親と子 2
西部の被災地へ向かう国王の馬車が、闇の将軍によって崖から落とされた。
ジョナサンは馬車を止めさせ、すぐさま外に飛び出した。
「陛下……!どこにおられるのですか!」彼は声を張り上げ、無我夢中で崖のさらに先へと身を乗り出した。
片足が崖の縁にかかり、体のバランスが危うく崩れかけるが、そのことにさえ気づかない。
今の彼の頭には、ジュリアンの無事を確かめること以外、何もなかった。
「もっと近くで見ないと……」彼は自分に言い聞かせるように小声で呟きながら、さらに一歩、崖に近づこうとした。
だがその瞬間、彼の背後から複数の声が響いた。
「お待ちください、危険です!侍従長殿!」
騎士団の一人が駆け寄り、彼の肩を掴んだ。別の護衛も慌てて彼を引き戻そうとした。
「ジョナサン殿、危ないです!崖から落ちてしまいます!」
彼らは必死だった。普段の冷静沈着なジョナサンが、まさかこんなにも感情に飲まれ、無謀な行動に出るとは想像もしなかったのだ。
護衛たちは、その異様な姿に驚きながらも、とにかく彼を引き止めることに全力を注いでいた。
「放せ!私は……陛下を探さなければ!」ジョナサンは叫び、何とかして彼らを振り解こうとした。
しかし、護衛たちは彼の体をがっしりと押さえ込み、崖の縁から彼を安全な場所へと引き戻そうと必死だった。
「侍従長殿、お気持ちはわかりますが……崖が崩れやすくなっています!ご自身が落ちてしまえば、陛下を救うことはできません!」
騎士団の隊長が冷静な声で説得したが、ジョナサンの目は焦燥と絶望に染まっていた。
「私が……私がもっと早く気づいていれば……陛下がこんな目に遭わずに済んだのに!」彼の声は震え、目は見えない谷底を必死に追い続けていた。
「ジョナサン殿、どうか冷静になってください!」
別の護衛がさらに強く彼を引き戻し、ようやく側近は崖の縁から遠ざかった。
ジョナサンはしばらく黙り込み、呼吸が荒くなっていた。彼の肩は大きく上下し、額には汗が滲んでいた。
しかし、国王の姿は依然として見えないままだった。
騎士団と護衛たちは静かに彼を見守りながら、何とかして彼を落ち着かせようと努めた。
そこに現れた一羽のカラス。
ジョナサンはカラスから慣れ親しんだオーラを感じた。
ジャックとの戦いの際にマディラが連れ帰ってきた黒い鳥は、トーラーであり人語を解すると聞いている。
「お前、なぜここに」
ジョナサンは鳥に向かって短く問いかける。
「王妃の依頼で、荷台に入っていた」
「付近に怪しい一団は潜んでいるか?奇襲の第2波はあるのか」
「それは多分大丈夫、地の者の気配も感じない」
カラスとの会話で、おそらく王都にも連絡がつく事がわかり希望を感じ、また同じトーラーが現場にいると知って落ち着いてきたジョナサン。
「……申し訳ない……私は、何をしているのだ……」
ジョナサンはやっと冷静さを取り戻し、周りのものにそう声をかけ、崖から離れた場所に足を運んだ。そして、自らの愚行を反省するように、深く息を吐き出した。
そしてカラスに状況確認を依頼する。
「崖の下が見えない。この霧の中で陛下を探すのは難しい。すぐに崖下の様子を見てきてくれ。
馬車は無事か、陛下はどうなったのか、全て確認して欲しい」
カラスに一心にお願いをする彼の声にはまだ不安が滲んでいたが、その中にかすかに希望も残っていた。
鳥は頷くように小さく頭を下げると、再び大きく翼を広げ、音もなく霧の中へと飛び去っていった。
しばらくの間、ジョナサンは可能な限り崖の端にそっと近寄り、霧の向こうで何が起こっているのか、息を呑んで待った。
風が吹き抜ける中、時間が止まったかのように静寂が続いた。
部下たちも息を潜め、緊張感が張り詰めた空気を包み込んでいた。
やがて、カラスが再び姿を現し、侍従長の肩の上に軽やかに降り立った。その瞳は何かを伝えようとしていた。
「報告する。馬車は完全に大破している。御者も、近衛隊長も、そして馬も即死だ。崖の急な傾斜で、馬車は真っ逆さまに落ちた。しかし——」カラスは一瞬、言葉を止めた。
「——しかし、国王の姿だけが見当たらない。」
その報告に、ジョナサンは一瞬息を呑んだ。絶望の淵からほんの少しの希望が浮上する。
「陛下が……見当たらない?」彼の声はかすれ、驚きと戸惑いが交錯していた。
「そうだ。国王の姿はどこにもない。
馬車から放り出されたか、川に流されたのか、それとも何か別の事情があるのか、今のところは不明だ。
だが、壊れた客車の付近にはいなかった。」
カラスの冷静な報告は側近の胸に鋭く響いた。
「谷底も霧が濃くて、遠くは見通せないので、それ以上はわからない」
「陛下が……まだ生きておられる可能性があるのか……!」ジョナサンはその言葉に一縷の望みを見出し、必死に自分を奮い立たせた。
彼は深い息をつき、震える手を落ち着かせるように握りしめた。
目の前には、近衛隊や従者たちが不安げな表情で集まっていた。
国王の行方不明という事態に、全員が動揺している。だが、この場を指揮するのは彼しかいなかった。
混乱の中で何よりも必要なのは、冷静な判断だった。
「緊急事態だ」ジョナサンの声は思ったよりも低く、張り詰めていた。
しかし、ただならぬ状況に、王室の人間としての責任感とともに、深い不安が胸中に広がっていった。
「この場は臨時で私が仕切らせてもらう」鋭い視線で周囲を見渡し、言葉に力を込めた。
彼は国王の最も信頼された側近、侍従長である。今こそその責任を果たす時だ。
まず、彼は近衛隊に向けて指示を下した。
「近衛隊は、谷底に落ちた馬車の状況を確認しろ。
御者や近衛隊長は……すでに亡くなっているとカラスが報告しているが、念のため確認だ。
それと同時に、国王陛下の安否も確かめろ」
その命令に、近衛隊の者たちは素早く動き出したが、侍従長の声は少し震えていた。
自分自身を奮い立たせるように、さらに続けた。
「確認が取れたら、すぐに被災地対策本部へ報告しろ。捜索隊を出さねばならない。
陛下は必ず無事だ……私は、どうしてもそう信じたいんだ……」
かすれた声で、その言葉はまるで祈りのように響いた。
彼はしばし目を閉じ、気持ちを立て直すと、次の指示を冷静に出した。
「近衛隊の一部は周辺を警戒しつつ、私と共に被災地へ向かう。物資の輸送も予定通り行う。
陛下が行方不明でも、被災者たちの支援を止めるわけにはいかない。
私たちは貴族としての責務を果たさねばならん」
彼の言葉に、同行していたトマスも静かに頷き、準備を始めた。
最後に、ジョナサンは王宮に向けた報告の段取りを決めた。
「王妃様への報告は早馬で行う。すぐに出発させろ。そして……」
彼は肩にとまったカラスに目を向けた。
「お前も王妃様のもとへ飛んでくれ。人語を解するお前なら、詳細な状況を伝えられるだろう。
万が一、早馬が遅れた場合に備え、陛下の失踪と私たちの動きを報告せよ」
カラスは理解したように鋭い鳴き声を一つ上げ、黒い翼を広げて空高く飛び立っていった。
ジョナサンは、王が崖から落ちて行方不明になった瞬間、まるで胸を貫かれたかのような衝撃を受けた。
陛下の安全を第一に誓い、全身全霊を捧げてきたが、今、その使命が果たせなかった無力感が彼を押しつぶす。
焦燥と絶望が心を乱しながらも、すぐに冷静を取り戻し、何としてでも国王を救い出すという決意が燃え上がる。
ジョナサンの忠誠心は決して揺るがず、陛下を守れなかったという責任感が彼の心をさらに強くし、全ての行動を導いていた。




