目覚め 2
それから数日後 アルバス城
それは夕方近くのことだった。
後宮内のどこかで、突然何かが壊れる音が微かにしたと思ったら、女性の悲鳴が響き渡る。
ちょうど自室のリビングでお茶を飲んでいたマディラのところに、慌てふためいた侍女がやってくる。
「マディラ様、フレデリック様が拐われました……!」
え?
一瞬言葉の意味が分からなくて、マディラは絶句をする。
「突然黒いマントの人のような物が、窓ガラスを突き破り室内に侵入をし、王子様を抱き上げて再びその窓から外へ飛んで行きました……衛兵などが追っていますが——」
そう聞くや否や、部屋を飛び出してフレデリックのベッドに駆け寄るマディラ。
「フレデリック……そんな……」
ガラスが飛び散って荒れた王子の部屋と、空になった息子のベッドを見て床に崩れ落ちるマディラ。
わたしは……わたしは、誰からも愛されない、実の親にも、育ての親にも、友達にも、そしてわが子でさえ……
騒動を聞きつけたジュリアンが息子の部屋に到着し、そこで呆然としているマディラの様子がおかしい事に気づく。
「皆の者、今すぐこの部屋を出るんだ!早くっ」
「どうされましたか?」
「マディラの様子がおかしい、いますぐこの部屋に結界を張る。巻き込まれないように、みんなすぐに外に出るんだ」
状況を理解しようと質問をした侍女に畳みかけるように理由を説明し、それと同時に床に手をついて彼は結界を準備する。
その時だった。
ドゥッ!
爆音に似た音と同時に、マディラの体が火柱に包まれ、そこから火竜が出現して室内を飛び回る。
あたり一体高温になり、吸う息が熱い。
幸いにして、ジュリアンとマディラ以外は部屋を出たらしく、結界を張る事に成功したので、部屋の損害は今のところ見られない。
しかし火竜が、結界の外に出れない上にどんどん体が伸びているようで、徐々に部屋の中が火竜の体で埋め尽くされていく。
まずい、このままでは自分の身にも危険が及ぶ。
ジュリアンはなんとかしなければと思うが、マディラが火柱に包まれているが、意識がないのかこの状況を打破する策がない。
高温でとうとう自分の衣服にまで着火し始めた。火の回りが早すぎて、中々マディラのところまでたどり着けないジュリアン。
「マディラっ、僕はここにいる!ぼくの存在まで、消さないでくれーーー」
そう彼が叫んだ声が聞こえたのか、ピクリと一瞬その声に反応し、火の勢いがホンの少し弱くなる。
そのチャンスを逃さずに炎の竜をかき分けながら一歩ずつマディラに近づき、やっとジュリアンは彼女の体を抱きしめる。
そこでふっと部屋中の炎が消え、部屋は何事もなかったかのように元通りとなった。
熱さでジュリアンは意識が遠のく寸前だったが、なんとか危機を脱した。
どうやら全ては幻影だったらしく、実際には衣服等は燃えておらず、ジュリアンも火傷を負っておらず、ひとまず安心する。
スーッと涙を流し、魂が抜けたかのようにその場に崩れ座り込むマディラと、そんな彼女をそっと抱きしめるジュリアン。
「僕は、決して君を裏切らない、ずっとそばにいるから……」
そう彼女に言い聞かせたが、放心状態のマディラは、ピクリとも反応しなかった。
――――――――――
王子を攫った不審な影は、城下町を抜けたところで森に隠れたらしく、一般の旅人と紛れると区別がつかなくなってしまった。
ジュリアンはかなり遠方まで捜索させたが、息子の行方はわからなかった。
事件直後、王妃は寝込んでしまい、ずっと王宮に篭っていると一日中フレデリックのことを考えてしまう。
そこでジュリアンは、気分転換にマディラと王都を抜け出して、王家の北方の別荘地や離島のノースランドに二人きりで出かけるなどした。
その甲斐あってか、彼女は何とか起き上がれるようにはなった。
あの日以来、マディラは一日中フレデリックが拐われた方角をボーと見て過ごす毎日。
彼女は毎日決まった時間に起床就寝し、3度の食事も口にし、数週間に一度程度、ふらっと部屋を出てどこかに行くも、小一時間ほどで戻ってくる。
しかし彼女は全くの無表情で、ジュリアンが一緒にいても自ら口を開くことはほぼなく、基本的に何にも反応をしないので、公務はこなせない状況となっていた。
家臣は、ジュリアンにもう一人妃がいた方が良いのではと進言する。
「僕は元から、新たに妻を娶ることは考えていない。ましてや、このタイミングでは考えられない。それにフレデリックがいなくなって、僕だって傷ついているんだ。」
そもそもこんなタイミングで誰かを妃にしたら、それこそマディラは自分は必要とされてないと感じて、二度と正気に戻らない気がする。
それでも、家臣は自分が妻や息子のことで落ち込んでいるのを元気づけようとしているのはわかったので、無下に断り続けるのも良くないと思い、何人かの女性と会食をした。
そのうちのほんの数人と一晩過ごす流れになったが、次には繋がらない。
涼子の様に、暇つぶしで付き合う相手は、今のジュリアンには必要なかった。
会食の候補者たちは、これを機に国王の心を射止めようと策を巡らしてくるが、彼女たちの浅はかな考えが透けて見えてしまい、それを感じると彼はかえって疲れてしまう。
それは、故郷での元婚約者のマルゴーと一緒にいた時の状況に似ていた。
そんな彼女たちより、無反応だとわかっていながら、マディラの温もりを感じながら1日の出来事を呟いて眠りに落ちている方が、ジュリアンは心が安らいだ。
以前、マルゴーと意見が合わなかった出来事を例に、マディラに質問をした事があった。
「たとえば、招待された舞踏会に君と参加し、途中で僕だけ退席したら怒るかい?」
「え、なんで?踊りの途中ってことじゃないでしょ。なら、いいんじゃないの。主催者に失礼にならないなら」
変なこと聞くのね、と言わんばかりの表情でマディラは答えた。
「怒らないんだ」
「それ、怒るとかそう言う問題じゃないでしょ。あなたが、どちらの予定も大事だって思った結果か、緊急事態が起きたってことでしょ。
というか、本当に何か起きたならそっちに行かないと。逆に「早く行きなさいよ」って言うかもしれない。」
即答でそう答え、そして少し考えて、彼女は答えを付け足す。
「私は、やらしいおじさんとおしゃべりして間をもたす事はできても、あなたの様に国家の一大事に何か判断するなんて、できないんだから。」
そんな答えを聞いて、ジュリアンは、公務に理解があるか無いかでこんなに回答が違うんだとわかり、スッキリした。
マルゴーに何度も責められていたので、自分が間違っているのかとすら思えていたからだ。
マディラのような返事ができる女性は、実際なかなかいなかった。
大抵は、そもそもパーティーの途中退席は嫌だと言うか、建前ではいいと言いつつ、いざそういう状況に置かれたら愚痴の一つでもこぼすのだ。
今回のマディラの状況は、人間界で彼女に出会ったばかりの頃、火事で両親を亡くした時に似ていた。
あの時も、3食しっかりと食べるし瞑想の声かけにも応じていたが、すぐに部屋に篭ってしまい、ぼーっと1日を過ごしていた。
だが2ヶ月ほどたったある日、誰かの働きかけがあったわけではなく、本当に突然に彼女自ら部屋の扉を開け、外に出てきたのだ。
今回は、もうすぐ2年が経とうとしており、焦りがないといえば嘘になる。
だが、ジュリアンのことを拒絶されたら傷つくが、あくまで反応がないだけならもう少し様子をみよう、今は時薬が必要だからと彼は思っていた。
あの当時も一時的なことだったし、きっと彼女はちゃんと自らの力で戻ってくると信じている自分がいた。