1 はじまりの春
「では、条件面の確認だ」
ゆらり、とろうそくに灯された小さな炎のみが室内を照らす中、金髪碧眼の男が二枚の書類を差し出して言った。
「僕はこれから一年間、ダレン・アトキンズという名で君の婚約者として振る舞う。設定は、次のとおり」
・ダレン・アトキンズ、二十二歳。遠い町の商家の息子。
・イヴリン・ホークヤード(以下、依頼者)との出会いは両者が十七歳の頃の、二百十五年。二百二十年五の月二日に城下町を散策していた依頼者と、再会。このことがきっかけで、結婚を見据えた交際を始める。
・依頼者のみに深い愛情を注ぐ、芸術全般何でもそつなくこなす天才肌。
・いずれ結婚する予定だが、二百二十一年五の月七日に不慮の事故により死去。
・依頼者の婚約者だったが不貞を働き、依頼者に責任転嫁して婚約破棄をたたきつけてきたゴドウィン・ベイリアルならびに彼の浮気相手であるアイビー・エンジェルに「ざまあ」を行う。
・依頼者からの報酬は、年額百万ゴールド。前払いとし、いかなる場合でも返却はないものとする。
・依頼者は、ダレン・アトキンズと肉体関係にならない。またそのようなことを示唆する態度を取ることなども禁ずる。
(以下略)
書類を何度もじっくり読んだ女は、うなずいた。
「文面を確認しました。問題ありません」
「ではそれぞれに、サインを」
男にサインを求められ、女は迷うことなく「イヴリン・ホークヤード」の名を二枚の書類にサインした。
書類を返却された男は自分の名前もサインし、満足そうに微笑んだ。
「では、イヴリン・ホークヤード嬢。僕は契約内容に則り、君の一年間だけの婚約者になろう。そうして……君を裏切った元婚約者と股の緩い女に制裁を加える手伝いをしよう」
「はい。よろしくお願いします、ダレン様」
女は青色の目をまっすぐ前に向けて、言った。
イヴリン・ホークヤードは、貿易商の娘だ。
彼女には、結婚を約束した相手がいた。男爵家の長男である、ゴドウィン・ベイリアルである。
だが彼はある日、イヴリンのもとに若い可憐な女性を連れてきた。そして、「真実の愛を見つけたから、婚約を破棄する」と言ってきたのだった。
婚約者が不貞をしていたことに、イヴリンは驚いた。しかも浮気をしたというのに二人は「おまえが俺を放っておくからだ」「ゴドウィン様がおかわいそう」と、イヴリンに責任転嫁をしてくる始末。
ふざけるな、と言いたかった。
だが、ベイリアル家はホークヤード家とは違って貴族で、しかも相手の女性もエンジェル伯爵令嬢だった。
相手方の一方的な言い分により、イヴリンは婚約破棄された。
イヴリンの家族は、ゴドウィンの突然の裏切り行為に怒りをあらわにしていた。だが、「ホークヤード家がおとなしく受け入れるのなら、これからの商売で不利にならないようにしてやる」とベイリアル家とエンジェル家から言われた。
たかが平民に毛が生えた程度のホークヤード家では、強く出られなかった。
家族会議の末に、イヴリンは一年後に田舎で暮らす老貴族の後妻になることが決まった。
老貴族は優しくて親切な男性で、イヴリンが嫁いできたら娘のようにかわいがってくれること、ホークヤード家にも支援をすることなどを約束してくれた。
老貴族は、「あと一年間、心残りのないようにやりたいことをやりなさい」と言ってくれた。
だから、イヴリンは――復讐をすることにした。
イヴリンが復讐をしたがっていることを嗅ぎ取ったらしい、怪しい男に声を掛けられた。彼に紹介されたのは、「誰でも屋」の青年だった。
少し癖のある金髪に、澄んだ青色の目。整った顔立ちの彼は、依頼者が望む人間として振る舞うということを仕事にしていた。
たとえば、余命短い寂しい老婦人のために、祖母想いの孫息子の役を演じる。
たとえば、夫を亡くした女性が立ち直れるまでの間、優しくて愛情深い夫の役を演じる。
たとえば、兄がほしい少女のために、頼もしくて賢い兄の役を演じる。
彼はそうやって様々な役を演じて、その報酬を受け取ることを仕事にしていたのだった。
婚約者に裏切られて、悔しい。
できることなら残された一年で、あの二人を見返してやりたい。
一瞬でもいいから、あいつらの悔しそうな顔を見てみたい。
そんなイヴリンの願いを聞いた青年は、にっこりと笑った。
「それなら僕は、一年限りの婚約者になろう。ただ……それなりの報酬はもらうよ」
「どれくらいですか?」
「オプション内容にもよるけれど、一年間契約するのだから最低でも八十万ゴールドは必要だね」
八十万ゴールド。イヴリンの個人的な金庫が寂しくなる金額だ。
だが、イヴリンはあの二人に復讐したい。自分に許された金と時間を使って、復讐を果たしたい。
イヴリンは「優しくて甘やかしてくれる、最高の婚約者として振る舞う」などのオプションを細かく付け加えたため、最終的な報酬金額は百万ゴールドになった。イヴリンの財産は、ほぼなくなる。
だが男は、「僕は報酬分の働きを必ずする」と約束した。だから彼を信じることにした。
イヴリンの一年限りの婚約者は、二十二歳のダレン・アトキンズ。
彼も本名も本当の年齢も出身地も、イヴリンは何も知らない。
イヴリンの元婚約者たちは、「是非とも結婚式に出席してください」と、ホークヤード家に結婚式の招待状を送ってきた。
厚顔無恥、とはこのことを言うのだろう。だが、ホークヤード家としてはベイリアル男爵家ともエンジェル伯爵家とも、敵対したくない。目下の者は、目上の者に従うしかないのだ。
だからイヴリンはその結婚式に、ダレンを連れて行くことにした。
「計画は大丈夫かしら」
「もちろん。僕はイヴリンの婚約者として出席するけれど、まずは君と別行動を取る。間違いなくクソ二人はわざわざ君のもとに挨拶に来るだろうから、そのタイミングで合流する。僕はいかにイヴリンのことを愛しているか、来年の結婚式がどれほど楽しみか、ということを語り、イヴリンを僕のもとに送り込んでくれたクソ二人にお礼を言う……というところだね」
「ええ。なるべく精神的に痛めつける方向で、よろしく」
イヴリンが言うと、礼装姿のダレンはにやりと不気味に笑った。
「君は優しいんだね。百万ゴールドの報酬分の働きはするのだから、もっときついものを提案してもいいんだよ?」
「万が一にもホークヤード家にとって不利になったら嫌だからね」
イヴリンはそう言ってから、ダレンを連れて屋敷を出た――その直後。
「さあ、僕のかわいいお姫様。せっかくのお友だちの結婚式なのだから、うんと楽しもうね」
つい先ほどまでは邪悪ささえ感じられるような笑みを浮かべていたのと同一人物とは思えないほど、ダレンはふわりとした甘ったるい笑顔に変えた。
そしてめいっぱいの甘さを含んだ声でイヴリンにささやくと、その腰を抱いた。
……これが、「誰でも屋」の実力だ。
依頼者の希望どおりの男を、完璧に演じる。たとえ依頼者のことを憎んでいたとしても、彼は完璧な笑顔で全てを覆い隠してしまう。
こんな生活が始まってまだ二ヶ月ほどのため、イヴリンはまだダレンの甘さに慣れない。
思わずびくっと身を震わせると、ダレンはくすりと笑った。
「あれ? 僕に抱き寄せられて、恥ずかしくなっちゃった? ……ふふ。真っ赤になって睨むところも……本当にかわいい。あーあ、今日が結婚式じゃなかったら、このまま部屋に連れ込んでいたのになぁ」
「も、もう。早く行かないと、遅刻してしまうわ」
「それもそうだね。じゃあ行こうか、かわいい小鳥さん」
ダレンは小さく笑うと、ちゅっとイヴリンの頬にキス――するふりをした。
そのまま二人は馬車に乗り、結婚式の会場である教会に向かう。
「……契約開始から二ヶ月経つのに、まだいちいちビビってるんだな」
人目のない場所にいるからか、ダレンは素の態度でぼそっとつぶやいた。
「仕方がないでしょう。異性とあんな距離でやりとりをすることなんて、なかったのだから」
「そういうこと、あのクソとはしなかったのか?」
「してくれなかったわ。……当時は、『我慢ができなくなりそうだから』なんて言い訳をされたけれど……今思えばその時点でもう、浮気をされていただけなのよね」
窓枠に肘を突いたイヴリンは、苦く笑った。
十六歳の頃にゴドウィンと婚約して、六年。
ゴドウィンが男爵位を継ぐのと同時に結婚する予定だったのだが、今になって全てを台無しにされてしまった。
「我慢ができなくなりそうだから」……二十二歳にもなってそんな薄っぺらい言い訳にころっと騙されていた自分が、情けない。
イヴリンの言葉を聞いたダレンは、ふん、と鼻で笑った。
「というよりそもそも、最初から君と結婚する気がなかったんじゃないのか? あれだよ、キープってやつ」
「……そういうこと、わざわざ言わないでくれる?」
「ああ、これは失礼」
ダレンは口では謝罪しつつも、唇は笑っていた。
……ダレンは、こういう男だった。
契約の内容には忠実に従うけれど、関係のないところではいろいろと雑になる。雑すぎて、甘やかしモードのときとのギャップに驚かされるくらいだ。
だが、ダレンとて人間だ。
イヴリンは彼を一年間も拘束することになるので、気を張る必要がないときにはうんとだらけてくれればいいと思っている。