序章 ナナリー・オブリガード 上
確かヨーロッパの辺りから来るんだっけ。可哀想だなぁ、きっと日本の夏は堪えるだろうに。
慣れたスロープをとぼとぼ歩く。通学の最中、ハチは今日転入して来ると噂の人物を思い浮かべていた。彼女は、昨日のホームルームで発表された情報によると、ドイツから単身で日本に乗り込んできた15歳の少女だという。担任も突然のことでまだ状況を把握しきっていないらしい。どうであれ、クラスメートが1人増えることには間違いない。代わり映えしない学生生活にはチョットしたイベントだった。
♢
クラスに到着すると辺りが騒然としていた。いつもはハチが教室に入ると集まって来る友人達も興奮した面持ちで話し込んでいる。
転入生に友達を取られないといいけど。
ハチは苦笑しながら席に着いた。
「あ、ハチ君おはよう」「遅えぞ、ハチ」「ハチ〜、昨日はちゃんと眠れたか?」
クラスメートが矢継ぎ早に声をかけて来る。
「みんなおはよう、やっぱり転入生の話?」
周りがハチの言葉に当然といった表情で頷く。
「そりゃそうだろ、ドイツ人だぞ? ぜってぇ美人だ」
「いやいや、期待しすぎも良くないぜ? あっちの方は劣化が早いっていうしな」
「そんなことより、言葉よ、コ、ト、バ。日本語喋れなかったらどうやって仲良くなればいいと思う?」
「オレ達が英語で話しかけるしかないだろ。ハウ、オーダー、ユー!」
「レベル低すぎ、高校生だぞ」
やはり転入生の話題で盛り上がっていたようだ。ハチが会話に混ざる隙もないほど白熱している。これは担任が来るまで収まらないだろうな。
「ハチ君はどう思う? 転入生と仲良くなりたい?」
置いてけぼりにされた気分でいると突然質問を投げかけられた。
「そりゃ、もちろんだよ。外国の人って知り合いにいないし、きっと日本に来てまだ不安だろうから」
「じゃあ日本人だったら仲良くしなかったのかよ」
言葉尻を捉えられ、笑いが起きた。いつもの調子だった。
「そ、そういうわけじゃないよ!ただ、1人でここまで来たって話だったから――」
必死に取り繕っていると、ピタリと教室が静まり返った。担任のオオハラが入ってきたのだ。
軽い別れの言葉を告げて各自の席に着く。ハチも真ん中の一番後ろの席に腰を下ろした。
「みんなおはよう。まぁ、ね。今の君達にはオレの話なんて耳に入らないだろうから先に紹介しよう。入っておいで」
早いよオオハラ先生! まだ心の準備ができてないのに!
ハチは1人沸き立っていた。先程の会話から転入生に対する期待値が上がったのかもしれない。
前の扉を凝視する。トモヒロの頭が邪魔で見えづらい!
「うわっ!」
突然肩を叩かれた。思わず情けない声が出る。
大事な所なのに、と仕方なしに振り返る。
絶句した。
そこには童話から抜け出してきたかのようなお姫様が立っていた。意思の強さを感じさせる眼差し、ツンとすました高い鼻、凛々しさと若干の隙を見せる唇。極め付けに透き通るように光り輝く銀髪がたおやかにうねっていた。
あまりの驚嘆にしばらく固まっていると目の前の異邦人がゆっくり口を開いた。
「初めまして、入夢ハチ。私はナナリー・オブリガード」
「ひゃ、ひゃい……。はい!?」
「初めまして、入夢ハチ。私はナナリー・オブリガード」
「そ、そうじゃなくて、え、いや、よろしくお願いします……」
なんだこの状況は!? ドッキリか!?
急な展開を飲み込めず呆然とするハチ。それはクラスメートも同様だった。
担任が我に返ったように言葉を紡いだ。
「えーっと、なんだ! とりあえずナナリーはこっちに来て自己紹介して貰おうかな。前まで出てきてくれ」
「いえ、私の紹介は結構です」
そうオオハラの言葉を切り捨てると今度はハチの隣の席を指差した。
「ここが空いていますね、この席でお願いします」
「ち、ちょっと待ってくれ、ナナリー。一旦先生の話を聞いてくれないか?」
「これがドイツ流です」
「だったら仕方ない。……ってオーイ! 関係ないだろ!」
オオハラの身の毛もよだつノリツッコミが功を奏したのか、クラスが息を吹き返したように思えた。それでもハチとナナリーを見つめる眼差しは困惑で満ちていた。
ハチも未だ何が起きているのか把握できないままだった。肩を叩かれてからの一連の流れが脳内で断片的にリピートしていた。
ようやく気づく。なぜ彼女は僕の名前を知っているんだろう。
「オオハラ先生、私とハチは旧知の仲なんです。いきなり日本人の輪に放り込まれるくらいなら、ひとまず彼の隣で過ごさせていただけませんか?」
ナナリーの言葉にオオハラは虚をつかれたようだった。
「いやさっき初めましてって……。まぁいい、ハチと知り合いだったのか! そうならハチも早く言ってくれれば」
「え?ち、ちがい――」
「そもそも空席はそこしかなかったし、いいだろう。とりあえずナナリーこれからよろしく!」
担任の一声にまばらな拍手が起こった。まだ教室内の混乱は残っていたが1限の授業が迫っていた。オオハラもやむなしの切り上げだったのだろう。
右の席に腰掛けるドイツ人をチラリと盗み見る。作り物のような美しさがそこにあった。
ふと彼女がこちらを向いた。急いで目を離そうとするも、視線は吸い寄せられるかのように動かせなかった。
「……どうかした?」
ナナリーが可愛らしく首を傾げた。
雪崩のように湧いてくる疑問は舌の上で行き場を失ったかのように転がり続けた。