ふる傷 8
マディラは侍女長のエレナに声をかける。
「陛下が新しい妃を迎える……」
マディラがそう呟くと、エレナは静かに頷き、時折眉をひそめながら彼女の言葉に耳を傾けた。
「彼が新しい妃を迎えるという話が現実のものになる前に、どうにかしたい。
……このまま陛下と距離を置くべきかしら?
それとも、もっと話し合って、私の立場を守るために動くべきか……」
王妃はその悩みを侍女長に問いかけた。
エレナは一呼吸おいてから、穏やかに答えた。
「陛下と距離を置くというのも一つの方法かもしれませんが、その場合、王妃様の意図が誤解される恐れがあります。
特に、今は陛下がすでに貴族の圧力にさらされている時期です。距離を置くことで、余計に第2の妃を迎える話が進んでしまうかもしれません。」
王妃は頷きながら聞いていたが、侍女長の言葉には思わず顔を曇らせた。
「やはりそうね……私が距離を置けば、余計に不安定になってしまうわ。」
「このような時こそ、正面から向き合うことが必要です。感情的にならず、冷静に話を進める必要があります」
マディラはしばらく黙って考え込んだ後、静かに顔を上げた。
その表情にはまだ迷いが残っているものの、決意の色も見え隠れしていた。
「エレナ、私は……彼と話し合うつもりではいるけど……」
声がわずかに震えているのを感じ、王妃は自分を落ち着かせるように深呼吸をした。
「正直なところ、今すぐには心の準備ができていないの。
このままでは、陛下と向き合った時に、何を言われても冷静に対処できる自信がない。」
侍女長はその言葉を黙って受け止め、王妃の心情を察して深く頷いた。
彼女が迷っていることは明らかだった。
「今、もし陛下から一連の話の続きを聞かされてしまったら、私はどうしても心が折れてしまいそうで……」王妃は唇を噛みしめ、少し硬い声で続けた。
「だから、少し時間が欲しい。心を落ち着かせ、準備が整うまで、何とかして陛下が後宮に来ないようにしてほしい。そうすれば、話が進むこともないでしょう?」
侍女長は王妃の言葉に耳を傾けながら、冷静に考えを巡らせた。そして、慎重に口を開いた。
「それは確かに賢明な方法かもしれません。
王妃様が心の準備を整えられるまで、陛下が後宮を訪れないように手配することは可能かと思います。
もちろん、慎重に動かねばなりませんが、王宮内での情報をうまく調整すれば、陛下が後宮においでにならないようにすることもできるでしょう。」
「そう……」王妃は少し安堵したように微笑んだが、すぐにまた表情を曇らせた。
「だけど、もう一つお願いがあるの。もし新たな妃の話が動き出したら、それを何とかして止められるようにも、立ち回ってほしいの。」
侍女長は再び頷き、マディラの言葉に真摯に答えた。
「わかりました。王妃様が心を落ち着かせて陛下と向き合えるまで、後宮での動きを私が管理し、妃の話が進まないように可能な限り調整いたします。王妃様のために、最善を尽くします。」
マディラはエレナの言葉に感謝の意を込めて頷き、わずかに力を取り戻したように見えた。
「ありがとう、エレナ。あなたがいてくれて、本当に心強いわ。」
「王妃様、どうかご自分を信じてください。陛下も、王妃様の存在の大切さを必ず再認識されるはずです。」
マディラはその言葉に励まされ、もう一度深く息を吸い込んだ。
話が終わる頃、彼女は悩みを打ち明けた後のように、少しだけ肩の力が抜けたようだった。
自分の心を整えるための時間ができれば、必ずジュリアンと向き合えるはずだと信じ、侍女長にすべてを任せることに決めた。
――――――――――
だが、エレナの努力も虚しく、公務の合間を縫って、ジュリアンは一の間にやって来た。
彼が部屋に入ってきた瞬間、その険しい表情にマディラは何かが起こると直感した。
彼の口から次々と辛辣な言葉が飛び出し、まるで今までの彼女への信頼が根底から覆されたかのように聞こえた。
「君の自由奔放で貴族らしくない振る舞い……もう僕では君を庇いきれない。
大体、王族と一貴族には絶対的な身分の壁があるはずだ。それなのに、君は僕に対し敬語を使おうとしない。
たとえ私的な空間でも、親しき仲にも礼儀が必要だというのに。そういった細かいところに、君の育ちが滲み出ているんだ」
マディラは驚愕した。これまで、彼との間にはある程度の親密さが築かれていると思っていた。
彼の前では、少しばかりの自由を許されていると感じていたのだ。
しかし、その彼が今になってこれを問題にしている。
「それに、背中の傷跡だ。ずっと前から消すように言っているのに、どうして対応しないんだ?
他の貴族たちが変な想像をするだろう!
やはり、そんな傷を負うような環境で育てば、人前で取り繕っても、このように時折雑な言葉や振る舞いが垣間見える。
能力があるのは認めるが、そういう人は表に出さない方が良いと、今回の例祭で証明された。
一歩間違えれば、僕は恥をかかされるところだったよ。
もっと人前に出しても恥ずかしくない女性を、新たに迎え入れようと思う」
「生まれや過去の生活環境のことを、昨日今日知ったわけではないのに、どうして今になって蒸し返してくるの??」そう反論するも、マディラは涙目になっていた。
ジュリアンの言葉が続く中、マディラは、自分の胸の中に徐々に怒りが膨れ上がるのを感じていた。
背中の傷は、彼女の過去の生き方の証であり、簡単に消せるものではなかった。
だがそのことも、何度も彼に説明してきたつもりだったのに、今さらその話が出るとは思いもよらなかった。
「そして一番問題なのは、例祭の直前に君が一人旅に出て、あろうことかセバスチャンを連れて帰ってきたことだ。
さらに、賞金首の男を無罪にした上、直属の部下にするなんて。
事情があれど、客観的に考えて、どうかしている!」
王妃は唇を固く結び、冷静に反論をしようとしたが、言葉が思いつかない。
セバスチャンを部下に迎えた理由も、ガロスを赦した理由も、すべて彼に説明してきたはずだ。
彼もその時は理解してくれたと思っていたのに、今になって難癖をつけられている。
「何度も説明したでしょう!」と、マディラは声を張り上げた。
「あなたも納得してくれたから、私は動いたのよ。それを今さら……こんな言い方をされるなんて……!」
「説明?あんなので十分だと思っていたの??
どれだけ僕が周りに理解を求めるのに苦労していると思ってるんだ、人の気も知らずに!」
二人の間に緊張が走った。
「君の行動は無茶苦茶だよ。僕は国王だ。もうあんな勝手なことを許しておける立場じゃない!」
マディラの怒りは頂点に達していた。
「私がどうしてこんなことをしなければならなかったのか、あなたには理解しようとする気があったの?」
彼の顔が赤くなり、拳を握りしめたが、マディラも負けじとその瞳で彼を睨み返した。
違う、こんなのはジュリアンではない。
わかっているけど、目の前に彼の姿をした人がいれば、どうしてもそれをジュリアンだと認識してしまう。
バリン、と心の中で何かが壊れる音がした。
「君たちも、配置転換があると思うので、そのように認識しておいてくれ」
そう侍女達に話している彼の姿を見て、その場にいることが耐えられなくなった彼女は「もう話したくない!」と言い放つ。
そして、ジュリアンの言葉を遮るように寝室の扉を強く閉めた。部屋の中はしんと静まり返った。
彼は扉の前で一瞬立ち尽くしたが、ため息をつき、怒りを飲み込むようにして一の間を去った。
エレナは、この異常事態を察知していた。
マディラが居間を退室する間際、だんだんと髪の色が黒色に変化し、頭ひとつ分、背が小さくなっていたことを。
自分がここで動かねば……取り返しのつかない事になってしまう。
彼女は、そう感じていた。
だが、王妃が抑えれなかった国王を、どう止めればいいのだろうか?




