錬金材料学研究室のありあわせごはん
エリファス大学のやや東寄り、青々とした演習林に隣接したキャンパスの一角に、錬金材料学研究室はある。
室内は薬品の劣化を恐れて薄暗く、一年を通して一定の温度が保たれて涼しい。辺りに読みかけの論文や本、食べさしの菓子袋がちらばったソファの上で、女が足を広げ腹を掻いて寝ていた。
「オリハルコン、聖銀、メラルバ樹脂……、フラメール反応による第三層融合……」
むにゃりむにゃりと不明瞭な寝言を部屋にくゆらせているのは、れっきとしたこの錬金材料学研究室の主、ルルス・ラーズィー教授だ。三十路をいくつか越えたくらいの若い錬金術師であるが、すでにいくつかの論文を発表し、たびたび大論争の火付け役になっている才媛である。
とてもそうは見えない気持ちよさそうな寝顔に、背表紙が少し凹んだ鉱物事典が落とされた。
「へぶっ!」
「おはようございます、ラーズィー教授」
ぼとりと床に落ちた事典を拾いあげたのは、この研究室に所属する唯一の院生、マグヌス・ブラントだ。角ばった顔には何の温度もない切れ長の目が二つ並んでいる。
教授はその冷たい目線にも乱暴に起こされるのにも慣れきっているので、近くに転がっていたマンドラゴラチップスの袋を朝食代わりにと拾いあげた。咥えたそれはじゃっかん湿っており、へにょりと歯応えがない。
「相変わらず酷い起こし方だね。……むう、湿気ているな、これはダメだ」
当然だ、口を開けてから一晩経っている。生きのいいチップスならば噛むたびに叫び声をあげるのだが。彼女は仕方なくそれをゴミ箱に放った。
口を縛らぬまま投げられたそれは、当然、ゴミ箱に行くまでにゆるやかな放物線を描いて中身をまき散らし、そしてゴミ箱に届くこともなかった。
「外した」
「自分で片してくださいよ。アリが湧くでしょう」
「別に多少散らかっていても研究はできるだろう? 君は汚いと判断する基準がいささか低いのではないかね」
掃除するのはマグヌスである。彼はため息をついて用具箱から箒とちりとりを取り出した。
掃き掃除が終われば、研究室に備えつけられた小さなキッチンのシンクに溜まった洗い物に取りかかる。ビーカーの底で干からびた茶色い脂をこすりながら、彼は目下の心配事について尋ねた。答えは分かりきっていたが。
「そろそろ秋の学会の論文の提出期限ですが、研究の進捗は大丈夫なんですか」
「大丈夫さー、締め切りまであと三ヶ月もある」
「つい先ごろの春の学会ときも、去年の秋の学会のときも、締め切りに追われて徹夜されてましたよね。教授が寝食を惜しんで実験や執筆に励まれるのはいっこうにかまいませんが、僕を巻きこむのはやめていただけませんか。毎回、「次回はもっと早めに用意するー」と言っているのに改善の兆しがまったく見られないのですが」
自信満々に薄い胸を張る教授に、マグヌスは再びため息をついた。
前回と前々回だけでなく、マグヌスが錬金材料学研究室に来た五年前からの計十回、締め切り直前に作業を始めているのだ、この教授は。十回あって例外は一切ないのだ、十一回目も駄目だろう。
なぜこのだらしない人が錬金材料学の最先端なのだ。最近頭頂部の髪の毛が薄くなってきた気がする。鏡を見る限りまだふさふさだが、将来は未定という。家系図に唯一ハゲになった男などと刻まれては堪らない。
マグヌスは無駄だとわかっていても苦言を呈さずにはいられなかった。
「君はよくそんな昔のことまで覚えているね。私は昨日の夕飯も思い出せないよ」
「教授の昨晩の夕食はボアシチューです。シンクに汚れたビーカー、ゴミ箱にはボアシチューのレトルトパッケージが捨てられてましたから」
ぱちくりと少女のように目を瞬かせる教授に、マグヌスはさっき覗いたばかりのゴミ箱の中と洗ったばかりのビーカーから正解を教えてやる。
教授の明晰な脳みそが常に働いているなら、彼女はそろそろ十分な実験結果を手に入れて投稿論文の執筆を手掛けていてもおかしくないのだが、残念ながら原稿用紙はおろか実験記録のノートさえ白紙だとマグヌスは知っていた。
なぜなら、先の学会以降、今日まで洗ったビーカーやフラスコは自分で使ったものか、教授が飲食のために汚したものだけだからだ。
「マグヌス君は名探偵だな。ついでに目覚めのコーヒーを淹れてくれないか」
「はいはい」
この研究室にカップはない。あるのは実験器具だけだ。
マグヌスはちらりと棚を見やった。一昨日タールスライムが入っていたビーカーでいいだろう。ちゃんと洗ったので物理的には綺麗なビーカーだ。ちょっとした嫌がらせである。
教授はその程度のことではまったく堪えることはなさそうであるが、しないで済ませられるほどマグヌスは寛大な学生ではなかった。
パッケージに書いてあるとおり、ティースプーン三杯の粉にビーカーの目盛りまでのお湯をこぽこぽと注ぐ。指示通りの時間を待てばインスタントとはいえ豊かな苦みがふわりふわりと香りはじめる。
なにごとも説明書通りにやるのが一番おいしい作り方なのだ。
「そうそう、君の非金属から貴金属に変質するさいに必要な励起エネルギーに関する仮説を見たのだけれど、この実験なら、触媒はルルチ塩よりバルト石のほうがいい。確かにロゼットマイル鉱石が基材ならルルチ塩の方が相性がいいが、グミュアラン反応におけるゴアン体の発生を抑制した方が計測誤差の少ない結果が出ると思うよ。誰だっけ、なんか書いてた気がする」
「……、二年前のバラムスク大学の研究論文でしたっけ。教授、コーヒー入りましたよ」
「ありがとう。やはり君のコーヒーはうまいね。私だとこうはいかない」
できあがったコーヒーと引き換えに、今回マグヌスが扱う仮説とその検証実験の概要書に盛大に赤が入った紙の束が渡される。
コメントは的確で、ぐうの音もでない。
お気楽に手渡したコーヒーを嗜んでいる教授を横目に、マグヌスは自分の実験と執筆のスケジュールをすこし前倒しにした。一応、尊敬していないわけではないのだ。
◆
時はいともたやすく過ぎ去るが、そこに至るまでに為したもの為さなかったものの結果はおのずと現れる。
「ほらあ! だから言ったじゃないですか! 全然間に合わないじゃないですか! 僕まで論文を書き終わってなかったら、教授は絶対に論文落としてましたよね!」
「いやあ、すまないね! 君がいてくれて本当に助かるよ!」
数か月前のマグヌスの予想は大当たりだった。そのマグヌスは諦めをもって抽出実験を繰り返している。
メスを握る手は実に手慣れていて、今回のラーズィー教授の実験で使う素材の一つであるぺルぺエッダ蜥蜴の肉を切り分けて秤にのせれば、ぴたりと規定量だった。
続いてコウライ人参やギョク葱から抽出した高魔力濃度水を定められた濃度に希釈し、パルヴァ酸を少しずつ垂らして混ぜていく。一気に混ぜると温度が急激に上昇し、強マヌ反応を起こして爆発するのだ。序盤も序盤だが、時間に追われる今、一番忍耐が必要な作業である。
錬金鍋にユンダイナ砂漠の砂を薬匙にすりきり一杯、それに切り分けた蜥蜴の肉と粗熱をとった薬液を注ぎ魔力糖を加える。一定のスピードで撹拌していくと魔力が素材に馴染む。鍋に刻まれた魔法陣を発動させれば、黒い粘性物質が出来上がった。これで第一段階。マグヌスは額に浮いた汗を拭った。
これに妖精の涙とナー山脈の岩塩、それからポポッコリ菜の蕾を刻んだものをいれてさらに錬金。濁り酒のような白い液体になったら別の器に移して静置する。
「よし、昨日作り置きした分は……、うん、状態良好」
一晩経って分離した、上澄の透明な液体だけを抽出してシュリン鉱石を混ぜてまた錬金する。
すると白い砂に交じってわずかな赤い金属片――賢者の砂が出来上がる。炙って白い砂を蒸発させ、残った賢者の砂の重さを測って、精製効率を計算する。最後は賢者の砂の性能試験だ。こちらは教授に任せればよい。
今回のラーズィー教授が設計した実験の肝はみどりの蕾がもこもこと集まっている植物――ポポッコリ菜で、今まで賢者の砂の錬成において使われたことはない、新規素材だ。
今のところ順調に錬成できているが、従来の賢者の砂に比較した性能試験を最低でも百――欲を言えば二百は行いたい。
締め切りまであと四日。食料の備蓄はスライム食品があと七本。休憩する時間すら惜しいくらい、試行回数が足りていない。教授が加わっても、間に合うのだろうか。
ギリギリだな、とマグヌスはすでに二徹をのりこえぼやけ始めた思考の片隅で思った。
「何か……、何か食べないと……、しぬ……」
「クッソ、非常食が切れた……」
「仕方ない、君、ひとっ走り買い出しに行ってきてくれ」
「こんな夜中じゃどの店も閉まってますよ」
測っては混ぜ、メモっては錬金し。果たして、二日後、食糧がつきた。
魔力も糖分も効率的に摂取できるスライム食品は、軍需物資でもあるので大学の購買でしか売っていない。また、エリファス大学は辺鄙なところにあり、基本的に人間は昼間しかいないので、梟も寝静まるような真夜中では近所の食事処は軒並み閉まっている。
だが、食べなければ教授もマグヌスも魔力が底を尽きそうだった。
「だが抜くわけにもいくまい。脳がエサを求めている……、ああ、食材ならあるじゃないか!」
「……?」
「君の目は節穴かね!? ここに山とあるじゃないか!」
「たしかに、食べられますね」
ラーズィー教授が腕を広げ、血走った目で見つめたのは、ぺルぺエッダ蜥蜴の肉、コウライ人参、ギョク葱、それからポポッコリ菜だ。どれも魔力含有量が豊富で一般人では買えないほど高価だが、食べられる。試料庫を漁ればアグダ海藻とムンナ芋もあるだろう。
四徹に重度の空腹をキメていた二人には、実験用素材を食べるというのは名案に思えた。
「やるぞマグヌス君!」
「やりましょうラーズィー教授!」
ハイテンションでハイタッチをした二人は早速準備にとりかかった。
マグヌスは細切れのアグダ海藻をひとつかみと多めの水を大きなフラスコに注いで出汁をとる。ほのかな潮の香りに気をとられても、どれくらいの水と海藻を使用したか記録をとってしまうのはもはや研究者の習性だ。濾紙でちゃんと海藻は除去し、淡い黄金色の液体がフラスコの中で踊る。
「ベースの抽出液できました!」
その間に教授はコウライ人参、ギョク葱、ポポッコリ菜、ムンナ芋は大きさを切りそろえ、実験のために既にひと口大になっていたぺルぺエッダ蜥蜴の肉に岩塩を振り、余分な水分をざっと拭った。
錬金鍋でまずは肉と葱をじゅうじゅうと炒め、軽く火が通ったら人参と芋、ポポッコリ菜も加え、全体がしんなりと艶をおびる。
「こちらも具合がいい。投入せよ」
「はい!」
マグヌスが用意した出汁を注ぎトロトロと煮込んでいけば、魔力が飽和して素朴な甘い匂いが立ちのぼる。
鍋を覗きこめば、具材がつやつやと輝いているように見えた。二人の喉がごくりと上下に移動した。いい加減、二人の空腹は限界に達していた。
そろそろ頃合いだと教授が柄杓でかきまわしたとき、ついいつもの癖で鍋に魔力を流してしまった。柄杓から返ってくる手応えは具材に遮られる液体の中というよりは、サラサラとまるで砂を掻いているようなものに変わった……。
「ん?」
訝しく思ったラーズィー教授は鍋を覗きこんで、はて、と首を傾げた。シチューはその香りを残して、赤い砂だけがそこにある。
「……、これ、賢者の砂、ですね」
「うむ。紛うことなき賢者の砂だな。私のシチューはどこにいったのかね」
「目の前の賢者の砂がそうですね」
横から鍋を覗きこんだマグヌスが見つけたのは、ここ最近見慣れていた物質。教授もまた、もう見たくないほど精製している物質であると認めた。
淡々と事実を述べるマグヌスに、教授も「シチューがないこと」が幻覚ではないとさとり、頭をかきむしる。
「なぜだッッ! 私は自分が天才だと知ってはいたが、なにもこんなところでその天才性を発揮しなくても良いじゃないか! 今、この瞬間は、あまたの錬金術師が夢見た超高効率の賢者の砂の錬成方法の発見ではなく、凡百が作る、ありふれた、野菜と肉たっぷりのシチューを錬成したかったのだ! 世紀の大失敗だぞこれは!」
「……再現性を確認しましょう」
何かのミスがあったに違いない。もう一度作りなおせば、シチューが出来るかもしれない。疲れ切ったマグヌスは至極当然のようにそう考えた。
研究においては、予想外の結果が得られたときは、その原因は明らかにされなければならないし、偶発的なものであってもその確率を算出するのは非常に重要である。
マグヌスはずっとそうするように言われていたし、今までもそうしてきた。幸い、使った素材の量や投入タイミングは記録してある。
「そうだな! 私はまだシチューを作りを諦めてはいない! 一度や二度の実験の失敗で挫けていたら研究者などやってられんからな!」
ラーズィー教授もまた、次こそはシチューを作らんとメスを手にした。
材料が尽きるまでシチューの錬成――否、検証実験は続いた。夜は更けゆき、そして日が昇る。
素材は――全て賢者の砂に変わった。
「なぜだッッ!!」
怒りと失意にほんのすこしの困惑を混ぜたラーズィー教授の罵声は、朝告げ鳥を羽ばたかせた。
史上最高効率の賢者の砂の錬成レシピが確立した瞬間であった。
ちなみにこの新レシピに論文をさしかえたために締め切りに間に合わず、主催者の大御所教授を拝み倒し事務方に平謝りしてなんとかした。
この作品は第二回メシテロ杯参加作品です!
「この作品面白いな」「楽しそう」って感じてくださった方はぜひ「メシテロ杯2」で検索して読んでみてくださいね!!!
私の活動報告にも一覧がございますので、便利な方からお楽しみください~!




