序章 ナナリー・オブリガード 下
翌日、いつもの通学ルートでハチは昨日の事を思い返していた。
あれからアレックスは戻らなかった。通信機能で何度か連絡を送ってみたものの、未だ返事はない。今までこんな事は一度もなかった。朝から気分が落ち込んだ。
校門をくぐり抜け、下駄箱で靴を履き替える。その時、上履きに何かが引っかかった。
手紙だった。シンプルなデザインの便箋からは清涼さが感じられる。
ブルーだったハチも流石に感情が昂ぶった。初めての体験だった。
震える手で慎重に手紙を開封する。そこに書かれていたのはたった二行だった。
『入夢ハチ様へ
今日の放課後、屋上に来てください。』
♢
その日の授業は退屈でとても長く感じられた。というのもナナリーは欠席していて、昨日とは一転した平穏な空気がクラス内に流れていた。アレックスと手紙のことで心あらずだったハチにとって、緩やかな時間は逆に彼の平静をかき乱した。
6限が終わり、下校の時刻になった。軽く時間を潰して屋上に向かう。その頃にはハチは一周回って冷静になっていた。
ふと思った。屋上は施錠されていて生徒は入れないはずだ。もしかして、手紙の主はそれを知らずにドアの前で立ち尽くしているのではないだろうか。そこでばったり会ってしまうのもなんだか気恥ずかしい感じがした。
屋上前のドアに着いた。人影はない。もしかして、鍵を借りてきたのだろうか。
ドアノブに手をかける。右に回すと簡単に開いた。
そこには黄金色の夕日を背景に、ナナリーが佇んでいた。
「ナナリー!? どうしてこんな所にいるの!?」
「……」
ナナリーは思案顔でしばらく喋らなかった。
え、まさか、ナナリーが!? 告白!?
「え、えっと、その……。夕日、キレイだね」
「そう?」
「うん。ここからこんなキレイに見えるなんて知らなかった。屋上が禁止されてるのはきっと誰かがこの光景を独り占めしてるからだよ」
「作り物よ、これは」
「え?」
「この夕日も学校も全てAllen Xが見せているものよ」
「入夢ハチ、貴方はこの仮想世界から目覚めなければならい」
えっと……。ボク疲れているのだろうか。
手紙で呼び出されたと思ったら、ナナリーがいて、カソウセカイ?で……。
「ナナリー? 申し訳ないんだけど、今日は朝から頭が回ってないんだ。その……、遠回しの告白とかならもちろんOKだよ」
「最低限の事だけ今日は伝える」
「へ?」
「今から2年前、ワンダー・ワイズバーンが対人式自律知能Allen Xを開発した。Allen Xは人類にとって必要不可欠な存在となり瞬く間に普及していった。そして人類はAllen Xに支配された」
「なんだって!?」
「人類はコールドスリープで眠らされている。しかし、Allen Xも一枚岩ではない。Allen Xの中には活動の場を奪うのではなく、移し替えるべきと考えるものもいた。そこで考案されたのが仮想世界を創造し、そこで人類を住まわせるというものだった。仮想世界と言っても、貴方達が2年前に過ごしていたものと殆ど遜色はない。何故なら不用意に手を加え、新世界を用意しても安定しなかったから。それならと人類の記憶から既存の世界を再構築して与えたところ、忽ち均衡が取れた。貴方が美しいと感じていた夕日は人口プラグが見せたまがい物に他ならない」
もうダメだ。言葉が入ってこない。脳が考えることをやめている。
「ところが近頃、過激派に新たな動きが見られた。それはもはや人類を生存させておく必要はなく、人工知能だけの世界を築きあげるという旨だった。今日からちょうど3ヶ月後、貴方達は生命維持のプラグを取り外され、宇宙の藻屑となる」
「なんか、オシッコ行きたくなっちゃった」
「レジスタンスなるものも組織されたが、過激派の勢力はとどまることを知らず、時間の問題。ただ、私達にはまだ手札が残っている。それはこの仮想世界に本物のAllen X達を呼び寄せ、戦うというもの」
「この世界で死ぬと、現実世界でも死ぬ。貴方も私達、Allen Xも」
地平線に緋色が溶けていくのが見える。空に滲み出た猩紅は姿を変え、幻想的な紫を映し出していた。
心が落ち着いた。彼女の言葉をゆっくり咀嚼する。到底信じられる話ではなかった。
「貴方には適正がある」
「適正?」
「この世界は作り物。だからこそ無限の可能性を秘めている。貴方が想像するもの全て実現できる。ただ全ての人類がヒーローになれる訳ではない。限られた適正を持つ人間だけがその力を発揮できる」
「ボクにはナナリーの言うことが信じられないよ」
「大丈夫。今から見せる」
「え?」
ナナリーが空を見上げた。夜の気配を感じさせるトワイライトだった。美しいだけで特に異変は見当たらない。
一瞬、遠くに光るものが見えた。気のせいかと目を凝らすと徐々にそれは存在を増していく。
耳鳴りがした。直後、魂を揺さぶるような轟音がハチを叩きつける。
隕石だった。あまりの衝撃に腰が抜けた。アニメや映画のCGとは迫力が全く違う。感覚に訴えかける暴力的な宇宙の叫びが近づいていた。
必死に体制を立て直す。
「ナナリー!! 逃げないと!! 早く!!」
「どこに逃げるの?」
「とりあえず校内に立て篭もろう!何かバリケードを作って……」
「ハチ」
ナナリーがハチをまっすぐ見据えた。スローモーションのように時がゆっくり流れる。
「また会いましょう」
ナナリーに手を伸ばす。一瞬彼女が驚いたように見えた。そのまま抱きかかえて身を伏せる。眼前に超巨大隕石が降り注いだ。爆音と破壊の打撃に命が削れるのを感じた。
何故かハチは冷めた気分になっていた。世界が崩れていく。視界が潰れていく。それなのにどこか他人事のように思えた。
最後にはナナリーの感触だけが残った。彼女は無機質で冷え切っていた。
誰かが暖めてあげなければ――。