03.
3.
そうして――どのくらいの時間が過ぎたのか、庭に音が聞こえ始めたとミレーヌが教えてくれ、実行することを決意した。
用具入れから出て、こっそりと本邸に近づき――それからは驚くほどの勢いで事が進んでいったのだけれど。
最初に対面したのがジイサンだったら、まだマシだったのかもしれない。
けれど、どうやら朝から体を鍛えていたという従兄弟たちと出くわしたのが悪かったのだ。
ボロボロで汚らしいミレーヌを見て攻撃をしてきた彼らは、そのまま離れ屋敷に連れ戻そうとした。けれど、ミレーヌもこれが最期なんだと思っていたんだろう、力いっぱい抵抗し叫びながらも逃げ出した結果――そこにこの邸の当主でもあるジイサンが現れたのだ。
本来ならば、そんな状態の孫娘を見るだけで異常だと感じたはずなのだ。従兄弟たちだって、そう思ってもオカシクないはずなのに。
発せられた言葉は――。
「この汚らわしい親殺しがっ!!!!! なんで本邸まで来てるんだっ」
「ここはお前みたいな卑しいヤツが来る場所じゃないっ」
これを言い放ったのは従兄弟たちだった。そう言いながら腕を捻り上げたのだろうと思う。ミレーヌの『痛い』と『手を離して』ってのが聞こえてきたから。
でも、それよりもミレーヌが耐えきれなかったものはジイサンからの視線だったようで。
『なんで、なんで? 何でなのですか!? 私が何をしたというの!? どうしてそんな目で見るのです? お祖父様ッッ』
声にはなってなかった。
ううん、それ以前にミレーヌには声を出すという選択肢がなかったんだと思う。
従兄弟たちの冷たい言葉と視線、使用人たちの異常なものを見る目、そしてジイサンの冷めた目が逸らされたのだろう。
『もう……無理よ……無理っ。お祖父様まで、あんな目で私を見るなんて……もうっ、いやあああああああああああああああっ』
ミレーヌの声が響いて――どこかで何かが割れるような、弾けるような音が鳴り響き、そしてこれまた意味不明なことが起こって。
「フザケンナ」
気づいたらあたしの思っていた言葉が音になっていた。
「ホント、フザケンナ」
――ミレーヌ、どこなの?? どこにいる???――
「あんたら、本当にふざけるなっ!!」
嗄れたそれが声だと思うと情けないくらいだったけれど、長い間声なんか出してなかったから仕方ないとしても、これが自分の声だったかと思うような音だった。
でも、それどころじゃない。
今のあたしは怒りに打ち震えていて、どんなことよりも何よりもミレーヌが心配で仕方なかったのだ。
今の自分がどうなっているのかなんてどうでも良かった。ただ何となくだけど、あたしはミレーヌの体を動かす権利を受け取ったのだと、そう感じたのだ。なによりも、体の痛みがそれを教えてくれている気がする。本当に――信じられないくらい、体がバラけてしまいそうな痛みが全身を突き抜けていて、この痛みをあの娘ひとりで背負っていたのかと思うと耐えきれないくらいの悔しさで一杯になった。
あたしの言葉に驚いたのか、目を見開いた目の前のジイサンと使用人たち。たぶん腕を捻り上げたまま固まっているのだろう従兄弟たちから、あたしは身体を捩って逃げ出した。これだけの痛みに加えて、腕を捻られていた痛みもあり、あたしは怒りで全身が燃え尽きそうだったんだと思う。
「こんな状態でいる子どもを見て、アンタたちは自分でこうしていると、本気で思ってるわけ!? マジ、フザケンナよ!?」
後ろを振り向いて従兄弟たちを睨みつけた。
大きな体を持つふたりの男の子――どう見てもまだ十代なのだろうけれど、それでもミレーヌと比じゃないほどに大きい。
「親殺し!? ふざけないで! その日、熱を出して家に留守番をさせられていたのを知ってるアンタたちが、何を言ってるわけ!?」
捲し立てるあたしに対して、けれど一同は固まったまま身じろぎ一つする様子もない。
だからこそ、言ってやった。
「お前らの母親のほうが、よっぽど卑しいわ!!! 幼い子供に暴力と暴言で抑え込み、窓もない倉庫に4年間も押し込んでたんだからっ」
そう叫んだ途端、ビクリと体を揺らした従兄弟たち。
だからこそ、続けてやったのだ。
本当は、こんなことしたらダメだって分かってた。これをやるのはミレーヌ本人じゃなかったらダメだって――赤の他人である、あたしがやれば犯罪だ。
でも、もう止められなかったのだ。
「見なさい、お前たちっ!! この邸では本来守られるべき子どもが、こんな目にあってるのよ!!」
来ていたドレスとも思えない洋服をビリッと力任せに破って上半身を顕にした。
下着すら身に着けていないミレーヌ――この世界でも下着くらいは存在してるらしいのに、それもあたえてもらえず、手も足も手入れすらしてない、お風呂にも入れてもらっていないそれらはボロボロで……初めて目にしたあたしでもゾッとするくらい皮膚が爛れている。
痛いはずだ――辛いはずだ。
こんな状態で今まで生き抜いてきたミレーヌは、本当はとても強い女の子だったんだ。
そんな子に、あたしは『死ぬな』と強制してしまった。なんて酷い大人なんだろう、あたしも。
こんな状態のあたしを目にした、その場にいた全員が目を背けることもなく凝視していた。
背中は爛れているだろう。熱くて火を吹きそうなくらい痛みが走っているから。
腕は赤黒かったり青かったり、切り傷も絶えないほど無数にある。
顔の痛みはそれほどじゃないけれど、たぶん皮膚が爛れている程度なんだと思う。
でも、それを見た彼らの反応は――。
「きゃあっ、ミレーヌ!! お前はなんてはしたないっ!!!」
遠くから聞こえてきたのは、あのオバサンの声だった。
だけど、それが近づく前にあたしの視界がなにかに覆われていた。
そして――あたしはブラックアウトしたのだった。
あまりにも全身に痛みが走っていた。全身が壊れるくらいの痛み。それは脳天を貫くほどのものだったと思う。そんな中で、ヒステリーにも感じられる甲高い声が頭を直撃して、あたしはたぶん耐えきれなかったんだと思う。
それでもあたしはミレーヌを呼び続けていた。
だって、あたしは間違ったのかもしれないのだから――。
――ここは、どこだろう。
ふと見渡すとそこには薔薇園が広がっていて、あたしはまだこれ以上の驚きがあるのかと思うほどに混乱していた。
なんだ、ここ――あたし、さっきまでジイサンやら変な連中やら何やらを相手に叫んでなかったっけ?
そうそう、あのオバサンがやってきて叫んでたっけ……あれの声、めちゃくちゃ頭に直撃してたな。
そんなことを考えながら薔薇園を見渡した。そこで少しの違和感と焦燥感にかられる。
――ここ、本当にどこだろ?
少しずつ恐怖に近いものが心を覆い出したころ、ふと物音に気づいて振り向いた。
物音がした方へ顔を向けてみれば、そこには見たこともない西洋美人が困った表情を作ってあたしを見ていた。
誰だろう。と首を傾げていれば、その人は小さく笑みを見せてから声をかけてくる。
「貴方が、ハナですわね?」
「……え」
名前を言い当てられたことよりも、見たこともない美女に微笑みかけられた方に驚いているあたしは、たぶんどこかネジが飛んでいるんだと思う。本当に緊張感ないな、あたし。
そんなことよりも、彼女は誰なのだろう――そして、なぜあたしの名前を知っているのか。
その答えはすぐに出た。
「私はミレーヌの母にございます」
「……ミレーヌ、の? 母って……」
「はい。私はミレーヌの母――けれど、知っていらっしゃるとおり、私は死んでおります」
「……そう、ですよね」
っていうか、何で納得してるのかな、あたしは。
ああ、そっか。
「ということは、夢?」
思わず呟いてしまえば、目の前の女性――ミレーヌの母だという人は笑みを見せてから答えてくれる。
「確かに、夢と判断しても間違いではございません。実際には貴方の精神に直接お話しをさせてもらうために眠ってもらっている、というのが正解でしょうね」
「精神……??」
精神とは――と、まるで哲学みたいなことを言うつもりはないけれど、そんな曖昧なものに直接話しかけられてるって時点で意味不明である。いや、あたしの存在自体、意味不明と言っても過言じゃないけれど――今現在の状況において、だけどね!
「実は貴方にきちんと説明をしておきたかったのですが――あまり時間がありませんの」
夢であるならば眠っている間に、ということだろうからそれなりの時間があると思うのだが……精神に話しかけるっていうのであれば時間は有限、なのか?
「簡単に説明すれば、私は既に死者。その死者がこうして生者に話しかけるなど本来は不可能なこと――けれど、ある方たちに手伝ってもらい、貴方に私たちの可愛い娘を助けてもらいたく、こうしてお話しをする機会を得ました。そして、あそこにいるのが……貴方の探しているミレーヌでございます」
唐突な発言に、あたしは戸惑いを隠せなかった。何を言い出したのだろう、この人は――と不安になりながらも、彼女が手で示した場所を見てみれば。
「え……は? ど、どういうこと!?」
たぶん先程、あたしが違和感を覚えたものだったのだと思うそれは、薔薇園の真ん中にポツンとある鳥籠のようなもの。その中に、幾重にも頑丈な鎖が巻かれている丸いものがあり、それがキラキラと金色に輝くガラスのような箱に入っていた。
「その中心にある鎖が巻き付いた球体が、ミレーヌの魂ですの」
「……え、た、魂って……え?」
「その箱はもともと貴方が入っていたもの」
「……え? アナタ、いったい何を言ってるの?」
「そうですわね。ちゃんと説明しなければ分かりませんわね、ごめんなさい」
小さく頭を下げて謝罪するミレーヌ母。彼女はあたしを鳥籠――ミレーヌの魂だというものが入っているカゴの方へ案内していく。
「私と夫は、この子を守るために必死でしたの――けれど、思わぬ事故で命を奪われ、そしてこの子をひとりにしてしまった」
「事故……確か魔獣に襲われたとか?」
「ええ、そのとおりですわ。実際は若い子どもたちに魔獣を見せて、どういう危険があるのかを見せるという狩りの場でしたの」
「……狩り、ですか?」
「はい。子どもたちに魔獣がどれだけ危険か、そしてどうやって倒すのかを見せるための狩り場――貴族はそういう場を一年に一度は設けて狩りを行っていました」
「はぁ……でも、それって余計に危険なんじゃ」
「確かに考えようによっては危険なのでしょうが、そういう狩り場の場合には危険がないように準備をされているものなのです」
そうやって説明をしてくれたミレーヌ母曰く、ある程度の実力を持つ騎士たちが結界の中で魔獣と戦う様を見せ、貴族の子どもたちに魔獣がどういうものなのか見せるというイベントみたいなものなのだという。魔獣もその辺にいるのを狩るのではなく、捉えていた魔獣を結界の中で檻から出して戦うのだとか――うん、闘牛みたいなものだろうか。
そして、そこで事故があった――そのせいでミレーヌの両親が命を落とした、と。
「その後のことは、ミレーヌの叫びを聞くまで何があったのかも判りませんでしたわ。私は生者ではなく死者なのですから当然ですね」
「まあ、そりゃ……そうですね」
「けれど、あの子の心からの叫びが死者である私や夫にまで届き、そしてある方たちにお願いをし、あの子を傍で見守っておりました」
「見守って……って守ってたなら、なんであんなことにっ!」
「……死者なんですもの、何もできなかったのですわ。貴方があの子の中で何もできなかったのと同様に」
嗚呼――。
そうだよね……うん、確かにそうだ。
あたしだって何もできてなかったじゃないか。しかも、最後の最後まであんなつらい思いをさせちゃったじゃないか……。
「ごめん……ミレーヌ母。あたし……」
「いいえ、貴方のしたことは決して悪いことではありませんでしたわ」
「でも、あの子を傷つけて壊した……」
「壊れてはいません……見てください。これがミレーヌですのよ?」
言われて見た鎖が巻かれた球体。それは全体像が見れないものの、ところどころ見える部分はキラキラと透明感のあるものだった。
「あの子は自ら命を絶とうとし、それを貴方が守ってくれた――だから、ミレーヌはこの状態で今も生きている」
「……でも、これは生きてるって言えないでしょ!?」
「いいえ。貴方の中で――というと違和感がありますが、ミレーヌの体の奥底で今も生きてはいるのです……ただ、雁字搦めになった心が生きていたくないと、私たち夫婦の元へ来たいと嘆き、そしてこういう状態になってしまったのです」
「ああ……それで鎖……なのか」
「貴方が今、ミレーヌの体に入っていてくれるからミレーヌも死なずにおります」
「そっか……でも、それじゃミレーヌは……」
「安心してくださいませ。ミレーヌは見ております。聞こえてもおります。貴方がミレーヌの中にいたときよりもハッキリと、誰かとの対話も行動も見聞きできておりますの」
「……そう、なの?」
とはいえ、この状態でミレーヌが見聞きできたとして、あたしに何をしろと――というか、あたしは何でここにいるのかってことも聞きたいんだけど!
「でも、どうやって助けるわけ? もっと言えばあたしの存在って……」
「申し訳ありません。私が知っているのは、ミレーヌは貴方がいてくれたお陰で死なずに済んでいるということだけ――どうやって助けるのかは、どうか貴方の思うようにしてくださいませ」
それって随分と投げやり――というか丸投げ状態ではありませんでしょうか? だいたいあたしみたいに平凡な人間に、何ができるというのか。
そう思いながらミレーヌ母を拗ねたように睨んでみれば、彼女は少し困ったような笑みを見せてからミレーヌの魂だというものに触れた。
「私には何もできなかった――けれど、貴方はあの子に声を届かせ行動させることができた。それだけで私にとっては奇跡に思えました。ある方たちは、私たちをこの子のところで守るようにしてくれただけ。そして貴方にこうして話しをさせてくれたのは……どうしてなのか私たちも知りません。ただ、貴方だけが切り札であると、私は考えております」
「……そんなことを、言われても。あたしにはどうしたらいいのか分からないよ」
「それでも、貴方にはきっと――いいえ、勝手なことをお願いしているのは理解しております。どうか、それでもお願いしたいのです」
深々と頭を下げるミレーヌ母に、あたしは何を言えばいいだろう。いや、何も言えるわけがない。
だいたい、あたしに誰かを助けたり守ったりする力がないことなんか、今回のことで分かりきっている。
ミレーヌを失望させ、そしてこんな状態に陥らせてしまったのだから――。
「あたしには――何もできないよ」
「いいえ、これだけは断言できます――貴方があの子を地獄から開放してくれたのですもの。きっと――この先も――――」
ふわりと暖かい風があたしの頬をなでた気がした。
それが何故かミレーヌだと感じたのは、きっと気のせいだと思う。
それでも――あたしには、まだミレーヌが泣きながら何かを訴えているようにも感じられて。
泣き出していた。
あたしは身勝手にアンタを焚き付けて、そして辛い思いを上書きしただけなのに――落ち込むあたしを慰めてくれてるっていうわけ??
情けないね――アンタはまだ14歳の幼い少女と呼べる年齢で、けれどあたしはすでに成人した大人という分類に入る人間なのに。
ゴメン――本当にごめん。でも、あたしにはアンタを守ってやる力も助けてやる力も持ち合わせていない。
ただ身勝手なことを言うだけしかできないんだよ。
「大丈夫ですわ、ハナ。貴方なら――貴方の存在こそが、我が娘にとって――力――」
それを最後にミレーヌ母の声が途切れていった。
そして――。