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『もう……無理よ……無理っ。お祖父様まで、あんな目で私を見るなんて……もうっ、いやあああああああああああああああっ』
ミレーヌの声があたしの中で反響して、そのときになって彼女の心の痛みが全部伝わってくるのが分かった。
そしてミレーヌの意識が途絶える瞬間、これもまたとんでもない事があたしの身に起こったのだった。
全身に感じる痛み、息苦しさ、背中に走る熱を帯びた痛み。ギシギシという関節の痛みに至るまで、全てがあたしの脳みそを突き上げていく。
頭痛に吐き気なんて、生易しい痛みなんかじゃない。ぎっくり腰をやったときの痛みなんか目でもない。骨折――はしたことがないから分からないけど、全身が骨折してるんじゃないかっていうくらいの痛みが脳天を突き破る。
そこであたしは視界がやけに広く、ついでにいつもとはまるで感覚が違っている見え方に驚きで思考が停止しそうになったほどだ。
そうして気づいた――あたし、今、ミレーヌになってる――と。
この全身の痛みが、苦しさが、あの子の受けてきたもの――関節も自由に動かないほどに痛みを発している、これこそがあの子が今まで受けてきた全て。
嗚呼……分かったよ、ミレーヌ。
そうだったね……そうだよね。これだけの痛みや苦しみ、そして今現在、この目の前にいる者たちの自分へ向けてくる視線。
辛いよな……ほんと……辛すぎる。
これが身内の、愛していた両親の家族たちなのか……と。
数日前にあたしが言い出したのは、ジイサンの誕生日へ乗り込もうってことだった。もちろん容易じゃないってことは、ミレーヌの話からも理解できたけれど、このまま彼女の短い人生を終わらせるなんて許せなかったのだ。
ミレーヌの住んでいるのは離れ屋敷って所らしく、ジイサンたちが住んでいるのは本邸で、それなりの距離があるのだと聞いた。そして、そのジイサンたちと一緒にオバサンの子どもたちが一緒に暮らしているという。それっておかしくない? って思ったのだが、どうやらミレーヌのジイサンってのが貴族でも結構上の立場にいる人なんだとか――でもって、あのオバサンの子どもたち(男ふたり兄弟らしいんだけどな)のどちらかがジイサンの跡継ぎになるからってことらしい。
まあ、そうやって聞いていても納得できない理由だけどね。
貴族っていうことは、王様のいる国なんだってことはミレーヌの話から大体検討はつく。だがしかし、ミレーヌは9歳までしか勉強をしていないせいで、より詳しい情報がない。
まったくもって……保護者としての責任をなんと思っているのかって感じだ。
それはさておき。
今回、ミレーヌを焚き付けたのは、この離れ屋敷ってとこから抜け出して本邸へと赴き、ジイサンに告発するってことだ。
本当はジイサンの誕生日にって思っていたんだけど、それだとパーティへの参加者にまで今のボロボロなミレーヌを見せることになるからやめることにした。
それでも、この今のミレーヌの状況をジイサンたちに見せることが一番大事だって思ってもいるあたしだ。
身勝手とか無責任とか言わないでほしい。たった14歳で自殺したいと思う女の子を見殺しにするほうが、あたしにはできない相談だったんだもの。
ミレーヌ本人も、実は何度となくジイサンに接触しようと努力はしたらしい。けれど毎回、オバサンやら使用人たちに邪魔されまくって、ジイサンには『暴れている』やら『わがまま病』とかオバサンから報告されているため、会うことが叶っていないのだという。
ほんと、ろくな大人たちじゃないよね。
だけど今回、本当にミレーヌは最期だと思ってあたしの提案を受け入れてくれたのである。
あたしだって勝算のない提案はしたくなかった。だいたい、これが本当にミレーヌを幸せにするための作戦かと問われたら素直に頷けはしない。それでも実行しようと彼女を焚き付けたのは、このまま何もしないで死なせるのが――自己中心的な考え方で本当に情けないけれど――嫌だったんだっ。
ミレーヌの部屋は、もとが倉庫だったものを使用しているせいで窓が一つもない。ついでに扉にはいつも外から鍵をかけられていて正面突破は難しい。だいたいにおいて、扉から出てしまえば誰かに見つかりやすいし、そうなっては逃げ出すことは不可能に近いだろう。なにせ、今のミレーヌには走ったり飛んだりする体力なんか残っていないんだから。
と、いう、こと、で。
あたしが考えたのは、ミレーヌの唯一味方である侍女の力を少しだけ借りるってこと。
この屋敷ってのは、どうやらある程度の時間になると人の動きが制限されるのだという。もちろん護衛らしき人物もいるらしいけれど、あのオバサンがいる屋敷ってこともあるのか、割りと手薄だと侍女が教えてくれたそうだ。
決行は真夜中――ってことになる。
今なら、そのチャンスもある。だって、あのオバサンたちが暴力を振るいに来ることがないから。
でも真夜中ってことは、本邸のほうも誰かが起きているってことは難しいだろう。ついでに言えばミレーヌの体力も考慮しなきゃいけないわけだしね。
決行はジイサンの誕生日パーティ三日前。
そのくらいなら、ある程度の準備が完了されているだろうけれど、最終段階で色々と確認作業をするようになるから本邸だけは夜でも明かりが灯されていると侍女から聞いたから。
対してこの離れ屋敷では、警戒が解かれたまま。オバサンたちは盛大なパーティの主催者家族ってこともあって、念入りに準備をしているらしい。ついでに美貌のため()に早寝を心がけているという。
そのせいか、たぶんだけど前日まではこの部屋に近づいてこないだろう。
とはいえ、だ。
ミレーヌの体から傷が消えることも癒えることもない。
いまだジクジクと熱を発して痛みを訴える背中や腕には、しっかりと暴力を受けたと称されるものが残っている……らしい。
実はミレーヌの視界をときどき借りられるようになったけれど、そこまで確認は取れていないし、体の痛みは以ての外――まるで感じることができないのだ。
でもミレーヌから、どこに傷をつけられたとか叩かれたとかという情報だけはもらっている。なんでかといえば、ジイサンたちに見せつける必要があるから。
まだ若い……ついでに言えば女性になりつつある体を人様に晒すのは最低だと思っている。なによりも自分の体ではなく、ミレーヌの体。
でも、一番に見せつけるのが効果的であることも事実だと考えて、この辺はミレーヌといっぱい話し合った。
でも彼女は『どうせ死ぬつもりなのだから構わない』と言い切られて、逆にあたしのほうがビビってしまったほどだ。
まあ、それはさておき――時間である。
ミレーヌには昼間から計画時間までは寝てもらっている。体力のない彼女には睡眠時間も大事な体力温存となるから。
ついで唯一味方の侍女には、軽食を持ってきてもらいつつ日持ちするクッキーなども用意してもらった。もちろん、真夜中には侍女たちの部屋から出てくるのが困難だろうから昼間のうちに――でもって、鍵の細工もしてもらっている。見た目は扉が開かないようになっているように見せかけて、ってね。
「ミレーヌ……そろそろ時間?」
『……はい。今、ようやく侍女や護衛たちの見回りが終わったみたいです』
「そう。じゃあミレーヌ、準備はいい?」
『はい』
ついに決行するときが来た。
ミレーヌはまだ不安と戦ってはいたけれど、躊躇することなくあたしの提案に従ってくれる。
本当なら彼女自身の言葉で『仕返ししたい。助けてもらいたい』って言わせたかったけれど、それはもう精神的に無理なんだと分かっていた。この4年間でミレーヌの心は冷たく凍えてしまっているんだろう。
それでも、あたしの提案を受け入れてくれたのは彼女なりの決着を付けたかったからかもしれない。謂れのない中傷と暴力。それは幼い彼女を壊すには十分すぎるものだったんだから。
『ハナ、部屋から出られたわ』
「出口は分かってるよね?」
『ええ。ちゃんと調べてもらってるし……あと、もしものときに出られる窓も教えてもらってるから大丈夫です』
「了解。本当はあたしも手伝えたら楽なんだろうけどね、ごめん、役立たずで」
『いいえ……ハナがいなかったら、あの日私はいなくなっていたのだもの。気にしないでください』
いなくなってた……なんて、言わせたくない。だけど、どこの世界にだって子どもがいつでも幸せかって言えばそうではないんだろう。
あたしにしたって、この子を幸せにしたいって思っても自分の力で成し得ないのだから……本当に偽善者だなと思う。
分かりきっている……これが決してミレーヌの幸せを取り戻すものじゃないってことも。彼女自身もそれを理解してるってことも。
でも、やると決めたからには――。
『ハナ……屋敷から……出られたわ……出られた……』
少しだけ、本当に少しだけだけど、いつもよりも嬉しそうに言うミレーヌ。だけど本番はこれからだ。
「出られたのね? よしっ。あとは朝まで隠れる場所まで移動しよう」
『はいっ』
隠れ場所は本邸にほど近い庭。木陰にある庭掃除の用具が置かれている場所だ。
普通に考えて庭師などは朝早くからやってくるのだけど、この用具入れはメイドたちが庭を掃除するために使っているところで、基本的にはお昼近くにならないと人が来ないという。
「ミレーヌ。ちゃんと布は持ってきてる?」
『はい、身を隠すためと暖かくするための……』
「それに包まって朝まで待つわよ?」
『はい』
離れ屋敷から出られたってことが良かったのかもしれないが、ミレーヌの声がいつもより弾んでいるようにも感じられた。
このまま朝までは安全にいられるはず――ううん、安全だって信じられる。何でなのかは分かんないけれど、何となくそう感じられる自分に少し違和感を覚えたけれど。
『ハナ』
「ん? どうしたの?」
『ありがとうございます』
「え?」
『私はあの離れ屋敷から出られないって、そう信じ切っていたわ。だから誰も助けてくれないって』
「あ、ああ……そりゃ毎日のように罵倒されたり暴力を受けてたら、ね」
『それだけじゃないのです』
「ん? どういうこと?」
そう言ったミレーヌは、このあと朝まで彼女の幼い頃の話を聞かせてくれた。
両親がとても優しかったこと。この本邸で昔はジイサンや従兄弟たちとも一緒に生活していたこと。幸せに感じていたことも、いつも従兄弟たちに泣かされたあと、母親に慰めてもらったことも、全てが幸せだったと、楽しかったのだと。
ミレーヌの両親は子どもがなかなかできず、初めてできたミレーヌを大事に大事に育ててくれていたらしい。
そのころはジイサンもまたミレーヌを可愛がっており、ときには厳しいことも言われたらしいけれど、行儀作法がうまくできただけでも凄く褒めてくれていたのだという。
ミレーヌの話題はその頃の幸せだった思い出話ばかり。けれど、それを聞きながらあたしは次第に自分の家族との記憶が蘇ってきた。
それをミレーヌに話してきかせれば、ミレーヌも興味津々に聞き入ってくれる。
お互いにそうやって家族の話題を朝まで話していたのだった。
『空が……明るくなってきました』
「もう、そんな時間なのか」
『外に……出たほうがいいですか?』
「そうね。人が起き出す時間になってからのほうが、より効果的だけれど」
『今はまだ邸の中でメイドたちが動いてるくらいでしょうか……ここから覗いても誰の姿も確認できません』
「じゃあ、もう少しだけ……クッキーでも食べて力をつけておいて!」
『ええ、そうしますわ!』