下
男は破竹の勢いで過去の修正を進めていった。簡単な作業だった。運動会で活躍したければ、早く走りたいと願う。合唱祭で上手く歌いたいと思えばそう願う。それだけですべて思い通りに実行することができた。
男の人生の修正は高校生の頃にまで来ていた。
高校二年生のバレンタインデー。それは修正前の人生で男が醜態を晒した日だ。朝からそわそわしては女をちらちらと見て様子窺い、放課後に意味もなく教室に残る。
影でクラスメイトから笑われているとも知らずに、一日中、きょろきょろにやにやしていた。それはもうひどい有様だった。人というよりは猿だった。
笑われていたことを人づてに聞いて知った日の夜は枕をびしょびしょに濡らし、どういう訳かクラスメイトを恨んだ。
しかし、今回は違う。朝、登校すれば下駄箱にはぎゅうぎゅうにチョコレートとラブレターが詰まっていた。昇降口から教室までの道のりでは左右から男めがけてチョコと女が飛んできた。男はそれを全て受け止めて、笑顔を返しながら教室へ向かう。
教室に入れば自分の机にうずたかくチョコが積まれていた。他の男子からの羨望と嫉妬の視線を心地よく浴びながら席に座る。
いくらでも見るがいい。この有象無象共が。
男は授業中にも関わらずチョコを頬張った。女教師も男に惚れているため叱られることは無い。ほぼ校内の女子全てからのチョコを完食した。鼻がむずむずすると思ったらおびただしい鼻血が噴出した。保健室へ女子数名に担がれて運ばれる。
保健室の前には男を心配した女子が長蛇の列を成す。
男は保健室の先生の異常なまでに手厚い看護を受けながら高笑いした。清々しい、真っ直ぐな声だった。持たざる者には決して出すことの出来ない声音。今や男は持つ者だった。
男はそのままの調子で大学も過ぎ、社会人になった。つまり、修正前とほぼ同じところまで来たのだ。時間は同じでも男は昔の彼とは全く違っていた。
全身から自身が溢れていた。胸を張って歩く。おしゃれに気を使う。もはや昔の男の影はどこにも見つからない。
男は人を助けるようになっていた。一つ分かったことがあったのだ。自分に能力があって初めて優しさが意味を持つということである。
無能が人に優しくする。それはただそうすることでしか生きていけないからだ。しかし、有能な人間が人に優しくする。これはその人物の器量の大きさを示すことになる。
それに気づいた今や有能な男は人をやたらめったら助けまくった。不良に絡まれる少女は助けるし、トラックに轢かれそうな女性を助けるためにトラックを吹き飛ばす。それはもう人格の優れた好青年になっていた。
そんな順風満帆な男にも一つ気がかりなことがあった。ずっとある一人の少年のことが気になっていたのだ。
その少年は男の行くところ全ての場で視界の隅に立っていた。もじゃもじゃの頭に黒い学生服。中学生とも高校生ともとれる外見だ。
少年が出す陰鬱な雰囲気がいつも男の神経を逆なでする。今まで男もわざわざ相手にするのも嫌で、無視していた。しかし、如何せん邪魔くさい。それに、奇妙な引っかかりがあった。
男はとうとうその少年を排除することに決めた。
都会のビル群の間を両脇に何人も女を侍らせながら歩いている今も、男の視界の端にその少年は下を向いて突っ立っている。
男は女達を連れながら少年の前に立った。
「おい、お前」
少年が少しだけ顔を上げて上目遣いで男を見た。いや、見たというよりは睨んだという感じだ。長いくせっ毛の隙間から濁った目が男を睨みつけていた。陰気で卑しい汚い眼だ。
男はその姿を見て勝利を確信した。彼は持たざる者だと感じたのだ。
「目障りだ。消えろ」
少年は動かない。この世界ならばここまで言えば皆泣いて謝りながらどこかへ走り去る。男は気味の悪い感じがした。
ぼそぼそと少年が何か言っている。男と少年の距離は三十センチもないのに、何を言っているのか分からない。
「なんて言ってるんだ? 聞こえないぞ」
肩を掴んで揺さぶる。
「何この子? キモ。てか暗ッ!」
両脇の女達が騒ぎ立てる。
少年の声が少し大きくなった。どうにか聞こえそうだ。耳を澄ます。
「お前に関係ねえだろ」
小さな声でそれだけ言うとまた押し黙ってしまった。男はそれを聞いて、確信した。少年のことが変に引っかかっていた理由がやっと分かった。
この少年は過去の男自身だった。しかし、それは人生を修正する前の自分。持たざる者の自分だ。誰からも認められず、何も出来ない木偶の坊。
過去の亡霊め。
男は苛立ったが、すぐにかっとなって怒鳴り散らすようなことはしなかった。順風満帆な人生で寛容さを身につけていた。
よくよく考えればこの少年は哀れではないか。いつか今のように心ゆくまで快楽を得られる時が来るのにこんなにも周りを威嚇している。大丈夫だ。心配いらない。君の人生は明るい。
それだけ教えてやろう。
男はにっこり笑って優しく少年の肩に手を置いた。少年がびくりと震えた。
「俺は未来の君だ。信じられないかもしれないが本当だ。何か証明できることはないかな。ああ、そうだ君が隠しているエロ本の場所は勉強机の引き出しの裏だ」
また、少年が震えた。男を睨みつける目に異様なものを見る時の色が混じる。
「信じてくれたみたいだな。大丈夫。そんなに怯えなくていい。君の将来は明るい。未来の君が言うんだ。間違いない」
「この子、未来のあなたなの? こんなんだったんだ。意外! でもギャップがいいよねえ」
両脇で女達がキャッキャと盛り上がり始めた。反対に少年は黙りこくってしまった。
当然、未来の自分を名乗る人物に会えば動揺するだろう。男は仕方がないことと考えて、ゆっくりと待った。
暫くすると、少年がまたぼそぼそと何か話し始めた。男は暖かな気持ちでそれを聞こうとした。
「未来だか過去だかどっちでもいいけど、結局今の俺じゃねえんなら他人だろ。他人が俺に口出しすんじゃねえよ。関係無いんだからほっといてくれ」
何て屁理屈だ。このガキは。ああ、救いようがない。そう確信した。
しかし、男には少年をほうっておくことが出来ない。男が願いを叶え、快感に身を委ねるその時、少年がいつも視界の隅に映る。その瞬間、心の一部が冷えて、完全に快楽に溺れることが出来ないのだ。
殺すか。
男の中に自然に殺意がふっと湧いてきた。気づけばどこから出てきたのか包丁を握っていた。
何もかもが自分の思い通りに行く世界だ。こいつを殺せば、邪魔者は全て消える。もう、過去に縛られることはない。完璧に生まれ変わることが出来るのだ。
少年を睨みつける。
可哀想な被害妄想癖のある自意識過剰な昔の俺。お前は全くドジでグズで失敗作だよ。
男は少年の心臓めがけて包丁を突き出した。少年は動かなかった。男の狙い通り胸に包丁が突き刺さる。制服を貫いて肉に到達する感覚。
少年から呻き声が漏れた。包丁を引き抜く。穴の空いた胸から粘り気をもった赤黒い血が流れる。
やった。
少年の体から力が抜ける。がくりと膝が折れ、前のめりに倒れた。うつ伏せになった少年の周りに綺麗な円状に血溜りができた。
死んだ。それが分かった瞬間、男は今まで味わったことのない快感を感じた。腰と膝はがくがくと震え、立っていられない。尻もちをついた。快感は収まらない。天に登る気持ちとはまさにこの事だ。この世界で味わった数多の快感を全て合わせても足りないような圧倒的な快楽の津波。
過去の汚点の消去。
自分の理想ではない現実の自分を消し去った。現実と理想の完全な一致。願望の完璧な成就。
素晴らしい。ああ、なんて清々しいんだろうか。
あまりの快感に頭がくらくらしてきた。世界が歪み始める。横に立っていた女達の姿が消えている。段々と視界が暗くなる。
何かおかしいぞ。
男はそう勘づいたが、もう遅かった。
死んでいるはずの少年の唇の端が吊り上がる。
「逃げられるわけないだろ」
男の寝ているベットの枕の横にある目覚まし時計がけたたましいベルを鳴り響かせている。男は眠気でくらくらする頭を振ってどうにかベットから上半身を引き剥がした。いい夢を見ていた気もするがもうあやふやで何も思い出せない。
男はふと何かに気づいて、顔をしかめた。恐る恐る布団を持ち上げて股間を見る。
男は大きなため息を一つ吐いた。