序章 ナナリー・オブリガード 中
帰り道を走り抜ける。逸る気持ちが抑えきれない。早く今日の出来事をアレックスに伝えたかった。
一体彼女は何者なんだ!?
それは初っ端の数学の授業中から起きた。整数の問題に頭を悩ませていると突然横からナナリーが口を挟んできた。
「合同式を使えば綺麗に解ける」
「へ?」
「このパターンに因数処理を当てはめるのはナンセンス。教え方が悪い」
彼女の澄んだ声は面白いほど教室に響いた。貶された臨時講師が困ったようにナナリーを見つめた。
「えっと、今日転入された方でしたね。確かにこの問題はmodを使うと簡単です。でも私の授業ではまだ教えていないんですよ」
「なら私が教える」
「え? ち、ちょっと待って勝手に進めないで!」
初めは講師もナナリーの無遠慮な行動を止めようと必死になっていた。しかし次第に彼女の淀みない洗練された指導に舌を巻いたのか何も言わなくなった。ハチにとっても彼女の教え方は明快でわかりやすく、苦手だった数学が少し身近で楽しいもののように思えた。ドイツの教育事情が気になるところだ。
「――チ、ハチ、わかった?」
「あ、うん。わかりやすかったよ。ありがとう」
「ならもうこの授業は終わり、号令」
いや、ナナリーの授業じゃないよ!?
彼女の快進撃は止まらず、体育の授業はお祭り騒ぎだった。この日はちょうど体力測定で、何をやらせてもあり得ない記録を叩き出すナナリー。運動部がしきりに彼女を勧誘していた。
「ねぇ、ナナリーちゃんって何かスポーツやってたのかな? よかったらテニスやってみない?」
「ナナリーちゃんスタイルいいんだし、バスケ向いてると思うよ! 今日放課後見に来てよ!」
熱烈なアピールも気にも留めず、彼女は凛とすましていた。そのままナナリーは50Mの測定に向かった。
「よーい……、ドン!」
スタートの合図とともに彼女は消えていた。遠方で銀髪がはためいているのが見える。もはやワープだった。
♢
「それでね! 彼女本当にすごいんだよ! 立ち幅跳びなんてマット超えちゃったんだから! あれ8Mはあったんじゃないかな」
家路に着いてから30分。ハチは彼女の功績を称え続けていた。彼の話し相手は20くらいの若い女だった。
否、実際に女ではない。それはアレックスと言われる人工知能だった。
Allen X-対人式自律知能、端的に表せば恐ろしく精巧に造られた人型ロボットと言える。アレックスは身寄りのないハチにとって、家族同然の存在だった。そんな彼の楽しみは学校であった出来事を飽くまで語り尽くす事だった。
「調理実習の時だってお味噌汁作るだけなのに、いつのまにかフカヒレのスープ作っちゃっててさ。ボク初めて食べたよ」
「ハチ様がお楽しみになられたのであれば何よりの幸せです」
「今度アレックスが作ってみてよ。でもあれやっぱり高いのかな?」
「黒翅の胸ビレを使ったスープであれば、比較的安価でご用意できますよ」
「へー、よくわかんないけど、やっぱりアレックスも物知りだね」
「いいえ、きっとハチ様にもナナリー様にも及びません」
一通りの会話が終わり、夕食の時間になった。アレックスに料理を任せ、ハチは居間のソファにどっぷり身体を浸からせた。
「おーい、今日のご飯はなんですかー?」
「煮付けを仕込んでいます。食後にはチョコレートケーキをご用意しました」
「え、本当に!? ありがとうアレックス!」
「ただケーキに関しては出来合いのものなので、味は保証できません」
「いいよ、そんなの。楽しみが増えたな」
今日は小さな事でも愉快に感じてしまう。ナナリーが日常に華を添えてくれたのだろうか。
浮き足立っているとふとある事を思い出した。
「そういえば、ナナリーはチョコレートアレルギーなんだって」
そう言った途端、アレックスが静止した。時が止まったかのように動かない。何故か空気が張り詰めていた。
「……チョコレートアレルギー?」
「う、うん。家庭科の時間に教えてくれたんだ。話の流れは忘れちゃったんだけど、珍しいアレルギーだなって思って」
「……」
「アレックス?」
突然様子がおかしくなったアレックスをハチは心配そうに見つめた。もしかして、内部でトラブルを起こしているのだろうか。
「ねぇ、大丈夫!? 具合悪いの!?」
「申し訳ありません、今から少しお暇を頂戴いただきます」
「へ?」
そう言う告げると足早に出て行った。
急にどうしたんだろう。まさかアレルギーの話ってしちゃダメだったのかな。
その夜ハチは夢を見た。奇妙な夢だった。ハチがいつも通り起きて、学校に行き、食事をとって眠る。それをハチ自身が遠巻きに眺めていた。
そこにアレックスはいなかった。