56.5:密談
――やってしまった。叩いてしまった。そんなつもりはなかったのに、レイミ・コングレードが俺に酷いことを言うから。咄嗟に。当たってなんかいなかった。わずかな手応えだった。だけど、吹っ飛んだ。なぜだ。無意識に強化魔法を使ってしまったのか。訓練の成果か。ああどうしよう、母上の耳に入ったら、また……。俺は無能じゃない。兄たちよりも優秀なんだ。なのにどうして、あんな女性を娶らなくては。俺は悪くない。馬が暴れたなら逃げるものなのに、あんなところで転ぶ人間が悪い。俺は必死に馬を操っていたのに――
衆人の非難の視線に晒されて立ち尽くしていたシーランド・サーシェルは、腕が不意に引かれて驚いて見下ろした。
そこには愛くるしい顔を心配げに曇らせたミュール・ハーティが抱きついている。
「シーランド先輩っ。あんな人のこと、気にしちゃ駄目ですよ! だって、先輩はなにもおかしなこと言ってないもの! 貴族の女の子が義足をつけるなんておかしいでしょ? 介助もいらないくせに、あんな風に見た目のいい使用人をわざわざ迎えにこさせるのだって……どう考えても、あの二人、なにかあるっていってるようなものだもの!」
声高にシーランドを擁護する彼女に、彼は強ばっていた表情を崩した。
こんなに目のあるところなのに、義憤に駆られて自分を庇ってくれる彼女がキラキラと輝いて見える。
「ミュールは優しいな」
彼女の頬に掛かっていた柔らかな髪を指先ですくい耳に掛けると、くすぐったそうに彼女が笑う。
その笑顔に癒やされる。
いままでだってそうだ、つらい訓練も、理不尽な上下関係にうんざりした時も、何度も彼女の笑顔に癒やされてきた。
「うふふっ、先輩はやっぱり優しいねっ。あ、そうだ、先輩に相談があるんだけど……いまから、いい?」
うかがうように見上げてくる彼女に頷き、彼女に促されるまま校舎へと戻った。
はじめてきた校舎裏だが、ひらけていて人もなく、丁度校舎で日陰にもなっていて過ごしやすい場所だった。
そこに置いてあるベンチもちゃんと手入れをされていて、この場所に来る人間が少なからずいることを教えてくれる。
そのベンチに並んで座る。
彼女が座る前にハンカチを敷けたのは咄嗟の判断だったが、シーランドはそんな行動をした自分に内心驚いていた。
「ありがとう、先輩って、本当に騎士様だよね。カッコイイ」
蕩けるように笑う彼女に、胸が熱くなる。
彼女はなんの色眼鏡もなく自分を正当に評価してくれる、そして真っ正面から褒めてくれる。
彼女の裏表の無い正直さに、シーランドは深く癒やされていた。
「あのね、シーランド先輩」
ベンチに手をついて、こちらに身を乗り出して見上げてくる彼女に、盛大にドギマギする。
制服の襟元の緩み、上気した頬、よく熟れた果物のようにみずみずしい唇。
風向きの関係か、胸を焦がすような甘い香りが、深緑の匂いを消して鼻先をかすめる。
「先輩にお願いがあるの――」
聞かされたのは、レイミ・コングレードをこの魔法学校から追い出すための計画だった。
「彼女を、階段から……? いや、さすがにそれは」
「大丈夫っ! ちょっと落ちてもらうだけだから! それに、彼女が魔法学校を追い出されて、平民になっちゃえば……シーランド先輩、あの人をお嫁さんにしなくてもよくなる、よね?」
彼女の大きな瞳に見つめられ、胸が大きく鳴った。
――そうか、あの女を妻にする必要がなくなる、のか。
毒を含んだ甘い言葉に、虜になった自覚はあった。
レイミ・コングレードを廃してしまえば、ミュール・ハーティ嬢に思いを伝えることができるのだ。
甘い匂いを含むその甘言が、思考を奪う。
「そうだな。いい考えだと、俺も思う。是非、協力させてくれ」
「やったぁっ! 先輩だーい好きっ」
思わずといったように抱きついてくる彼女を抱きしめ返してから、彼女の勧めに従って今日は早く帰宅してきたるべき明日に備えて早く寝ることにした。
大きく手を振ってシーランド・サーシェルを見送ったミュールは、すっかり見えなくなってから三秒数えて手を下ろした。
シーランドが座っていた側の木立から、アーリエラ・ブレヒストが疲れた顔で出てくるのを見てミュールが吹き出す。
「ちょっとー、アーリエラ様ったら、こんなんするんだもん、笑い堪えるの大変だったんだよぉ」
ミュールが上体を前に倒し、両手を前に突き出して唇をとがらせて見せるのを見て、アーリエラは顔をしかめた。
「仕方がないでしょうっ、距離があったんですからっ」
「うふふっ。レイミにとられた、最高級の魔法の杖があったら楽勝なのにねー」
元々あまり魔法の才能の無いアーリエラを助けてくれるはずだった魔法の杖だったが、始業式の朝にへまをしてレイミ・コングレードに巻き上げられ、取り戻せずにいる。
親に報告していないので新調してもらうこともできずに、いまはなんとか入手できた似た形状の市販品を使っている。勿論、市販品の中ではグレードの高いものではあるが、威力の差は如何ともしがたい。
「でも、アーリエラ様の魔法って、どうしてセンサーに反応しないのかなぁ? やっぱり、ラスボス特権なの?」
「そのようなこと、わたくしにわかるはずがないでしょうっ。それよりも、もうよろしいかしら、家の馬車が待っておりますの」
用が済んだら早々に去ろうとするアーリエラの手首を掴んで、強引に隣に座らせる。
「そんなに急がなくてもいいじゃない。それにしても、面白いくらい簡単に掛かったわよね? もしかして、アーリエラ様の能力上がったんじゃない?」
ハンカチも敷かずに座ってしまい、気もそぞろのようすでお尻を動かしていたアーリエラは、彼女の言葉を聞くと表情を暗くして顔を逸らした。
「……どうかしら」
先程までいた生徒会室で、何度も精神魔法を使っていたのに、彼らの様子はなにも変わらなかったのだ。
シーランドにしたような遠方からの魔法ではなく、接触しての魔法だったのに。
接触しての精神魔法は取り巻きであるシエラーネとリンナ、そして他の数名の生徒には容易く掛かったのに。生徒会の三役である彼らには、何度やっても効いた気がしない。
それに、どうしてもそりの合わない生徒会長に至っては、すぐに逃げられてしまうから、一度だけしか試せなかった。それも、不発の上に、婚約者以外の男に軽々しく触れるとは公爵令嬢らしからぬ行動だと説教までされた。
本当は、生徒会になど近づきたくもないのに、ミュールの強い勧めに抗えずにいる。
何度か話をして、ミュールの方がゲームの内容に詳しく、細部まで覚えていたことが、いまの上下関係となっていた。
そして、この世界……いや貴族の世界の常識にあまりにミュールが疎いことで、他の人間には取れていたマウントも彼女にはまるで効果がなかった。
ミュールの指示で動くことによって、精神魔法を得られたというアドバンテージも大きいかもしれない。
「教室に掛けてくれてる、レイミへのヘイトを貯める魔法、地味~に効いてるわよ? わたしの魔法を完全に消しておかないと、すぐに消えちゃうくらい弱っちいけどねー。もう少し強くできない?」
「簡単に言いますけど、あれは魔法の構築もしなくてはならないから、大変なんですのよ」
むっとして言い返したアーリエラに、ミュールは肩をすくめる。
「まぁ、アーリエラ様の出番は本来、後期からだもんね。調子がでなくても当たり前なのかも知れないよね」
「そうですわ。わたくしの能力は、後期からこそ花開くのです」
自信満々に言い切るが、その根拠はどこにもない。
強いて言えば、ゲームではそういう流れだった、というくらいだ。
「だよねー、後期はアーリエラ様の天下だもんねー。アーリエラ様が天下を取るためにも、明日は頑張らなきゃね!」
「わかっておりますわ。わたくしは、あの場に精神魔法を重ね掛けしておきます。あなたも、しっかりと務めを果たしてくださいませよ」
「もっちろん! 階段落ち、楽しみにしててよね」
密談を終えた二人は、時間をずらして校舎裏をあとにした。
そこが、生徒会室の真下であることも知らずに。





