目覚め 7
マディラを塔に隔離してから6日目の朝。
ジュリアンは、たまたま今日は夕方近くに外せない予定が入っているだけで、比較的時間のゆとりがある1日だ。
マディラを午前中に迎えに行けばいいとだけ確認をしていて、正確な時間を取り決めていなかった。
とりあえず、自分の身支度が終わった9時少し前くらいに、ジュリアンは塔の鍵を開けに行くことにした。
一体何をしながら彼女はこの瞬間を待っているのだろうか……?
修行を終えて、どんな姿になっているのだろうか。見た目は全く変わっていないかもしれないし、何か大きな変化があるかもしれない。
そう思いながら、鍵を開けて扉をそーっと引いて隙間から覗いた瞬間。
想像を絶する世界がそこには広がっていた。
床は血で真っ赤に染め上がっており、部屋の隅には彼女のフラットシューズが無造作に転がっているが、肝心のマディラの姿が見えない。
「そんなバカな!なんだこれは」
ジュリアンは思わず叫びながら扉をガバッと開け切り、すぐさま結界を解いて中をのぞいたところ、扉付近の壁際に、血塗れのドレスに包まれてマディラが倒れているのを発見する。
室内に入り、他の人に見られないようにすぐに扉を閉めて、大股で彼女のそばに駆け寄り抱き上げる。
「おい、マディラ、しっかりしろ!マ——」
彼女の名前を呼びかけようとしたところ、急に背筋が凍り、そっと彼女を床に置いて、彼はゆっくりと数歩後退する。
マディラが死んでしまったのではないかと焦ったが、体は暖かかったのでひとまず安心をしたのだが。
一瞬、怪物に彼女の体が乗っ取られてるのかと彼は思った。
凄まじいオーラが、彼女を包んでいたのだ。今までのマディラの雰囲気と全く違う、恐ろしい気に満ちていた。
「マディラ……」
名前を呼ばれたその肉体は、まるで糸に引かれるかのようにゆらりと上体を起こした。
王妃の肌は青白く、疲れ切った表情が浮かんでいたが、ゆっくりとジュリアンの方を向き、半眼でこちらを見つめてきた。
その目は、以前の愛らしい光とは違い、何か別の、底知れぬ冷たさが宿っていた。
次の瞬間、彼女はゆっくりと口を開いた。しかし、そこから発せられた声は、今まで彼が一度も聞いたことのない声色で、冷ややかで、どこか威圧的な響きを持っていた。
「そなた……グリーンフレードム国の現国王だな。ここに籠る前に話しをしていたな。ニーベル人か。誰か、この国の王家のものはいないのか」
言葉はゆっくりと、しかし鋭く突き刺さるように放たれ、ジュリアンの耳元に響いた。
彼女の声には冷酷さが宿っており、王は一瞬、言葉を失った。目の前の光景に心が引き裂かれそうになる。
彼は喉の奥に緊張を感じながらも、冷静さを保とうと必死だった。
しかし、すぐに気を取り直し、毅然とした声で答える。
「先代の女王なら……お前は誰だ?」
「ワラワはアテナエル。その先代の女王とやらに、「アテナエルがトーラーについて知りたがっている」と伝えろ」
その声は、マディラの口から出ているにもかかわらず、遠くのどこかから響いてくるようだった。
彼はマディラの姿を見つめ続けていたが、その体の中にいるのが自分の妻ではないことは明らかだった。
「マディラは……」
そう質問をしながら、最悪の答えを想像して、ごくりと生唾を飲み込むジュリアン。
「安心しろ。かなり体力を消耗したので熟睡しているだけだ。
命に別状はない。気がついたらちゃんと「表」に出してやる。
それまでにワラワが風呂と食事くらい済ませておいた方がよかろう」
そう言ってアテナエルはゆっくりと立ち上がった。
――――――――――
後宮 一の間のリビング
「ソフィア様がいらっしゃいました」
マディラの部屋付きの侍女がそう言いながら、先代の女王を室内のソファーに案内する。
ここはマディラの部屋。あの後、持っていたマントでマディラの身を包み、ジュリアンは瞬間移動で後宮のマディラの部屋に移動した。
マディラは——正確にはアテナエルは——自力で立ち上がるくらいには元気だったが、離れの塔から後宮に移動する体力があったか不明なのと、後宮までの移動中に誰にも姿を見られない方が良いと判断した。
綺麗な色のミントグリーンのチュニックドレスも、体も血塗れとなっている。
数日間入浴していないこともあるが、綺麗なストレートの金髪もどう見てもボサボサで、所々赤く染まって固まっていた。とてもじゃないが手櫛で誤魔化せるレベルではなかった。
マディラは、自分の部屋の者には数日留守にすると伝えてあったらしく、不在に対しての混乱はなかったが、まさかこんな姿で帰ってくるとは誰一人想像していなかっただろう。
彼女を部屋に送り届けた瞬間、一同絶句しており、ジュリアンが指示を与えない限り立ちすくんで誰も動けない状況だった。
「ちょっと一人で離れに篭って能力開発をしていたようだ。
ハメを外しすぎたらしく、多量の出血があった。
その上、一時的に違う人格が形成されているようだけど、とりあえず入浴と食事がしたいらしい」と、彼は侍女たちに伝える。
一方で、ソフィアにアテナエルのメッセージを伝えた上で、なるべく早くマディラの部屋で面会をしたい旨を伝えるように使用人に指示を出した。
ジュリアンも一度執務室に足を運び、公務の状況を確認して、もう一度この部屋に戻ってきたところであった。
「急におよび立てして申し訳ありません」
ソフィアは退位をして、現在は城内別邸で隠居生活を送っているので、国王夫妻と毎日顔を合わしているわけではない。
10日ほど前に来客があった際、現国王と先代女王がたまたま同席する機会があり、ジュリアンとはその時以来である。
「侍女からマディラさんの状況を聞いたのですが……大丈夫ですか?」
「一応、自分で動いて入浴や食事をしているようなので、肉体的には大丈夫のようです。問題は内面の方で……アテナエルと名乗る人格が支配しているようですが」
「アテナエル……。アテナエルとトーラーの話をして欲しいとの事ですが、私も話せるほど何か知っているわけではないのですよ。城内にこれといった資料も残っていないですし」
その様子から、彼女にとっては、アテナエルのことは初耳の話ではないことは確かだった。
少なくとも、ジュリアンはこの世界に来て一度もその話を聞いたことはない。
「待たせたな」
そう言いながら、アテナエルが居間に入ってきた。
見た目はマディラのままなのだが、顔つきが明らかに違う。
何かを達観したような、深刻そうな顔つきというより無表情に近い。
「そなたが先代の女王か」
「はい……ソフィアと申します」
「早速だがソフィア、1000年ほど前の大戦について伝わっている情報と、トーラーのありかを教えて欲しい」
ローテーブルを挟んでソファーの向いにある一人掛けの椅子に腰をかけるや否や、アテナエルは本題を口にした。