無と有 16
後宮内の客間
ジャックが目を覚ましたのは、柔らかなベッドの上だった。
香り高い食事がテーブルに並べられ、心地よい風がカーテンを揺らしていた。
枕元には愚者のタロットカードが添えられている。
しかし、彼の心には鋭い棘が刺さったままだった。
大臣に育てられ、王家を敵として戦ってきた彼にとって、ここはまさに敵の巣窟に違いなかった。
部屋は豪華だが、どこか柔らかく温もりのある装飾が施されていており、世俗を離れた穏やかで平和そのものの雰囲気を醸し出している。
しかしその静けさを破るように、ジャックがベッドの上で荒々しく動いている。
「手当なんていらない、食事も口にする気はない!俺を懐柔しようとしてるんだろう?お前らに借りを作るつもりはない!」
彼は怒りに満ちた声を張り上げ、提供された食事のトレイを床に叩きつけた。
皿が割れ、料理が床に散らばる。
ジャックの苛立ちは募り、目を光らせながら使用人たちに睨みを利かせる。
彼らは立ち尽くし、どうすべきか分からずお互いに見つめ合う顔は恐怖と戸惑いに満ちていた。
その時、扉が静かに開き、王妃が姿を現す。
彼女は穏やかな雰囲気を纏っているが、その目には決して消えない強い意志が宿っていた。
ゆっくりとジャックに歩み寄り、その場を圧倒するような存在感で、彼の怒りを静かに見つめる。
「目を覚ましたのね。傷の具合はどう?何をそんなに騒いでいるの?」
そう話しかけるマディラの声は冷静で、穏やかでありながらも、力強さを感じさせた。
ジャックは彼女に視線を向け、顔を歪める。
「こんな事をして味方に引き入れようとしているんだろう?お前たちの世話なんか受ける気はない!俺は、俺は……挙げ句の果てに、この俺もトーラーの一人だったなんて!」
マディラはため息をつき、彼の言葉を遮った。
「……悲劇のヒーローぶるのはやめたら?そんなもの、何の役にも立たないし。」
「俺が誰だか分かっているのか?王家の敵なんだぞ!恵まれた環境でぬくぬくと育った「魔術師」やあんたには、俺の気持ちなんて分かるはずがない!」そう叫びながら彼は鋭く睨みつける。
「分からないって?」
王妃の声は低く、だが凛とした響きがあった。
彼女は彼の前で、自らの背中に手をやり、ゆっくりとドレスを脱ぎだした。
ジャックはその突然の行動に驚き、視線を彼女から外し、言葉を失う。
「一体、何を……」
彼女はジャックに背を見てせ静かに立っていた。
ジャックがゆっくりと視線を戻すと、彼女の背には無数の古い傷跡が刻まれていた。
深い、痛々しい傷跡が、過去の虐待の痕跡を物語っている。
「私もかつては、父親に嫌われて異世界に追い出された。
能力が優れすぎていたから、疎まれてね。
そして、養父母からも私は虐げられ、毎日痛みと恐怖に耐えていた。
ここにある傷は、その証。」
心の中には苦しみと怒りがあるはずだが、彼女の言葉は静かだった。
「心の痛みは、今でも消えない。」
王妃の鋭い言葉が、まるで剣のように鎧の将軍の心を突き刺す。
「あなたが、王家に対する憎しみを抱いているのは分かる。
だからと言って、世界一不幸だと勝手に思い込まないで。自分だけが不幸の中心にいるなんて。」
彼は一瞬、反論しようとしたが、その視線が王妃の背中の傷跡に再び釘付けになった。
彼女は再び衣服を整え、ベッドの彼を見下ろす。その目には怒りはなく、どこか同情の色が混じっていた。
ジャックは、しばらく黙り込んだ。自分の世界だけに閉じこもっていた彼は、初めて他者の苦しみと向き合わされた。
王妃の冷たい言葉に、ジャックの怒りはまだ残っていたが、それ以上何かを言うことはできなかった。
「あなたの痛みは理解する。でも、あなたが抱えているその怒りや悲しみなんて、誰も特別扱いしない。」
彼は王妃の鋭い言葉に圧倒され、思わず口をつぐむ。
「あなたは強い。だからこそ、強さを正しい方向に向けるべき。
傷ついたのはあなただけじゃない。この世界は不公平。
それでも生き残り、戦い続ける者だけが勝者になる。
あなたがこのまま自己憐憫に浸り続けるなら、いつまでも人生の敗北者のまま。
だけど、少なくとも今、この場で食事を拒むくらいなら、もう少し賢くなるべきじゃない?」
そう、諭すように穏やかに話しかけるマディラ。
ジャックはしばらく沈黙した後、ゆっくりと肩を落とした。
彼の目にはまだ混乱と葛藤が浮かんでいたが、王妃の言葉が深く刺さっているのが明らかだった。
やがて、彼はかすかに頷いた。
「……俺が愚かだったのかもしれない。だが、お前たちに屈するつもりはない……まだな。」
王妃はその返答に小さく笑みを浮かべる。
「いいんじゃない、それで。気持ちの整理に、時間は必要だものね。」
王妃は静かに扉に向かい、立ち去る前にもう一度振り返った。
「あなたがかつて王家の敵であろうと、それでも命は救われた。それは変わらない事実よ。」
その言葉を残して、彼女は部屋を出て行った。
――――――――――
数日が経ち、ジャックは少しずつ王妃の下での生活に慣れ始めていた。
傷の手当と食事を受け入れ、過去の怒りや反発は徐々に薄らいでいた。しかし、心のどこかでまだ決着のついていない思いが渦巻いていた。
さらに数日後。
雨上がりの早朝、ジャックは庭に立ち、一人で剣の素振りをしていた。
鋼の刃が風を切る音が、静かな庭に響く。
筋肉は少し固まっていたが、戦士の体はまだ力強さを保っていた。
そこで彼の動きを静かに見つめていたのは、いつの間にかそばに来ていたマディラだった。
「朝早くから鍛錬?もう傷は治ったんだ」
王妃の声が背後から響く。
ジャックは驚いたように振り返り、一瞬、言葉を失った。
いつも堂々としている彼女だが、その姿にどこか親しみやすさが感じられる。
「私と手合わせをしてみない?」
王妃は軽く微笑みながら、彼に挑戦を持ちかけた。
二人とも優秀な剣士だったが、そういえば剣を交えたことは無かった。
その提案に、一瞬ジャックは戸惑ったが、すぐに頷いた。
「……承知いたしました。」
二人は庭の中央に立ち、それぞれの愛剣を手に取った。
王妃の剣は、光を反射するような美しい刀身を持ち、ジャックの剣は、重厚でしっかりとした重量感がある。
互いに礼を交わし、静かに戦いの幕が開けた。
最初の一振りで、ジャックはすぐに感じた。王妃の剣技はただ者ではない。
彼女の動きはしなやかで、鋭く、まるで風のように軽やかだった。
剣が繰り出される度に、彼の防御はすり抜けられそうになり、攻撃の隙を見つけることができない。
さすが、テラを倒しただけのことはある。
しばらくの間、剣戟が続く。
だが、時間が経つにつれて、王妃の動きの何かが変わった。
きゃっ
彼女は突然、雨上がりのぬかるんだ地面に足を踏み入れ、バランスを崩した。
「今だ!」
ジャックはその一瞬を見逃さず、剣を振り下ろした。




