第十一話 《打ち払いしものミネルウァ》
前回のあらすじ
敵の首魁《打ち払いしものミネルウァ》と対峙するウルウ。
不死にして不滅の怪物と、必殺にして絶死の死神。
果たして殺し切ることはできるのか。
ヘカトンケイルは《流血詛》感染者を解体し、その体をつぎはぎすることで製造される生体ドローンだ。
彼が……ジョージ・ポリドリ伯爵──偉大なる疫学者、医療の最先鋭、《ウィザード》──が手ずから組み上げた、極めて優秀な生物兵器だった。これを生体だの生物だのと呼んでいいのかははなはだ不明であったが。
それがいま、《流血詛》によって奇妙に強化された視力でも追いきれぬ速度で、ただの一瞬で無力化されていた。
破壊されていた。
殺されていた。
ポリドリは《流血詛》が持つ奇妙な感応能力と、免疫反応も無視した接合能力を利用して、本来の肉体であれば不可能な形状、不可能な感覚器官、不可能な運用、そういったものを実現せしめた。
《流血詛》は脳神経系を侵襲し不可逆に破壊し、肉体を不器用に操って感染を広げようとする貧弱な司令塔と堕する……であれば、優秀な司令塔に作り変えてしまえば、《流血詛》を利用してゾンビを操れるのではないか。
それはネックテックの人間細工に用いられるキメラ粘菌から得た使い古された発想であったが、それを実行に移し、成功させたのはジョージの才覚と実力といっていい。
脱出ポッドを解体して得られた資材と、現地の粗雑な資材を使ってイントナルモーリを一から組み立て、無秩序なゾンビたちを制御化に置いたのは執念であり、そして偉業だった。
その労力の成果が、いま呆気なく打ち砕かれていた。
悪名高いライフリサイクル法の濫用によって用いられたキメラ粘菌と異なり、《流血詛》はいまだにその作用機序が判明していない。特定蛋白質群が原因であることは早期のうちに判明したが、それらがいかにして増殖あるいは分裂し、いかにして感染者の細胞にとりつき、いかにして死者の脳を操って支配し、いかにして生者を襲う屍者に仕立て上げるのか、一切合切が謎のままだ。
これではまるで呪いだ──だからこその《流血詛》などというふざけた命名。諦めによる名づけ。
ポリドリでさえ匙を投げかけた最悪の災厄……その一端が、あまりにも呆気なく粉砕されていた。
これが外部からもたらされたのは確かだった。
感染経路ははっきりしていないが、初期の感染者は都市外部で現地の渉猟に当たっていた軍部のマンライクどもだと聞いていた。都市の出入りに当たっては徹底した除染が義務付けられているはずだが、感染者の体内で増殖した特定蛋白質群は、他の奇妙な疾病とともに内部に持ち込まれてしまった。
《結晶病》。
《咬傷疫》。
《名前のない病》。
そして《流血詛》。
原因不明の現地固有感染症。
現地特有の奇妙な現実と我々人類圏の現実の衝突による現実干渉事故として発生したものなのだろう。
いまは──あの当時はまだ都市外縁部のマンライクどもで感染を抑え込めていたが、いつ市民への影響が出るか、じわじわと恐怖が広がっていた。
ポリドリは疫学者として《流血詛》の解明に全霊を注いだが、それでもわかったことは、ほんのわずかな体液を媒介に感染することとと、それが紫外線に弱いということ、そしてゾンビとしか言えない有様となり果てる患者の最期だけだ。
疫学者として偉業をなし、あまたの病を打ち倒した功績をもって若くして《ウィザード》に迎えられた天才科学者。
その彼ですら結局は打ち勝つことのできなかった災禍の疫病。
それをわずかなりとでも制御せしめた奇跡の存在。
それが道端の石でも蹴り飛ばすように吹き飛んだ。
衝撃の光景が、ジョージ・ポリドリ博士の脳を揺さぶった。
《流血詛》の侵襲と長期の酸欠によって虫食いのように欠損した脳が、過去と現在を混濁し、感情と理性が攪拌され、記憶が浮き上がっては爆ぜていった。
「ドクター。ドクター・ポリドリ」
処置台に横たわったマンライクが青ざめた顔でうわごとのように名前を呼ぶ。男は。ポリドリは。ジョージはそれを黙って聞いている。返す言葉が見つからなかった。その天才的な頭脳は慰めの言葉を百も二百も思いついていたが、それらの一つをも口に出すことはできなかった。彼はいままでそうした慰めの言葉を吐いたことがなかった。それはマンライクを見下す彼の選民思想の表れであり、そして自身の絶対的才能と能力を信じてきたが故であった。
治るのが当たり前で、治すのが職務であったポリドリは、そんな当然のことを口に出したことがなかった。
そしていま、自分がどうにもできないのだという事実を前にして、はじめて慰めの言葉を模索し、そして結局吐き出せないまま飲み込んだ。
こうしたシチュエーションにふさわしい言葉はいくらでも思いついた。それはアカデミーで高等教育を受けるまでもなく、ファームの初等教育で学び終えているべき内容だった。
だがそれを言ったところでなんになる。
大丈夫だ。すぐよくなる。休暇だと思い給え。それらのすべてが吐き出す前からポリドリの中で空々しく響いた。そんな言葉にはなんの意味もない。お前にはその言葉を嘘にすることしかできない。お前はなにもできない。お前にはなにも救えない。そうだ。なんの意味もなかった。嘘にすることしかできなかった。なにもできなかった。なにも救えなかった。
「ドクター。すまない。ポリドリ卿」
「君が謝ることはなにもない」
「すまない……」
そうだ。そして彼にできることはなにもない。なにもなかった。
謝るべきは彼にこそあった。彼は己の職務を全うできない。全うできなかった。
だが彼の口から謝罪の言葉は出なかった。ほとんど口にしたことのなかった謝罪、その数少ない正当な使いどころを、しかし彼は見送った。
その謝罪に意味はないからだ。その謝罪に意味はなかったからだ。
彼は死ぬからだ。彼は死んで、死んでいるのに死なない、死にながら生きているものを襲う怪物になるからだ。それはただ死ぬ以上におぞましいことだった。その亡骸は汚染され、資源としての再利用さえ絶望的だった。
死にゆくものに謝罪の意味はない。意味はなかった。それはポリドリの罪悪感をかろうじて減ずる効果しかなく、そしてポリドリはそれを望まなかった。それは受け入れなければならなかった。それは彼の罪であり彼の罰だった。
そのマンライクはポリドリの助手として長年勤めてきた。
専門的知識をポリドリ自ら教え込み、代理として書類にサインすることさえ許した優秀なマンライクだった。ポリドリは彼を三等市民として推薦さえしていた。市民としての生活をさえ与えようとしていた。マンライクと言えども優秀なものには報いがあるべきだった。しかしそのマンライクは市民としての生活よりもポリドリの助手としての立場をのぞんだ。それらは両立できるものだとしても、その必要を感じないと述べた。研究室に泊まり込む主人を差し置いて、都市の集合住宅から通うのはばかげていると鼻で笑った。その生意気さはポリドリ自身が許したものだった。その不遜さはポリドリが愛したものだった。
いまのポリドリは彼の名前を思い出せない。彼の名はポリドリが名付けたものだった。命名辞典を引き、わざわざ選んで名付けたものだった。しかしポリドリはそれをいま思い出せなかった。ポリドリは彼の名をほとんど呼ばなかった。そのマンライクを特別に呼びつける必要がなかった。彼が誰かを呼びつけるときはほかでもないそのマンライクだったからだ。だからポリドリは彼の名前を呼んだことがほとんどない。だからポリドリの舌はその発音を覚えていない。だからポリドリの脳の反復記憶にその響きは残っていない。だからポリドリは彼の名前を呼ぶことができない。浮かび上がった記憶の中ですらポリドリは彼の名前を不鮮明な雑音としてしか思い出せず、その顔さえも不鮮明だった。その顔は当たり前のようにそこにいたためである。
その不鮮明な雑音を呟いたころには、そのマンライクはもはやその音を認識することはできなくなっていた。体内で増殖する《流血詛》は、特定蛋白質群はその肉体を侵食し、血流にのって脳に侵入していた。その時点でそのマンライクの脳はもう救いようがなかった。いまマンライクは自分の記憶が端から順に失われていることに気づき始めていた。自分の意思と関係なく動き始める手足を不安げに眺め、血走った目で周囲を見回し、ポリドリを呼んだ。ポリドリの名を呼んだ。完璧に仕込んだ発音は恐怖と困惑に乱れていた。ポリドリはそれをじっと聞いていた。マンライクが彼の名前を呼び続ける限りそれをじっと聞いていた。そのことに意味はなかった。なんの意味もなかった。マンライクの症状の推移も、彼の体内の状況も、全ては機械が観測し、記録していた。ポリドリがつききりでマンライクのうわごとを聞く必要なかった。意味はなかった。しかし彼はそうした。彼の半身が朽ち果てるのを見届けた。
ポリドリは痛みを覚えた。ほとんど反射的に体がのけぞり、異様なまでの鋭さを持った刃が彼の二の腕を切り裂いたのを感じた。困惑とともにその痛みを認識する。その痛みは現在の痛みだった。ポリドリは記憶の海からあえぎあえぎ顔を出し、現在の脅威に向き直った。
それは女だった。軍部の戦闘用マンライクのような、異様な長身の女だった。特殊部隊のように黒づくめで、普段の生活では見たこともないような大きな刃物を両手に構えていた。斬られた腕が痛む。そのような痛みはポリドリの人生においては数少ない経験だった。彼は研究者であり、学者であり、荒事は専門外だった。
しかしポリドリは崩れまじりあう記憶を何とか引き寄せ、その程度のけがはすぐに治ると自分自身に言い聞かせた。彼が彼自身に投与した調整型《流血詛》は、彼の自我を保ったまま彼の肉体に強力な身体能力と再生能力を付与しているはずだった。しかしそれは機能しなかった。彼の切り裂かれた二の腕は《流血詛》感染者特有のどろりと濁った血をとどめることができず、傷はふさがらず、《流血詛》の存在がそこだけ空白になったように感じられなくなっていた。彼を死なせ、彼を活かす呪いが、失われていた。
ポリドリは困惑して傷跡を見る。
なぜ自分は怪我をしているのだろうか。治療しなければならない。だがここはどこだろうか。廊下に出れば、等間隔にファースト・エイド・パックが常備されているはずだ。しかしここはどこだろうか。ポリドリは見知らぬ部屋を見回し、見知らぬ女を見て、困惑する。そして現在のポリドリが危機を叫ぶ。敵だ。これは敵だ。過去のポリドリと混ざり合う。テロリストども。愚かな叛逆者ども。
「なんだ……なんなのだお前は!」
「お前の死だよ……茶化さないで、トルンペート」
「ふざけた女だ……ヘカトンケイル! なにをしている! 侵入者だ!」
「無駄だよ。誰もあんたを守りはしない」
ポリドリはヘカトンケイルを見る。切り刻まれ打ち砕かれたその残骸を見る。
彼はそのひしゃげた顔面を見る。その顔の持ち主を思い出す。彼が目覚めた時を思い出す。
ポリドリがこの時代に目覚めたのは偶然だった。
彼が閉じ込められた脱出ポッドを、森林に墜落し、柔らかな土に半ば埋もれ、深緑の苔に覆われたそれを、ただの石ではなくなにかの遺物だと気づいたのは《塔》の魔術師だった。ポリドリは彼女の名前を知らない。彼女の汚染された脳からかろうじて掬い上げたわずかな情報から推測することしかできない。彼女はポリドリのおさまった脱出ポッドを回収し、《塔》に持ち込んだ。表面を磨き上げ、その高度な技術によって作り出された合金製の外殻を調べた。調べ上げ、そして脱出ポッドのハッチを外から開く非常用ハンドルを見つけてしまった。彼女に悪意はなかった。彼女には探求心だけがあった。魔術師としては落ちこぼれである彼女は功績を求めていた。実家へ仕送りができるだけの報酬を求めていた。彼女は軽率ではなかった。慎重ではあった。爆発や危険な生物を警戒して、安全な場所を選び、仲間に声をかけ、指導役に監督を頼みさえした。しかし彼らの誰一人としてかすれて消えかけたバイオハザードマークの意味を知らなかった。古代遺跡でたまに見かける紋様としか認識していなかった。正しい知識を持つものが欠席していた。
ハッチが開かれ、二千年越しに供給された酸素がポリドリの脳に染み渡った。ポリドリはほとんど酩酊したように意識がはっきりしなかった。長い休眠から目覚めるには、相応の時間が必要だった。しかし彼の持ち込んだ検体はそうではなかった。彼が解剖することもできず、後生大事に詰め込んでいたパッケージを、魔術師たちは迂闊にも開いてしまった。もう名前を呼ぶこともできないマンライクは、《流血詛》の命じるままに目の前の肉にかみついた。必死に引きはがそうとする別の魔術師にも噛みついた。監督官が風の魔術でマンライクを切り裂き、その血がほとばしった。そのしぶきが大気中に散った。その部屋は《塔》の地下にあった。頑健な地下室にあった。紫外線の通らない部屋だった。魔術師たちがマンライクを刻み、吹き飛ばし、焼いて炭化させてようやく動かなくなったのを確認したころには、噛みつかれた者たちが次のゾンビになった。地下室の惨劇はそのまま《塔》に広がった。《流血詛》は不完全な魔術を操った。魔術師たちと激しい争いがあった。しかし死なず者と死すべき生者では、分が悪かった。水の魔術を操るものが早期に感染したことが事態を悪化させた。《流血詛》は《塔》を飲み込んだ。
ポリドリが意識を取り戻したとき、《塔》は屍者にあふれていた。生き残りも強固に抵抗していたが、生者は飲まねば乾き、食わねば飢える。高度に敷設された水道はすでに汚染されており、そして彼らは知識がなかった。その有様を見て、ポリドリは教育の敗北を知った。
《塔》の隅から隅までを歩き回って、ポリドリは全てが遅きに失したことを知った。《流血詛》感染者同士は争わないため、《塔》内は奇妙に静かだった。穏やかで、平和でさえあった。目的を見失った屍者たちが、生前の習慣を真似るように、生者のままごとを繰り返していた。それはポリドリの罪だった。ポリドリが感染の原因だった。
ポリドリは後悔の中でも、考え続けることをやめなかった。時々困惑に陥り、呆然とすることがあったが、思考し続けることは彼の自我を崩壊から守った。その中で、彼は自分が《流血詛》に干渉できることに気づいた。《流血詛》はお互いになにかしらの手段で感応しあい、連携することを、監察結果だけでなく自身の体験として理解した。
そして脱出ポッドを解体して主材とし、《塔》全域に指示を出せるようイントナルモーリを建造した。ありものの粗雑な素材しかない中では、その範囲が限度だったともいえる。ポリドリは《塔》内の感染者すべてに接触し、《流血詛》に命じてイントナルモーリの指示に従う条件付けを施した。それによって《塔》を封鎖し、迂闊に外部のものが侵入しないようにした。感染をここでとどめるため、隔離した。殺してでも中に入れるなと厳命した。それでも中に侵入できるものがいたならば、それは《流血詛》に対処できるものだから丁重に運んで来いとも命じた。そしてそれらは彼の崩れかけた脳からほとんど忘れられた。彼は自分の指示を忘れた。運ばれてきたものを検体と思い込んだ。ポリドリはいまもなお《流血詛》を撲滅すべく研究していたからである。それは市民を守るためであり、失われた命に報いるためであり、自身の無力ゆえの罪を購うためであった。
「おの、れ……ッ! なんなのだ! なんなのだお前は!」
「化け物だよ。化け物を殺す化け物」
「恐縮だが黙れ! 恐縮だが動くな!」
「やなこった」
化け物を名乗る女を前に、ポリドリは必死で攻防を試みる。刃を避け、足癖の悪い蹴りを受け止め、時にはこちらからも攻め立て、ブツ切れの意識と記憶にもまれながら立ち回る。
ポリドリとて、一等市民として軍事教練を受けた経験がある。しかしそれは指揮官としてのもの、士官としてのものであり、座学がもっぱらだった。格闘術は護身程度にしか修めていなかった。それも彼の華々しい成績からすると情けないほどに貧相なお情けの点数だった。知識階級には必要ないとうそぶいていた過去の自分をポリドリは罵った。しかしお前は将来化け物と殴り合うことになるので真面目に訓練しろと言ったところで、誰が信じただろうか。ポリドリは自分が絶対に信じないだろうことを確信していた。
幸いと言うべきか、《流血詛》によって強化された彼の反射神経は恐るべき速度で襲い掛かる女の攻撃を見切ることに成功し、強化された肉体は壁を砕くような蹴りを受け止め、逆に床をぶち抜くような威力の拳を繰り出せた。あとはそれを当てさえできればよかったのだが、女は奇妙にぬるりとした動きでポリドリのあらゆる攻撃を避けて見せた。ポリドリはこれが自分の鈍臭さのせいではなく女の異常な動きにあるのだと看破していた。彼は負けず嫌いだった。
とはいえ、ポリドリは全く無力というわけではなかった。あの奇妙にねじれた刃を受ければ再生が機能しないことを速やかに理解し、また奇妙な拳鍔も見た目にそぐわない破壊を生み出すことを把握した。高速で動き回る戦闘の中で、優先すべき危険を判断し、致命傷を負わないように立ち回るだけの能力があった。それどころか、致死的でないダメージはポリドリの肉体を最適化し、強化した。無理な動きで靭帯が切れるという自滅的なダメージでさえ、即座に修復され、強化した。戦えば戦うほど、ポリドリは戦いに最適化されていくのを感じた。
ポリドリは恐怖を感じていた。
死の恐怖を感じていた。自分が死ぬかもしれないという恐怖。
それは《流血詛》を撲滅できないかもしれないという恐怖。
市民たちを守ることができないかもしれないという恐怖。
ポリドリという男にとって、自分にはそれだけの価値があった。自分を失うことが聖王国の歴史に大きな陰りとなるであろうことを確信していた。ジョージ・ポリドリ伯爵が医学界に与えた影響と功績の大きさを自覚していた。そしてそれは事実であった。彼を失った聖王国は四大疫病の治療法をついに発見できず、病棟ブロックごと隔離しパージすることで問題を解決したからである。
とはいえ、それはポリドリが個人として死を恐れていないわけではなかった。
むしろポリドリは死を恐れていた。死にたくないと強く思っていた。自身の半身たる名前を思い出せないマンライクを失ってから、彼は自分が死ぬということをひどく恐れていた。自分があのようにすべてを失い尊厳さえも許されず、なにものでもなくなることを恐れた。
だから彼は研究した。
死にたくないから《流血詛》を研究した。撲滅し、根絶し、打ち勝つために研究した。
そして敗北した。
死にたくないから、おのれに調整した《流血詛》を投与した。
高速戦闘で特定の部位だけが過熱した脳。それによってかえって活動を低下させた部位、言うならば暇をし始めた部位が、彼の脳裏で現在と過去を混ぜ合わせて垂れ流した。
「なにを言っている? あれらは貴重な検体だ」
「しかしドクター。彼らは言葉を得たのです。会話ができる。それを虐待するのは倫理規定に違反します」
「虐待だと!? これは医療にかかわる重大な研究なのだぞ!?」
のちに大陥落と呼ばれる大事件の日。ポリドリがついに知ることはない古代聖王国滅亡の日。
彼の隔離研究所に勤務していたマンライクたちは、生態研究房で飼育している現地生物の解放を要求してきた。都市内の動物愛護団体のような児戯めいたクレームではない。高等教育を受けた研究従事者たるマンライクたちが、現地の異様な生物に「人権」を見出してきたのだ。
彼には理解できなかった。ポリドリにとって現地生物は実験体以外の何物でもなかった。なぜか人類とマンライクには感染する奇病が、どうしてか現地生物には感染しないという奇妙な事実を調べるための検体だ。モルモットと同様だった。生命資源としての価値は認めるし、それを不当に貶めたり、無駄遣いするようなことは厳に咎められるべきことだとは思うが、言うに事欠いて人権! マンライクを縛る倫理規定は、時折現実を正しく認識できず、不合理な判断をさせてしまうものだ。
顕微鏡で見るような小さな生き物を専門とするポリドリにとって、マンライクの調整は全くの専門外だった。だから叱責するだけで済ませてしまった。後日管理局に調整を頼もうなどと悠長な判断をしてしまった。
彼はそのころ、ついに《流血詛》の改良に成功し、脳神経系への致命的な破壊を阻害する特殊な調整型《流血詛》の試作をアンプルに詰めていたところだった。
完全な予防や治療法ではないが、致命的な人格の破壊は免れる弱毒化とも言える改良だ。《流血詛》の特定蛋白質群にナノレベルの微小な事象操作コードを書き込むことで、《流血詛》が持つ事象変異現象を上書きしたのだ。DNAよりもさらに小さな特定蛋白質群へのコード書き込みはまだ機械では再現できず、彼の職人技によってようやく成し遂げられたものだった。
これが臨床試験に通り、大量生産が可能になれば、すくなくとも人格資源の喪失は抑えられる。もちろん、あくまで弱毒化であって感染性は失われていないので、隔離は必要だろうし、今後も研究を続けて無毒化させていく必要はあるが、それでも偉大な一歩と言えるだろう。
「とはいえ、どの程度抑えられるものか……記憶の欠損や認知力の低下などは懸念されるな……」
一般の治験などさせるわけにはいかない。それこそ倫理規定違反だ。
とはいえ、高次脳機能を除外して培養した治験用マンライクでは、そもそもこのアンプルの効果はわからない。事象操作技術の絡むものは、コンピュータ上でのシミュレーションができないので厄介だ。
「犯罪者や異常個体マンライクなどを申請するしかないが…………ほとんど遠回しな死刑と変わらんからな。倫理委員会と協議せねば……」
ポリドリの悩みは、しかしある意味では解消された。
その日、現地生物と協調したマンライクたちが武装蜂起し、聖王国は大陥落へと向かうことになったからである。ポリドリからすれば信じがたいことに、彼と同じ立場の一部の高等市民さえもがこの蜂起に協力してしまっていた。管理官たるべきものたちが、そのような凶行に走ったのである。引きこもって研究に尽力していたポリドリがその事実を知ったのは、武装したマンライクが研究ブロックを襲撃してからのことだった。
彼にとっての不幸は、彼の手足たる研究従事マンライクがテロリストたちに協調して裏切ったことではない。彼らが収容されていた現地生物どもを解放したことでもない。その混乱の中で、隔離研究室がなんのためになにを隔離しているのかわからん連中によって、乱暴に押し入られてしまったことである。
外部からやってきたテロリストどもは、隔離研究室が、そしてこの病棟ブロックが、なにを研究してなにを隔離しているのかの知識をほとんど持っていなかった。四大疫病の脅威はパニックを招くとして、軍部でも上層部にしか知られていなかった極秘情報だったのである。
そしてその上層部が大慌てで通達するよりも先に、正義感と善意によって現地生物を解放し市民たちの不当なマンライク支配から脱却せんと逸るテロリストたちは病棟ブロックを破壊してこじ開けてしまった。ポリドリからしてみればその主張から行動から何もかもが意味不明だった。従属種たるヒトモドキがなにを言っているのか。合成人間は、そもそもが市民の下に作られているというのに。
だが事態は彼の理解を必要としていなかった。
無骨で無思慮で無遠慮な銃器と爆薬が隔離扉を破壊し、閉じ込められていた疫病が溢れ出した。
彼のいる《流血詛》隔離研究室も同様に。
《流血詛》はあっという間に拡散した。
隔離され拘束された感染者を無辜の被害者と決めつけたテロリストはこれを解放し、襲われ、そのまま次の感染へとつながっていった。正義と善を掲げた彼らは、感染者を撃つことができなかった。襲われ、逃げまどい、そしてそのころにはすべてが手遅れだった。
ポリドリは逃げた。
死にたくなかった。銃に撃たれて死ぬことも、感染者に噛まれて死ぬことも嫌だった。
化け物に殺されたくなかった。死にたくなかった。
そうなりたくなかった。だからこうなった。
死にたくなかった。死にたくなかった。死にたくなかった。
死にたくないから──こうなった。
死にたくないから、アンプルを自身に投与した。
死にたくないから、化け物になってでもと己の生存に賭けた。
死にたくないから。死にたくないから。死にたくないから。
──こう、なった。
怪物になった。化け物になった。死に損ないの死なず者になった。
大切なものだけを抱えて脱出ポッドに乗り込み、砲撃で撃ち落とされた衝撃で二千年の眠りにつき、この地獄のような《塔》で目覚めた。
驚異的な知覚能力と反射神経を持ち、強靭な筋力と身体能力を持ち、理不尽な再生能力と適応能力を有する、死なず、滅びず、朽ちない、だけの化け物に。
なのにいま、ポリドリは殺されそうになっていた。死にそうになっていた。
死にたくないからそうしたのに。死にたくないからこうなったのに。
不条理に、理不尽に、化け物に殺されそうになっていた。死にそうになっていた。
無力に、無慈悲に、無意味に、殺される、それは、それはなんて──人間。
人間のままでは死んでしまうから。
だから、だから、だから。
死にたくないから、化け物になったのに。
そうなりたくなかったから、こうなったのに。
だがそれはなんの代償もないわけではなかった。彼は渇いていた。ひどく渇いていた。飢えと渇きのないまぜになった感覚が、常にその身を苛んだ。
「血が……血が足りない……ッ!」
「させるかッ!」
奇妙なほど血のにおいに敏感になった鼻が処置台に括り付けた少女へ視線を向かわせ、ポリドリはすぐにそれをこらえた。女の蹴りが即座にポリドリの頸椎をへし折ったが、彼はそれをこらえずに、あえてダメージをそのまま勢いに変えて跳んだ。巻き添えにされた採血台を砕きながら、彼はそれに納められた血液パックにかみついた。鉄臭く、嫌な塩気とぬるりとした舌触りが口中に広がる。ひどく不味い。しかし細胞が悦ぶのを感じる。おぞましい。嫌悪感が脳をうずかせた。
染み渡った血液が頸椎を修復し、けれど足りない。
渇きは止まない。恐れは止まらない。
怪物が攻めてくる。化け物が襲ってくる。
死が。死がやってくる。それだけは勘弁してくれと願い続けたものが。
「やめろ! やめてくれ……! 嫌だ、やめろ、やめろ化け物……ッ!」
ポリドリは逃げた。
背を向けて逃げた。
恥も外聞もなく逃げた。
ただひたすらに逃げた。
戦闘に最適化され、人間の反応速度を超越したその身体能力のすべてを、ただ逃走にだけつぎ込んだ。
彼は死にたくなかった。
彼のすべてが無為に失われることを恐れた。
ひたすらに形のないそれが恐ろしかった。
こんなものが、人生の最期であることを認めたくなかった。
──人生の最期は、むしろ演じてみせるわ。
不意に、彼の崩れた脳内に光が走った。
それは過去の情景だった。そのように思われた。もはや彼には過去と現在の区別が曖昧であり、現実と幻覚の差は存在しなかった。だがその顔は真実だった。その笑顔は事実だった。その腹立たしい存在の記憶は、彼の揮発しつつある人格の中で本物だった。
「澄ました女だ。ライバルの功績■君の焦りにはつながらんかね」
「まさか……優秀な同期にはいつも焦らされているわ。あなたもそうじゃないかしら?」
「気に喰■んね」
女だった。
マリア。マリア・バーンフィールド。
三等市民上がり■ありながら、アカデミーを首席で■業した時代の寵児。
次席として後塵を拝するこ■■■■たポリドリは、ジョージは、彼はこの腹■■しい女を常にライバルとして目の敵にしていた。
ジョージが事象操作コ■■■利用した現地の危険な寄生虫の予防薬を開発した功績で《■ィザード》入りした時にも、この女はすでに■■ーピテル》の名で円卓に座って彼を迎え入れる立場であった。電磁気力の事■操作技術を次々と発見し、現地拠点へ■■送イントラネットの接続という輝かしい偉業によって、市史に五十字もの記載を約束された天■だった。
「いまに見■いろ。私はお前に追いつき、追い落としてやる」
「ずいぶん勤勉なことね。いよいよ《ウィザード》筆頭の立場も危ういかしら?」
「その余裕ぶった態度が…………いや、■■、いずれ化けの皮を剥いでやる」
「乙女の素顔を見たいだなんて、困った殿方かしら」
「そうい■■とではな■……!」
飄々とした女だった。
己の苦労を■らとも見せない女だった。
その業績の裏で血のにじむよ■■努力があったことを隠し通す女だった。
弱み■見せないその態度が、ジョージには歯がゆ■■■。涙を見せずうつむくこともない女に心底い■■■ていた。
「いよいよ■■ればお前も危機感というものを覚えるだろう。己の立場■惜しくなるだろう。そう■■■とき、人は本性を見■るものだ」
「と、本で読んだ……かしら?」
「お前のそうい■ところが……!」
からかいに憤って見■■ところで、女は飄々としていた。どこか遠く■見て、どこでも■い何かを眺めていた。ジョ■■にはそれが気に喰わなかった。■ョージはその横顔が嫌■■った。
「いいえ。いいえ、ジョージ。私はみっともないところは見せられないの」
「マリア、■は本気だぞ」
「私もそうよ。私は、死ぬまでこうあり続ける」
「演じる■■■そんなに大事か」
「ええ。これは私の意地。だから、そう。人生の最期は、むしろ演じてみせるわ」
女は完璧な角度で、完璧な微笑みを浮かべた。
「高らかに誇らしく、胸を張って堂々と、誰に恥じることもない私であったと言い張りますわ」
「言い張■って……強がりじゃ■■いか」
「ええ。強がりで意地っ張り。でもこれが私、じゃないかしら?」
だから、最期に演じる姿も決めているのだと、あの女は笑った。笑っていた。
ジョ■ジは。■リドリは。男は。彼はその笑顔が■■だった。
そうま■■なくても、もう誰もが■■を認めていると。そ■言いたかった。
お■■背中ではなく、隣を歩くもの■■■もいいだろうと。そう言いた■った。
言えなかった。
それは全て終わ■たことだった。
あの女は■期までマリア・バーンフィールドを演じき■た。
知るはずもない最■を、しかしジ■ージ・ポリドリは幻■した。
──その姿が、そこにあった。
崩れた脳は、しかし明晰にそれを見た。
虫食いだらけの意識は、不意に鮮明な像を結んだ。
過去と現在が入り混じり、幻覚と現実は境をなくし、そこに女/少女が立っていた。
美しいブロンド/白い髪の、長身/矮躯の女/少女が、ポリドリに向けて高らかに宣言した。
最初、ポリドリはそれを言葉として認識できなかった。
言語の並びを脳がうまく拾えなかった。交易共通語による変換を脳が追いきれなかった。
戦闘に最適化していた脳が、急激に速度を落とされて困惑していた。
だが理解した。
高らかに誇らしく、胸を張って堂々と、誰に恥じることもなく告げられるそれが名乗りだと理解した。
「私は辺境伯の娘、竜の落とし子、《三輪百合》のリリオ・ドラコバーネ! この《塔》を攻略し、屍者を再殺して埋葬するものです!」
男は困惑し、己の手を見た。
己の手は空っぽである。
大事なものだけをもって逃げ出して、そしていまはなにも持たない。
しかし、言葉だけはあった。
緩やかに揮発していく自我の中に、言葉だけは遺されていた。
そうだ。
己は死んでいるのだ。
ポリドリはそのときはじめて理解した。
ジョージ・ポリドリ伯爵は自身の死を二千年越しに理解した。
過去は消えて現在に危うく立ち、幻覚は溶けて現実がそびえたった。
白髪矮躯の少女が、己の前に立ちはだかっていた。
▒░▒はもう、どこにもいなかった。
ポリドリは理解した。
その白い輝きの前に立つ自分の姿を。
血潮にまみれ、汚濁にまみれ、病毒にまみれ、罪業にまみれ、ここに立つ自分を。
ポリドリは理解した。
混濁した意識のままで繰り返した罪を。
低きに堕ちて誇りなく、顔を俯かせ恐々と、誰にも恥じるその所業を。
ポリドリは理解した。
これか。
これが私の終わりか。
ゆえにこそ、ポリドリは胸を張った。
四肢は傷と血にまみれ、白衣は破れて散り散りに、髪は色が抜け目は血に染まり、痩せこけた形相は餓鬼のごとく。
しかして、堂々と胸を張った。
己が悪党であると、胸を張った。
最期くらいは、演じきってやろうと。
「我こそは第六代ポリドリ伯爵ジョージ・ポリドリ! 《打ち払いしものミネルウァ・メディカ》! 誉れ高き《ウィザード》の名を汚す大罪人! 救った数よりなお多くの命を弄んだ大悪党! 止めたくば止めてみせろ──できるものなら!」
彼には、言葉だけがあった。
緩やかに揮発していく自我の中に、言葉だけは遺されていた。
だからこれは、ただの、単なる、遺言である。
用語解説
・ジョージ・ポリドリ伯爵(George Polidori, 6th Earl of Polidori)(死亡)
(古代)聖王国一等市民にして六代目ポリドリ伯爵にして《ウィザード》にして医学者にして疫病学者。
ナノレベルでの事象操作コード記述技術に秀でており、本人の職人技もさることながらそれを機械に学習させ大量生産させることに成功。その技術と功績をもって《ウィザード》として《打ち払いしものミネルウァ・メディカ》の名を与えられた。市史に三十字もの記述がなされた。
《流血詛》対策のために隔離研究室での研究中に大陥落が発生。四大疫病の流出防止のため病棟ブロックごと投棄された、と公的に記録されている。
・マリア・バーンフィールド(Maria Burnfield)(死亡)
(古代)聖王国三等市民からの成り上がり。
電磁気力に関する深い知見を持ち、高度な事象操作技術を有した。
聖王国が現地入りして以来、原因不明の機能不全に陥っていた転送イントラネットを復旧させ、現地拠点との転送経路を新たに接続した功績をもって《響き渡る天網のユーピテル》の名を授かり《ウィザード》入りした。
大陥落の際にテロリストの襲撃を受けて死亡したと公的に記録されている。悪用されぬよう転送イントラネットを破壊。功罪併せて市史に六十字もの記述がなされた。




