青の街 緑の夢 4
山小屋の中
初めは一時的な雨宿りと思っていたが、あまりの寒さにクローヴィスは囲炉裏に火を灯した。
薄暗かった室内が暖かな橙色の光で満たされ、二人はやっと息をつくことができた。
雨に打たれてずぶ濡れの髪は寒さを呼び、エリザベスは肩を震わせながら火に手をかざした。
小屋には毛布が一枚だけで、彼女はそれを肩から羽織り、少しでも冷えを和らげようとしていた。
一方、クローヴィスは無造作に上着を脱ぎ、上半身を露わにして湿った服を火の近くに掛けて乾かし始めた。
彼の肌には、これまでの荒れた生活を物語るような傷跡が刻まれており、エリザベスは目をそらしながらも、ちらりとその痕跡に気づいていた。
「日も陰ってきたな……雨が今止んでも、地面はぬかるみ夜道は危険だ。諦めて一晩ここで大人しくするんだな」
そう言いながらクローヴィスが室内を漁ると、古びた棚に酒瓶が数本、干し肉が数切れ、そして乾燥ナッツが入った缶が出てきた。
クローヴィスは外に出て、水を汲んできてヤカンに入れ、火にかけた。
やがて温かい湯が沸き上がり、冷え切った身体を内側から温めることができた。
エリザベスは初め、警戒の目を崩さず、囲炉裏から少し離れた窓際に身を置いていた。
「あんたも食うか」と彼から差し出されたナッツの缶。
すぐに取りに来ないのを見たクローヴィスは、彼女との間にそっと食料を置くと、しばらくしてから彼女はそっと立ち上がり、缶を手にして再び壁際へと移動をする。
そんな彼女の様子を見て、静かにふっと微笑むクローヴィス。
彼女にとってクローヴィスは、国王である夫とは対照的すぎる存在であり、その粗野でありながら堂々とした雰囲気、引き締まった体格がどうにも目に焼きついて離れなかった。
ふと彼女の視線に気づいたクローヴィスが、苦笑しながらぼそりと、「女に飢えちゃいねーよ。あんたを襲うつもりなんかないさ」と言い放つ。
その言葉に少し顔を赤らめながらも、エリザベスはやや肩の力を抜いた。しかし続くクローヴィスの言葉が、彼女の胸に深く刺さった。
クローヴィスはふとエリザベスに視線を向け、「家族も心配してるだろう」と軽く投げかけた。
しかし彼女は少し苦笑して、「心配してる人などいないわ」と、淡々と答えた。
その言葉には一瞬だけ寂しさがにじんでいたが、すぐに無表情に戻り、彼女は火を見つめたまま黙り込んだ。
先ほどの狩りでも、普段でも、彼女に無関心だが仕事の一環として夫を演じている雰囲気が感じられるフリードリヒ。
心配をしているものの、自分がいないことでひどく取り乱したり、夜通し妻を探すなんてことはしないだろう。
いつも通り、暖かい王宮のベッドで安らかな寝息を立てているはずだ。
クローヴィスはその様子に興味を覚え、「一晩限りの仲だ。相手や仲間に話すことはないから、愚痴なら聞いてやる。酒でも飲んで酔っ払った勢いで喋るか?」と、酒瓶を一つ取り上げて彼女に差し出した。
エリザベスは、普段ならアルコールを避けていたが、この夜ばかりは少し飲んでみても良いかと受け取り、小さく口をつけた。
高度数の酒にやや息を詰まらせながらも、彼女は一口飲み、ためらうように視線を落としたまま、静かに口を開いた。
「夫に、愛してる、なんて言われたこともないし……褒められたことも、ないの。人前では『おしどり夫婦』のように見られているけど、実際には私に何の興味もないみたい……」
その言葉を吐き出す彼女の声には、初めて見た堂々とした佇まいからは想像もつかない、かすかな悲しみがにじんでいた。
クローヴィスは彼女の言葉に黙って耳を傾け、火の揺らめきに目を落としたまま、何も言わずに頷いた。
クローヴィスは視線を逸らし、少し考えてから口を開く。
「あんた、その格好からして貴族だろ。富も名声も家族も手に入れてるくせに、満たされてないみたいだな。素直に生きてないんじゃないか?」
そして、自分の首にかけたロケットに触れながら、呟くように続ける。
「人ってもんは、あっけなく死ぬんだ。いつかやろうと思ってたことが永遠にできなくなることだってある」
その言葉が、エリザベスの中に隠れていた孤独感を一層浮かび上がらせた。
気づけば、体を温めようと、少しずつ彼に近寄り、囲炉裏の火の温もりが心地よく回り始めていた。
やがて酒が回り、二人の心の壁が少しずつ解けていった頃。
突然、薪がはぜて火の粉が飛び散ると、クローヴィスが咄嗟に彼女を庇った。
上半身裸だった彼の肌に火傷ができ、痛みに顔をしかめたが、何事もなかったように微笑む彼に、エリザベスはふと手を差し伸べた。
「私に任せて」と彼女が告げ、手をそっとかざして治癒の力を注ぐと、傷はみるみるうちに消えていった。
「すまねぇ。女を庇って火傷なんざ、かえってみっともなかったな」
「そんなことないわ。私だから守ったんじゃなくて、反射的に動いたのだろうけど、嬉しかった」
治癒を施した結果、手が触れ合い、二人の距離がごく近くなる。
見つめ合う中で、クローヴィスは彼女に微笑みながら言った。
「こんなに綺麗で優しくて頭も良くて、しかも怪我まで治せるなんて。
俺の嫁さんだったら、毎日『可愛い』『愛してる』って言ってるぜ。
俺が説教してやるから、その旦那をここに連れてこい」
彼のその言葉で、エリザベスの胸に、一度も感じたことのない温かさが広がった。
そして、少し声を震わせながら、彼女はささやくように聞いた。
「本当に、私は……可愛いの?」
その問いにクローヴィスは、そっと彼女の耳元に顔を近づけ、優しく「可愛いよ」と囁く。
思わずこらえきれずに、エリザベスの目から涙が溢れ出た。
「泣かなくていい」クローヴィスはそう言って彼女を抱き寄せ、そっと頭を撫でた。
その温もりに心がほぐれると、やがて二人は自然と引き寄せられ、唇を重ね合う。
いつの間にか、燃え立つ炎のような情熱に包まれ、二人は激しく抱き合っていた。
囲炉裏の炎がはぜる音と、クローヴィスの胸元で揺れる翼のロケットが、静かな山小屋の夜に不思議な印象を刻んでいた。
――――――――――
翌朝。
雨が止み、澄んだ朝の光が山小屋に差し込む中、クローヴィスが目を覚ますと、エリザベスは既に身支度を整えていた。
彼女は背筋を伸ばし、昨晩の一夜の出来事を胸に秘めたような、静かな微笑みを浮かべている。
「麓の集落に行けば、知り合いに連絡を取ってもらえると思います。だから、早く出発したほうがいいでしょう」
彼女の冷静な声に、クローヴィスは頷きながら身支度を始めた。
昨晩は、思わず溢れた本音をさらけ出し、彼女にとっては一夜限りの解放だったのかもしれない。
エリザベスは軽く礼を述べた後、国王との関係を修復する意志を彼に伝えた。
「昨夜、話を聞いてくれてありがとう。夫との関係をもっと良くできるように、努力するわ」
彼女にはまだ、夫と向き合い、家族としての絆を再構築したいという願いが残っているのだ。
確かに国王との溝は深いものの、彼との未来を選ぶべきだと決心していた。
エリザベスが微笑みながら言うと、クローヴィスは軽く笑いながら、肩を竦めて応援の言葉を投げかけた。
「ま、頑張れよ。俺たちの出会いはここまでだろうが、元気でな」
互いに二度と会うことのないと予感しながらも、名前ぐらいは知っておこうと彼女は思いたつ。
「名前を聞いていい?私はリズと呼ばれている」
たとえ愛称だとしても、この山小屋の中だけの秘密の名前であり、それで十分だった。
クローヴィスは、懸賞金がかかっていた気もするが「俺はクローヴィスだ」と応じた。
エリザベスは外に出て馬に跨り、名残惜しそうな表情を見せつつも、やがて山道へと向かって行った。
麓の集落に着くと、捜索隊がすぐに彼女を見つけ、安堵の声があがった。
再び王妃としての立場に戻り、彼女は静かに振り返り、心の中でクローヴィスとの一夜を、夢の思い出としてそっと刻んだ。




