続・怖い話
震えあがらせます(そうやって前回のやつを引っ張るんですね)
大学生活もいよいよ佳境を越えて大詰め迎えた頃、就職活動を始めた俺はようやく内定をもらうことができた。これで、あとは無事卒業するのみだった。
俺は部屋の窓辺に腰掛けて太陽を眺め入る。大学に通うのを契機に一人暮らしを始めた。慎ましい学生生活だったが、全てのことが感慨深いものに感じられる。
短かったようにも思えるが、振り返れば本当に色々あったものだ。
夏休みには友人と海外旅行をして、初めての彼女ができて、サッカー部に入って、単位を何度も落としそうになって……彼女と別れて。
俺は顎を引いていた。
いいことばかりではなかったが、少なくとも無かったことにはしたくなかった。一つ一つが俺を作り上げたような気がしたから。
――ドスン、バタン。ドォン、ドン。
くぐもった物音。隣からだろうか、やけにうるさいな。
別にいつもなら平然と無視するのだが、
今回は切ない一時を邪魔されて腹が立った。俺は声を強く張り上げる。
「すみません。うるさいんですけど」
……。
音が鳴り止んだ。壁を通してのことだったので不安だったのだが、意味が通じたようだ。
少し言い過ぎたかもしれない。
俺は住んでいる1DKより、自分のほうが狭苦しい存在に感じられた。心を落ち着けようと台所の水道水で喉を潤す。
重々しく金属音が響く音。出掛けに必然的に聞くことになる玄関扉の開閉音。このアパート全体が老朽化して、どこの扉も金属疲労が祟って、甲高い悲鳴を上げる。音の通りからして、近い、隣からか。
俺の部屋は端にあるので、消去法などしなくとも、隣といえば思い当たるのは一人しかいない。確か、製薬会社に勤めている妙齢の女性だ。
その女性と思われる人が、こちらに向かって歩いてくる。
俺の部屋へと続く通路は階段やエレベーターなどもなく、突き当たりの胸元くらいの高さの壁から、せいぜい街の一帯を俯瞰できるくらいだ。
先ほどの騒がしい物音が、俺の中で反芻される。
謝りに来たのか、別にいいのに。声を荒げて注意した自分だって謝らないといけなくなる。
俺は台所のシンクにコップグラスを置いて、玄関に体を向けた。扉前で例の足音が止まった。
そこで、俺はようやくおかしなことに気がついた。足音が、コンクリート床に張り付くような、肌質のあるものだった。
靴を履いていないのか。
いったい何故。
疑問に思った――つかの間だった。
ドォン!!
ドンドン!! ドォン!!
金属の扉をまるで打楽器のように打ち鳴らす。
リズムも音階も何もない。ひたすら力任せな旋律。耳障りどころではない、狂気を感じさえする根源的な恐怖が俺を縛りつける。
俺はあまりのことに足を踏み出せなかった。
頭がイカれている。
第一楽章が終わったのか、おぞましい演奏会の音が鳴り止んだ。
凍り付いていた俺の心臓が、拍手を送るように波打ちはじめた。血液が冷たい。血管が収縮しているせいだろうか。
郵便受けが一人でに動いた。
――いや、一人でに動くわけがない。
受け口から何かが飛び出してきた、ゆっくりと、きらびやかな光を伴って。
確実に俺の中で、何かが引き潮のように引いていった。
突き出ていたのは、包丁と鋏だった。
二本の鋭利な凶器がわずか二十センチの幅を左右に泳いでいる。俺がいる台所は、玄関とは斜め向かいにあって、絶対に見えない角度にいる。
それなのに、俺は心臓がはち切れんばかりに高鳴るのを抑えきれなかった。不整脈を起こしているかのような粗雑な拍子の鼓動。胸が痛い。締め付けられて苦しい。
このまま心臓発作で死ぬかもしれない。それでも、声は出してはいけない。刃物を持った狂人の前に立つよりはずっとマシだ。
何やらぶつぶつ呟く声が念仏のように繰り出されていた。正確には聞き取れない。だが、何かを喋っている。
ぶつっとカセットテープが切れたように声が止まった。包丁と鋏が繰り手の元に戻っていった。
また、裸足の足音が聞こえた。錆びた扉が金切り声を上げ、重々しい響きを残していった。
だが、俺は信じなかった。息を殺して周囲の気配を探る。本当は部屋には入ってはおらず、こちらが物音を立てるのを待っているのかもしれない。いや、ここに居ることは向こうにはわかりきっているのだ。だとしたら、扉のすぐ前で待ち構えている可能性は有り得る。
そして、様子を伺いに出てきた俺を……
「狂ってる」
俺が考え過ぎなのか。
俺は顔を両手で覆い、その場にくず折れた。
鋏と包丁が俺の日常を切り刻んだ。
昨日の今日でのことだった。
俺は隣の女性と階段で出会ってしまった。彼女を見たとき、俺の心臓の鼓動が一拍ずれて、彼女の存在を否定したがっていた。
彼女と出会わないようにエレベーターを避けたのに、まさか階段で鉢合わせすることになるなんて。保全策をものの見事に打ち砕かれた俺は、反射的に生存本能が蠢き、上下の階段のどちらかに目線を送って、逃げ道を確保しようとしていた。
彼女の両手には刃物は握られていない。スーパーのレジ袋が片手に下げられているだけだ。
だから、安全だ、と誰が言える。彼女の思考は誰にも予測できない。ただ、そこにいるだけで、俺にとっては刃物で精神をズタズタに切りつけられているような痛みがある。手の平に汗が滲んで皮膚がだぶついている。
しかし、挙動不審な俺に対して、彼女は。
「おはようございます」
などと、普通に返してきた。俺は言葉を濁すように挨拶をした。自分が怯えているのは自覚しているつもりだが、それ以上に声が不明瞭にくぐもった。女性が笑顔で会釈をすると、すぐに喉元から吐き気がした。
もちろん、彼女の態度や容姿が、というわけではない。俺の思考が誰かに強姦されているような気分がするのだ。自律神経に悪意が蔓延っている。全身に嫌な痺れが廻ってきた。
「――それじゃあ、俺はここで」
女性が片方の眉を上げて不可解な顔をした。
俺が彼女と別れたのは、自分の部屋がある四階ではなく、三階だった。
彼女に何かしらの疑問を与えたかもしれない。だが、それでも構わなかった。あの場に居ること自体が、俺には途方もない地獄だった。
階段横の通路をしばらく歩いた俺は、長い息をつく。脳みそに酸素がまだまだ足りない。頭をコンクリートにぶつけたい。血がでたとしても平気だ。自然と俺は嗤っていた。信じられない、生きてるよ、俺。
「フハハ……フフッ」
ああ、よく生きてるものだ。
だって、彼女は――
俺の中で冷たい思考が動きだした。
有り得るだろうか。包丁と鋏を持った人間が、こんなにも普通に接するなど。
そういえば、彼女はいつも夜九時ごろに帰ってくる。あの時間帯にいることはきわめて珍しい。
唇に宛てがった俺の右手に震えがはしった。
俺は急いで階段を駆け上がり、俺の部屋の前を通り過ぎた彼女に尋ねた。
「あの、誰かと同棲してるんですか」
「うん? してないけど」
彼女は首を傾げた。
「じゃ、じゃあ、もしかして昨日は誰か泊めたんですか」
「ううん、どうして?」
俺は静謐な部屋の真っ只中で考えていた。
ドスン、バタン、ブン。
じゃあ、こいつはいったい誰なのだろうか。
明らかに隣から聞こえてくる。しかし、彼女が一人暮らしなら、こいつは存在しない人間だ。だって、あの後、彼女が昼ごろ会社に出勤するのを俺はちゃんと見た。それ以降、隣の扉が開いた物音はしない。どれだけ気を遣ったとしても、腐食した金属製の扉から音を漏れさせずに開口するなんて不可能なはずだ。
「ああああ……ああ」
酷くなってる。この前まで喘ぎ声なんてなかったのに。
先のことを考えると絶望した。一年後も二年後もない。明日、俺が全身血だらけで滅多刺しになる未来しか思い浮かばない。
それでも、今は耐えるしかない。本当に滅多刺しになりたくないなら黙って耳を塞いでいないといけない。胎児のように毛布に包まって、俺は音が止む二時間ばかりを凌いだ。
そのまま幾日が過ぎて、俺はある一つの選択を取っていた。毎日のように繰り返される騒音の中、俺はある一定の時刻に部屋から出ることにした。午後三時から午後五時まで、絶対に家に帰らない。何故かは知らないが、その時間帯以外は忽然と物音が止むのだ。まるで、全てが幻聴だったというように。
この日も俺は友人との海沿いのドライブを決め込んで、室内はがらんどうになる予定だ。
夕暮れが迫るころに俺の目が覚めた。
――即座に布団から飛び起きた。俺は自分が寝入っていたことに気がついた。携帯を開けば、友人からのメールと着信が、数件ずつ入っていた。時刻は午後四時を越えていた。
しかし、俺の部屋にあるテレビの音がはっきりと聞こえていた。いつもなら、この時間帯に点けたとしても、隣からの不快な雑音が邪魔をするというのに。
もしかして、当の昔に架空の隣人は過ぎ去ったかもしれない。幽霊の類のことなど知りはしないが、さすがに飽きたのだろうか。
俺は一人で安堵の息をついて、綿が平面化した布団の上で座りなおした。やっと落ち着ける。一時は大家に相談しようかと思ったが、報復を考えると実行には移せなかった。正しいことが正しいとは言えない。それに包丁や鋏を持ち出す人間がどうして説得で了承するのだろうか。それより、自分の命を重視するほうが大切だ。
引っ越し資金が貯まるまで、しばらく友人宅に泊まるという計画案もあったが、これで破棄することができそうだ。
部屋の光度が時間帯のわりに、一段と低くなっているような気がした。視線を窓に移すと、窓ガラスの向こうでは細く糸を引くような雨が降り出した。ベランダの手摺りの赤が暗紅色に変わる。
そして、突然の稲光。細雨が豪雨に転ずる。重い雫が窓に叩きつけられる。ひんやりとした空気が俺の肌を舐める。
明かりを点けていなかった室内は暗かったのだが、電気を点ける気にはなれなかった。疲れ果てた思考は明るみよりも、暗がりでじっとしているのを望んでいた。
湿気を吸っている布団の上が、なんとも心地よいものか。
このまま一眠りしてしまおう。
意識が泥沼の深みに入り、ずぶずぶと飲み込んでいく。奥深く、奥深く、ただ瞼の裏が織り成す暗闇と溶け合う。
――砂嵐が聞こえていた。二十型のテレビ画面はネズミ色に塗られ、人気がまったくしなかった。
外からは肺腑に響くような轟き音がしている。幾たびとなく、まばゆい閃光が迸しる。部屋が白黒に明滅する。上下が組み合わさった箪笥や楕円形のガラステーブルに、今まで存在しなかった影が刹那に浮き出る。
「あ〜すっごい……眠った、か?」
俺は欠伸をしながら携帯に手を伸ばす。友人への詫びがまだだった、ということと、時刻を確認したかった。深夜の、しかも曇天の空では、壁の掛け時計など見えるはずもない。
深夜三時、電話するほど馬鹿じゃない。メールの本文を、うつろな頭で構成する。でも、なかなか納得がいくような、文章な思いつかない。
俺は顎先に携帯の液晶画面を当てて窓を眺め入り、救いのアイディアを求める。
――稲光。
一度、二度、立て続けの短い閃光。
窓のすぐ側で人影。
薄いカーテン越しに何かがいた。
俺は何もできなかった。口元を手で覆って窓を見ていた。
「……どこぉ……どこぉぉおおおにいるうううう」
俺の瞳から涙が零れ落ちていた。不吉なシルエットが微細に揺れている。
そいつは窓を開けようとする素振りを見せる。俺のこめかみから汗が伝う。四階だから鍵を閉めたかどうかわからない。
ガタン、ガタガタ。
窓はレールの上を滑らなかった。鍵は閉まっていなかったようだ。
しかし、奴はウロウロして、その場から離れなかった。
「どこ……に、い……る。どこ、に」
俺はあまりのことに額に手を当てて泣き嗤ってしまいそうだった。俺を探しているのか。
「どこ……どこにいる」
俺の意識に呼応しているかのように、やつの声が明瞭になる。
俺は腰を抜かしていたが、布団の上を這うようにして動きだした。ゆっくりと膝を交互に入れ替えて進み、部屋の障子を開ける。
玄関まではすぐそこだ。
そうだ。ここに居ること自体が危ない。
逃げ切れるはずだ。逃げなければ。
奴の声が遠ざかる。奴は気づいていない。
そして、俺は玄関の扉を開ける。豪奢な雨音が鳴り響き、廊下を埋め尽くしていた。幸いなことに、扉の開閉音もこれでごまかせる。
俺は念のために左右を隈なく見据える。誰もいない。
靴を履いている暇はなく、俺は素足の状態だった。
五メートルほど離れた場所に、各階を繋ぐ階段がある。中央付近にはエレベーターがあるが、待ち時間を考えると絶対に行動には移せない。
それに、もし奴が俺の部屋から出てくれば俺に逃げ場はなくなる。
階段の手すりに震える手を置いて、下へ、下へと潜る。
素早くかつ息を殺して歩いていると、誰かの気配がした。他の住人か。
――ヒタヒタという音がする。裸足だ。追ってきてる。追ってきてるのだ。
「うぉぉぉおおおおおおお」
俺の声じゃない。俺には声も出せないんだ。ばれているのだ。ひたすら、俺は階段を降りるが、踊り場付近では――
ビターン!! という音が響いている。雄叫びがさらに響く。肌にべったり張り付いてくる。俺の耳朶を打った声量は、距離によって音量が削り取られるような形跡はなかった。俺の足音を超える、裸足の足音が迫ってる。
ビターン!!
早い、早すぎる。追いつかれる。
俺の足がもつれた。俺は階段から転げ落ちる。すぐさま起き上がってみせるが、頭部を抑えた掌が血に染まっていた。そして、上の階段から、ぬぅとした人影。俺は咄嗟に頭を両手で覆って背中を向けた。
「あんた、何してんの? 大丈夫かい」
随分と聞き覚えのある声だった。俺は恐る恐る頭を守っていた腕を下げる。現れたのは管理人のおばさんだった。
そして、俺はやっと額をつぅーと流れる液体の感触を知った。
怪我の状態は大したことはなかった。深夜ということもあって、病院に直行するより、管理人さんの部屋で止血をしてもらった。
「これで、いいかねぇ。でも、今日の朝には一応病院に行くんだよ。後でぽっくり逝かれてもかなわん」
管理人のおばさんがにやっと笑う。俺はいい気がしなかったが、応急処置をしてもらった手前、文句は言えなかった。
「は……い。ありがとうございます」
額より上に、ガーゼの白い複雑な繊維の質感があった。俺は手を下ろしてガーゼを目視してみたのだが、すでに血は赤からどす黒いものに変わっていた。顔の汚れを拭き取った白いタオルには、暗紅色がまばらに染め上げている。
「しっかし、最近はおかしなことが続くねぇ」
おばさんが皮肉るような嗤いを浮かべて、如何にもさっさと聞けみたいな視線を送ってくる。俺は好奇心の欠片も存在しなかったのにも関わらず、ため息とともに、はあ、という言葉を乗せた。
「ほら、一ヶ月前にあったでしょ……あっそういや、あんたは大学の合宿だなんだで、ここにいなかったんだっけ」
「何の話ですか」
何故だか、それが俺にとってまるで無関係な風塵の類の世間話とは思えなかった。
「いや、あんたの上の住人さん、全身を刃物で切りつけて、燃身自殺したのよ」
俺にはおばさんが言っている内容が、うまく頭に入ってこなかった。ただ、直感的に恐れみたいなものが、俺の中で渦巻いた。
「それから、出るらしのよ」
俺の瞳は潤んでいた。
「――裸足で奇声を発する幽霊が」
見慣れた台所を見て、俺はこんなもんだったかと首を傾げる。調理らしい調理はやってなかったから、油汚れなどでガスレンジが綺麗に整然としているのは記憶通りだったのだが、スケールはだいぶ小さく感じた。
「あ〜喉が渇いた〜」
だるそうな口ぶりは、俺ではなかった。
友人が勝手に灰色の冷蔵庫を開けて、缶ジュースを手にしていた。
「乾燥してるからかな、つーか、部屋埃っぽくない?」
斜めにしたコーラの缶を喉に流し込みながら、友人は満足そうに、炭酸飲料特有の刺激に息をついていた。
「仕方ないだろ。ずっと留守にしてたんだから」
俺は額にじっとり汗を浮かべて、室内を忙しなく見回す。頭にあった傷は四針も縫ったが、もう塞がった。しかし、この家にそのことは報告していない。俺はあの日から実に四週間もの間、友人の家に泊まっていた。
しかし、自宅ではないというのはなかなかに不便だった。もちろん、友人はいい奴ではあるのだが、お世辞にも綺麗好きとはいえず、部屋は散らかり放題で、真夜中にビールの空き缶や缶詰から、カサカサッというゴキブリの這いずり音が聞こえてきて、眠るどころではない。趣味や趣向が同じ人間など滅多にいないので、色々と気を遣うだって多い。
それに、仮にまた友人宅に泊まるとしても、洋服を取りにこなければいけない。当初は帰りたくない一心で、友人にすがるように頼み込んで服を借りていたのだが、あの時の熱意が過ぎ去った今では申し訳なさのほうが打ち勝っている。
「っで、俺はどうすりゃいいの? その幽霊が出るまで待ってりゃあいいのか。それとも、俺が泊まるか」
心配している様子はあるのだが、どこか余裕があるような素振りもあった。どうにも俺が喋った話を真に受けていない感じがあった。俺は苛立たしげに舌先で奥歯の上部を舐めながら、友人を見つめた。しかし、俺には友人の選択を突っぱられるほどの勇気はなかった。
「今日だけ、泊まってくれ」
それを聞いた友人はげらげら笑いながら了承した。俺はその様子に思わず呻いてしまった。少し、というかだいぶ悔しい気持ちだが、その笑顔が俺の気分を晴れやかにした。
四週間という時間の経過が恐怖を薄れさせ、なにより友人という精神安定剤が俺を支えていた。
包丁と鋏を手にして、異形に成り果てた人間がそこに立っていた。奴が持っている銀光りする刃物には、付着した血液が重力に従い床板にポタポタ垂れていた。
そいつのすぐ側で、友人は壁にもたれ掛かりながら、ゆっくりとずり落ち、尻餅をつく。友人の瞳はあらぬ方向を向き、腹部は真横一文字に切り裂かれ、ピンクの腸が外気に触れていた。おびただしい血液と、血生臭さに、暗い室内は覆われていた。
俺は絶対零度の寒さに凍えていた。全身に脂汗をかいているのに、震えが止まらない。友人が目の前で殺されたのに、復習するという気概は遥か遠く、俺はむせび泣いていた。
奴が、一歩、一歩、俺に近づく。裸足の足先は灰色の色合いで、爪がいくつも存在しなかった。衣服は白のロングスカートで、顔だけが黒くぼやけたように見えない。そうして奴は友人の腹をかっさばいた凶器を俺に振り上げる。
「――あああ!!」
叫び声を上げたとき、空間が切り替わった。
突拍子もなくに。
だが、そこで俺は今まで自分が目を閉じていたことに気づく。
何度か深呼吸が必要だった。
恐怖の感触が今だに残っている。本当に自分に辟易する。いったい、なんで、わざわざ怖い夢を見たりするのだろうか。
俺は顔を掌で覆った。視界を塞いでいるとだいぶ気分が落ち着いた。
それから、一つの水音に気づいた。ポタポタ雫が垂れ落ちる音。
俺は不意に友人を探していた。暗闇ではあったが、側で布団を敷いて寝ている友人の存在くらいはわかる。
――どこにもいない。
必死に手でまさぐってみるのだが、友人が残した温もりがあっただけだ。俺の手首の血管が氷の飛沫を紛れ込ませて、冷たさと鋭い痛みを発症させた。
俺は動きたくなかった。だが、動いていた。立ち上がり台所へ向かう。俺の意思じゃない。なのに、水音がする場所に向かっている。
分け隔つ障子を開けて、真っ暗な台所を探る。人気といえば俺の吐息くらいだった。友人や奴がそこにいる気配はない。
すっかり瞳が漆黒に慣れてから見えたものは、何の惨劇も起きてない台所だった。 でも、だとしたら――
玄関のドアノブがゆっくりと捻られ短く軋んだ。金属製の扉が隙間を拡げるごとに、爪で窓を引っかくような音がしていた。
俺はとっさに台所にあった包丁を手に取っていた。
パチッと電気が点けられた。
「うぉっ、お前なにやってんの」
俺は頭をかきむしりながら、波線を描くような単音を発した。説明する気力がない。
「ははん、もしかして、俺が例の奴とか思ってびびっちゃったんだろ」
当て推量気味ではあったが、、友人は説明などしなくとも理解してくれたようだ。面白おかしいしそうなのは腹が立つが。
「どうとでも言えよ、もう〜」
俺は諦めの声をだした。でも、どこかほっとして自分が友人に甘えているということだけは感じた。
「ププッ、幽霊なんているわけないでしょ、まったく。俺はコンビニに行ってただけさ。小腹が空いて冷蔵庫を開けたら、賞味期限切れが多くてロクなのがなかったんだよね。でも、朝食の分も買ってきてるから勘弁してくれ」
そう言って友人は次々とビニール袋から食料品と雑誌を取り出した。
「あっあれ? プリンアラモードがない!! 買うの忘れてた。俺あれないと駄目なんだよ。デザートは絶対あれじゃないと」
「どんなこだわりだよ」
友人は俺に苦笑いしながら、買ってくるわ、と言って再び出て行ってしまった。冷静になれば、俺も腹が減っていた。別に友人が買ってきたもので満たせるといえば満たせるのだが、ビニール袋には入っていなかったフライドチキンが食べたくなっていた。
俺は携帯で友人に電話をかけた。ここからコンビニまで五分ほどばかりかかる。今からでも充分間に合うはずだ。
近くから聞き覚えのあるメロディが鳴った。その一角――テーブル――に俺が目をやると携帯と財布をもれなく一緒に発見してしまった。
「あの馬鹿……」
俺はうんざりとしながら椅子に座る。衣服が粘着質に体へ張り付いてくる。
そういえば、そうとう寝汗をかいてたんだっけ。
上着を脱ぐと開放感に満たされた。季節の特色として肌寒い空気が肌を襲う。このまま服を変えるだけでもいいが、やっぱりこの不快な皮膚の感触は洗い流したい。
軽くシャワーを浴びることに抵抗はない。ただ俺は玄関の扉をじっと見つめていた。
……鍵は閉めないでおくことにした。
どうせ友人がすぐに引き返してくることになるだろうから。
シャワーの温度は熱めにした。疲れた意識に温かみがいやに溶け込んでくる。この家でリラックスしたのはどれくらい振りだろうか。
温水のスコールを止めて体を洗っているとき、ふと、耳に忍び込んでくる開閉音があった。いつも通りの重々しく老朽化した金属の音だ。
あいつにしては引き返してくるの、わりと速かったな。今頃だったら、てっきりレジで慌てふためいて、うえーんとか言ってるかなと思ってたけど。
扉の向こうで辺りをウロウロする物音がする。目当てのものが視界に入ってないようだ。
目の前の携帯と財布も見つけられんのか。
俺は声を強めに張り上げた。
「携帯と財布、台所のテーブルの上にあるからー!」
返事がしない。
それどころか、俺の声を聞いて動いた気配すらない。
わずかな沈黙が俺の思考に狂気を巡らせた。
突然だった。
ドスン!! ドスンドスン!
そいつは大股で跳びはねるようにして、床を踏み鳴らして近づいてきた。俺は急いで鍵を閉めた。しかし、奴が風呂場の前にきたとき、全てが嘘だったかのように静かになった。
俺は鍵を閉めたというのにドアノブを握ったままだ。
それから鋭い刺突音がした。扉は木製であったのだが、無理やりに内部を剥ぎ取られていくような音が聞こえる。
瞬間的に俺が扉から飛び退いたのは正解だった。小さな三角形の切っ先がぷつっと飛び出してきた。俺は後ろの壁に出来る限り擦り寄った。
突破口を見つけて気を急いたのか、勢い任せに刃物で叩きつける音。包丁と鋏を交互にぶっ刺すタイミングすら噛み合っていないようで、トライアングルのような金属音を発していた。
突貫で最初に作りあげた縦長な線が、徐々に幅を持つようになる。奴もそこだけを一点集中して、二つの凶器を振り下ろしていりようだ。
人差し指大の穴が空いた。すると、突然、音が鳴り止んだ。だが、奴が遠くにいるような物音はしなかった。
通り穴は玄関についているような覗き穴ではない。つまり、お互いの瞳が合わさってしまうものだった。だが、俺からは何も見えない。ただ真っ黒なものがさらさら揺れているような気がしただけだ。
「キャハハハハハ!!」
肺腑をえぐるような嗤い声がして、再び凶器で扉を滅多打ちにする。奴の息が荒い。それなのに破壊速度が上昇している。疲れているのではない、興奮しているのだ。
俺は風呂場の小さな窓に手をかけた。ここから逃げなければ。
四階だが何とか胴体と頭を守れば死なずに済むのではないだろうか。いや、仮に死ぬとしても、飛び降りよう。
俺が覚悟を持って窓を叩き割ろうとしたときだった。
ドンドンドン!!
扉を強く叩く音があった。損壊しはじめた木製の扉を破壊していた奴の動きが止まった。ノックしているのは奴の仕業ではない。明らかに玄関のほうだった。
奴は沈黙を守ったが、再び誰かがノックすると辺りのものを跳ね飛ばして窓から飛び去るような物音がした。
俺はしばらく風呂場を眺めていた。それからノックがまだしていることに気づき、風呂場からおっかなびっくりに顔を覗かせる。室内には誰もいないようだった。シャツとズボンを履いて、俺はいまだ見えぬ誰それに感謝していた。
きっと友人ではない。もし、そうだったら勝手に入ってきている。恐らく不審音を聞きつけた隣人が駆けつけてきたのだろう。俺は強張った顔のまま玄関の扉を開ける。
「すみません。ありがとうございます……」
「見つ……けた。ここに……」
全身に皮膚がない男がそこに立っていた。 表面が赤黒くて変色して、肉の焦げた匂いが立ち込めていた。歩く人体模型のような人間もどきだった。
剥き出しの体とは対照的な白い歯から深々と息が零れる。黒く炭化した衣服を纏い、裸足の足でよたよた歩いたそいつは、俺に両腕を伸ばした。
俺は呆然としていたが、捕まれた瞬間あの独自の皮膚の感触がして、その手を払いのける。粘りつく体液が俺の手に残っていた。
奴は体勢を崩したものの、その意志までは削り取れなかった。のっそりと俺の方を向き、ぶつぶつ呟きながら俺に近づいてくる。
「おわあああああ!」
俺の中で何かが意志を決断させた。俺は目つきを鋭くして雄叫びを上げた。繰り出したのは初速から勢いのある体当たりだ。
わけがわからなかった。ぐしょりと濡れた感触とともに、肩口から何かが弾け飛ぶ衝撃。
吹き飛ばした。そう思ったのにまた奴と体が接触した。胸ほどの高さの縁と俺に挟まれる奴がいる。喉元でむせ返りながらも奴が俺に抱きつこうとした。
気づいたとき俺は両腕で奴の下半身を抱え上げた。重さなど微塵も感じない。興奮して荒ぶる感情を抑えるほうが難しかった。
俺はそのままの勢いで奴の下半身を救い上げながら、四階から一階の真下まで投げ落とした。
空虚な空間に浮かび上がった奴の詳細は、遮蔽物が消し去った。
俺は悲鳴のようなものを聞きながら、息を切らしていた。自分が何をやったのかさえ理解するのが困難な状態だった。動悸が激しい。俺は舌先で渇いた唇を舐める。
それでも、結果を見なければ。自分が果たしたこての、結果を。
弱り果てた足腰に鞭打って、俺は縁に手をかけて真下を見下ろす。
皮膚を持たない奇怪な容姿の奴は、手足をあらぬ方向に捩じ曲げたオブジェとなり、事切れているようだった。そして、奴はうっすらと自らの体を透明にしたかと思えば、光の粒子を空高くに舞い上げた。
階段から俺の名前を呼ぶ声があった。その声を聞いて俺は、ほっとするというか、疲れを呼び起こされる感覚のほうが強いことを感じ取っていた。
「おい、どうした。なんか、すっごい騒いでる声がしたけど」
肩で息をしながら友人が姿を現した。俺は友人の態度よりも、何も持っていない手だけをじっと確認していた。
「いや、心配するな。もう全て終わったから」
怪訝そうな友人を尻目に俺は先ほどまで奴がいた場所を見つめていた。光に浄化された場所は、暗闇があるだけだった。
清々しい気持ちで俺はベランダに出ていた。
片手にビール缶を持って、赤い手摺りに両脇を乗せて、陽が沈む前の彩りを楽しんでいた。俺の真上はコバルトブルーで、それから暖色の黄色、燃え盛る紅が互いの領域が混ざり合い、やがて宇宙の漆黒が忍びよる。アルコールの香りとともに、喉を焼き尽くす炭酸の刺激、そして体も汗ばんできていて、何とも言えない気分になる。
命も取られなくて、引っ越しもしなくて済んだ。
だが、ハッピーエンドではない。
俺はすでに恐怖が刷り込まれている。プラスになったわけではない、死というマイナスが付き纏ってくる。勘違いをしてはいけない。多額の負債が少額になっただけで、負債をしていることに変わりない。正直言って、今はまだうまく笑えない。
でも、もしかしたら、そんな過去がいつか未来で笑い話になれる日がくるかもしれない。
そう、包丁を見ながら友人に……
――包丁?
そういえば、俺が突き飛ばした奴は何も手にしてなかった。いや、その前に、あの時奴は風呂場前にいたじゃないか。それなのに玄関の扉をノックされたのだ。
俺はビールを落としかけたが、思いだしたかのように口をつける。大量に口に含んだはずだが、水を飲んでいるようだった。
隣のベランダで縄が軋む音がした。ブランコでも漕いでいるように、一定の拍子で何かが動いているようだ。確か隣は女性一人なのだが、今の時間帯はもっぱら留守にしているはずだが。
俺は気になって柵から身を乗り出した。
隣の物干し竿に、洗濯物ではないものが掛けられていた。中央部分に一本の縄が垂れ下がり、女性の首に巻き付いていた。俺は持っていたビールを下に落っことした。
女性は自殺ではなかった。縄が風で軋むたびに彼女の体が回転して、背中、胸元を問わず、全身を刃物で滅多刺しにされた傷跡がそう主張していた。そして、血の斑点をつけたシャツの裾から、だらりと垂れ下がった桜色の腸がはみ出ていた。
不意にぽたぽたと雫が落ちてきた。俺は掌の液体を見る。それは、まるで血のような真っ赤であった。
俺は見たいなどと思ってもいないのに、ゆっくりと顔を上げる。
俺が見ていたのは屋上の鉄柵。それに、禍々しい人型。
そいつの顔は真っ黒な髪の毛で覆われ、体は俺を向いていた。
しかし、首が百八十度回転していて、顔と後頭部が反転していた。その手にはしっかりと包丁と鋏が握れていた。後頭部が発作的に震えた。
そいつは屋上から降ってくる。
やっぱり処女ジャンルはきつい。ところで、小学校の近くに、標語?の看板があったんだけどさあ、『忘れるな イカのおすしを守ろうよ』って書いてあるんだけど、どういう意味?(笑)気になって仕方ない!!