無と有 17
王宮の庭にて剣の手合わせをするジャックとマディラ
最初の一振りで、ジャックはすぐに感じた。王妃の剣技から、彼女はただ者ではないと。
さすが、テラを倒しただけのことはある。
しかし彼女は突然、雨上がりのぬかるんだ地面に足を踏み入れ、バランスを崩した。
「今だ!」
ジャックはその一瞬を見逃さず、剣を振り下ろし、彼の剣先が王妃の肩に届き、勝負は決まった。
「……私の負け」王妃はそう言って、軽く微笑んだ。
だが、ジャックはその笑顔の裏に何かを感じ取った。
彼女はわざと自分がぬかるみにハマるように、彼を巧妙に誘導していたのだ。彼を勝たせるために。
そして、その真意に気づいたジャックは、深く礼をした。
「ありがとうございました。お世話になりました、王妃殿下。」
そして、意を決したようにジャックは話し出す。
「旅に出ます。俺は一度、王家に刃を向けた者です。いかにあなたに恩を感じていようとも、王家に属することはできません。」
マディラはその言葉に少し眉を寄せた。だが、静かに問いかける。
「大臣のもとに行っちゃうの?」
ジャックはゆっくりと首を振り、どこか寂しげな笑みを浮かべた。
「いえ、ゼクスの攻撃を受けた今、あそこにも居場所はないでしょう」
王妃はその言葉を静かに聞きながらも、彼の決意を尊重するように頷いた。
「そう……。だけど、いつでも戻ってきていいからね。あなたは、もはや私たちの敵ではない。どこへ行こうとも、そのことを忘れないで。」
ジャックは深く礼をした。彼が旅に出る決意を固めた今、かつての敵としての関係は断ち切られ、新たな道が開かれた。
その時、背後から足音がする。剣戟の音を聞きつけて現れたのは、王妃の夫であり、この国の王だった。
若いながらも高貴で威厳のあるその姿に、ジャックの心は突如として乱された。
彼の視線がジュリアンの顔に釘付けになる。その顔を見た瞬間、全身が凍りついたように動けなくなった。
「どういうことだ……?」
ジャックの胸の中で混乱が渦巻く。だが、すぐにその思考を押し殺し、冷静を装った。
彼はその事実を王妃や国王に告げることなく、ただ一言、苦々しく呟いた。
「おそらく……大臣との戦いで鍵を握るのは、彼ではなく仮面の男だ。」
その言葉に国王夫妻が少し驚いた様子を見せたが、ジャックはそれ以上の説明はせず、重い足取りで客室へと向かった。
それを口にした後も、ジャックの心はざわめいていた。何か重大な秘密がそこにあるのは明白だったが、今はそれを追及する時ではない。
――――――――――
手合わせの後、出発の準備を整えたジャックは、王妃の謁見室で正式にマディラとジュリアンに別れを告げた。彼の言葉は誠実で、静かな決意が宿っていた。
そしてふと何かを思い出したように、首から下げていた古びた翼型のロケットを手に取った。
さらに、鎧の隙間に大切に挟んでいた手紙を取り出し、王妃にそっと差し出した。
「このロケットが誰のものか、あなたは知っているはずだ。そして、この手紙を託された。
今こそ、それをあなたに渡すべき時だろう。
血で汚れているのは申し訳ない、先日の戦いで少し汚してしまった」
そう言うと、ジャックは深く頭を下げ、再び静かにその場を去った。
彼の姿が完全に消えるまで、王妃はただ無言でその手紙とロケットを見つめていた。
重い沈黙が流れ、やがてマディラはそっと封を開けた。手紙の中には、かつての時代の記憶が刻まれていた。
ロケットの元々の持ち主からの、切なる想いが綴られた言葉が、彼女の心を貫いた。
その瞬間、彼女の顔は崩れ、静かな涙が頬を伝い始めた。
「こんなことが……」
その声は震え、手紙に目を通すほどに彼女の心は引き裂かれるようだった。
やがて、その場に膝をつき、王妃は泣き崩れた。
彼女の胸に蘇る、過去の痛みと失われた絆。封じていた記憶が、手紙によって解き放たれたのだ。
王妃の泣き声が静かに部屋に響き、国王はただ彼女の背中を見つめていた。
彼は使用人を下がらせて二人っきりになり、床に落とされたままの手紙をジュリアンは拾い、目を通す。
「女王へ
ダンナとの仲を修復するのを応援したいと思っていたのに、運命の悪戯で俺が殺っちまった。
死んで詫びたい気持ちだったが、アイツの力で自分で死ぬことができない。
自分に手を下したのがアンタでよかった。
俺は悪魔に魂を売っちまったから、どんな死に方でも受け入れる。
だけど、アンタは戦いが終わったら、また平和な世の中で暮らせるんだろ?
大事な人の命を奪っておいて、どの口がと思われるかもしれないが、残りの人生幸せに生きてほしいと願っている。
クローヴィス」
彼が手紙に目を通した後に、マディラに寄り添ったところ、抱きつかれて泣き続けるので、ずっとそのままでいた。
しばらくして、マディラがポツリと話し出す。
「エリザベスこそ彼に会って話したいと思っていた。
山小屋の一夜で、自分の魂が救われたことを感謝していた」
彼女は手紙を再び見つめ、思い出に浸るように話し始めた。
「その後、大臣の依頼で国王を殺したのが彼で、最後まで敵対していたので、彼の気持ちはわからなかったけど。
クローヴィスは彼女の幸せを願っていたなんて……。」
目を閉じて、過去の記憶を思い出しながらマディラは続ける。
「クローヴィスが、エリザベスに謝りたいと思っていたことを、彼女は知らなかったの。
国王を殺した憎しみはあったけど、それでもエリザベスは、ちゃんとクローヴィスを弔いたいと思っていたのに……彼女は、あの後すぐに死んでしまった、トーラーの手によって」
「そんなことが……」驚きの結末にジュリアンは衝撃を受ける。それでマディラは泣き崩れてしまったのか。
ロケットと手紙が、どんな運命を繋いでいたのか、今や彼女の心の中に深く刻まれていた。
それは、ジャックが旅立つときに残した最も重い贈り物だった。
――――――――――
以前と違い、マディラはエリザベスの記憶は別物だと認識できるようになっていた。
感情が昂って泣いてしまったが、しばらくすると落ち着きを取り戻したので、ジュリアンは公務に戻ることにし、回廊を歩きながら考えを巡らせていた。
それまで全く考えていなかった、アテナエル、もしくはエリザベスの最期。
「当時の国王は大戦前後に暗殺されたため、王妃アテナエルが、トーラーと言われる能力の高い緑の国の住人と共に、大臣に対抗するが決着がつかず、彼を封印したところで休戦」というソフィアの話を思い出す。
なぜアテナエルが壺に入っていたのか。
前女王の話を「伝わらないよりはマシ、程度にうそ」というアテナエルの言葉を思い出し、そこで沸いた疑念。
ジュリアンは、「アテナエルは自ら、次の大戦に備えて壺に入って眠りについていたのではなく、彼女もまたトーラーに封じ込められ、器であるエリザベスの肉体はクローヴィス同様消滅した」という仮説に行き着く。
少しずつ明らかになる、当時の出来事。
手紙でクローヴィスが「悪魔に魂を売ったので、自分では死ねない」と書いていた。
そして、今、マディラ宛てに書かれた手紙。
ロケットはともかく、ジャックは1000年前の手紙を誰かから託されたのではない。明らかに最近の紙質だった。
大臣とともにクローヴィスも封じ込められ、そして蘇ったのか……そんなに強い奴だったのか?
「エルを持つもの」に対抗できる「悪魔の魂」。
ジャックの忠告から、おそらく大臣のそばにいる「悪魔の魂」を持った「仮面の男」……
ジュリアンが、さらなる脅威を認識した瞬間だった。
これで「無と有」は終わりです。
次から「親と子」になります。
なお、無=0で、有=1です。
それぞれ、愚者と魔術師のタロットカードの番号が、この章タイトルの由来です。




