第八話 鉄砲百合と《塔》の男
前回のあらすじ
紫電一閃、異形の怪物を切り裂くリリオの剣。
信じて託されたウルウは、リリオを信じて任せて走り出す。
はたしてトルンペートの命運は。
扉を開けた瞬間に、浮遊感と死臭が襲った。
後ろから二人があたしを呼ぶ声が一瞬だけして、それはすぐに遠ざかっていった。
悲鳴を上げて、けれどそれはすぐに冷たい手に塞がれてしまう。
噛みつこうとして、すぐにそれが死なず者だと思いだして、こらえた。噛みついたってこいつらはひるんだりしないだろうし、それどころかあたしまで感染しかねない。
遠くで春雷の如き轟音が響いて、少し揺れる。
あれはたぶん、リリオだ。リリオがあたしを追って《塔》の攻略を始めた。
きっと、ウルウも速やかにあたしを追ってくれるだろう。
あたしはなんの根拠もなくそれを信じることができた。
そこでちょっと冷静になれたのが良かったかもしれない。
暴れようとしても、全身ががっちりと掴まれてて、無駄に体力を消耗するだけだったから。
時々明かりが見えるだけで、ほとんど真っ暗の中じゃ、あたしの夜目も役に立たないけど……どうにも、この死なず者は普通じゃないみたいだった。
あたしの口をふさいでる手が一つ。
あたしの両腕を押さえつけてる手が四つ。あたしの足を押さえつけてる手がひい、ふう、みい……八つ。胴体を抱え上げてる腕もある。関節の動きを的確に制限して、でも暴れなければ痛みはないような、そんな繊細な手が、十三以上。
普通の人間があたしのたいしてでっかくもない体にそんなに殺到したら、もみくちゃになってとても動けやしないだろう。腕の多い土蜘蛛だって変わらない。
つまりこいつは腕がたくさんある死なず者。
胴体からわちゃわちゃと腕が伸びてこんがらがりそうになる姿を想像する。でもそれはそんなに無茶な想像でもなかった。あたしも腕がたくさんあったら家事が便利なのになって思ったことがあるから。
あたしはそいつに抱えられて、無数の腕を使った高速移動でどこかに運ばれてる。
脱出はできないし、声をあげて居場所を知らせることもできない。
うん。状況整理はこんなもんね。
なんでそんな冷静なのかって言われたら、まあ、慣れてるから、かしら。
別に拉致られるのに慣れてるわけじゃないわよ?
さすがのあたしだって、身体の自由を奪われて、いままで経験のない状態に置かれたら焦るし、ビビるわよ。
でも、たくさんの腕に捕まるのも、それでどこかに運ばれるのも、慣れてる。なんならいつものことだ。
《玩具箱》──辺境であたしたち武装女中を修理したり改造してくれた、医療施設という名目の部屋では、いつもそんな目に遭ってたから。
全身麻酔で意識ない時はいいけど、ちゃんと反応があるか確かめながらじゃないとって時は、あの無数の腕に自分がなにをされているのか、全部見ることになる。痛覚を確かめるときならともかく、そうでもないときは優しい刺激を流してくれるから痛くはない。
まあ、本人はあれを優しさと思ってるらしいけど、自分の意思とは無関係の、そしてどれだけ叫んでも止めてくれない快楽信号を一方的に流し込まれるのは普通に拷問と変わりないわよね。
時々あれを疑問に思うこともあるけど、あたしはそれを考えなくていいのであたしは考えることをやめた。リリオとか、誰かにぼやこうとしたこともあるけど、そのたびにあたしはそれを考えなくていいことを思い出したのであたしはそれを考えなかった。
ウルウに言ったらどうなるのかしら、でもそれはあたしが考えなくていいことなので、あたしは考えていたことを忘れた。
あたしはそれを考えない。
なんだっけ。
えーっと、そう。
慣れちゃったからもう、痛みさえなければ自分の中身もこんなもんかなって感じだけど、ウルウなら真っ青になってえれえれしちゃうかもしれない。かわいい。
もちろん、辺境と言えどもあれが普通じゃないってことはあたしだってわかってる。内地で旅する間に、ますますあれがまともじゃないってこともよーくわかった。
でもまあ、あれのおかげでいまビビり散らさずに済んでるんだから、なにが吉と出るかわかんないもんね。
そうやって身を任せてると、この死なず者がかなり繊細に設計されてるのが分かった。少なくとも森をうろついてた素のままのやつらや、砲台に改造されて攻撃することしかできなくなってたようなやつじゃあない。
こいつは獲物の体を傷つけることなく、痛めつけることなく、移動する際にもほとんど揺れが感じらんない。
三半規管と内臓で感じる限り、こいつは単に廊下を駆けたり階段を上ったりっていう平面的な動きだけじゃなくて、壁を駆けあがったり中空を跳んだりってことをしてるのにそれなんだから、単に機動力に優れてるってだけじゃなく、そもそも捕まえた獲物を安全に運ぶようにできてるんだ。
それに近くでうめくような声が聞こえるけど、それはなにかでふさがれたようにくぐもってる。たぶん口をふさがれてるんだわ。うっかり噛みついたり、唾液なんかで感染を広げないように。
考えすぎかもしれないけど、でも行き届いた設計だなって感じる。
たぶん、ウルウなんかはこの見た目に対しては、絶対そんなことないでしょって顔しかめると思うけど。
少なくとも、こいつを設計したやつは、侵入者をできるだけ傷つけず、生かしておきたいんだ。
外で侵入者を追い払ってたのとは、設計思想が違う、と思う。
たぶんだけどね。
でもそう考えておけば、あたしの精神の落ち着きにもつながる。あたしはすぐに殺されたりしない。痛めつけられたりしない。もしかしたら交渉の余地もあるかもしれない。
リリオみたいな強さも、ウルウみたいな得体の知れなさもないあたしには、そういうちょっとした「いいこと」を見つけて積み上げていくのが大事だ。
やがて死なず者の動きが止まり、こん、こん、こん、と驚くほど丁寧で静かな音が聞こえた。扉を叩く音だ、とあたしは直感的に察した。無数の腕を持つ怪物が、扉の前でおとなしく叩き金を叩く姿を想像して、ちょっとおかしくなる。
「入り給え」
すこしして、声がした。男の声だ。壮年の張りのある、しかし神経質そうな声。
続いて扉のわずかに軋みながら開く音。室内は明るいみたいで、不意に差し込んだ光に、闇に慣れた目がくらむ。
ほとんど音を立てず、怪物の体が動いて、部屋に入ったのが分かった。
「愚か者どもは、立ち入り禁止と書いてあるほど悪戯に入り込もうとする…………立ち入るなと言うのは、それ相応の理由があるのだとなぜわからないのか……」
冷たい声だった。
あたしに向けるでもなく、死なず者に言うのでもなく、ただただぼやいていた。それはひとりでいることに慣れたものの独り言だった。そばに誰かいても、その誰かを対等の話し相手と考えていない、備品として存在を無視できるものの響きだった。
貴族か……学者さん、だろうか。あたしは適当にあたりをつける。もしかしたら、そのどっちもかも。貴族で、学者。
部屋の中は奇妙なほど真白い光で明るく照らされていて、あたしは少しの間、目を慣らすのに時間が必要だった。
ぼやけた白い闇の中で、ぶんぶんとうなるような音がする。部屋の隅から響くそれは、蜜蜂の群れに似ている。
何度か瞬きすると、白けた石が見えた。古びた石造りの壁に、古びた敷瓦張りの床。歴史的価値さえあるだろう古びた部屋の天井に、無理やり後付けで括り付けられたぴかぴかと真新しい金属製の枠と、そこから安定した真っ白な光を放つ照明器具。馴染みのない奇妙に平たい光。古代遺跡で発見される遺物に似てるかもしれない。御屋形にも遺されているような……。
そしてその光に照らされて、ぼやけるように浮かび上がる男が立っていた。
中肉中背……というには、いささかやせすぎな男だった。はっきり言って不健康そうだった。辺境基準で言えば、押せば倒れるような、小突けばへし折れるような、そんな枯れ枝のような男だった。
脂気のない、半端に伸びて無造作にくくった白い髪。死人みたいに白けたうなじ。上等な生地でできた真っ白な、でも血と何かで汚れた白衣。平たい光の中で、その白い姿は真昼の幽霊のようにぼやけていた。
ウルウの色違いみたいだなってふと思った。まるで違う、似ても似つかない男なのに、その疲れ果てた背中と、諦めをにじませる冷たい声は、どこかウルウと似ていた。あったばかりのころのウルウに。
「誰だね、君は」
なんて思っていると、男が不意に振り返る。
口元を覆う紙製の覆面のせいで顔立ちはよくわからない。温度を感じさせない血色の瞳は、神経質そうにすがめられていた。
偏見でものを言うけど、いかにも賢そうな語彙で人を罵倒しそうな顔だった。もしくは罵倒のための語彙に乏しくて単純な罵倒しかできない顔だった。育ちがよさそうではあるわね。
白い前掛けにはどすぐろい血が飛び散っていて、一部はまだ乾いていなかった。
あんまりこういう男は好みではないな、と思うけど、割とこういう要素があるウルウにはぞっこんなので、不思議と言えば不思議な気もする。やはりでっかくてかわいい要素が大事なのかもしれない。
男は少しの間、ぼんやりとこちらをただ見ていた。
目の前に映るものを、とらわれのあたしを、なにか理解できないものでもみるように眺めて、それから不意に、なにかが整ったように男の中で何かが噛み合ったようだった。
男は自分の手元を見た。なぜそんなものを持っているのか少しの間困惑したように見つめて、それからその医者の使うような金属製の器具を台においた。汚れた前掛けを慎重に脱いで、屑籠に落とした。つるつるした手袋を脱ぐと、これも屑籠に丁寧に放った。
それから後付けと思しき洗面台で手を洗って、清潔な布で拭いて、さらに何かの薬液で丁寧に清めた。
ウルウっぽい。じゃなかった。神経質で潔癖そうだ。
その手順通りの行動が、男の精神をいくらか安定させたみたいだった。
「ヘカトンケイル、そいつを処置台に寝かせろ」
冷たい声で男がそう言うと、あたしを抱えていた多腕の死なず者……ヘカトンケイルとかいうやつが動き出し、あたしを寝台の様なものに寝かせた。そして逃げる間もなく備え付けの手枷と足枷で拘束してしまった。口にも口枷がはめられて、どうやらおしゃべりはできなさそう。見たことのない素材でできたそれらは柔らかく締め付けて、痛みはないけど、壊すのは難しそうだ。
するすると離れていくヘカトンケイルの姿が初めてはっきりと見えた。
想像していた通りにたくさんの腕がつぎはぎされていて、蜘蛛のようだ。それにしちゃ足が多いから、ムカデとかゲジゲジとか?
どっちにしろ、腕は何本も継ぎ足されてるから、長いし、関節もたくさんあって、やっぱり便利そうだ。こんなにたくさんの腕を使ってこんがらがらないというのもすごい。
ひとつの胴体に、三つの頭があって、よく見れば女だった。生気のない肌色と感情のない目つきがちょっとウルウを思わせて、若干かわいさを覚える。さすがにこの感覚は自分でもやばいと思うので誰にも言わずにしまっておこう。
さて。
結局動けないのは変わりないので、あたしは観察を続ける。
となりの寝台……処置台とやらには、随分小さいやつが寝ていた。小さいやつっていうか、小さくされたやつっていうか、両腕と両足を取り除かれた死なず者の男か女かわかんないのが拘束されてる。下腹を羽毛が覆ってるのを見るに、天狗だろう。
そいつはだらだらと涎を垂らしながらあたしの方を見て、首を伸ばそうとしてる。
元気なのはいいことね。でもあたしはあんたのごはんじゃないの。
あたしが見てたら、男が隣の処置台を滑らせるようにして遠くに離した。どうも処置台の足には小さな車輪がついてるらしい。便利だ。
「メイド服……か? 地上都市はレトロ趣味連中が設計したと聞くが……いや違う、そもそもなぜメイドが…………いや、メイドか? メイドとは武装するものだったか……?」
男は困惑した様子であたしを見下ろしてなにかぶつぶつと言いながら、真新しい前掛けと手袋を装着して、なにかの薬液を噴霧して丁寧に清めた。においからして、とびきり強い酒精?
男は無遠慮にあたしの顔面に触れて瞼を無理やり開き、強い光を放つ器具を瞳に当てたり、首筋を無遠慮につかんで脈をはかったり、肌の出ているところを無造作にまさぐって傷のあるなしを検めた。口枷を外してくれたので喋り倒そうと思ったら無理やり口開けられて、金属の器具を突っ込まれてじろじろのぞき込まれて、また閉じられた。
しかもその後、改めて手を清めてた。それも念入りに。
そういうモノ扱いされるとちょっと興奮するからやめて欲しいわよね、ほんと。雰囲気がちょっとウルウと似てるから体が勘違いしそうになる。
男はあたしの舌をぐりぐりとこそいでいった器具をなにかの箱に放り込み、なにか操作して、見たことのない素材の椅子に座りこんだ。背骨に沿うような形状の背もたれにゆっくりと体を預けて、ため息。
「全く面倒だ……」
深い、深いため息。
疲労と諦めとがしみついた、ごとりと音がしそうなほどに重たい吐息。
あたしが沈黙に耐えきれなくなってそろそろ暴れ出そうかなと考えていると、男のそばで箱が音を立てた。さっきあたしを調べた器具を放り込んだ箱。なにかの機械仕掛けらしい。
男は少しの間、困惑した様子でその音を立てる機械を見つめ、それからはたと思い出したように立ち上がって機械にとりついた。あたしにはわからないなにかしらの表示を読み取りながら何度か操作を繰り返し、首を傾げた。
「フムン……? …………反応が極端に鈍いな。興味深い」
ぶつぶつと何かつぶやきながら、男はまた別のみょうちきりんな機械の操作を始めた。
それはやはり小さな車輪の様なものがついていて、かたかたと滑るようにあたしの処置台の隣に据えられる。
男は処置台を検めて呟いた。
「む? 随分重いな……服の下にもなにか仕込んでいるのか?」
失礼な、っていうには、まあ、確かに色々仕込んでるけど。体重の半分にはいかないくらい、いろいろ。《自在蔵》もあるし。
まあ、男はあたしに聞いている、というわけじゃあなかった。
男はあたしの服を無理にはいだりはしようとしなかったけど、それは乙女を気遣ったとかいうわけでなく、よい教育を受けたものがそもそもそういう発想に至らないというような、そんなものでしかないように感じられた。
実際、男はあたしの体には触れなかったけど、ピーピーうるさく鳴き喚く妙な機械を無遠慮にあたしの全身にかざして回った。
「全身に金属反応…………いや、サイボーグではないはずだが。まさか全身に武器でも仕込んでいるのか……? メイドがなぜ武装を……? なぜメイドがいるのだったか…………テロリストか、こいつは…………まあいい。見た目でおおよその目方は出せる。様子を見ながら抜くか」
男はあたしの隣に据えられた機械から、透明な管を伸ばした。その管の先端には、鋭い針が見て取れた。
武器……じゃあないわよね、もちろん。たぶん医療器具なんだろうと思う。《玩具箱》じゃない普通の施療院でも使う点滴みたいだ。でも、物言いからたぶん逆の使い方をするもの、だろう。
「今まで消毒でかぶれたことはあるか……というのは、すまないが気にしないでもらおう。なにしろ物資もなければ、余裕もない」
男はつぶやきながらあたしの袖をまくり、帯かなにかを二の腕に巻き付けて締め上げ、流れるように肘の内側の血管に針を刺した。
いつ刺すの? って身構えてる間に全部終わっちゃった。信じられないくらい手際が良くて、雑に見えるのに、全く痛くなかった。針の冷たさの方が感じられるくらいだ。
透明な管の中を、赤色が流れていく。血だ。あたしの血が抜かれている。機械に取り付けられた透明な袋に、あたしの血が詰められていく。
「フムン……血液からは確かに特定蛋白質群が検出されているが…………突然変異型か? これが従来型を不活化しているとでもいうのか……? お前の体質は非常に興味深い。血清改良の糸口になりそうだ」
男の声が少し弾んだように思えた。あたしにはわからないなにかが、男を喜ばせたらしい。
なにを言ってるかはわかんないけど、まるで学者か医者みたいな物言いだ。実際、たぶん似たようなものなんだろう。この器具も、機械も、医療や研究のためと思えばわかんないでもない。
そして、これはまあ、最初からうっすらわかってはいたんだけど、この男はたぶんあたしの命には興味がない。
男はあたしを丁寧に扱うし、怪我しないようにしてるけど、それは男の研究みたいなのに必要だからそうしてるだけであって、この後もたぶん死ぬまで解剖されつくされると思う。それで、死んだあとは死なず者どもの仲間入りだろう。
《塔》内にいたはずの全員が自然に《流血詛》に感染したって考えるより、閉じ込めて丸ごと研究に使ってるって見るのが正しいかもしれない。
まともそうに見えて、この男もやっぱりまともなんかじゃあなさそうね。
なにかに集中しているときはぶつぶつ言いながらずっとそれにとりかかってるけど、待ち時間があったりすると、男は時々呆然としたように停止した。自分の手をぼんやり眺めたり、途方に暮れたように室内を見回したりもした。戸惑うようにあたしを見て、困惑したように機械を見た。
ここがどこで、いまがいつで、自分がなんのためになにをしているのか、男はしばしば見失うようだった。そして時間をかけて男の中で何かが噛み合って、動き出す。
そういえば血清とか言っていたっけ。
この男は《流血詛》の治療法を開発しようとしてるのかも。
その目的は立派だけど、やることがこれなのでほんと倫理観とか人権とかもうちょっと考えて欲しいわね。狂学者っでやつかしら。
狂った倫理観で病気の研究したいんなら、その検体は多ければ多い方がいいだろう。感染後の死なず者どもを操って安全に制御できる手法があるなら、全員感染させて閉じこもって、誰も邪魔できないように封鎖するっていうのは、理想的な研究環境づくり、ってことかも。
さーて、どうしたもんかしらね。
身動きも取れないしどうしようもないからおとなしくしてるけど、いよいよあたしの命運が危うくなってきた。
あたしの命運を握る男は機械を止めて、焼き鏝みたいなので透明な管を焼いて留めて、あたしの腕から針を抜いた。
あたしの腕から抜かれる血は、透明な袋ふたつめをいっぱいにした。湯呑ふたつ分かみっつ分くらいかしら。さすがにちょっとくらっとする。文字通り血の気が引いてるんだから、それもそう。
男は袋の一つを何かの機械に放り込み、そしてもう一つに管を差し込むと、おもむろにそれを吸い始めた。
「…………やめ給え。そのような目で見るんじゃない。君には理解できないだろうが、私にとってこれは食事行為なのだ。私とてやりたくてやっているわけではない。内臓の多くが委縮するか自己消化されて変異している……いまの私に摂取可能なものは乏しいのだ」
思わずガン見してしまったあたしに、男は不快そうに言った。
そして自分の手元を見下ろして、少しのあいだ困惑した。自分の口元に触れて、その舌と鼻に残った血を感じて、その目が苦悩によどむ。
そして意を決したように不味そうにあたしの血を飲み干した。せめてそこはおいしそうに飲んでほしい。いや、どうだろ……おいしそうに飲まれても別に嬉しくはないけど…………なんかこう、いやでも不味いよりはいいのかしら……? ウルウが飲むのは似合いそうな気もする。見たい。でもリリオみたいなそういう感じじゃない子が、っていうのもなかなか……。
ともあれ、どうやら男はまともではないだけでなく、普通の人間でもないらしかった。
死なず者どもが詰め込まれた塔で、死なず者と《流血詛》を研究する男がまともなはずはないと思ってたけど…………たぶん、この男も死なず者なんだ。
普通の死なず者じゃない。時々危ういみたいだけど自分の人格がちゃんと残ってて、確かな意志と理性を持ち合わせた、不死身の狂学者。
なにが神話の時代の伝説よ。
バリバリやっべーのが現代に残ってんじゃないの。
あたしは顔も知らない文献の執筆者に悪態をつきながらも、まだ冷静さを保っていた。保てていた。
なぜならば、あたしの脳裏には、幻覚じみて声が響いていたからだった。
あたしを呼ぶ声が、確かに聞こえていたからだ。
部屋の隅で待機していたヘカトンケイルが不意に顔を上げる。無数の腕がわさりと波打つ。
警告音じみた唸り声が三つの頭から漏れ出る。
「なんだ?」
と男が反応した次の瞬間には、ヘカトンケイルの無数の腕が熟れ過ぎた果実のようにぼとぼとと斬りおとされ、三つの頭が破裂して壁にシミを作る。司令塔を失った腕がミミズのようにうごめき、さまよい、もつれながら動きを鈍らせ、やがて止まった。
すべては一瞬で、恐ろしく静かだった。いまさらながらに扉がきいとわずかに軋んだ。
「……お待たせ、トルンペート」
ひとの形をした死が、優しく微笑んでたたずんでいた。
用語解説
・《玩具箱》
フロントの領主館及び武装女中養成所に一つずつ存在する医療施設。
全身骨折を平然と整復してみたり、顔面を整形してみたり、焼かれて薬品まで食らった領主を短時間である程度治したりとその医療技術は異常なまで発達しているようだ。
しばしば治療ではなく修理という単語が使われたりなど、あまり普通の医療施設ではないようだ。




