侵入者
逆さに吊るされたアヒルや、塩漬けの魚、干した野菜や果物が積まれた店が集まる一角。廉太郎が足を運んだのはそんな場所だった。
今まさにアヒルの首をちょん切ろうとしていた男が、廉太郎の顔を見るなり店から飛び出してきた。旦那、こっちです、と言いながら。アヒルが店から逃げていく。
店の主人は年老いた男だった。彼は廉太郎を自分の店に招き入れ、女房らしい女に、飛び切り良い茶を淹れろと命じた。
「ぐずぐずすんな、早く」
そう言いつつ、男はまだ飯を食いかけの店内の客に、出て行けと怒鳴った。なんでだよと怒鳴り返す客に、うるさい出て行けとまた怒鳴る男。二度とこんな店に来るもんかと客たちはぷりぷり怒って店から出て行った。
「本当に、もうしわけありません。楼の番人の貴方に来てもらわにゃならん事態になりまして」
廉太郎を腰かけさせると、アヒル屋の男はすまなさそうな顔で向かい側に腰かけた。そこに茶が運ばれてくる。
廉太郎は無言のまま、相手を見ている。
店の主人は、そんな廉太郎の視線を居心地悪そうに受け止めつつ、話し始めた。
「先日、一番下の階でどぶさらいしていた時のことです」
楼には排水が集まる場所がある。そこは下水道のような造りになっていて、コケが生えてじめじめしている。
どうしても泥やごみが溜まるので、住人たちが月一で各地区ごとに当番を決めてどぶさらいをしているのだが……。
「今月はわしらに当たってましたんで、昨日、掃除しに降りて行ったんです」
ちなみに下水道のなかは、例の害獣である妖精の巣窟となりやすい。それらの駆除も大事な仕事の一つである。そのやり方は薬草の煙を地下道に充満させ、石造りの壁の隙間に隠れているところをおびき出して叩き殺すという、かなり原始的なもので、みな噛まれないように分厚い手袋をし、体に隙間のない服を着込んでいく。
それでも、駆除しきれず、時折不意打ちを食らうこともある。いくら体を防護しているとはいえ、愉快な経験とは言い難い。
周りに神経をとがらせながらの下水道の掃除は、そんなわけで嫌われていた。
早く終わらせようと誰もが思うその作業。たまった泥をかきだし、ゴミを引き上げるうちに、詰まっていた水も外に流れ出し、もうよかろうと引き上げようとした時だ。
掃除に来ていた一人が、素っ頓狂な叫びをあげた。
どうしたと周りが駆け寄ると、そいつはガタガタ震えていた。
そいつが指さした先にあるものを見て、周りも思わず叫んだ。
「なんだこれは」
それは、一見すると人の体に見えた。まるでずっと食事をとっていなかったかのように痩せている。髪が長く、生殖器のある場所を見ると女性のようである。
それだけなら、誰も驚きはしなかったろう。
問題はそれの顔だった。
まるでスズメバチのような大きな目と、穴が開いているだけの鼻腔。そしてイソギンチャクのように絞った形をした口。
化け物と言っていいその姿に、彼らは驚いたのだ。
それが、あおむけの姿勢で下水に浮かんでいる様は、恐怖以外の何物でもなかった。
「で、情けないことにわしら、逃げ出してしまったんです」
すみませんとアヒル屋の主人は廉太郎に言った。
そしてその後、恐る恐る戻ってみると、その化け物は跡形もなく消えていた。
排水とともに流されたのでは? とみんな思ったが、もし、流されていなかったら?
そう思って周りを見た彼らの目に、おぞましいものが飛び込んできた。
濡れた足跡である。それは楼の中に向かって続いていた。それが何を意味するのか。
彼らは必死で探し回った。
「いたぞ!」
誰かが叫ぶ。そいつは見つかるや否や、まるでゴキブリの様な速さで楼の複雑な建造物の中に紛れてしまった。
「本当にすまんこって……」
店の主人は廉太郎に頭を下げた。
明らかに外から来たと思われる生き物は、見つけ次第殺すか、それが出来ないならそこの区画の自警団に引き渡さねばならない。沢山の自治組織に分かれている楼の中で、唯一の共通する掟である。
一切の例外は許されない。たとえ相手が慈悲をこうてきても、死にかけていても、である。
だがどこの場所にも、掟を破る人間はいる。それが恐ろしい結果を招くとは夢にも思わずに。
アヒル屋の主人が話していた化け物。今そいつはとある家の中の寝台に寝かされていた。
寝台の傍では、一人の青年が寄り添い、その化け物の口に、粥を運んでやっていた。
化け物の口がイソギンチャクの触角の様に伸びて、レンゲから粥を吸い取る。
それを見た青年は、嬉しそうに微笑んだ。
「あわてなくていいからゆっくり食べて。沢山あるから」
やがて深皿一杯だった粥はたちまち無くなった。青年は化け物の口をふいてやった。さっきより色つやが良くなっているようだと彼は思った。
青年はまだ学生だった。こんな閉鎖空間に学校があるのかと思われるかも知れないが、私塾が無数にあった。彼はその一つの塾生だった。
青年は楼の成り立ちを研究していた。なぜこんな場所が生まれたのか。
その昔、世の中がひっくり返るようなことが起きた。それは文明を一気に加速させるきっかけとなるものだった。
たが、その文明を拒否した人たちがいた。それが楼をつくった祖先だというのである。
文明がどのように発達したのかはどの文献にも書かれていなかったが、青年は憧れを抱いた。
外の世界。つまり、楼の外には、夢のような世界が待っていると。
そんなおりに出会ったのだ。
通っていた私塾からの帰り道。路地裏で倒れているこの生き物に。
一目見た途端、外から来たものだと分かった。
彼はそれを家に連れて帰ったというわけである。
一人住まいだったから、誰に遠慮することも無い。ただ、他の人に見られないようにだけは青年は注意していた。
見つかったらおそらく、この子は殺されてしまうだろう。
可哀想に。青年はそう思いながら、せっせとその化け物の世話をした。体が汚れていたので風呂にいれてやり、取りあえず自分の服を着せてやった。
化け物は最初衰弱していたが徐々に元気を取り戻しているようであった。それが証拠に、時々、ううう、とか、あああ、と、唸り声を上げるようになった。それを聞いた青年がウンウンと肯くと、化け物の、小さな口が少しだけ笑みの形に歪んだ。
意思が通じている。青年はそう思った。
早くもっと回復してほしいと彼はねがった。回復して、ちゃんと喋れるようになったら、外の世界の事をたくさん聞きたかった。きっと素晴らしい世界なんだろう。彼はそう思った。
その化け物を保護して三日ほどたった。青年は塾の帰り道にいろんなものを買い込み、家に急いだ。
戻るとすぐに寝台に向かった。今日は風呂にでも入れてやろう。そんなことを考えながら。
「ただいま……。あれ?」
寝台は空だった。掛布がめくってある。
それを見た青年は喜んだ。歩けるようになったのかと。しかしそれと同時に慌てた。まさか外に出たのでは?!
青年は踵を返して家の外に出ようとした。早く見つけねば。殺されてしまう……と。
と、そんな青年の頭に、生暖かい何か液体のようなものが降りかかって来た。
「なんだこれ」
それは粘り気のある透明なもので、どうやら唾液のようだった。なんでこんなのが頭に……と彼は思い、天井を見上げた。するとそこに例の異形の化け物が張り付いていた。ゴキブリの様に。
青年の目が裂けんばかりに見開かれる。天井に張り付いたそいつは、体は天上を向いているのに、顏だけ下に向けていた。
イソギンチャクのような口が大きく開いていた。そこから粘液をまとった牙が見えた。