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苦手な方はご注意ください。

短編

呪ったっていいじゃない!

作者: 猫宮蒼



 ジゼル・マクロワナ侯爵令嬢が婚約破棄されたのは、彼女にとって青天の霹靂としか言いようのない事態だった。

 婚約者であったクロード・メッティンバリ公爵令息は伯爵令嬢リリアン・ドルクベリを真実の愛だと宣言し、人前で婚約破棄を突きつけたのである。


 しかも、巧妙にこちらが悪いという証拠を捏造して。

 勿論身に覚えがないのでそれに対して抗議はした。したのだけれど、クロードは余程用意周到に事前に準備を重ねていたようで、こちらの無実を訴える声は言えば言う程周囲から言い逃れをしようとしているようにしか見られなかった。

 まんまとしてやられたのである。


 そうして悪女たるジゼルは婚約破棄をされ、清く正しく美しいリリアンがクロードと結ばれる事となったのである。なんて、世間の認識はまさしくそんな感じであった。


 クロードの家の方が家格も上だという事もあり、また今から冤罪の証拠を集めたところで世間の認識を見事に操ってみせたクロードの家の圧倒的勝利である。完全に後手に回ってしまって、ジゼルは泣き寝入りするしかなかったのだ。


「くっ、悔しい~~~~!! 別に婚約の解消だったらいくらでも求められたら応じましたのに! どうしてわざわざやってもいない悪事まで背負わされなければなりませんのっ!?」


 そりゃもう自室で泣き暮らし、怒りのあまり吠えたところで仕方がない。

 だってジゼルは本当に何も悪くなかったのだから。

 そりゃあ、政略結婚だった。

 だから簡単に婚約を解消するのは難しかったかもしれない。

 けれど、お互いきちんと家の者を交えて話し合って落としどころを見つければ、円満に解消できなくもなかったのだ。


 だがクロードはその手間を惜しんで一方的にジゼルを嵌めた。

 なんて卑劣なんだろう! 今までそれでもちょっとだけあの人にあった情は、これが原因で木端微塵に砕け散った。


 勿論悔しいのはジゼルだけではない。

 家を貶められたのだ。ジゼルの両親だって怒り心頭である。

 勿論証拠として出されたそれらがいくらジゼルが犯人だと言えるようなものであっても、長年家族として暮らしてきたのだ、自分の娘がやっていない事くらい、両親はわかっていたし信じていた。

 だが、身分が上の相手の巧妙な罠にこちらは対処が遅れたばかりに一方的にやられたのである。


 貴族だもの。そりゃあ政敵だとかの足を引っ張ったり陥れたりすることはある。けれども、相手は婚約者だったのだ。それが陥れてくるとか余程お互いの仲が険悪とかでもない限り想像もしていなかった。

 家族であったとしても仲が悪ければそういう事もあるにはある。だがしかし、あんなことをされるまでクロードとジゼルの仲は別にそこまで悪いという程のものではなかったのだ。

 これが途中から真実の愛の相手とやらのリリアンとちょくちょく一緒にいる姿を見受けていた、というのであれば多少警戒はしたかもしれない。

 けれどもクロードもリリアンもそういった部分はとても用心深かったらしく、ジゼルは本当に婚約破棄を突きつけられるまで二人がそういう仲になっていたなんてこれっぽっちも知らなかったのだ。

 相手が一枚も二枚も上手。言ってしまえばそれだけの話なのだけれど、だからといってしてやられた事を受け入れられるはずもない。


 行き場のない怒りをどうにか鎮めようにもそれも中々難しい。

 きぃぃ、とハンカチでも噛みしめてそうな声を上げながら、ジゼルはベッドに置かれていたクッションにぼすぼすと拳を叩きつけていた。そうでもしないとメイドとかに八つ当たりしてしまいそうなので。

 だがメイドに罪はない。流石にそんなことをしてしまっては可哀そうだ。だからこそジゼルはとにかくひたすらクッションを殴る作業を続けていたのである。

 この内なる衝動をどうにかしなければ、怒りに身を任せてとんでもない事を仕出かしてしまいそうだった。


 何をするにもまずは落ち着かなければ。

 そう思って一心不乱にクッションを叩く。ふわふわだったクッションは、段々よれてへにゃっとなってきていた。


 正直一向に怒りが収まる気配がしないけれど、いい加減結構な時間そうしてクッションを殴る作業を続けていたので腕が疲れてきた。

 怒りのせいで呼吸も乱れて、運動したわけでもないのに息切れもしていた。

 本心を語れば、クッションよりもクロードを殴り倒したい。これに尽きた。クッションですらひたすら殴れば疲れるので、クロード本人を殴れるならば適当な鈍器を用いたに違いない。

 怒れるジゼルはきっと、クロードがひき肉になるまで殴るのをやめないだろう。

 それくらいに、彼女の気持ちはこれっぽっちも収まっていなかったのである。



「こんちゃーす、何かぁ、大変な目にあったって聞いてぇ、遊びにきたよぉ」


 そんな貴族令嬢の所に訪れるには随分と砕けた口調の人物がジゼルの部屋に訪れたのは、すっかり日も沈んで夜になってからというある意味訪れるにしても非常識な時間帯だった。


 訪れた人物の姿は、まぁ常識的に見ればとても貴族の令嬢の友人とも思えないような姿だった。

 赤い髪に青い目の女の姿は、ゴッテゴテなまでのパンクファッション。間違っても夜会などの社交場に現れたらひそひそされる服装である。じゃらじゃらとつけられたピアスはそんなとこにまで!? と言いたくなるほどで、人によっては見ただけで痛そう……と顔を顰めるかもしれない。


「ヴァリー」

「ん、何か思ってたより元気そ? 一応これ、お土産ね」

 言って手を掲げれば、そこに突如として籠が出現する。その中には美味しそうな焼き菓子が入っていた。

「ヴァリーの手作り、なんですの……?」

「そだよぉ。自慢の一品。味はバッチリ」

 にかっと歯を見せて笑うヴァリーに、ジゼルもつられるように笑った。


 高位貴族の令嬢が、そもそも得体のしれない人物の手作りの菓子など口にするなど本来はあり得ないのだけれど。

 ヴァリーは幼い頃からのジゼルにとっての友人である。貴族令嬢から見てとてもぶっ飛んだ格好をしていようとも。


 ヴァリーはジゼルがまだ幼かったころ、突然現れた。

 庭で母と花を見ていた時に突然現れたため母がとても警戒していたが、ジゼルはヴァリーが危険な人物だとは思えなかった。当時ジゼルはまだ幼かったものの、ヴァリーの姿は今と同じである。年上の、なんだか随分とぶっ飛んだファッションのお姉さんがやってきた、そういう認識だった。


 ヴァリーは魔女だと名乗り、ジゼルたち侯爵家の領地にある森の奥深くに存在する沼地付近にて住処を作りたいとのたまった。

 魔女というのは善き者もいるが大半は性格の捻くれた存在で、人の不幸で飯が美味いと言ってのける存在である。そんな魔女がやって来た挙句、侯爵家の領地内に居を構えたいと言われ、ジゼルの母は私の一存ではこたえられない、せめて夫と相談させてほしい。そう言ったのだが。


 ジゼルは魔女という存在について、それがどれだけ恐ろしいものなのかまだこれっぽっちも理解していなかった。だから平然とヴァリーへと近づいて見上げ、

「沼地って日当たり悪いって聞いたけど、本当にそこでいいの? もっと日当たりの良い場所の方がいいのではなくて?」

 などとのたまったのである。

 母親は何とか穏便に別の場所に行ってもらおうと画策していたというのに、その娘が既に領地で過ごす事を決定事項のように思っている挙句、もっといい場所にいてもいいのに、なんて言ったものだから。


 ヴァリーはおかしくなって大笑いしてしまったのだ。


「アタシ魔女だからね。いいんだよ沼地のあたりで育てたい薬草もあるし」

「まぁ薬草。お薬を調合できるのね。凄いわ。って、魔女? お姉さま魔女なの? 魔法使えるの? 凄いわ。わたし魔女を見るの初めてなのだわ。魔女ってお話の中だとお婆さんが多いのに、お姉さまなのね。とても美人でカッコいいわ」


 貴族令嬢としての服装とはかけ離れたパンクファッションはジゼルにとって見慣れないものであったけれど、それが凄くヴァリーに似合っていたので、嘘偽る事なくジゼルは称賛したのだ。そしてキラキラとした眼差しを向ければ、ヴァリーはますますおかしくなってしまっていっそ下品なくらいゲラゲラ笑ったのである。


「ねぇ、アタシと友達になってっていったらなってくれる? 小さなお嬢さん」

「待ちなさいジゼル」

「? いいわよ。でもあなたはいいの? わたし特に面白みのない人間よ?」

「そんな事はないよ。アタシ相手にそれだけ言えれば充分だもの」


 母が止めるのも聞かず、幼いジゼルはあっさりと魔女と友達になる事を了承してしまった。

 手遅れだと判断したジゼルの母は、あぁ……! と呻き声を上げそうになりながらも天を仰いだ。


 もうだめだ、うちの領地に魔女がいるとか、一体どんな厄災を持ち込まれる事か……!


 そう、ジゼルの母は内心で嘆いたのだけれど。

 しかしジゼルの事を気に入ったヴァリーは沼地に小屋を建て、そこで大人しく過ごしていた。時々ジゼルの屋敷にやってきてはちょこちょこ会話を楽しんで帰っていく。

 魔女だという部分を見なければ普通の茶飲み友達のような間柄で、二人の関係は続いたのである。


 そうして今回、ジゼルが何だか酷い目に遭ったという噂を聞きつけてヴァリーはやって来た。


「ヴァ、ヴァリィィィィイイイイ!!」


 焼き菓子の入った籠を受けとりながら、ジゼルは泣いた。友の心が嬉しくて、あと第三者的立場の誰かに話を聞いてほしくて。

 だってもう周囲は完全にジゼルが悪の令嬢で、クロードとリリアンは真実の愛で結ばれた尊き恋人なのだ。実際クロードはマトモに話し合いもせずに相手を陥れるクソ野郎で、そのクソ野郎と結託した性格最悪令嬢がリリアンであったとしても、真実が明るみに出ない以上は二人は清廉潔白、真実の愛で結ばれた素晴らしき恋人たちなのである。


「噂は噂だと思ってたけど実際マジで何かあったんだ。どしたん? 話聞くよ?」


 普段はつらい事があっても泣くような女じゃない事を、ヴァリーは知っている。それがこうして外聞も何もあったもんじゃないとばかりにぼろぼろと涙を零すのだ。ただ事ではないと思いながら、ヴァリーは軽い口調でありながらも椅子に腰を下ろして話を聞く態勢に入った。



「――今回の件で良かったことって、そのクズと結婚しなくて済んだ事だよね。で、悪い事ってまんまとしてやられた事か。うーん、まぁムカつくよね」

「えぇえぇ、わたくし悔しくって……! 人を見る目がなかったんですわ!」

「んーなこたないよぉ、ジゼルの人を見る目はちゃんとあるよ。今回はたまたまハズレ引いただけだってぇ」


 軽い口調で慰めるヴァリーの言葉に嘘はない。

 だってジゼルは幼い頃に、自分と友になったのだ。魔女がどれだけ恐ろしいかもわかっていなかっただけであっても、知った後も平然とお友達のままでいるのだ。見る目というかみどころは確かにある。

 だって大抵は魔女がどれだけ恐ろしい存在か知ったら、知らなかった時には戻れない。そうなると今度はどうにかして距離をとろうとするものなのだ。それが、ヴァリーにとっての当たり前であった。

 だがジゼルはそうではなかった。幼い頃と同じように成長してもヴァリーと友人であり続けた。中には魔女である自分を上手く利用してやろう、なんて企む者もいたけれど、ジゼルはそんな奴らとも違っていた。

 本当に、ただの友人であり続けたのだ。

 それがどれだけ素敵で素晴らしい事なのか、きっとジゼルはわかっちゃいない。

 魔女にとって長く続く友という存在がどれだけ貴重で尊いものか。欲しいと思って得られるものではないのだ。それなりに長く続いたとしても、いつかどこかで仲たがいする可能性だってあるのだから。


 故に、ヴァリーにとって大切な友人が酷い目に遭わされた事に関しては、勿論思う部分しかない。

 幼い頃に決められた婚約者。ジゼルは恋をしていたわけではないけれど、それでもクロードとはゆっくりと、確かに情は育んでいたのだ。まだ恋と呼べないだけで、あのまま上手く関係が続いていればいずれは恋へと変化していたはずなのだ。

 それなのに。


 あの野郎アタシの友人の一体全体何が不満だってぇのよ。こんないい娘他にいないぞ? お?

 今目の前にそのクソード……じゃなかった、クロードがいたなら間違いなく顔の形がわからなくなる程度に殴っていた。いくら見た目が細かろうと魔女の力を侮ってはいけない。本気出せば一撃で頭蓋骨粉砕するくらいできなくもないのだから。くそっ、あの野郎の脳みそ引きずり出して目の前で野良犬に食わせるところを見せつけてやりたい……! それくらいの可愛らしい報復なら別に全然オッケーなんじゃないかな。ヴァリーは割と真剣にそう考えていた。

 普通の人間は脳みそ引きずり出された時点で死ぬので、野良犬に食わせたとしてもその光景を本人が見る事はないという事実にすら気付いていない。それくらいにハラワタ煮えくり返っていたのである。



「……ねぇジゼル。やり返そうって気はある?」

「そりゃあやられっぱなしじゃいられませんわよ。でも、もう世間一般が味方についてしまって今何をしたとしても、逆転できる感じじゃありませんもの! 我が家があの人の家より身分が上であればまだしも、身分は向こうが上、これ以上下手な立ち回りをしてしまえば今度は家ごと潰されかねません……!!」


 そうなのだ。

 だからこそ、軽率に反撃してやろうと思っても実行に至らないのだ。

 怒りに駆られてやらかせば、今度は家そのものを潰されてしまう。そうなったら家族だけではない、侯爵家で働く者たち、領地に暮らす者たちまで不幸な事になる。だからこそ気持ちを落ち着けるために先程まで延々とクッションを殴る作業を続けていたのだ。


「ま、そだろね。でもさでもさジゼル? 貴方には、つよ~い味方がついてるじゃん? ほら、目の前」

 おどけた口調で言いながら、ヴァリーは自分を指差した。

 ジゼルは大きな目を見開いて、一瞬遅れてからぱちくりと瞬きをする。


「え、え、でも、ヴァリーはこの件に何も関係がないのに。巻き込むのは本意ではありません」

「はぁ? 何甘い事言っちゃってんの? 向こうが穏便に婚約解消求めて両者の話し合いで済ませてんなら確かにアタシが口出す問題じゃないよ? でもね、向こうは周囲を味方につけてこっちを一方的に悪役に仕立て上げたんだ。周囲を一杯巻き込んでる。なら、ジゼルがアタシを巻き込んだって全然問題ないよね? ってか、巻き込んだ数で考えたらむしろ少ないくらいだもの」

「戦力的には過剰では……?」

「ふふ、その意気や良し。そう、アタシというとても強くて頼もしい味方が今ジゼルにはいるの。だからね、盛大に! ぱーっと! やり返しちゃおう!!」

「でも、具体的にどうすれば……?」

「ま、魔女のやり方だからね。そうだ、呪っちゃう?」


 あまりにも軽く言われて。


 ジゼルは一瞬思考がとても遠くに旅立つのを感じていた。

 だがそれも数秒の事。


「そうですわね。呪いましょう!」


 力強く、ジゼルはしかと頷いたのである。




 クロードは邪魔な女を片付けて最愛のリリアンと結ばれた事にご満悦であった。

 相手が余計なことを喚いたところで無駄であると知らしめて、むしろ喚けば喚くだけ向こうが悪いように受け取られるように仕向けた。それもあって実際は浮気だったというのにクロードとリリアンは真実の愛で結ばれた今をトキメク恋人たちとしてすっかり世の中に認知された。

 クロードにとって邪魔と切り捨てた女は世間での評判も最悪、地の底まで落ちているため社交界にもとんと出てこなくなった。あれでは次の婚約や結婚など到底無理だろうし、そうなれば嫁ぎ先も婿に来る相手もいないだろう。そう遠くないうちに修道院にでも行くか、はたまたとんでもなく年の離れた男の後妻として嫁ぐか。


 ジゼルの事を明確に嫌っていたわけではない。だが、それでも何となく気に入らなかったのだ。

 こちらの意図を完璧に汲んで行動してくれればまだそれも我慢できたかもしれない。けれどもそういった事もなく、それ故に彼女の一挙手一投足に苛ついていた事は数えきれないくらいある。

 今にして思えば、純粋にお互い合わなかった、相性が悪かったのだという言葉で片付ける事ができるが、婚約破棄を突きつけた時はそんな言葉すら浮かばぬ程にただその存在が許せなかった。


 ジゼルが聞けばそんな身勝手な、と言いそうな事であったがクロードは己を不快にさせた存在にあえて優しく教えてやる義理はなかったし、義務だって勿論ないと思っている。

 そんな理由で婚約者だった男に陥れられるとは、ジゼルも相当に運がない。


 万一事の真相が明るみに出れば、間違いなく世間のクロードとリリアンに向けられる感情は悪い方へ傾くだろう。だが、クロードはそんなヘマをするつもりは勿論なかった。


 世間が二人を祝福している空気であるうちに、クロードとリリアンはさっさと結婚することにした。

 クロードの目論見通り、周囲の祝福っぷりは凄まじく、さながら国王夫妻が結婚した時のような盛り上がりを見せた程だ。一介の貴族の結婚とは思えぬほど、式に参列した者たちの熱狂は凄まじかった。


 式も無事に終わり、本日は夫婦の初夜を迎える日である。

 既にリリアンは寝室で待っているだろう。クロードは身の回りに問題がないかをチェックして、それから意気揚々と愛しい女性が待つ寝室へと向かった。



「――ば、化け物!? 誰か! 誰かいないか!?」

「えっ、どうしたのクロード、化け物? そんなのどこにもいないわ!?」

「何を言うか貴様我が妻をどうした!?」

「えっ、私がそうよ? リリアンよ、どうしちゃったのクロード……!?」


 寝室に足を踏み入れ、いざ最愛のリリアンと結ばれるのだと思いきや、そこにいたのは言葉で言い表すのも難しいくらいに醜い化け物であった。咄嗟に使用人を呼びつけたクロードに、しかし化け物は困惑した様子で声を上げた。恐ろしい事にその声は最愛の妻のものであった。


「旦那様、一体どうしました!?」


 そうしてクロードの声に何事かと集まって来た使用人。家令のジェフもその中に混じっていた。

 化け物、と聞こえたが賊の可能性を考えて屋敷の警護をしている兵も数名だが集まっている。


「リリアンが、化け物のような姿に!」


 こんな醜い化け物がリリアンだと信じたくはないが、しかし声は紛れもなくリリアンである。

 化け物がリリアンの声だけを真似ていると言われてもおかしくはない。もしそうならこの化け物は殺さねばならない。そう思って指示を出そうとしたクロードの口がその言葉を紡ぐよりも先に、


「……奥様の姿に変化はございませんが……?」


 とても困惑した様子のジェフの声。

 他に集まっていた使用人たちも、

「奥様は美しいですよ」

「そうですよ。初夜だというのに、いえ、もしかして初夜だからこそ照れて緊張してそのようなことを……?」

「それにしたって奥様に失礼ですよ。いくらなんでも化け物だなんて」

「えぇ、奥様は女神のように美しゅうございますよ」

 それぞれにリリアンの美しさを讃えている。


「何を言っているんだ、こんなに醜い化け物に変わっているというのに」

「旦那様こそ何を言っているのですか。奥様は式を挙げた時から今の今まで身支度は入念に行っていましたし、その美しさが翳る事はありませんよ」

「旦那様には奥様が化け物に見えてらっしゃるのですか……?」

「医師を呼んだ方がいいかしら……?」


 周囲の声が訝しげなものに変わり、それどころかクロードに向けられる視線が何だか可哀そうな物を見る目になっている。口に出してはいないが、クロードの気が触れたと考えていてもおかしくはない。


 そうなると流石にクロードも理解するしかない。

 周囲には、マトモなリリアンの姿に見えているのだ。このおぞましい化け物は。

 自分だけが、リリアンの姿ではなくおぞましい化け物に見えている。


 一体何の冗談だ。

 化け物が周囲を騙して自分だけが真実の姿を見ているのか、それとも本当に自分の頭こそがおかしくなってしまったのか。わけがわからなかった。


 この化け物を一秒でも屋敷の中においておきたくはない。始末してしまいたい。けれども他の者の目にはリリアンとして映っているのであれば、もしこの化け物を殺した場合クロードはリリアンを殺した事になる。

 いくらクロードの目に化け物にしか見えなくとも、それ以外の人間にはリリアンなのだ。化け物を退治したつもりで殺人の罪を犯したとなれば、真実の愛で結ばれただのといった評判から一転、メッティンバリ公爵家の名は地に落ちるだろう。

 愛する者を殺した男。公爵家の跡取りのおぞましき趣味。偽りであった真実の愛。

 そんな見出しがつけられて、おもしろおかしくゴシップ紙にある事ない事書き連ねられる未来が想像できてしまった。


 何か痛ましいものを見る目がクロードに向けられている。そんな目で見るな。私は正常だ。

 そう叫びたかったが、己が正常である事など叫べば叫んだだけ疑われる。それはさながら、無実であるジゼルのように……



「あっは、早速効果でてるぅ」


 その声は、突如として聞こえてきた。

 聞き覚えの無い声。若い女の声であった。

 咄嗟に声がした方へ視線を向ければ、そこには真っ黒なローブを纏った者が一体いつからいたのかも不明なままに立っていた。

 声がしなければ、男か女か性別もわからないままだっただろう。しかしその黒いローブの人物は女であると声でわかった。

「何者だ!?」

「アタシ? アタシは魔女。名前はヴァリー」


 魔女、という言葉に使用人たちがざわついた。


 魔女。人の形をしているが、人とは異なる生き物。魔法という未知の力を使い、時として人を助ける善き魔女もいるとはいうが、しかし大半は人を不幸に叩き落す存在である。

 そんな人の形をした災厄が、どうしてここに。


「いやね? 真実の愛とかいうちゃんちゃらおかしなことのたまってる馬鹿がいるって聞いて」


 へっ、と吐き捨てるかのような物言いに、思わずクロードは怒りでカッと視界が赤く染まるのを感じた。咄嗟に怒鳴りつけてやろうかと思ったが、しかし相手は魔女だ。何を仕掛けてくるかわからない。

 だからこそ怒りで頭の血管が切れそうになるのをどうにか堪えながら魔女の話を聞くことに集中した。


「だからさ、本当にそれが真実の愛なのかを確かめたくて、呪いをかけてみたんだァ」


 魔女の声はとろとろとした優しい声音であった。揺りかごの中にいるような、ともすれば安らかに眠れそうな優しい優しい声だった。言っている内容は全くもって優しくないが。


「呪いだと……!? では、この化け物は本当にリリアンなのか……!?」


「そだよぉ? お前にかけた呪いはとっても簡単。真実の愛のキスで解けるよ」

「真実の愛……」


 魔女の言葉を繰り返すように言えば、魔女は鼻で嗤った。


「でも、まずは真実の愛とやらを見届けたいからさ、呪いを解く条件はその女と真実の愛のキスをする事じゃない」

「なんだと……!?」


 魔女の言葉に周囲もわけがわからないとばかりにざわめく。


 おぞましい化け物の姿にしか見えないが、リリアンと自分が口づけを交わせば呪いが解けるのではないのか。真実の愛を見届けるとは一体どういう意味なのか。

 意味が理解できないからか、魔女はこちらを見てとても楽しそうに唇を吊り上げた。


「呪いを解く手順はとっても簡単。まずは真実の愛とやらで結ばれたお相手と真実の愛の結晶を作ります。ぶっちゃけると子供ね。

 で、その子供がお前の事を父親として、ちゃんと愛した上でキスをする。別に口じゃなくていい。ガキのちゅーなんて頬とかだろうし。

 ガキが本当にお前の事を家族として愛してくれていて、お前もその子供をきちんと愛しているのなら。それは本当の真実の愛なんだろうさ。呪いはその時に解ける」


 呪いを解く手順は、聞くだけならばとても簡単に思えた。

 愛する人との子を作り、産み、生まれた子を育て、そうして育った子がお父様大好き、とでも言ってほっぺにちゅーをすれば。

 それで呪いは解けるのだという。


 平民出身の者であれば、とても容易いと思えただろう。

 貴族であっても、子を育てるのに乳母が関わる事があったとしても、それでも両親が一切関わらないというのは何らかの事情でもなければありはしない。仕事が忙しかろうが最低限家族との関わりはあるはずなのだから。


 だが、本来ならば簡単だろうそれが、今のクロードにはとんでもなく難しいものだった。


 何せリリアンの姿がおぞましい化け物なのだ。

 正直イボガエルと口づけをしろとか言われた方がまだ容易い。むしろイボガエルのがマシな程に、おぞましい姿にしか今のリリアンは見えないのだ。


 それと、子供を作る……?


 これと、裸で睦みあう……?


 他の者にはちゃんとリリアンの姿で見えているとはいえ、クロードだけが化け物に見えているのだ。本来は美しい妻。だがしかし今クロードの目に映るのは美しい女性ではない。ぶよぶよとした肉の塊に、手なのか足なのかもわからない何かが突き刺さっていて、所々肉が溶けかけている。触ればぬちゃっという湿った音でも立てそうな質感。見ているだけでもおぞましいが、素手で触るとなれば間違いなくお断りしたかった。


 そんな化け物と、子を作れと魔女は言う。

 無理だ。


 そもそも本来のリリアンなら人の形をしているのだが、クロードの目に映るそれは人型とは到底言い難く、正直顔の位置は何か目があるからわかるけれど、身体部分はどこが何なのかわからない。

 胸だと思って腹を触るだとかの失敗くらいならかわいいものだが、コレのどこに自らの男性器を挿入しろと言うのか。

 そもそも勃つ気がしない。クロードはいくら目の前のこれがリリアンだと言われても、見た目は異形の化け物だ。それに対して性的な興奮を抱けるような性癖は持ち合わせていなかった。


「あんな手段まで用いて結ばれた真実の愛のお相手だ。まさか見た目がちょっと変わったくらいで消えるようなヤワなものなわけないよね? だって真実の愛なんだもん。

 あ、そだ一応言っとくけど。他の女はマトモな姿に見える。それはお前の周囲の使用人とか見ればわかると思う。

 で、他の女に目移りした時点で、その女も化け物みたいに見えるようになるからさ。真実の愛はきっちり最後まで貫くことをお勧めするよぉ?」


 あんな手段、と言われ一部の使用人はわけがわからず首を傾げていたが、中にはクロードに言われジゼルに冤罪をきせるために手を貸した者もこの中にはいた。手を貸した者はクロードに忠誠を誓っていた者であったり、またどうしてもリリアンと結ばれたいという思いに心を打たれたり、更に身分には逆らえないという者であったり……まぁ、それぞれの思惑によって手を貸したわけだ。


「共犯者に関してはまぁ、こいつが真実の愛を最後まで貫けなかった時点で全てが明るみに出るようにしてあげるからさ。精々がんばんな」


 そう言って魔女は消えた。

 本当に一瞬前までそこにいたのか、という疑問が生じるくらい何の痕跡もなく。


「そ、そんな……」


 絶望したような声は、一体誰から出たものか。

 クロードか、それとも彼に手を貸し何の罪もない令嬢を陥れた者たちか。


 ともあれ、クロードにとっての幸せはこの瞬間見事に崩壊したのである。




 呪うにしても、随分と先の長い話だ、とヴァリーは思っていた。

 呪ったのは魔女である自分だが、その呪いを決めたのはジゼルだ。

 時間がかかればかかるだけ、ジゼルの名誉を回復できないのではないかと思ったがもう地の底まで落ちてるようなものだから、どうでもいいらしい。そんな事よりも向こうも時間をかけて地獄を味わえというのがジゼルの強い気持ちであった。


 そう簡単に幸せになどさせるものか。そんな強い気持ちである。

 わざわざ人を悪役にまで仕立て上げたのだ。だったら、本当に悪役っぽいことをしてやったって何も問題ないではないか。そういう振る舞いをお望みなのでしょう?

 もし、魔女ヴァリーがジゼルの知り合いであると知られたとしても、そう開き直ってやるつもりだ。


 最初から穏便に両家の話し合いで婚約の解消を決めればこんな事にはならなかった。

 ジゼルの名誉は地に落ちなかったし、クロードを呪う事もなかったのだ。

 先に仕出かしたのはクロードで、ジゼルはそれに倣ったに過ぎない。


「わたくしの名誉はともかく、侯爵家がこれ以上悪い方にいかないようにはしませんとね……」


 ふぅ、と小さな溜息を吐いてジゼルは今後を憂えた。

 どこかから養子を迎えて跡取りにしようにも、今侯爵家の評判はとても悪い。そんな家に養子にやってくる者が果たしているかどうか……


「あ、その辺もどうにかしたげる。友人が困ってるなら手を貸すよ」

「えぇ……? でもヴァリー、貴方わたくしの結婚相手だとかをどうにかできる伝手なんて……」

「アタシになくとも他の魔女にはあるから、さッ☆」

 パチン、とウインクしてみせるヴァリーに、ジゼルは本当かしら……? と少しばかり訝しんだ。




 ――さてその後。

 真実の愛で結ばれ結婚をし、そうして幸せな暮らしをしているだろうと思われていたクロード、リリアン夫妻は当然のことながらうまくいっていなかった。

 何せ呪いのせいでリリアンが化け物に見えているのだ。触れるのもおぞましいとばかりに距離をとろうとするクロード。対するリリアンも呪われてしまったクロードは不憫だけど、だからといって毎回化け物と怯えられるのもうんざりだった。

 だって自分の姿は鏡で見ても何もおかしなところがない、美しい姿なのだから。

 だというのにクロードは化け物、おぞましい、近寄るなと嫌悪を浮かべている。


 初夜なんて散々だった。


 冤罪をかけてジゼルを嵌めたとはいえ、リリアンは婚前交渉はしていなかった。

 他の男と身体を繋げたこともなかった。

 初めてであったのだ。


 だというのに、呪いで化け物にしか見えないクロードにはリリアンの身体はどこに何があるのかわからないのだと言う。肩に手を添えたつもりで、しかし触れたのはわき腹という時点でそれを察するしかなかったのだけれど、触れた時に何かぬちゃっとしてる……とかいう呟きが聞こえてそれはもうリリアンだって心に傷を負ったのだ。リリアンの艶々した肌はハリとか弾力とか瑞々しさとか、まぁ若いお嬢さんなら全肯定するほどに良い肌であるはずなのに、呪いのせいでクロードは化け物に見えている挙句、その質感もそちら側に寄っているらしい。


 多少努力を見せたクロードも早々に限界を感じ、もうダメだ、目を瞑っているからそちらで動いてくれないか……とか言われてリリアンはなんとも言えない気持ちに陥った。

 初夜である。

 結ばれた相手に純潔を捧げる行為である。

 だというのに、まるで娼婦のように自ら動けと言う。


 一応行為そのものについては学んでいるから、やり方がわからないというわけではない。

 だが、まだ処女である女なのだリリアンとて。

 自ら上に乗って腰を振り、そうして子種を搾り取れと言うのだ。

 羞恥に震えるのも無理のない話であった。

 それ以前に、クロードにはリリアンが化け物にしか見えていないので性的な興奮をしていない。つまり勃起していない。それすらリリアンが自分の手などを使いなんとかしないといけないとなって。


 どうして私がこんな目に……ッ!!


 それはもう屈辱で一杯な気持ちになったのである。



 もうやってられないわ! とここでリリアンが寝室を飛び出して、真実の愛なんてなかった! と叫んで実家に帰る事がなかったのは、偏に魔女の言葉のせいだ。


 真実の愛を貫けなかったら、すべてが明るみにでると魔女は言った。

 あんな手段を用いてまでと言っていたのだ。クロードがジゼルに婚約破棄を突きつけた一件を、魔女はきっと仔細把握しているに違いない。

 そして共犯者たちがした事も明るみにでる、とも。


 クロードに言われて手を染めた使用人たちだけではない。共犯者には勿論リリアンだって含まれる。


 もし真実が明るみに出たならば、ジゼルの名声が地に落ちた時以上に非難の目が向けられるだろうしそれに何より、今は公爵夫人であるが元は伯爵令嬢だ。

 真相が明るみに出て、その時リリアンの実家に対してジゼルの家が何かをしないとも限らない。

 いや、いっそジゼルの家が直々に手を下してくれた方がまだマシである可能性すらある。


 真実の愛として素晴らしいと褒めそやし、その幸せを讃えていた周囲の反応が恐ろしい。

 だって騙されていた事になるのだ。

 何の罪もない令嬢を陥れ、そうして結ばれた果てのもの。

 真実などとは程遠い欺瞞に満ちた愛とも言えぬ醜悪なそれ。


 それらをさも美しいもののようにラッピングしてあるだけで、本質が暴かれた時間違いなく今までの反動でジゼルへ向けられていた悪感情も何もかもひっくるめて、今度はそれがこちらに向かってくるのだ。


 醜くおぞましいそれを美しいものだと騙されていた者たちの怒りはリリアンには想像もできない。


 クロードと離縁して他の男のところへいくにしても、真実が明るみに出てしまえばリリアンを迎え入れてくれる者などその若い身体を弄べると思った醜悪な男くらいだろう。何をしても許される、そう思い甚振る事に愉しみを見出しているような、下手をすれば親子ほどに年の離れた相手。

 想像しただけでもおぞましい。

 いやよ、いや。私は素敵な男性と結ばれて幸せになりたいだけだったの。そんな恐ろしい相手のところで生涯を終えるだなんて絶対に嫌……!


 その先の真っ暗な未来を想像すれば、ここで逃げてはいけないのだと嫌でもわかる。逃げ出したい。とても逃げ出したい。そうしてクロード以外の誰か素敵な殿方に助けてもらいたい。けれどもそれをすれば、身の破滅が待っている。

 本当の意味での幸せは、呪いを解いた先にしかない。



 だがしかし、リリアンの心は早々に折れそうになっていた。

 だってクロードの目にはリリアンが常に化け物に見えているのだ。

 初夜をどうにか済ませたものの、これで子が出来ていなければまた行為をしなければならない。

 つまりは、リリアン主体で動かなければならない。

 どうか一度で子ができていますように……! とリリアンは祈らずにはいられなかった。


 それ以外にも苦痛に思う事はあった。社交である。

 公爵家の夫人となって茶会を開くだけならまだいい。それくらいなら腹の探り合いもしなければならないが、むしろ全然かまわなかった。

 構うのは夜会などの夫と共に参加する事になるものだ。

 夫の目にはリリアンが化け物に見えているせいで、今までは腕を組んで寄り添って移動するのもとても幸せな気分であったはずなのに、クロードには今リリアンの腕がどれなのかもわかっていない。だからこそ自分から腕を絡め、そうして隣を移動しなければならないのだがクロードは横目に映る化け物とどうにか距離をとろうとしているようで、歩き方も妙にぎこちない。


 それがたまらなくリリアンには苦痛だった。

 だって自分の姿はクロード以外にはきちんと美しいままの自分として映っているのだ。

 なのにそれを嫌がる素振りを見せているクロード。勿論わかっているのだ、化け物に見えている事は。けれど、自分は化け物じゃない。そんなに嫌がらなくてもいいじゃない。どうしたってそう思ってしまう。

 しかもリリアン以外は化け物に見えていないという事は、他の令嬢は美しく彼の目に映っているのだ。それもたまらなくイヤだった。


 自分を差し置いて、他の令嬢を見ている。とはいえ真実の愛を貫けなければクロードだって身の破滅が待っているのだ。ここでリリアンを捨てて他へ行こうなど流石にしないとは思っているがそれでも、ほんの一瞬でも自分に心が向けられず、他の女に視線が向いているのは我慢ならなかった。

 

 ビクッ、とクロードの身体が小さく跳ねた事に気付いたのは、どうあれ腕を組んで触れていたからに過ぎない。今しがた熱心に視線を向けていた令嬢から慌てて視線を逸らしたクロードを見て、察してしまった。


 あぁそうだ。魔女は言っていたではないか。

 他の女に目移りした時点でその女も化け物に見えるようになる、と。


 つまり今、クロードはリリアンに向けていなければならない心を、あの令嬢に抱いたのだ。そして美しきあの令嬢が化け物に見えるようになって怯えた。


「クロード様?」

「あ、あぁ、すまないリリアン。悪いと思ってる……」


 決してリリアンと視線を合わせようとはしないまま、クロードは消え入りそうな小さな声で謝った。

 クロードがマトモに見える女に心を向ければ向けた分だけ、見える化け物の数が増える。今更ながらその事実を実感したらしい。


 まぁそうだろう。美しい者に目を奪われ続けた結果、最終的に女のほとんどが化け物に見えるようになれば。その時こそ本当にクロードは気が狂ったと周囲にみなされこんな男を公爵でいさせてはならないと言われるだろう。どこかに幽閉されるのであればまだしも、気狂いの男として処刑されるような事だって有り得るかもしれないのだ。

 若い女を見るなり化け物とわめきたてるような男がマトモであると思われるはずがない。


 クロードもクロードなりに辛いのはわかる。

 わかるが、それに巻き添えを食らっているような自分はもっと辛く苦しいのだ、とリリアンは思っていた。

 一体どうしてこんなことに……

 今更のように何度目かの後悔。

 それでもいつか、真実の愛を貫いて呪いが解けた暁には。

 きっと輝かしい未来が待っているのだ。


 そう信じる事だけが、リリアンとクロードの希望であった。



 とはいえ。

 土台無理な話であったのだ。

 そもそも事の発端が真実の愛だとか言っているが、その実周囲の人間を騙して欺いた末のもの。何の罪もない令嬢の評判を地に落とし、そうして掴んだ泥にまみれた汚物である。


 真実の愛だとかいうキラキラしたパッケージに包んでいるが、その本性は実に醜悪な欲望。


 リリアンは必死に努力していたようだが、そもそも真実の愛を貫くには片方だけが頑張っても無理なのだ。

 どれだけリリアンがクロードに寄り添おうとしても、化け物に見えている女に近づかれる事に嫌悪しているクロードにはもうリリアンが愛した女に見えていない。ただただ自身に纏わりつく醜悪な存在と化していた。

 それでも頭の冷静な部分ではわかっている。いるのだが、既に理性で抑える事ができない程に本能はリリアンを拒絶していた。

 彼女に触れられるだけで鳥肌が立つ。ひっ、という悲鳴を押し込めるのが大変だった。


 社交の場にてダンスを踊る際、リリアンと向かい合うのがただただ苦痛だった。彼女の足が実際どこにあるかもわからなくて、何度か踏んでしまった事もあった。

 本来ならば有り得ないミスだ。公爵家の人間としてあるまじき失態。リリアンは事情をわかっているので許してくれたが、けれどそれでも痛みを感じた事に違いはない。

 本来ならば、そんなことをしてしまったという事実に心を痛めたはずなのだ。けれどもクロードは化け物の足を踏んだからなんだというのだ、とも思ってしまっていた。



 そして、二人のその様子は真実の愛であったはずなのに、どこかおかしいとばかりにじわじわと広まっていった。


 決してリリアンと目を合わそうとしないクロード。

 リリアンとの話を早く切り上げようとしているように見えるクロード。

 まるで距離を置こうとしているクロード。

 それらをわかった上で、しかしクロードから離れようとしないリリアン。


 相思相愛というには明らかに不自然な二人。


 恋人から夫婦になった事で、関係性に変化が出る者はそれなりにいる。けれども、あれだけ真実の愛だと言っておいていざ夫婦になった途端よそよそしくなれば、何かあったのだと勘繰って下さいというようなものだ。


 本妻の座を今更狙う者はいないが、それでも愛人に……と思った女が近づいた時、クロードの態度はリリアンに向けるそれよりも柔らかいもので。

 だがしかし、直後に距離をとっていたのでやはり何かがあったのだと。

 そういう噂は誰からともなく広まっていったのである。



 言ってしまえば。

 リリアンはクロードに対して努力をしていた。例え化け物に見えようとも本来の自分は美しいと称される存在なのだから、いつかきっと彼の目にはまたそういう風に映るだろうと信じて。どれほど心無い言葉を投げかけられても、それでもいつかはきっと、と我慢して遠く近しい未来に希望を抱いた。


 だがクロードがどれだけ努力したところで、リリアンの姿は化け物のまま。

 彼女が自分の周囲にいるだけで、身体が強張る。


 リリアンはそれでもクロードに寄り添う努力をしていたけれど、クロードはリリアンと距離をとって心の安寧を得ようとばかりであった。クロードはリリアンと向き合う事を避けていた。



 それから更に月日が経過して、リリアンが妊娠した事で、希望はより大きくなった。


 二人の愛の結晶。

 その愛の結晶が家族に対して向ける愛情。

 それで、この呪いは解ける。


 日々大きくなっていく腹を嬉しそうに撫で、リリアンは我が子の誕生を待ちに待った。

 クロードも、この時ばかりは僅かな希望に縋っていたのだ。

 この呪いが解ける日が近づいているのだ……と。



 二人は確かに希望を抱いていた。

 明けない夜はないのだと。

 この愛が報われる日がきたのだと。



 だがしかし、生まれたばかりの我が子を見たクロードは再び叫んだ。


「化け物ではないか!!」


 そう、最愛の女性であったはずのリリアンだけではない。

 そのリリアンとの子ですら、クロードの目には化け物に映っていたのである。


 この場にヴァリーがいたならば、きっとこういっただろう。

「そりゃあ、愛の結晶なんだから、お前の目に映るそれだって愛する女性と同じものに見えたって当然でしょ?」

 ――と。


 だが生まれたばかりの我が子のあまりの姿による衝撃で、クロードはそんな事すら考え付かなかった。

 やはりリリアンとは名ばかりの化け物だったのだ。化け物の子はどこまでいっても化け物なのだと怒鳴り散らした。


 かつての魔女の襲来から、公爵家では新しい使用人を入れる事はできなかった。どこから話が漏れるかわかったものではない。既にいる者たちは元々外で噂を流すような者ではないが、新入りはどうだかわからない。それもあってクロードの呪いに関しては素晴らしい事に一切周囲に漏れてはいなかったのである。


 だが、流石に今回ばかりは難しかった。

 公爵家に常に医者がいるのであればまだしも、そうではない。公爵家と懇意になっている医者がいないわけではないが、それだって街に病院を構え何かの折に公爵家に足を運ぶ。そういった存在であるが故に、常に屋敷に控えているわけではない。


 赤子が生まれるとなったため、妻に何かあっては大変だと医者を呼んであったのが裏目に出た。

 いや、医者を呼んだのは正解だが、クロードはせめて赤ん坊と対面するのは医者が帰ってからにするべきだった。

 結果として医者はクロードの気が触れているのではないかという疑いを持ったのだから。


 それに関しては家令が旦那様はここ最近お疲れで……少し休めば良くなりますから……などと公務が忙しかったのだという事にして、どうにかその場を取り繕った。だが一度芽生えた不信感はそう簡単に消えるものではない。

 医者のクロードに向ける目は、錯乱し生まれたばかりの子に危害を加えたりしないだろうかという心配と不安の他にも色々と含まれていたように思う。



「これを、愛せというのか!? この化け物を!?」


 医者が屋敷から立ち去った後、クロードはリリアンに向けてそう怒鳴り散らした。

 化け物から化け物が生まれた。それが妻と子なのだと言う。

 クロードは子が生まれるまで確かに希望を抱いていた。

 真実の愛が認められれば、この忌まわしき呪いが解けて美しいリリアンの姿をまた見る事が叶うのだと。


 自分とリリアンの子だ。

 生まれてくる子はきっと愛らしいに違いない。

 そう信じて疑う事すらしなかった。


 だがしかし実際に生まれてきたのはリリアンという名の化け物を更に縮めた小型の化け物。

 医者がまだいた時に赤ん坊を抱え上げて咄嗟に床に叩きつけなかった事だけは、クロードを褒めるべきだろう。

 もしそんなことをしていたら、生まれたばかりの赤子は間違いなく死んでいたしそうなれば呪いを解く機会は更に先に延びていた。

 いや、それ以前に生まれたばかりの我が子を殺したという話がきっと医者あたりから広まった事だろう。


 だが、とも思う。


 この化け物を我が子として接さねばならないのだろうか、と。

 生まれた直後から化け物にしか見えないのに?


 妻と周囲はなんて愛らしいのだろうと言ってはいるが、クロードの目には何度見直したところで化け物でしかないのだ。どろどろに溶けた肉の塊に、触手のような小さな何かがびっしり生えていてそれは常時蠢いている。時折きゃらきゃらと上げられる声だけならば愛らしい赤子の声なのだが、しかしそれを発しているのが化け物であると知ると途端にその声すら恐ろしく感じられた。


 このような忌々しい存在を生かしておくわけにはいかないのではないか?

 これが成長して本当にちゃんとした人として活動できるのか……?


 こんなおぞましい物体を、公爵家の跡取りとして育てねばならないのか……?


 クロードの胸中には子が生まれる以前にあった希望は微塵も残されていない。

 ただただ不安ばかりが胸の中を渦巻いていた。



 リリアンは嘆いていた。

 折角生まれた愛らしい我が子。

 生まれた直後からとても可愛らしくて、ここまで苦労した甲斐があったと思っていた。貴様の顔など見たくもないとばかりに固く目を瞑っていたクロードの上に跨り、ひたすら腰を動かすだけの行為。そこに愛なんてなかった。ただただ虚しかった。けれども、真実の愛を最終的に貫けばこの忌まわしく苦しい日々には終わりが訪れるのだと信じて。

 明けの明星を胸に抱き、そうしてようやく呪いが解けるための鍵となる我が子が誕生したのだ!


 生まれた我が子はそれはもう愛らしかった。

 こんな可愛らしい存在が、二人の愛の結晶が、ようやく生まれてくれたのだ。

 ありがとう。自然とその言葉が胸に宿っていた。

 珠のような赤ん坊は、男児であった。目元がクロードにそっくりで、でも口元はリリアンに似ている。そう思えた。きっと将来素敵な殿方になって社交界では注目を浴びるだろうと遠い未来に想いを馳せた。


 赤ん坊は間違いなくリリアンにとっての幸せを運んできたのだ。


 しかしクロードは違った。

 生まれた我が子を見るなり化け物と叫び、こんな化け物を愛せというのかと汚らわしいものを見るような目を我が子へとむけた。


 リリアンが感じたのは絶望と――失望であった。


 魔女の呪いによってリリアンの姿が化け物として映っているというのはもう今更だった。

 自分の目には正しくリリアンはリリアンとして映っているのに、最愛の男であるクロードの目には自分は化け物としてしか映っていない。汚らわしいものから目を逸らすような態度に何度傷ついた事か。

 けれども呪いの解き方はわかっている。

 呪いが解ければこの辛く苦しく長かった試練の時は終わるのだ。

 あと少し。あともうちょっとでこの生活は終わる。


 これだけ愛らしい我が子だ。

 リリアンは必要以上に甘やかしてしまわないか心配すら抱いたというのに、クロードにとってはそんな心配すら浮かぶ事はない。だって彼の目に映っているのは愛らしい赤ん坊などではなく、化け物の子なのだから。


 それでも、と僅かな期待を抱いていたのは確かだった。

 ジゼルを陥れてまで結ばれた。確かに今にして思えば卑怯な手段であったと思う。けれども、そうまでして結ばれたかった相手なのだ。

 子が産まれた時だって、よくやったという労いの言葉もなかったがそれでも。

 それでもリリアンにとって愛しているのはクロードであったのだ。


 だがとうの昔にクロードの愛は消えてしまったのだろう。

 愛されていると今でも思える余裕はどこにもなかった。


 けれど呪いが解けたなら。

 その時はきっともう一度。

 もう一度やり直せる。


 そう、リリアンはまだ希望に縋りついていた。


 生まれたばかりの赤ん坊が父親を認識して愛しているとキスができるはずもない。

 だからこそ、呪いが解けるまでもう少しかかるのは言うまでもなかった。

 それができるだろう年は、物心がついたころだろうか。

 ある程度物事が判断できるくらいの年齢になれば、そしたらきっと。


 リリアンは我が子を大切に大切に育てた。

 そうしてその愛情が父親に向くように、貴方のお父様は素晴らしい方なのよと聞かせて育てた。

 嘘だ。実際はもう心のどこであっても、クロードの事を素晴らしい人だなんて思っていない。

 リリアンがどれだけ歩み寄ろうとしても他の女に目移りし、そうして他の女も化け物に見えるようになってから再び見なかった事にする。それをもう何度も繰り返している。

 社交の場に出る事もおかげでめっきり減ってきた。なにせ今となっては社交場にいる令嬢やご婦人たちの大半が、クロードの目には化け物に映ってしまっているのだから。

 リリアン以外に化け物と罵らないだけの分別はあるが、もしうっかりそう言ってしまったら大惨事である。そうなった場合、公爵家は一気に周囲の家を敵に回すだろう。

 敵に回らずとも、まぁ遠巻きにされるのは言うまでもない。突然淑女に向かって化け物と口にする相手がマトモに相手にされるはずもないのだ。

 令嬢の心が傷つくだけならいざ知らず、その言葉は間違いなく言われた女性の身内や友人にも伝わる。そうなればどれだけの数が公爵家に不満を抱き、そして潜在的な敵に回ってしまう事か……


 色々な事情をつけて、社交界へ顔を出す事はほとんどなくなってしまった。

 おかげで最近の公爵家は、その威光も以前と比べて翳ってしまっている。


 リリアン自身は何も呪いの影響がないので茶会を開くくらいはできるだろうけれど、しかしそこからどうして社交の場へ出なくなったかを探られるのも厄介だ。そうでなくとも最後に夜会に出た時だって、クロードの態度からあの夫婦上手くいってないんじゃないかしら……なんてひそひそとされていたのだ。


 かつては真実の愛で結ばれたと持て囃された男女。しかし今となってはその真実の愛も翳りが見え、あれは偽りだったのではないか。そんな風に言われてしまえば、今のリリアンには否定も肯定もできなかった。

 あの頃の――ジゼルを陥れて結ばれた直後の焦がれるような情熱的な気持ちはとっくに消えている。クロードの事を愛していないわけじゃない。あの頃の熱量がなくなってしまっただけで、愛している。愛しているはずなのだ。


 そうやって自分に言い聞かせている時点で愛などとっくに消えているのだとすら気付けない。


 最悪の初夜を迎えてから今に至るまで、クロードの態度にずっと傷ついてきた。

 もう、あの頃の愛などどこにも存在しないのだ。あの頃確かに存在していた愛は、クロードの態度によってどんどん削られて今となっては見る影もない。


 リリアンの心の拠り所は、それ故に我が子へと移っていった。ある意味で当然であったとも言えよう。


 クロードへの思いは最早義務と化していて、二人の仲は以前以上に確実に冷え切っていった……






 クロードとリリアンの間に生まれた息子はクラウスと名付けられすくすくと育っていった。

 公爵家の跡取りとして時に厳しく育てられたクラウスではあるが、七つの誕生日に彼は真実を知る事となる。


 お母様はクラウスの事を大好きよ。愛しているわ。

 そう言って愛情をたっぷり与えてくれる母。

 時々頬に、額にキスをしてくれる母は、確かに自分を愛してくれているのだろう。その目には確かに慈愛というものが湛えられていた。


 お父様だってクラウスの事を愛しているのよ。

 母はそう言っていたが、しかしクラウスにはそれが信用できなかった。


 だって父上は、一度もマトモに自分と目を合わせてくれたことすらないのだ。

 話を聞いてはくれる。けれどもその視線は決してこちらを向くことがない。

 用件は手短に。

 父が忙しいのはわかる。お仕事が大変なのもわかる。

 でも、なんだかまるで仕事を理由にクラウスを遠ざけているようにも感じられたのだ。


 けれども母は父もクラウスの事を愛していると言う。

 母の愛は信じられる。確かに感じ取れるものだったので。

 悪いことをすれば叱られたし、良いことをすれば褒められた。そうでなくとも言葉にするには何とももどかしいような、どう言えばいいのかわからないようなもやもやした気持ちになった時、母はそっと寄り添ってくれた。

 言葉や行動で示してくれる母の愛であればわかる。


 けれども父から愛というものを感じ取れたことは困った事にクラウスには一度たりとて存在しなかったのだ。


 七つの誕生日を迎えたその日は、屋敷の中で盛大にお祝いをしてもらった。

 あまり外に出ないからか、友達と呼べる存在はいなかったしだからこそ、身内だけの小さなパーティーだったけれど、それでも屋敷で働く者たちからもおめでとうございます坊ちゃん、と笑顔で祝われれば悪い気はしない。


 なんだかんだ理由をつけて参加しないだろうと思っていた父もその場にいて、クラウスはちょっとだけ父が自分の事を思っていないというのは違うのかもしれないな、と思い直したのだ。

 だから、今なら。


 以前から母に言われていた、お父様大好きって言って頬にキスでもしてごらんなさい。きっとお父様だって返してくれるわ。その言葉を信じて行動に移してみようと思ったのだ。

 今まで父と触れ合った事はほとんどない。でも、本当はあの大きな手で頭を撫でてもらいたかったし、一度くらい手を繋いで一緒に歩いてみたかった。

 噂に聞く市井の子のように肩車だとかをしてもらいたいとまでは言わない。言わないけれど、せめてきちんと愛されているのだという実感が欲しかった。


 ロクに目も合わせてくれないし、マトモに触れた事もない父。

 近くにいるのに何故だかやたらと遠くに感じる父。


 けれども今日はクラウスの誕生日で、おめでたい日で。

 今日くらいは、父上だって自分のわがままを一つくらい叶えてくれちゃったりするのではないか……?

 クラウスはそんな期待を抱いていた。


 もしかしたら公爵家の息子として相応しくない行動をするんじゃないと怒られるかもしれない。けれども、使用人や母といった皆がいるなら、その場で強く怒られたりはしないだろう。

 そう思って、クラウスはこの日初めて勇気を出して父に駆け寄ろうとしたのである。



「――近寄るんじゃない!!」


「……ちち、うえ……?」


 だがしかし結果はクラウスの想像していたものとは全然異なるものだった。

 クラウスは父に駆け寄り飛びついて、そのまま抱きしめてもらいたかった。

 父上! と声をかけて、そうしてぽんと跳躍して――


 そこで父から烈火の如き勢いで振り払われた。


 先程まで和やかな祝いの席ムードだった場は一転、しんと水を打ったように静まり返っている。

 普段のやんわりとした拒絶ではなかった。

 本気の拒絶であった。

 振り払われた時の腕が、クラウスの頬を打っていた。

 何が起きたかクラウスにはすぐに理解できなくて、けれどもやたらと熱を持った頬が痛くて。

 そっと自分の手で頬に触れる。驚くくらいに熱かった。じんじんとした痛みがこれでもかと自己主張している。


 ぽろ、と頬より上から熱い何かが零れ落ちた。涙だった。


 叩かれた。父上に。すごい剣幕で怒られた。

 どうして。

 何も悪い事してないのに。


 そう思ったら、無性に悲しくなって涙が止まらなくなった。声を上げて泣き喚く事はしなかったが、ただただ悲しくて涙は止まってくれる気配がない。こんなに泣いたのは人生で初めてじゃないかというくらい、クラウスは涙を流していた。


 今日は僕の誕生日なのに。ちょっとくらい甘えたっていいじゃないか。


 そんな考えがあったのは確かだ。

 けれども、まさかそれがこんな事になるだなんてクラウスはこれっぽっちも思っていなかったのだ。

 お父様はクラウスの事、愛しているわ。

 母の言葉が脳裏をよぎるも、その言葉が信じられなくなった。

 愛してくれているのなら、それなら一度くらい抱きしめてほしかった。


 母はクラウスの事を叱る事もあったけれど、褒めてくれたことだって勿論あった。

 けれども父は。父上は。

 彼にそうされた事がないということを、クラウスはあえて見ない振りをしていた。でも本当はとっくに気付いていたのだ。父が自分を愛していると母は言うけれど、そんなことはないのだと。

 けれどどうしてここまで嫌われているのかがわからない。


 しかし、こうまで嫌われて、自分ばかりが父を慕うのはなんだかとても不公平な気がして。


「……ぃだ……」


「クラウス? 大丈夫? あぁ、こんなに真っ赤に腫れて。あなた、一体なんて事を!」


 ようやく事態を理解したリリアンがクラウスを心配しながらも、クロードを咎めるように叫ぶ。

 クロードも本当ならば軽く振り払うつもりであったのだが、視界の隅から咄嗟に化け物が勢いをつけて近づいてきたのだ。本能的な忌避感により、気付いた時には全力の拒絶をしていた。


 いくら化け物に見えているとはいえ、それでもこれは我が子なのだ。

 クロードにはクラウスがどんな姿をしているかわからないが、マトモにクラウスを見る事ができている者たちの話から自分に似た部分と妻に似た部分があると聞かされていた。きっと、マトモに見る事ができていたなら、愛おしいと思えたのかもしれない。けれども何度目を凝らしたところでその姿が化け物以外に見える事はないのだ。

 妻も、息子も。

 使用人たちと和やかに話をしているのを見た時に、どうしようもない気分に襲われる。

 何故あいつらはあのようなおぞましくも醜い化け物と親しげに話をしているのかと。

 異様な世界に迷い込んだようだった。いいや、違う。異様なのは呪われてそう見えている自分で彼らではない。わかっている。わかっているのだ。

 そして、手加減もほとんどなしに振り払ってしまった息子。


 相変わらずうごうごと気持ちの悪い蠢き方をしている肉塊に見えるが、本来は七歳になったばかりの子だ。とても痛かっただろう。まさかこんな風に痛めつけられるとは思わなかったに違いない。

 そう思ったからこそ、クロードは謝らねば、と頭では理解していた。どこをぶつけたのかはわからないが、ぶつけた場所によっては急いで冷やしたりしなければならないかもしれない。


 だがそれと同時に、謝る? この化け物に? という気持ちもあった。


 だからこそ、クロードの口から謝罪の言葉が出るよりも先に。



「大っ嫌いだ父上なんて!!」


 クラウスの口から拒絶の言葉が出る方が早かったのである。


 パキン、という何かが壊れたような音が聞こえた気がした。

 それと同時に。


「あ~あ、折角人を陥れてまで作り上げた真実の愛だったはずなのに。

 結局真実の愛なんて存在しなかったね?」


 その場にいた者たちの耳元で、そんな声がした。

 忘れもしない。忘れるはずがない。

 この声は――


 ただ一人、謎の声にわけがわからずぽかんとしていたのはクラウスだ。

 だがその場にいた使用人たちやクロード、リリアンはその声の持ち主が誰であるかを知っていた。数名、さっと顔を青ざめさせている。


「魔女め、どこにいる!?」

 クロードが叫ぶ。けれどもかつてのように魔女が姿を見せる事はなかった。ただ声だけがその場に響く。


「真実の愛なんてなかった。かつて伝えた呪いの解き方は結局お前らには無理だった。

 ねぇ? 人を陥れて、そうして結ばれて、真実の愛だなんて声高に叫んで。そうやって一人の令嬢の犠牲の上に成り立った真実の愛の何が素晴らしいかなんて生憎これっぽっちもわかりゃしないけどね。

 けれどもお前にかけた呪いは、それでも本当に真実の愛を見せてくれさえすればきちんと解けたんだよ。

 なのにお前は愛する妻も二人の間にできた愛の結晶である子にも、最早愛など与えもしなかった。

 教えたはずだよ、親として子を愛する事。そうして愛された子がお前にその気持ちを伝えた時こそ呪いが解けるのだという事を」


「……どういう、こと?」


 ぶるぶると震えている父を見て、何かよくない事が起きているのだとクラウスはうっすらと理解していた。幼い頃から父に褒めてもらいたくて、勉強だって沢山頑張ったからこそ、声の主が何を言っているのかも幼くも賢いクラウスはほとんど理解できてしまった。


 けれども父に魔女と呼ばれたその人は、もしかしたらクラウスが何も知らないと思ったのだろう。クラウスが生まれる前の話、父と母の馴れ初め、そしてその犠牲にされた一人の令嬢の事をそれはもう詳しく教えてくれたのだ。

 話の途中で「もうやめて!」と母が叫んでいたが、魔女はそんな事お構いなしだった。

 だからこそ、クラウスは知ってしまった。


 母が愛情を与えてくれたのは疑いようもない。けれども父もクラウスを愛しているなどと言い、大好きだと伝えて頬にキスでもしてさしあげなさいな、なんて言っていた意味を。


「まって、ねぇ、それじゃ僕は。

 僕は、その呪いを解くためだけに生まれたの……?」

「そんなことはないわ! バカな事言わないで頂戴クラウス!」

 母がヒステリックに叫ぶのを、クラウスは初めて聞いたかもしれない。けれどもそんなことはどうでもよかった。それよりもクラウスの視線は母ではなく父へと向かう。

 だが父は、クロードは――


 ふい、と視線どころか顔ごとクラウスから逸らしたのである。

 先程叩いてしまった手前、気まずかっただとかそういうのもあったかもしれない。

 けれどその行為はクラウスには、本当の事だからこそ、クラウスの顔が見れなくなったのだと思えてしまって。


 父上が僕を愛しているだなんて、全部嘘じゃないか母上。


 先程叩かれた時の痛みで零れていた涙とは別の涙が、新たにあふれてきたのをクラウスは感じていた。


「呪いは解けず真実の愛は偽りであった。それ故に、真実は明かされる。そうだね、その時には呪いを解除してあげてもいいかな。ま、やり直せるかは知らないけど。真実の愛が再び芽生えるといいねぇ?」


 その言葉を最後に、それ以降は魔女の声は聞こえなくなった。


 魔女の言葉の意味をすぐに理解できなかったが、理解した途端クロードもリリアンも、更には使用人たちもこれから起こるだろう事実をどうにか防げないかと考えた。だがしかし、その翌日には。



 ある者が言った。

 かつて頼まれてとある細工をしてとある令嬢がさもやったように見せかけた事があると。

 かなり前の話とはいえ、その令嬢は何も悪くなかったのに全ての元凶であるかのように言われ、悪の権化のように言われてしまったのだと。

 そんな酷い事をしたのは、ある貴族様に頼まれたから。

 今更これを告白するのはいい加減罪の意識に潰れそうになってきたから。自分はもう長くない事もあって、だからこそ今告白をしたのだと。


 その一人を皮切りに、他にもかつて公爵家の――クロードの企みに手を貸した者たちが次々に己の罪を告白しだした。


 明確に誰、と名を出したわけではない。けれども話を聞けばそれがクロードとリリアンの事で、更に陥れられたのがジゼルであったとわかるものばかり。

 クロードの屋敷で働いていた使用人たちは外で罪の告白こそしなかったけれど、それ以外の者たちの口から誰それが関与していただとかと暴露され、公爵家の者たちはロクに外に出られなくなってしまった。


 かつて、まだ十年程前の話だ。

 真実の愛で結ばれた貴族の男女。その話は市井でも大いにロマンティックな恋物語として広まっていたのだ。その二人の仲を引き裂こうとしていた悪の令嬢を最後に見事断罪して、そうして二人は幸せな結婚をしている。どうやら最近子が産まれたらしい。そんな風に語られていたのだ。

 社交の場ではその二人の夫婦仲がぎこちない事を囁かれていたが、市井にまでそんな話は出なかった。

 だからこそ生ける伝説、とまではいかないが素敵な恋人たちは素敵な夫婦となったのだと思われて、平民たちの中では今でもクロードとリリアンは理想の恋人として語り継がれていたのだ。


 だがそれが一転。


 真相を明かされて、かつての罪の告白をする者たちが次々と現れた。


 そうしてふたを開けてみれば、何の罪もない令嬢を悪役に貶め、自分たちは悠々とその犠牲の上でのさばっている。


 今まで綺麗で素敵な話だと思っていたものが、真実はどろどろとした自分勝手の極みによる話。

 信じていた分騙された、と思った者たちがあまりにも多かった。

 恋に恋するような乙女たちに至っては、潔癖な部分もあったのだろう。今まで崇めていた公爵夫妻を汚らわしいとさえ罵った。流石に面と向かって言えば不敬だとかで処分されるかもしれなかったため、あくまでも平民同士の集まりで、大っぴらには言わなかったが。


 キラキラと輝く宝石だと思っていたものが実は馬糞であったとでも言わんばかりに、民衆の態度は反転した。

 ついでに貴族たちもまた、真実の愛とやらを嘲った。

 確かに今までそうだと思っていた部分もある。けれどもおかしな点は色々とあったのだ。だからこそ、真相が明かされてしまえば真実の愛など一笑に付すしかない。


 公爵夫妻に憧れていた令嬢も中にはいたが、貴女もそんな恋を本当にしたいと思ってるの? と真相が明らかになってから聞かれたならば、全力で首を横に振って否定した。

 困難を二人で乗り越えた先に作られた絆であればまだしも、悪役を押し付けてその上で平然としているとなれば、そんな恋羨ましいとも思えない。


 真実が明かされたとはいえ、クロードにかけられていた呪いについては誰も知らなかった。


 社交の場に出てこなくなった夫妻には、まだ他に叩けば出てくる埃があるのではないか? と下世話な噂も飛び交った。それは貴族平民関係なく。


 理想の恋人としての在り方の代名詞のような存在だったクロードとリリアンは、あっという間に面白おかしくゴシップのネタとして扱われるようになった。

 下手にクロードの呪いの事を話せば、間違いなく呪いの事は信用されずクロードが気狂いになったのだと言われる事だろう。だからこそ、呪いの事を知っている者たちは口を噤んだ。そんなことを言った自分も頭がおかしいと思われるかもしれないから。


 その後、どうやらクロードの呪いは魔女の情けか本当に解けた。

 だがしかし全ては手遅れだった。


 思い出の中のリリアンと今のリリアンは異なっていた。

 無理もない。

 かつての若く美しかったリリアン。

 今も美しいが、年月を重ね相応に年を取った女性がそこにいた。

 自分が愛したリリアンはこんな年をとっていただろうか、とクロードは思ってしまった。自分だって同じだけ年をとったくせに。呪われてからのリリアンは化け物にしか見えていなかった。だからこそ、呪いが解けてから初めて目にしたリリアンは、リリアンの姉か母だと言われれば信じてしまいそうだった。


 元に戻ったはずなのにリリアンに対して微妙な反応をしてしまったクロードに、リリアンもまた何度目かの失望をしていた。散々人を化け物呼ばわりして、その呪いが解けたのになんだか一瞬見知らぬ人でも見るような目を向けられた。


 もしかして、彼の記憶の中のリリアンのままだとでも思っていたのだろうか?


 あれから何年経ったと思っているのだ。

 あれから子供だって産んだし、その子だって七歳になったばかりだ。つまりはそれだけの年月が経過している。

 それに、ずっと心無い言葉を投げかけられていたのだ。精神的にも疲れ果てていたし、いつまでも若く美しいままでいられるはずもない。ただ、真実の愛を証明すれば呪いは解けるというその言葉を希望にどうにかやってきたのだ。

 けれどそれも、駄目だった。呪いは解けても、もう今までのようにはいられない。


 今更社交に返り咲いたとしても待っているのは温かな歓迎などではない。嘲笑、侮蔑、そういったものばかりだろう。



 呪いが解けて、妻が思っていたより年をとっていたという事実に愕然としていたが、それより何よりクロードは己が息子であるクラウスを見た。二人の子だ。生まれてから今までずっと化け物にしか見えなかったけれど、本当の姿を見ればきっと。

 今まで愛せなかった分、これからは。

 クロードはなんとも都合の良い幻想を抱いていた。


 だがしかし。


 クロードが初めて目にした息子は。


 ただただ冷ややかにクロードを見ていた。そこには父を慕うという感情など一欠けらも存在していない。それはさながら敵を見るような目で、今目の前でクロードが死んだとしてもクラウスの感情は一切揺れないだろうと思えるものだった。

 七歳の子がする目ではない。父に愛されたいがために努力してきた息子は、優秀に育っていた。だからこそ魔女から明かされた話を聞いて、理解が追い付かなかったという事もない。

 母から聞かされていた父は素晴らしい人物であったが、しかし実際は何の落ち度もない婚約者を陥れ、そうしてその上でのうのうと過ごしてきた人の気持ちを踏みにじる事をなんとも思わない男だ。

 呪いで母や自分が化け物に見えていたと聞かされても同情する気持ちはなかった。

 そのせいで自分が愛されなかったのだとしても、呪いが解けて本来の自分を見る事ができたとしても。

 もうクラウスの中では父と歩み寄ろうという気持ちが消えていた。それどころか関わりたくないと強く思ってしまった。


 これが自分の父。

 将来自分も父のような人間になってしまったらどうしよう。

 父と一緒になって他者を踏みにじる母のような人間にもなりたくない。

 母が自分を愛していたのは事実かもしれないけれど、だがそれは呪いを解くための鍵として。それは違うと言われても、到底信用できなかった。だって父は愛してくれなかったじゃないか。


 少しでも良い部分を探そうとしても、何も見つからない。

 呪いが解けた後に残されたのは、真実の愛で結ばれた家族などではなかった。


 愛ってなんだろう。

 まだ幼いというのに、クラウスの頭にはそんな疑問が渦巻いていた。



 結局その後、クラウスは両親と一緒にいる事が苦痛すぎて寮のある貴族学校へ通う事になった。そして学校を卒業し、家に帰るか、と思いきや親戚筋を頼りそちらへ身を寄せ、そこから更にクロードとリリアンとの縁を切って修道院へ。

 自分は生涯結婚しないと言って、修道士となった。


 社交界でのクロードとリリアンの評判は地に落ちて、それ故落ち目になりかけていた公爵家は更に衰退していく事となった。唯一の後継者でもあった一人息子にまで見捨てられたとなっては、もう立て直すのも難しいだろう。




 ――さて、真実が明らかになった後、陥れられた悲劇の令嬢ジゼルはと言うと。


 どのみち自分の名誉が回復するとは思っていなかったので、ヴァリーの友人の魔女繋がりでなんと隣国の貴族の青年と結婚する事となった。

 嫁入りではなく婿入りだったので、ジゼルは屋敷に引っ込んだまま、というか庭に温室を作ってそこでせっせと薬草を育てている。紹介された貴族の青年は魔女の弟子を自称していて、薬の研究に余念のない男だった。


 実際いくつかの新薬を開発し、彼の名はこの国でも徐々に広まっていった。


 そこにきて、真実が明かされジゼルの名誉は回復。では今、かの悲劇の令嬢は? と気になった者たちが調べたところ、いくつかの難病を治すに至った薬を開発した男の妻となっているではないか。更には子も産まれていた。社交の場に一切出てこなかったから、そんな情報調べようと思わない限り誰も知らなかったのだ。

 元々悪役令嬢と思われて、断罪された後は家に引きこもっていたとしてももう二度と日の当たる場所に出てくる事はないだろうと思っていたからこそ。


 ジゼルが思った以上に幸せに暮らしていた事に、人々は安堵した。


 再び社交の場に戻ってくるかと思われていたが、ジゼルはそれを拒否した。今更戻ったところで……というのもあるし、ある程度の目途がたったら夫の故郷である隣国へ引っ越すつもりだったので。



 悲劇の令嬢が幸せになっていたという事を除けば。

 今回の一件は国内から一つの公爵家が衰退し、一つの侯爵家が他国へ渡るという、国にとっては何の益にもならない話であった。


 ちなみに更に数年後、この国は魔女によって色々とやらかされ大きく力を失い他国に吸収される事になる。



 そうなった原因が、もとをただせばクロードがジゼルを嵌めた事であるという事までは……生憎誰にも知られていない。

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― 新着の感想 ―
[一言] 最終的には、国自体が彼女に見限られたのかな? 女性の情は怖いなぁ。
[気になる点] ー余程用意周到に事前に準備を重ねていたようで ーだがクロードはその手間を惜しんで一方的にジゼルを嵌めた。 実行した計画のがよっぽど手間がかかっている様な… [一言] 呪いって、禿げる…
[一言] やっぱ因果応報ですよね! そうそう、真実の愛なんだから簡単に呪いが解けるはずなのに… ふふふ…これが「呪い」ですよ。 あ〜怖い怖い。。。 悪いことは出来ませんね〜 良い教訓のようなお話で…
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