59:あいきゃんふらーい
階段に投げ出される、絶望的な浮遊感。
一秒が一分にもなる、不思議な感覚だった。
一緒に押し出された車椅子から体が投げ出され、体が無防備に宙を舞う。
そして
バキィ――という破壊音の直後、強い力が私を攫った。
墜落の衝撃を身構えていた体は逞しい腕に抱えられて、着地をきめた。
「今度からは、もっと早く名を呼んでくれ」
私を横抱きにしたバウディが、安堵の溜め息とともに私の肩に額を乗せる。
ドキドキという激しい鼓動は、私のものなのか、彼のものなのかわからない。
「ぜ、善処します」
ショックに震える両手を握りしめて胸に押しつけ、なんでもない顔で言ったのに声が震えてしまった。
「どうしたんだっ! ミュール嬢、大丈夫かっ!」
大きな声に驚いて階段の上を見上げれば、階段を二段ほど降りた場所で倒れているミュール様をシーランド・サーシェルが抱き起こしていた。
「レイミさんが……っ、突然、わたしのうしろから、車椅子でっ。驚いて転んだら、彼女が落ちてしまってっ。ああっ、わたしっ、なんてことをっ! 私が転ばなければ、彼女は無事だったのに……っ」
綺麗に説明してから顔を覆って泣く彼女に、ヤツが荒々しい形相で私を睨む。
「君はちっとも悪くないじゃないか! 悪いのはレイミ嬢だ!」
いやいや、今の会話で私が悪いって、どういう理屈よ。
「いや、シーランド、きみ、もうちょっと冷静に――」
「私は冷静だっ! レイミ嬢の非道さを、一番知っているのは私だから、誰よりもミュール嬢の正しさを理解している。口を挟まないでくれ」
一緒に行動していたらしい男子生徒の言葉を制しキリッと言い放ったヤツに、男子生徒も困惑しているが、当然だろうな。
「シーランド先輩……」
ヤツの腕に抱きしめられていたミュール様が、ポゥッとした顔で彼を見上げている。
そして、彼女を見つめるヤツ。
勝手にやってれば?
もしかすると、なにごともなく今日という日を越せるかと思ったけれど、やっぱり駄目だったという失望感がギリギリと胸を苛む。
ごめんねレイミ、やっぱり貴族として生きることは無理みたいだわ。
「バウディ、このまま帰りましょう。起こしてもらえるかしら?」
彼の手を借りて、よっこいしょっと立ち上がる。
まだ魔力が戻らないけれど、バウディが側にいる心強さに、もう恐怖はなかった。
これで学校を出てしまえば、面倒とはおさらばよ!
バウディが拾ってくれた杖を受け取り、周囲を見る余裕ができてちょっと驚いた。いつの間にか、生徒達が集まっている。
そうか、早めに講堂へ移動したのが裏目に出たのか。
「お嬢……空気がおかしい。それに、生徒達の様子も」
バウディに耳打ちされてしっかりと周囲を見れば、私への非難の視線が多いのがわかる。
一部の生徒たちがミュール様を擁護し、私を非難する発言をしているのだ。
私に掛けられた中和魔法のせいなのか、空気の変化はわからないが。これは、教室と同じ感じがする。
「レイミ・コングレード! 君の極悪非道な所業はすべて聞いている! 君への情けで婚約していたが、もう我慢ならん! 婚約は解消し、今後一切の援助を断る!」
階段の中程でシーランド・サーシェルがミュール様の肩を抱いたまま、私に向けて人差し指を突きつけた。
お前が、学校では婚約者だということを伏せろと言っておきながら、どうして自分で暴露するのかな? それに、治療費は負担してもらったが、援助なんてしてもらったことなんてないのに、ヌケヌケと……!
腹の奥から、怒りが沸々とわきあがる。
「お嬢、乗るな」
バウディが小声で注意してくるが、聞けないな。
「バウディ、邪魔ぁしてくれるなよ、これは、あたしの戦いだ。手ぇ出したら、嫌いになるからな?」
怒りに引き連れた口の端が、笑みの形に上がる。
バチバチと小さな静電気のようなものが私の周りで爆ぜ、魔力が勢いよく体を巡りだした。
血の巡りもよくなったのか、先程ミュール様に平手打ちされて切れた口の端から血が流れる。
親指で血を拭い、口にたまっていた血をペッと吐き出す。
到底、貴族の令嬢がするような所作ではない。
全身に強化魔法を掛けて、右手で持った杖で肩を叩きながら、ゆっくりと階段を登っていく私に、非難をささやいていた生徒たちも気圧されて口を閉ざす。
敢えて、二人よりも高い位置まで階段をあがり、二段高い位置から斜め下に向けて見下ろして口を開いた。
「なぁお前、なんて言ったよ?」
久しぶりに出す……いや、レイミの体でははじめて出す、ドスの利いた声にヤツの顔が引きつる。
「そ、それが、本性かっ――ぐっ」
ヤツの首に、手にしていた杖のグリップを引っかける。
「誰が、勝手に喋っていいって言ったよ? なぁ、くそガキ。おい、くそアマ、てめぇ、あたしの顔を殴るなんて、洒落たことして、生きて帰れると思ってんのか?」
シーランドを睨めつけていた視線をゆらりと彼女に向ければ、目に見えて顔を引きつらせる。
「ひっ! あ、あなた、もしかして、転生――」
真っ青になった彼女だが、シーランドの腕が邪魔で逃げ出せないでいる。
口の端に垂れた血を舐め、にぃっと……若かりし頃、姫夜叉の二つ名をつけられていた笑みを浮かべる。
昔取った杵柄を、まだ私は忘れていなかったらしい。体に、いや魂に染みついてんだな。
「なぁにわけのわからねぇこと言ってんの? 頭の緩いお嬢ちゃん、もう一回生まれ変わったら、少しはマシになるかしら、ね? ほら、しっかり強化しなよ?」
左の拳でシーランドの顔面を殴ってその緩んだ腕から、小動物のように震えるミュール様を引き剥がし、邪魔なヤツを階段下に蹴り落とす。
か弱い私に攻撃されるなんて思ってもいなかっただろうに、騎士を目指しているだけあって、ちゃんと強化して落ちていった。
この世界の人間は、本当に便利な体をしているよ。
うしろに控えていたバウディに杖を強引に押しつけて、左手でミュール様の襟首を掴んだまま、程ほどに強化した右手でふっくらした彼女の頬を往復ビンタした。
「倍返しじゃないだけ、ありがたいと思ってほしいもんだわ」
ミュール様の身体強化はまだまだへなちょこなので、抵抗らしい抵抗もなく、小気味よい音がパァンパァンと頬で鳴る。
戦意喪失した彼女を掴んだまま階段をあがり、柱の陰に隠れているアーリエラ様の所へまっすぐに進んだ。
気づいてないとでも思ってたんだろうか? 柱の陰から両手をこっちに突き出して、あからさまに『なにか』やっておきながら。
「あ、あのっ、わたくしはっ」
身を縮ませて壁に張り付く彼女の顔の横に、ゴンッと拳を突く。
少々壁がへこんでしまったが、ご愛敬だろう。
「ひぃぃっ!」
気を失いそうな顔をしてるけど、この程度で寝られるわけにはいかないのよね。
周囲の生徒達が逃げるように距離を取る中、茫然自失のミュール様の襟首を掴んだままでアーリエラ様の顔に顔を寄せる。
「アーリエラ様、精神魔法、習得しちゃったんだ?」
内緒話をするようにささやいた私に、涙目の彼女は小さく頷いた。
「どうやって?」
「ミュ、ミュール様が、ファンディスクで、どうやってアーリエラが精神魔法を習得したか知っていらしたので……っ。禁書庫の奥に隠されていた、魔導書を探し出してっ」
あーぁ、という溜め息が出る。
「あんたさぁ、自分が、破滅の道にまっしぐらなの、気づいてないの?」
私の呆れ声に、大袈裟なほどビクッと体をすくめた彼女は、本当に気づいてないのかも知れない。それとも、敢えて考えないようにしていたのか。
どうして禁じられた書庫に『隠されて』いるのか。そんなことも考えずに、ゲームの知識ってやつを使いたくて、手を出したのか?
だとしたら、愚かすぎる。
「――気が削がれたわ。あたしは、ここで退場する。あんた達は、自分の頭で、この世界でどうやって生きるか、ちゃんと考えてみな」
思わず出てしまった老婆心からの言葉だけど、この子たちはちゃんと理解できるだろうか。
ミュール様を掴んでいた手を離し、アーリエラ様に背を向ける。
数歩離れたうしろに立つ、私の意見を聞き入れて手を出さずにいてくれた彼を見上げて微笑む。
「バウディ、退場しましょうか」
「仰せのままに、我が姫」
彼の捧げ持っていた杖を受け取り、堂々と大階段を降りる。
階段の下のホールには粉々になった車椅子の残骸と、生徒会の面々が立っていた。
シーランド・サーシェルは、生徒会執行部の風紀を担当する面々に押さえつけられている。
脳筋馬鹿だけど、さすがに四人がかりだと勝てないみたいね。
「レイミ嬢」
生徒会長であるカレンド先輩が声を掛けてくる、うしろには第二王子殿下と会計のベルイド様が立っているが、それぞれの表情は険しいものだった。
「お騒がせいたしまして、申し訳ありません。この度の責は私にあります、償いといたしまして、除籍処分を受け入れる用意があります。このような形で陳謝の意を表すこと、お許しください」
三人を前に淑女の礼をする私に、彼は首を横に振った。
「レイミ嬢、そう急いてはいけない。とりあえず今日のところはゆっくり休んで、体をいたわってください。学校としての沙汰は、今回の件の調査を行い、追ってご連絡さしあげることになると思いますが、ともかく今はお帰りなさい、先生達が講堂で準備している間に」
学校としての沙汰をあとでくれるというが、これだけ騒がせたのだから、退学となるのは間違いないだろう。
いっそ、先生が居てくれたほうが、手っ取り早く済んだのに、と思わなくもない。
除籍とならなくても、私はもうこの学校に通うことはないのだから。
「カレンド先輩、今までのご厚誼、本当にありがとうございました。皆様もどうぞご健勝で」
だんだん腫れてきた頬のせいで喋りにくいけれどもなんとか最後まで言い切って、バウディをお供に魔法学校をあとにした。





