男子の脇腹に突き刺さり、傷口がぱっくりと裂け、多量の血がどくどくと溢れ出した。
男子は痛みに歪む表情を浮かべながらも、立ち続けるのがやっとの様子で、貧血で頭がぼんやりとしているのか、足元がふらついている。
連続する凄惨な光景に、マディラは一瞬足がすくんだ。
「あたし……ここに来たことある?」彼女は自分の声がかすかに震えていることに気づきもせず、呟いた。
横で立ち止まった蒼が、首をかしげて「そうだったかな……?」と曖昧に答える。
その声もどこか頼りなく、マディラの不安は深まるばかりだった。
それを察したのか、ジュリアンがそっとマディラの手を取り、優しく握りしめた。
「心配ない。僕らは今、こうしているじゃないか」彼の穏やかな声が、彼女の不安を少し和らげた。
マディラは繋がれた手を見つめ、わずかに頬を緩める。
そんな彼女を見た蒼が、ちらりと二人の手元を見て「ちぇ」と小さく舌打ちする。
異様な雰囲気のまま歩き続ける三人を、最後尾にいたセバスチャンが無言で見つめていた。
彼の視線は冷ややかで、その瞳には何か不穏な影が浮かんでいるようだった。
廊下にいた4人は、古びた木製の扉の前で立ち止まり、互いに視線を交わした。
蒼が重厚な扉の取っ手を静かに引くと、応接間が姿を現す。
マディラが幻影で見たのと同じ部屋だが、違うのは、不気味な蔦がすっかり取り除かれており、午後の日差しが優しく差し込んでいることだった。
木のフローリングが光を受けて温かな輝きを放ち、部屋の空気にどこか落ち着いた雰囲気を漂わせている。
「ささ、入って!」と蒼が手で招き入れ、マディラたちは部屋に足を踏み入れる。
壁には時代を感じさせる絵画や装飾品が並び、重厚さを残しつつも、インテリアには現代風のアレンジが施されている。
応接セットが暖炉の前に置かれ、そこから見える席には座り心地の良さそうなクッションが配置されていた。
暖炉は使われていないが、そのデザインは部屋に温もりを添えているようだった。
蒼は手のひらを開いて3人を示し、「ここに座って、くつろいで」と促した。
マディラたちが席に着いたちょうどその時、扉が再び静かに開かれ、涼やかな足音と共に一人の女性が入ってきた。
彼女は20代前半のようで、細身でありながらもしなやかな体つきをしていた。
肩甲骨あたりまで流れる艶やかな青みがかった黒髪が彼女の顔周りを美しく彩り、深い青緑の瞳はどこか幻想的で、まるで夜の海のように輝いていて、白い肌とのコントラストが美しい。
その落ち着いた雰囲気と透き通るような肌がどこか異質で、視線を引きつける。
「紹介するよ、彼女はマリナ」と、蒼が微笑んでマディラたちに紹介した。
マリナはにっこりと微笑み、お盆に載せたお茶セットをテーブルにそっと置いた。
陶器のカップに注がれたお茶からは、ほのかに爽やかな香りが漂い、部屋に清涼感をもたらしている。
「皆さん、初めまして。どうぞ、リラックスしてお過ごしくださいね」と、彼女は優しい声で一行に話しかけた。
マディラは一瞬、彼女の瞳が水面のように不思議な青緑に揺れるのを見て、息を飲んだ。
ジュリアンは少しの間、彼女を見つめる。
その様子から察するものがあったのか、静かに「君は……ニーベル人じゃないね。だけど普通の人間でもない」と、問いかけた。
蒼はそれを受けて、少し笑みを浮かべながら、「やっぱり、お前はわかるか……彼女は、人魚なんだ」とさらりと告げた。
「……人魚?」と、マディラが驚いた顔で言葉を繰り返す。
彼女は半信半疑の様子でマリナを見つめ、どこか夢のような話に呆然とした。
その場に一瞬、張り詰めた空気が流れる。
ジュリアンが険しい表情で続ける。
「陛下は、ご存じなのか?」
蒼は顔を逸らし、気まずそうに肩をすくめて、
「特には言っていない。そして彼女には、俺は人間ではなく、異世界の扉を守っているとしか話していない。おそらく彼女は、力がなくてニーベルに入れない」と、少し遠い目をして答えた。
蒼の言葉には、どこか彼女を思いやる感情が滲んでいる。
ジュリアンは少し考え込むように頷き、冷静な声で「そうか……」と言うと、さらに視線を鋭くし、蒼に告げた。
「君たちがお互いに秘密を他言しないなら、僕らは黙認するけど、これで扉番の任務に関わるトラブルがないことを願う」
蒼はその言葉に、少しだけいたずらっぽく微笑んで「わーってるよ、それくらい」と返した。
その目には冗談交じりの光があったが、どこか真剣さも感じられた。
蒼はすっと表情を変え、何か別の話題へと話を進めようと、周囲を見渡した。
部屋には微かな沈黙が漂い、マディラは、目の前に座る彼女のその仕草を見つめながら、不思議な空気の中でただ黙って息を飲んでいた。
蒼は、湯気が立ち上るカップを手にし、少し熱そうにお茶を飲んでから、視線をマディラとジュリアンへと向けて問いかけた。
「で、お前らはなんでここに来たの?探し物があるって聞いたけどさ」
マディラは少し驚いたように顔を上げ、「そうなのよ」と頷く。
蒼の視線が、マディラの目を真っ直ぐに見据える。「で、具体的に何を探してるの?」とさらに尋ねる。
部屋の他の全員も、マディラの言葉に静かに耳を傾け、話の続きを待っていた。
ジュリアンもセバスチャンも、具体的に何を探しているかは聞かされていない。
マディラは少し戸惑いがちに口を開いた。
「短剣なんだけど……ちょっと特殊で、柄頭に水晶がついているの」と、マディラは困ったように言い淀む。彼女の言葉が徐々に重たく響き始めた。
彼女は視線を伏せ、少し間を置いて続けた。
「その短剣はクレイヴと言うのだけど……魔剣で、特殊な効果を発揮するために人の血を吸うの。水晶自体は透明なんだけど、血を吸った後は中心が赤く染まるの」
彼女の声が一層低く、囁きにも似た調子に変わった。
「そして……この世界どころか、この街にあるわ」
「何だって?」
話を聞いていたジュリアンが一瞬、視線を鋭くして聞き返す。
ジュリアンが、この洋館の地下の扉の部屋を出ようとした瞬間にマディラが感じた奇妙な気配、そして誰かに呼ばれるような感覚。
それは蒼の飛び込みで有耶無耶になってしまったけど、今もずっと感じていた。




