無と有 1
王都近郊 コックア島
平日の昼近く。
海が一望できる人気のレストランの一席で、他の客と混じってシーフードのサラダや白身魚のグリル、パエリアなどを堪能しているマディラとジュリアン。
狩りから戻ってきて数日後、ジュリアンは新鮮なシーフード料理が食べたくなったと言い出し、お忍びで二人でこの小島にやってきたのだ。
念の為、変装として二人とも髪の色を黒くしている。
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出発前、どこから調達されたのか、ラフなリゾートドレスっぽいものを渡された時、マディラはふと質問をする。
「これ、外していくの?」
そう言いながら、左手を指を揃えてジュリアンの方に見せる。薬指の指輪の話だ。
王と王妃が日常的に身につけている指輪は、華美な装飾がないシンプルなデザインで、特別な力を秘めているとは思えないほど控えめな美しさを持っている。
白金製の細身の指輪で、中央に嵌められた天聖石は、見る角度によって淡い光を放っている。
指輪の内側には古代文字で短い言葉が入っており、一つには大地を表す葉を、もう一つには空を表す流線型の模様が入っていて、代々王家で引き継がれている歴史のあるものだった。
「ちょっと出かけるだけだから、つけたままでいいんじゃないかな。まさかこれで僕たちの正体がバレるってこともないだろ。僕は特に外してないけど」
淡い色の半袖のリネンシャツとチノパンツに身を包んだ、ラフな格好の黒髪の青年は答えた。
場所は、城下町近くの入り江から少し沖の方にある島。
十数年前に、島に船舶が離着岸できる施設ができ、その後ちょっとしたリゾート地になり、大陸側から船で20分ほどで行ける。
そこで、王妃の公務や国を守る使命から離れて、リフレッシュしてもらおうとジュリアンは考えた。
二人は側近をつけず、王宮から離島のリゾート地へ向かうので、城下町の辻馬車で港に移動し、離島へ行く小型の船に乗り込む。
ジュリアンは、ジョナサンはじめ使用人に、側近をつけないけど護衛の必要を感じるなら適宜手配するように伝えてある。
なので彼は、二人の近くに、どのくらいの城の人間がいるのか把握していない。
最初は、普段の公務での外出と変わらない優雅で上品な雰囲気だったマディラも、港に多くの船舶が停泊しているのを見たり、乗船して海風に吹かれると目をキラキラ輝かせて、興奮し始める。
「大きい船が沢山停泊しているの、凄いわね!馬車とは全然違う。それに風も気持ちいい!」
彼女の見た目は二十歳前後なので、完全に学生の遠足のようなノリになっている。
ここ数日、彼女は常に何かに思いを馳せて険しい顔をしていたので、この表情が引き出せただけでも、お忍びで外に連れ出した甲斐があったとジュリアンは思った。
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「シーフードは口実じゃないの?」
「なんの口実?」
このひと時をお忍びの形にしたり、滅多に乗らない船などを選んでいるのに、動機が食事がしたいだけなんて。
ジュリアンの気遣いに心当たりがなく、質問をするマディラに、彼はとぼけている。
天性の知謀家である彼が、自分の気分で多くの使用人の日常業務を狂わすなどという、衝動的な提案をするはずがない。
通常であれば、海辺の地方公務に合わせるか、腕利きの料理人を宮廷に招くという事をし、その方がよっぽどみんなの負担が少ない。
そこに店員が、食後のレモンのシャーベットを運んできたので、話を切る。
何か裏があると見透かされているのに、急にそんな提案をした理由を話す気がないんだと察したマディラは、それ以上彼を追求しなかった。
食事後、島に地下水槽があるというので、二人は足を運んでみる。
いわゆる水族館とは違うが、島の地下にガラス張りの部屋を作り、そのまま海中の様子が観察できる。
入口の重い扉の奥は、別世界のように静寂に包まれていた。
部屋の四方の壁と天井は全て透明なガラスでできており、眼前には壮大な海の世界が広がっていた。
青く澄んだ水中には、光が柔らかく差し込み、揺らめく波紋が幻想的な模様を描いている。
海藻が緩やかに揺れ、まるで風に吹かれる草原のように水の中を舞っていた。
色とりどりの魚たちが群れを成して泳ぎ、時折その一匹がガラスに近づき、ふっと姿を消していく。
「すごい……。本当に海の中にいるみたい。」
マディラは息を呑み、目を輝かせながら窓際に立ち、手をガラスにそっと触れた。
「確かに、これほど近くに海中を感じられる場所は珍しいね。」
ジュリアンもその光景に魅了されたかのように、彼女の隣に立ち、穏やかに海中の様子を眺めた。
下方には、珊瑚の森が広がっていた。細かい枝が複雑に絡み合い、そこに無数の生き物たちが身を潜めていた。
小さなタツノオトシゴや、カラフルな熱帯魚たちがその間を縫うようにして泳ぎ回り、まるで水中の楽園が眼前に広がっているかのようだった。
ガラス越しに広がる海の景色は、時を忘れさせるほどの静けさと美しさに満ちていた。
この空間には、二人以外にも数組のカップルが見学しており、恋人たちが互いに寄り添う姿は、暗闇の中で温かい雰囲気を漂わせていた。
ふとジュリアンがマディラにそっと近づき、後ろから抱きしめようと両腕を伸ばすが、彼女はわずかに身をよじらせた。
「こんな場所で……」と、戸惑ったようにマディラが小さく呟く。
公務の場で決して親密な姿を見せることのない彼女は、この状況にも戸惑いを隠せなかったが、ジュリアンは微笑みを浮かべながら、穏やかに言葉を続けた。
「たまには……ああやって、寄り添ってもいいんじゃない?」周りをチラリと見つつ提案する彼の低く優しい声に、マディラは少し驚く。
「ここは離島のリゾートで、公務でも何でもない。誰も君のことを王妃として見ているわけじゃない。今はただ、一緒に過ごしたいだけなんだ」
そう、言葉を続けられて、マディラは再び視線を海に向け、少しの間考え込んだ。
その間もジュリアンは彼女のすぐ後ろに立ち、さりげなく右手を絡ませて、彼女が了承するのを待っている。
ひょっとして、こんなところまで来た目的はこれだったのかもと思い、ようやく、渋々と頷いた彼女は、小さな声で「……好きにしたら」と答える。
すると、彼はにっこりと笑って、そっと妻の腰に両腕を回し、優しく後ろから包み込むように抱きしめた。
王妃は最初、少し硬い表情で前を見つめていたが、彼の温もりが背中にじわじわと伝わり、次第に緊張が解けていくのを感じた。やがて、肩の力を抜いて、二人だけの穏やかな時間を感じ始める。
マディラの後ろにジュリアンがピッタリ引っ付いて、二人でしばらくその神秘的な世界を見つめ続けた。
ふとした拍子に、ジュリアンは彼女の髪にそっと顔を埋め、温かい息が彼女の耳元に触れる。彼女の耳元で、彼は周りに聞こえないように囁く。
「もしもこのまま、この島にいようと、いや、クリスティナと3人でどこかでひっそり暮らそうといえば、来てくれるかい」
彼の声は囁くように穏やかだったが、少しの覚悟と切なさが滲んでいた。
マディラは少し驚いたように、そしてやや困惑した声で聞き返す。
「そうしたいの?」
彼の言葉に込められた真剣さは、いつもの凛とした国王としての姿とはまったく異なり、ただ一人の男として、妻に寄り添う優しさに満ちていた。
「城での初めての夜に言ったように、二人でいられるなら王位にこだわっていない。今でも、こんな感じで庶民としてひっそりと暮らしても良いと思っている。」
彼女は一瞬、彼の腕に抱かれたまま瞳を伏せ、質問をする。
「それは私のために言ってくれてるの?」
彼の提案の意図を汲み取ろうとして、マディラはすぐに返事をくれないので、ジュリアンは少しだけため息をつき、肩をすくめた。
「玉座をくれてやれば、大臣が満足して争いをやめて君の身の安全が確保されるなら、安いものだと。城下町での出来事は聞いた。これ以上戦禍を拡大させたくない。」
思ってもみなかった提案に、マディラはジュリアンの言葉を聞きながら、静かに彼の腕の中で身じろぎもしないまま、ガラス越しに広がる海の景色に目を向ける。
静かな海の中、遠くには大きな影がゆっくりと横切る。
優雅に泳ぐエイや、巨体を誇るウミガメは、まるで王と王妃に気づいているかのように、時折こちらを振り返りながらも、平穏なリズムで動き続けていた。




