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Blank Cartilage  作者: 海祇マリネ
1章 立志編
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間章Ⅰ

 地獄さながらの中、人が我先にと走る。その方向性はない。ぶつかり、倒れ、踏みつぶし、乗り越え、方向を変え逃げ惑う。子供の泣き声と叫び声。男も女も関係なく悲痛な悲鳴を上げている。時折銃声が響いたかと思えば、人々は方向を変えより混乱が広がる。


「こっちだ! 逃げろ!」

「逃げ場なんてどこにもないじゃない!」

「イヤぁっ! 離して!」

「やめろ、やめろ! 俺に触るな!」

「イヤだ、お母さん、置いていかないで、ねえ! うわああああああああん!」


 四方八方に動く人の合間をなんとか縫って私は走る。館から取ってきたぼろ布をフードのようにして顔を隠し、進む。ぶつかり、ぶつかられ、地面に倒れこと切れた人間につまずく。


 早く、早く逃げないと。


 もう国王側は気づいているはずだ。公爵邸に私の——ミリオナ・フォン・シュタットレイスの姿がないことに。


 どうして、どうしてこうなったの? 私がもっと、うまくやればよかったの? どうすればよかったの?


 頭の中でぐるぐると浮かんでは消えていく。後悔、自分のふがいなさ、怒り、そして疑問。すべてがない交ぜになった黒い泥から時折吹き出すガスのように、問いは私にまとわりついて離れない。


 ガッッ。

 石畳に足を躓かせ、地面に勢いよく倒れこむ。頭を包んでいた布が取れ、髪があらわになる。


「っ痛………」


 擦りむいた膝からは血が滲み——空間にモザイクがかかるように傷の周囲がぼやけた後、跡形もなく消えた、ように見えた。痛みは残ったままだ。

 突如、首をつかまれ、私の体が地面に押さえつけられた。一瞬のうちに悟る。


 まずい、捕まったッ……!


「動くな。抵抗すれば射殺する」


 なんとか首をひねって相手を確認する。王国軍防衛部隊の青い隊服。


「最終警告だ。抵抗をやめろ」


 私はもがくのをやめた。軍に情はない。本当に今殺されてしまう。

 勢いよく長い髪をつかまれ、顔を確認される。痛みにたまらず顔を歪めた。目の前に男の顔がある。


「ハっ、こいつぁ上玉だ。どうするよ、一人くらい俺らで楽しんだって罰は当たんねえんじゃねえか?」


「やめとけ。楽しむったって今は場所も時間もねえよ」


 軍は民衆を取り囲んでいた。その網から逃れようとするものを容赦なく捕らえ、殺し、着実にその範囲を狭めている。


「それもそうだな、仕方ねえか……おい女」


 再度髪から吊り下げるように持ち上げられた。


「お前、名前は?」


 苦しい。痛い。その中で必死に頭を回す。

どうして、私の名前がわからないの? 軍人なら知らないわけがないはずよ。

 でも……そう、知らないなら好都合。私は、


「私の、名前は、——」


 出まかせの名前は、近くの別の銃声にかき消された。


「あぁ? 聞こえねえよ」


「おい、あんま一人に構ってる時間はねえぞ。そいつら奴隷になるって噂だ、あとで買えばいいじゃねえか」


 ……奴隷? この国はその制度をずいぶん前に廃したじゃない。


「チッ」


 男は私を後ろ手に縛り、後方に待機していた輸送車の中に押し込んだ。磨かれた金属扉が閉まる直前、私の姿が一瞬だけ映った。同時に兵士がなぜ自分を認識できなかったのかを知る。

 ああ、そうだった。今の私は——


  ◆


「壮観とはこのことよ。余の命を狙う人間が集い、そのすべてが無力化されるとは。阿呆もここまで行くと清々しい」


 王宮前の広場。石畳の上に拘束された人々が集められ膝をついている。絶望にまみれた顔で国王を見る者、うなだれてすすり泣く者、あるいは必死に拘束を解こうともがく者。

 ただし、その中でもひと際高い台の上に一人、自分たちと同じように後ろ手に縛られながら静かに膝をついているにも拘らず。叫ばず、取り乱さず、静かにその様を見つめる初老の男。髭はきれいに整えられており、片メガネをかけた風貌は理知的で気品がある。その背は鍛えた武人のようにまっすぐで、とらわれていることなど微塵も感じさせない貫禄だった。


「そうは思わぬか、公爵」


 対して国王は肉付きの良い——もとい、恰幅の良い男だ。彼も白髪を方で切りそろえており、その目は赫々としている。そこから発せられる声は朗々たるもので、王宮のバルコニーから話しているとは思えないほどの明瞭さで広場に響いた。


 彼が眼下に見晴るかすのは雨に濡れた人々の群れ。その誰もが手を縛られ、蹲っている。しかし王の視線はその誰でもなくただ一人、檀上の男——シュタットレイス公爵だけに注がれていた。

 公爵は答えない。瞑目し、微動だにしない。


「貴様の煽動によって、多くの無辜の国民が畏れ、怯える姿だ。満足だろう? ヘルムートよ」


「……」


「最後の機会だ。発言を許そう」


 ゆっくりと、公爵が目を開ける。濡れた白い髪の合間からのぞく双眸は燃えるように紅い。しかし国王よりも低く、しかし堂々たる威厳に満ちた声が雨の降りしきる石畳に反響して耳に届く。


「民衆を資源としてしか見ぬ愚かな王よ。いつか……いつか。貴様の世は終わる。神から授かったなどと都合のいい嘘にまみれた、その浅はかな権力は近いうちに滅ぶだろう」


「それで終わりか?」


 懐から無駄に華美な装飾を施された護身用の拳銃を抜き取る。その銃口はぴたりと公爵の頭に据えられていた。


「あぁ、あと一つ」


 これまではやれ身分だの場の空気だの、しがらみが面倒で言えなかったんだ、と呟きながら不敵に笑う公爵。


「さっさとくたばれ、木偶の坊」


 ——銃声。


 乾いた音は雨の雑踏の中に溶けて消えた。

 頭がはじけ飛び、その鮮血で水たまりを赤く染める公爵を憎たらしそうに見つめる国王。その視界の端で、ひと際大きく目を見開き、次いで並外れた憎悪を向ける少女がいたが彼の意識には登らなかった。

 人々の顔がみるみる絶望に染まっていく。ある人は悲壮を、ある人は怒りを自らの顔に湛えている。自分たちの精神と立場のよりどころであった人間が目の前で死んだのだ。心穏やかではいられなかった。

 低い声で眼下の人々に語りかける。


「王国に庇護された恩を忘れた愚かな人間ども。この国を神から任されたこの私が、最後の慈悲を与えよう」


 群衆の顔にわずかな期待の色が浮かぶ。しかし、王の顔から酷薄な笑みが消えることはなかった。


「貴様らは今、この瞬間から国民ではない。奴隷だ。その罪を我ら貴族と国民に対し贖え」


 途端にざわめきが広がる。ある男が立ち上がった。


「ふざけんじゃねえ! 何が『罪を贖え』だ! 俺たちの生活を考えたことな」


 パァン。


 乾いた銃声が反響し、言葉を断ち切った。男はゆっくりと膝から崩れ落ち、血だまりが地面に広がる。その数メートル背後に立つ、銃を構えた近衛兵。銃口からは薄く硝煙がたなびいている。


「……余は機嫌が悪い。これ以上の慈悲を期待するのは愚の骨頂ぞ?」


 重い沈黙が場を支配する。雨が石畳を一層強く打ち、耳障りなほどだ。


「しかし奴隷と言えども再度王国の益となることを望むなら、一度だけ機会を与えよう。選べ」


 嗜虐的な笑みが浮かぶ。


「『兵役奴隷』として死地に赴き国民を守るか、おとなしくこのまま『労働奴隷』となるか。『兵役奴隷』となった者のうち、その武功によっては再度『国民』の階級を与えようではないか」


 王の声だけが響く。


「我が王国はこれから戦争になる。これはもう避けようのない未来よ。だがこの戦いで『国民』が命を落とすのはあまりにも惜しい。よって貴様らが壁となるがよい。それをなしてこの国に生きて戻ったならばその働きに報いよう」


 ざわめきが大きくなった。戦争を始めるなど初耳だ。


 王宮のバルコニーから両手を広げ、問いかける。


「さあ、今選べ。再度国民となるべく命を懸けるか、生涯をかけその罪を贖うか。二つに一つだ」


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