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夢現  作者: N
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 空の真上に張り付く太陽は妙に平面的で、白かった。

 男は、人が雪崩のように忙しなく歩く交差点の只中に立っている。交差点の周りはぐるりと高層ビルに囲まれていた。それらはまるで交差点に覆いかぶさっているように見えた。


 今、男に理解出来ていることは二つ。

 一つはこれが夢であるということ。もう一つは虫に食べられたような穴だらけの記憶しかないということ。

 それだけ分かってそこに立っていた。

 川の真ん中に置かれた石とその周りを流れる水のように彼の周りを何人もの人が歩きすぎていく。強すぎる太陽の光が、高層ビル群やコンクリートの地面や歩く人々全てを白黒のモノクロに染めている。ビルに切り取られた空だけが真っ青に輝いていた。ゆらゆらと蜃気楼が全てを歪ませている。

 

 男は下を向いて歩いていく人々をぼうっと見ながら自分も現実ではこうやって会社に向かっていた気がしてきていた。それを思うと頭痛がする。

 きっと禄な仕事をしてはいないんだろうと思った。

 

 突然肩に衝撃を感じた。二三歩後ろによろめいてからへなへなと尻餅をつく。上を見るとスーツを着て汗をかいた禿げた中年男性が逆光で真っ黒になりながら男を見下していた。

 彼にはその中年男性が自分の上司であることを不思議と確信した。

 すると錆が剥がれ落ちていくように大して思い出したくもない記憶が姿を現した。

 特筆すべきこともないただの冴えない会社員。頭を下げてばかりの毎日。働いて寝ていれば味気なく流れる日々。それに対して何の感情も湧かなくなったざらざらした心。

 彼は止まらないイメージに蓋をした。

「おい、何私にぶつかっているんだ? ふざけるなよ。早く立って会社に行け。働け。皆頑張っているんだ。お前だけが甘ったれるな」

 男はすぐに立ち上がった。

「すみません。すぐに行きます。すみません」

 ぺこぺこと頭を下げる男の前を彼の上司は満足気な顔で歩き過ぎていこうとした。その直前、彼はここが夢であることを思い出した。一瞬で常識とマナーと法律の三つの概念が頭から抜け落ちた。それによって空いた穴から怒りがずるりと顔を出した。それを現実の記憶が焚きつける。

 背を向けて歩いていく上司の肩をぐわしと掴んだ。

「ふざけているのはどっちだ!? 俺は会社になんて行きたくねえから行かないんだ! それの何が悪い!?」

 唾を飛ばし飛ばし叫んだ。ただの暴論である。幼稚園児の方がまだ筋の通ったまともなことを言えるだろう。

 しかし、ここは男の夢の世界だった。全ての事柄の善し悪しの判定は彼だけが下すことが出来る。彼は当然自分の言ったことは正しいと考え、間違っているのは上司で、否定されるべきは上司の方だと思った。

 彼の上司は突然、泣き出して、彼の前に土下座した。

「すみませんでした。私が間違っていました。どうか許してください」

 いつの間にか周りの人々が足を止めて、惜しみない拍手を男に贈っている。皆、一様に笑顔で、男の上司を見下している。

 男は足の先から頭のてっぺんまで何とも言えない快感を味わった。その快感に身を任せたまま、ひれ伏している上司の横っ腹を蹴りあげた。

「消えろ!」

 上司がよろよろと立ち上がって泣きながら立ち去るのを腕を組みながら満足気に眺めた。周りの拍手は鳴り止まない。男がそれを望んでいるからだ。

 実際に夢なのだが、男は夢のような気持ちだった。夢から覚めたくないと強く望んだ。

 人は空しい男だと笑うのかもしれない。しかし、男にはそんなことはどうでもよかった。

 この世界ならば人は男をいくらでも敬い、讃えてくれる。どうせいつか覚める夢ならば存分に味わい、謳歌してやろう。そんなことを考えていた。珍しく前向きな気持ちになっていた。

 

 段々頭が霧が晴れるようにはっきりしてきて、記憶の穴が埋まってきた。

 隅っこの方で体育座りをしていたら終わっていた小学校の運動会。歌が下手過ぎて黙っていろとクラスの仕切り屋の女子から言われた中学校の合唱祭。寝たふりをしていたら見破られた高校。失敗した大学受験。

 

 男は絶叫した。顔を真っ赤にして声を絞り出す。記憶を声で押し返そうとするような無意味で悲痛な声音だった。

 頭を掻きむしり、街を走る。一瞬前の余裕は消し飛んでいた。記憶の影から逃げたい、それだけに支配されていた。

 

 なぜ思い出してしまったのか。こんな記憶しかないと分かっていたら、絶対に思い出そうとはしなかったのに。


 そんな意味のわからないことを思いながら高層ビル群の隙間を駆け抜けていく。

「うわ、うわ」とぷつぷつ言いながら疲れるまで走り続けてやろうと考えた。しかし、いくら走っても汗一つかかなければ息も乱れはしなかった。

 

 それでもだんだんと記憶の濁流の流れが弱くなっていく。男は全く疲れてはいなかったが取り敢えず足を止めた。周りはまた、高層ビルに囲まれていた。男はさっきと同じ場所のようにも、似ているだけの違う場所のようにも感じた。


 夢から覚める気配はない。頬をつねってみても痛くない。ならこれは夢のはずだ。本当に? 本当に俺は夢を見ているのか? 既に目を覚ましているんじゃないのか?


 横を歩いていく企業の制服に身を包んだ女を呼び止めた。

「すみません。ここはどこですか?」

 男は縋るように質問した。

 女はにっこりと笑った。

「ここは現実ですよ」

 それを聞いて男もまたにっこりと笑った。ただ男の方はどちらかというとにやにやといった感じではあったが。

 女はいつの間にか人の波にさらわれてどこかへ消えていた。男はその波を眺めながらまだ笑っていた。

 

「間違い直しだ」

 どこからともなく声が聞こえきてきた。強いて言うなら男には天から声が降ってきたように聞こえた。

 声は続ける。

「今からお前は過去から順に人生の修正をしていくのだ」

 そうか、そうだったのか。

 男はニヤつきながら何度もうんうんと頷いた。言うなればこれは人生の二週目ということだ。

 今まで真面目にこつこつ生きてきた褒美に違いない。

 男は真面目にしか生きることが出来なかっただけの人生を見事に美化した。


 今からやっと俺の人生が始まるのだ。時間も、人も、世界も、全てが俺の為に動く人生が始まる。誰もが人生の主人公と言うじゃないか。自分の思い通りにことが進んで何がおかしい。

 全て今日までの予行練習だったのだ。今から始まるのは人生の二週目。やってやる。

 

 男は鼻からふんふんと息を吹き吹き意気込んだ。過去を一つずつ修正していけば最後にはバラ色の人生が男を待っているはずだ。

 記憶の壺をこわごわ覗きながら、やり直したいことを探す。いくらでも出てきた。寧ろやり直さなくてもいいと思えるものが無かった。

 男は切りがないと思い、吟味に吟味を重ねて、いくつかに絞り込んだ。その中で一番古い記憶を頭に思い浮かべた。

 すると周りの風景が段々と様子を変え始めた。まず、高層ビル群が全て黒ずみ、さらさらと粉になって少しずつ形を失い始めた。遠くから風が吹いた。ビル群は一気に吹き飛び、その砂鉄のような粉は夏の空に吸い込まれて消えた。

 砂鉄を吸い込んだ真夏の空には周りから厚い雲が押し寄せてくる。真っ白い太陽が雲に隠れた。世界全体が灰色になる。

 空気が痛いほど冷えて張り詰めていく。交差点を歩いていた人々は陽炎のように揺らめきながら姿を消し、地面には枯葉が敷き詰められていた。いつの間にかビル群の代わりに葉を落とした街路樹が両脇に立ち並んでいる。

 空からちらちらと白いものが降ってきた。雪だった。

 男は小学生の頃の冬のある日を思い出していた。その頃彼は近所の同級生の女の子が好きだった。いわゆる初恋というものだ。

 その初恋の子とどういう訳か、二人きりで雪の降る並木道を歩いたことがあった。その理由はもう男には有耶無耶だった。 


 気づけば男の姿は小学生の姿になっていた。赤いマフラーを首にぐるぐる巻きにして、もじゃもじゃの頭を冷気にさらして、並木道の真ん中に立っていた。

 男の少し前を小学生の少女が歩いている。男と同じマフラーを巻いている。少女が人差し指で空を指さした。

「雪だ!」

 男はそれを見て、泣きたくなった。何もかもが懐かしかった。そうだった。ここで俺はひどい間違いを犯したのだ。

「そうだね。雪だ。綺麗だ」

 当時の彼は本に凝っていた。意味のわからない本を理解したつもりで読んでいた。その影響で彼は比喩を使えば取り敢えずかっこいいと思っていた。

 小学生の頃の男は無い語彙をかき回して、あまりに悲惨な比喩を思いついた。

「この雪はまるでフケみたいだ」

 こう言った瞬間の少女の冷たい顔。それは男の人生を象徴するものだった。その日を境に一気に男と少女は疎遠になった。当然、少女に非は無い。しかし、男は怒った。

 どうして自分を好いてくれないのか。自分はこんなにも彼女を好いているというのに。

 これが当時の男の意見だ。完全にストーカーのそれである。


 男はそれをしみじみと思い返しながら、口を噤む。

 これでいい。言葉は必要なかったのだ。少女が振り返って男を見る。男は微笑んだ。少女も微笑み返した。少女の潤んだ目と寒さでぽっと紅くなった頬。雪が地面に落ちる音が聞こえてきそうなほどの静寂。その中で確かに二人の間に小学生にしては少しませた感情が生まれていた。

 男が少女の冷えた手をとる。女性特有の柔らかい、儚げな手だった。

 男は鍋の中でとろとろと煮込まれているような幸福を感じていた。

 

 一つ、人生の過ちを修正した。

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