第八章
=白魔女・黒魔女の戦闘技能②=
一般に、駆け出しの白魔女と駆け出しの黒魔女とでは、後者の方が戦闘能力において優れると言われる。これは大半の黒魔女が、契約の瞬間より、契約相手の悪魔から、何らかの中級クラスの黒魔術を教わっているからである。だが、駆け出しの黒魔女の大半はその一つの術に頼り過ぎるあまり、攻撃がワンパターンになる傾向が強く、聖職者や、基礎的経験のある白魔女なら難なく倒せる。そもそも契約の悪魔は、別に黒魔女に長生きして欲しいわけでもないので(むしろ早く死んでくれた方が、新しい契約対象に早めに憑依することができて、より多くの魂と契約したい悪魔にとっては都合がいい)、原則、「戦闘や殺人はできるが、聖職者に狙われればすぐに殺されてしまう」レベルの黒魔女を産み出すことを心がけている。
一方で白魔女は、継承の瞬間から使える魔術は無いが、大半は自らの師匠から計画的に魔術を教わっていくため、たちまちレパートリーが豊富になってゆき、経験に対し加速度的に強くなっていく(黒魔女には基本的に師弟関係が無いため、最も効率よく戦闘技能を高められる手段である『魔導書』が入手しづらい。魔術は元々独学で学べるような代物でもなく、魔導書の保有数が、魔女の強さを大きく左右する)。
あたしは、おぼろげな意識の中にいた。浅い海の底の、平たい砂の中に、普段のあたしの寝室だけが、ぽつりとひっそり立っていた。あたしは、藁のベッドの上に一人で座り込んで、頭を膝に埋めてうずくまっていた。薄暗い光が、水面越しに、世界を覆っていた。けれど、この海に、生き物はいない。魚も、サンゴも、クラゲも、何も。あたしの他には、ここには何もいないし、いてもいけない。
あたしの頭上の水面には、激しい雨が降り注いで、ずっとうるさく打ちつけていた。その音だけを、あたしは、黙りこくって聞いていた。寝室の中は暗く、狭く、ここにいるのは、とても心地よく感じた。髪が水流で揺れ、顔の周りでふわりふわりと、頬を撫でるようにして、優しく渦巻いた。
……落ち着く。この空間は、何だかわからないけれど、とても、とても、落ち着く。誰かから傷つけられることも無ければ、そう、今は、救われることも無い。神様もいない。あたしだけが、クリスティアーナだけが、孤独に、そうやって、雨の音を聞いていられる世界。ぼんやりと消えていく世界の泣き声だけが、この場所には昏々(こんこん)と満ち満ちている。
これは、あたしの心の中だ。何かがあたしにそう告げていた。とてもきれいで、とても優しい、夢の中の夢のような世界。何だか今は、ここから出たくないや。ずっとここにいることができれば、それってきっと、この上なく幸せなんだろうな。
「辛いのかい」
ふと、声がした。誰? この世界には、あたし一人しかいないはずなのに。
顔を上げる。周りで髪が揺らめく。戸口に、少年が立っていた。穏やかな表情の顔は、シャルルととても似ているが、よく見ると若干だけ別人だ――ところどころの特徴が、微妙に異なる(まるで兄弟か親戚のようだ)。髪型や、その絹のような美しい艶めきこそシャルルと同じだが、この少年の髪は真っ黒だ。目は紅い。でも、本当に、見れば見るほど、シャルルと似ている。似ていると同時にも、明らかに別人で――どういうことだろう?
少年は、よく似合う、貴族的な衣装を身に纏っていた。黒を基調に、金色の縁取りやら、袖口の白い飾りやら――まるで、宮殿のダンス・パーティーに出席しているかのようだ。服装も、佇まいも、表情も、どこか優美な高貴さに満ちていた。
あたしはこの少年を見たことなんてなかった。彼は確かに、赤の他人のはずだった。なのに何故だろう、なのに何だろう。この、胸の奥から溢れる、愛しさは――?
「……そっちに」
少年が、仄かな笑顔をたたえ、囁いた。
「入っても、いい? ……隣、座っても――いいかな?」
あたしは頷いた。自然のことのように、思えた。
「ありがとう」
少年が戸口を通り、あたしの横に歩いてきて、ゆっくりと腰かけた。あたしを見て、悲しげに笑う。
「君は傷ついてしまっている。心も、身体も、両方さ。本来は一生、元には戻せない程に」
あたしは無表情でそれを聞いていた。そう言えば、そうだったな。でも、あたしは、ここから出るつもりだなんてどちらにせよないんだ。この世界ではあたしは、永遠に、痣や怪我、火傷のたった一つも無く、傷つけられずに生きていくことができる。
「そうだね。それは楽だ」
少年は悲しい笑いを浮かべていた。
「でも君は戻らないといけないんだ。……大丈夫、心配はいらないよ。僕は君を助けたい。絶望から解き放ってやりたい。君が安心に、平和に楽しく生きることができる、幸せな世界を、僕は、君と一緒に創っていきたいんだ。
君は地上世界の女王になるに相応しい存在だ。君が願えば、それはただの夢ではなくなる。どんな願いだって叶う。その世界を産むために、君は、戻らないといけないんだ。僕と一緒に行こう」
「……ごめんなさい。あたし……もう、疲れたの」
あたしは呟いた。
「放っておいて。あたしを気にしないで。あんな世界には、もう戻りたくない。ここにいれば、あたしは傷つかないもの。それが幸せなの。高望みなんて、もうしたくないの」
「それは違うよ。こんなことしたって、何も産まれない。ねぇ、お願い、目を覚ましてよ」
「どうして?」
本心だった。
「あたし、ここにいたいの。ここから出たくないの。一人きりの世界の方がよっぽど素敵」
「本当の幸せをまだ知らないから、君はそんなことが言えるんだ」
少年は言った。
「世界が嫌なら、君が世界を変えればいいんだよ。違うかい?」
「だからあたしには、そんなことできない!」
あたしは泣き喚いた。頭を抱える。
「本当はあたしだって、そう思ってこうしたのよ。魔女になれば、力が手に入れば、何もかも思い通りになるって思ってた。でも違う! こんなもの手にしたせいで……あたし……酷い目に遭ったの。理不尽に傷つけられた。もうこんなの嫌なの。世界から逃げ出したい。全てを変えようと思ったら、これから先何回も、あんな目に遭わないといけないんでしょ……?」
「そんなことないよ。これから先は、僕が君を助けてあげる」
少年が、そっと微笑む。
「君を愛しているんだ。僕は君の剣になり、盾となる。この世の全ての辛い物から、君のことを守り続けてあげる」
「でも、どうして……?」
少年の顔を見つめながら、あたしは首を振った。
「どうしてあたしを愛するの? あたしはあなたのこと、何も知らないのに!」
「ほんとうかい?」
少年がまた、悲しげに笑う。
「君は僕を知ってる。今はただ、知らない気になっているだけだ。僕は、君の願いどおりに変わる。幾らでも、どんなふうにでも、変幻自在に変わってみせる。君は僕のことが、絶対に好きになるよ。僕はきっと、君の全ての願いを叶えるためだけに、産まれてきた存在なんだから」
そしてその瞬間、あたしは、何かに気付いた。この少年にはずっと、シャルルだけじゃなくて、別の誰かの面影もあった気が、ずっとしていた。でもその正体が誰なのか、どうもずっとわからなかった。それの正体を、やっと、立った今掴んだ。どうしてこんなに愛しく感じるのかも、その瞬間分かった。
何故彼がそうなのかは分からない。けれどそんなことどうだっていい。この愛は本物なのだから。だから――。
「あなたの――」
あたしが言いかけると、周りの景色が崩れ始めた。泡がそこら中から立ち上り、視界を覆い尽くしていく。あたしは立ち上がり、手を伸ばした。彼に、消えて欲しくなかった。
「あなたの名前は、何――?」
少年はあたしに笑いかけた。
「自らに聞いてみて。分からないのかい?」
「ごめんなさい。分からないの。どこかで聞いた気が、はっきりとするのに」
「それを聞いたのは『君』じゃないよ。君の内側にある、別の魂。一千年以上も前からずっと、受け継がれてきた、純潔なる精神さ。それは確かに、僕の名前を知っている。名付け親だもの。……でも、君の魂は、その魂とは別物だよ。だから君自身で見つけるべきだ」
「もったいぶってないで教えてよ! お願い!」
あたしが叫ぶ。視界は最早、吹き出す泡に包まれ、ほとんど何も見えない。既に、この世界は壊れ始めている――そういう絶望的な感覚があった。
「あたしはあなたを知ってるの。今気付いたの、愛してるの。だから、名前を、もう一度だけ教えて!」
少年が何か、ボソリと呟いた。それはきっと、彼の名前だったのだろう。でも、それがはっきりと聞こえる一瞬だけ前に、あたしの意識が、泡と共に、上に向け連れ去られた。叫び声を上げようとしたけれど、最早あたしには身体など無かった。あたしは眩い光と共に、その海の、水面を突き抜け――。
そして、目が覚めた。
最初に目に飛び込んできた天井は、真っ白な大理石でできていた。一切の切れ目なく、完璧に繋がっている。見たことのない場所だ。
あたしは、ベッドの上に横たわっていた。ふわふわの柔らかい羽根が、下に敷き詰められている。ベッド自体は、天井や周りの壁と一繋ぎの、純白の大理石だ。
息が白い。空気が、異様に、ひんやりと冷たい。
理解するのに、しばらくかかった。
……夢だったんだ、あれは。あの、海の中の寝室も、そして、あの、少年も。夢にしては、やけに現実味があったけど。未だに鮮明に思い出せる。
でも、ここは――?
「目……覚めたか」
声に聞き覚えがあった。横を見ると、ジネットがそこの椅子に座り込んで、俯いていた。以前とは違い――顔の左側に、厚く包帯を巻いている。怪我でも、しているのかな?
「ごめん……なぁ」
ジネットが、引きつった声で呻いた。
「あんたが死んだら……そうしたら……あたし……もう……」
「ジ、ジネットちゃん――? どうして――」
ふと気づいて自らの手を見つめ、息を飲む。あんな大火傷を負っていたのが、まるで嘘のように、全て回復してしまっている。
ベッドの上で、半身を起こす。あたしは、奴隷の時と全く同じ、あのボロボロの布を着ていた。その下に見える、皮膚――以前の痣や切り傷は残っているが、まるで被弾する直前のように、あたしの身体は全部元通りになっていた。火傷だけがきれいに取り除かれている。
「……ちょいとした、白魔術さ」
ジネットが呟いた。
「ここは、お師匠様の家の……『北の部屋』だ。白魔術を行使するためだけの、場所……。ここでなら、効力も強まる」
声が、少し、上ずっている――泣いているんだ。ジネットが、顔を真っ赤にして、涙を流している。
「あたしのせいだ。全部……あたしが……」
その時、同時に、思い出した。
沢山の記憶が、一斉に蘇り、怒涛の勢いで頭になだれ込んでくる。そして、それと一緒に、あの時感じていた物、全ても。
あの、魂を喰らい尽くす絶望も。
あたしは、ベッドから跳ね起きた。
「シャルル――!」
あたりを必死に探し回る。でも当然、彼がいるわけだなんて、ない。
「シャルル! シャルル! シャルル! ねぇ、シャルル!? どこにいるの!? 出てきてよ! 助けてよ! やめてよ! おいてかないでよ! 気付いてよ……なんで……うわ……うわあぁぁあぁぁ!」
あたしは、氷のように冷たい大理石の床に崩れ込んで、泣き叫んだ。どうしようもなかった。未だにあのショックから、抜け出せないでいた。
シャルルは別に、あたしだと知って、クリスティアーナだと知って、「K」を憎んだわけじゃない。でも、周りの人を沢山殺された彼が、魔女全般に対する嫌悪感を抱くことは、至極当たり前のことだ。だから、Kとしてのあたしが彼と出会ったら、とてもいい結果にはならないだろうとは、あたしは分かっていた。
でもまさか、それが、あんな形になるだなんて。彼を助けたのに。必死に頑張ったのに。なのに、あたしは、化け物と罵られて。
そうだ。考えてみればそうなんだ。白魔女としてのあたしは、絶対に報われないんだ!
打ち明けたかった。全て話したかった。あぁ、シャルル――あたしの愛しいシャルル――あたしが今どれだけ苦しんでいるか、絶対に知るわけのないシャルル! それどころかきっと、あたしのことは、心配してくれているに違いない。まさかこんなことになっているだなんて、夢の夢にも思わずに。シャルル!
泣き叫ぶことしかできなかった。涙が頬を零れ、ひんやりとした大理石にぽとぽとと滴り落ちた。凍えるようにしてその場にうずくまった、あたしの背中は震えていた。
ジネットは、あたしに、何も言ってこなかった。何もできなかったのだろう。あたしはしばらく、ずっと、何分間も、そこで泣き続けていた。自らという存在が、もうわけがわからなかった。
クリスティアーナという、自分――それが前提にあるとして。「K」は何なんだ? 『あたし』と『私』の違いって何なんだ? どうしてこうも、違ってしまうんだ? あたしは、何も悪いことなんて、何一つもしてないのに!
シャルルを救ったんだ、と、自らに言い聞かせた。あたしがいなかったら、彼は死んでたんだ! あたしは良いことをしたんだ。それは間違いない、誇っていいことなんだ!
だって。それって、白魔女の仕事なんだ! あたしはあの黒魔女の攻撃を受けてまでして、シャルルを救ってやったんだ! それは偉いんだ。あたしは嬉しいんだ!!
でも。でも。
ならばどうして、こんなに――
……惨め、なんだろう……?
「……ごめん、な」
ジネットの声がした。あたしは涙ながらに顔を上げた。ジネットが、罪悪感に満ちた顔で、あたしを見ていた。
「ひとまず……」
彼女が立ち上がって、言った。もう泣き止んではいたが、声から生気が抜けているように感じる。
「ちょっと……こっち来て、くれないか」
ジネットにおんぶされて、連れてこられた部屋では、暖かい暖炉がパチパチと燃えていた。その他には灯りも無く、薄暗かったけれど、静寂の中に弾ける暖炉の音は、どこか心を落ち着かせ、安らげた(以前ジネットが見せてくれたウェルティコディアの油絵も、恐らくはここで描いた物だろう)。あたしは、本当はまだシャルルのことで頭がいっぱいだったけれど、その部屋のどこか温まる雰囲気で、徐々に心の平静を取り戻し始めた。
赤いカーテンやカーペットの上で、炎の影が揺れている。暖炉のとなりのソファーに、ジネットはあたしを降ろし、分厚い毛布を、あたしの全身をくるむようにしてかけてくれた。さらに、ちょっと待ってろ、というと、向こうの薄暗い中へと消えていき、しばらくして、手にマグカップを持って現れた。さっきはどこか、不安定な様子のジネットだったけど、今はもうだいぶ落ち着いたようだ。
「……飲め」
マグカップの中を覗き込むと、見たことのない、濃い茶色の液体が、ほわほわと暖かい湯気を上げていた。甘くて深い匂いがする。普段ならきっと、おいしそうと思うところなんだけど――
……今はなんだか、飲む気になれなかった。
「……お薬?」
「いやいや、そんな大層な物じゃないさ……ホット・チョコレートっていうんだ。初めてか?」
「……うん」
「元々は新大陸の飲み物なんだよ。大西洋側の王侯貴族らの間で、最近流行ってるってな」
「そんな――高級なの?」
「本来はな。お師匠様の友達だった商人がしばらく前にくれたのさ。……ほら、冷めちまうから」
ジネットからホット・チョコレートを手渡される。マグカップの熱が伝わって、手が暖まる。
凄まじい空腹に、今やっと気付いた。いっそのことシャルルのことだけ考えて、その思考だけに閉じこもって、半分拗ねるような形でそのまま餓死するのもいいのかもしれないとも思ったけれど、ジネットのことを思うと、やはりそうもできなかった。それに――シャルルのことは、もう今更考えても仕方無いのかもしれないと、あたしは思った。きっと、解決策なんてないのだろう。
そのまま、空腹に敗北した。恐る恐る、一口飲んでみる。
すると、途端に、ねっとりと濃い甘さが、口の中に暖かく広がった。冷え切った体が、たちまちに温まる。思わず瞬きをし、マグカップを見つめる。
「……おいしい!」
「まぁな」
「こんなおいしいもの――」
もう一口啜る。
「今まで、飲んだことない。あぁ、おいしい――」
ごくごくと飲んでいき、全身が芯まで温まる。気付くともう、あれだけあった量が、全部無くなってしまっていた。
「あ……無くなっちゃった」
「ありゃ……」
ジネットが頭を掻く。
「本来、それ飲みながら聞いてくれ、みたいにしようと思ってたんだけどな。おかわり、要るか?」
あたしは、期待に胸を膨らませ、顔を上げた。
「……あるの?」
結局、もう一杯貰った。
二杯目を飲んでいる途中、ふと、さっきの悲しみを全部忘れて、ホット・チョコレートを飲むのに夢中になっている自分に気付いた。ジネットのお蔭だ――そして、それがどこか、嬉しかった。
「……飲みながら、聞いてくれ」
あたしと向かいのソファーに座って、ジネットが切り出した。ただ、その後何秒間か、言葉に詰まっていた。何を言いたいんだろう、と、あたしは思ったけれど――
次の瞬間、はっと気付いた。
「まず――本当に――」
彼女が、片手に顔を埋める。
「すまない。ごめんな。謝っても謝りきりゃしない。あの時あたしは、あんたから離れちまった。あんたを守ることができなかった。一緒に戦えなかった」
「……あぁ……」
――思い出す。
確かに、あの時。
今やっと気付いたけど、そうだ。そう言えばそうだった。
ジネットは、あたしを守ると言いながら、結局は、守らなかった。単に守れなかったのかもしれないけれど、結果的には変わらない。あたしが黒魔女と必死に戦っている間、シャルルを庇って攻撃を受けて、地獄の苦しみの中にいた間――
こいつは、何をしていたんだ?
「……あんたがあの攻撃を食らったのも、全部、あたしのせいだ」
ジネットはきっぱりと言った。指の間から覗く右目が、炎を映して不気味に煌めく。
「敢えて言い訳はしない。あたしはあんたを守る者としての使命を果たせなかった。憎むだけ憎めばいい。一応、さっきの白魔術で、あんたを治すことには成功したから……身体の事は心配しないでいい、けどな。でも……」
ため息をついた。
「あたしのこと……憎いだろ」
あたしは、言葉に迷っていた。
でも、やがて、決心し、口を開いた。
「憎んでなんか……いないよ」
ジネットが、包帯に半分くるまれた顔を上げ、瞬きをした。
「は……?」
「憎んで――ないよ」
ジネットはぽかんとしていた。信じられない、といった様子だった。と、同時に――それの裏で、何か、別の感情が、静かに渦巻いていた気がした。
絶望……?
「……何か……理由が、あったんでしょ」
あたしは言った。
「どういう理由かは分からない。でも、そうじゃなきゃ……あの場から、いなくならないもん。あたし……ジネットが悪い奴だなんて、思わないよ」
本来きっと、あたしは、怒ってもいいんだろう。けど――今こうして彼女の前にいると、不思議と、その正当な筈の怒りは、全く湧き起こらなかった。ジネットは、心の底からの罪悪感に満ちた顔をしていて、そんな状態の彼女を、わざわざ責める気にもなれなかった。
「……お前」
ジネットが、力なく笑った。
「ほんっと……偉いよなぁ」
暖炉の音が、空中でパチパチと鳴っていた。炎が彼女の顔を、揺らめいて照らしていた。
「ありがとうな」
彼女が囁いた。
「これから先……何があっても……あたしは、あんたを守る。必ずだ」
「無理しなくったって、いいんだよ……」
「いいや。あたしの無理は、あたしが決めるさ」
しばらく、どちらも、しゃべらなかった。やがてジネットは立ち上がって、ぐぐぐ、と、背伸びをした。ため息をつき、天井を見つめる。
と、あたしの中で、今更、あの戦闘の時に感じた疑問が、また湧き上がった。
「……そう言えば」
あたしは質問した。
「あの、黒魔女……あれって……『何』?」
ジネットが瞬きをした。あぁ、と、頷いた。
「……あれか」
話題が移ったことに、彼女は明らかな反応を示していた。安堵もあるのかもしれないが、それ以上に――相変わらず、罪悪感と、そして――あたしへの、何とも言えぬ、『疑い』。
恐らく、あたしが、彼女のことを気遣って、わざと話題を逸らしたんじゃないのか、と――そう思っているんだ。
そしてもしそう彼女が思ったのなら、それは、正しかった。彼女が、自分自身を責めているのは、見ていて何だか、可哀そうだった。まるで、そのまま、自らを傷つけすぎて、死んでしまいそうだった。
ジネットは、こう見えて――とてつもなくか弱い存在なのかもしれないと、あたしは、思い始めていた。でも、彼女にはやっぱり、崩れて欲しくなかった。
ジネットは、座り直した。ため息をつき、そして、ゆっくりと説明を始めた。
「……黒魔術、魂魄術、洗脳術、悪魔召喚術」
指を四本立てる。
「これらが悪魔の魔術であって、使用するだけで魂を侵食することは、以前にも話したな」
「……うん」
「悪影響は白魔女の方が大きいが、黒魔女でも当然、多用は禁物だ。特に黒魔術が魂に与えるダメージはダントツだな。自らの強い意思を以て、内なる悪魔の力を制御することが出来なければ、黒魔女にだって黒魔術は安全に扱えない。そして逆に、黒魔女の精神が、自らの黒魔術の堕落作用に敗北し、完全に飲み込まれて、破壊されてしまった場合――。
『敗北者』――黒魔女は彼女達をそう呼んでいる」
「『敗北者』……?」
「見ただろ――あの異形の姿を」
ジネットは言った。
「黒魔術を使い過ぎたり、欲望が行き過ぎたりして、内なる悪魔に敗北した黒魔女達の悲惨な末路さ。悪魔性が内面だけじゃなくて外面にまで出てくるんだよ。そいつらは理性を失い、破壊欲求にのみ突き動かされ、周りの人間を無差別に襲う。戦闘においては、癖が強いが、厄介な相手だ。理性も知性も欠片もねぇし、身体が崩壊しかけてるもんで防御力は一般人以下だが、肉体が半分悪魔と化している以上、黒魔術の威力だけはトップクラスだ。そして、一度その状態になった黒魔女は、二度と元に戻ることはできない。死にゆく最後の一瞬に至るまで、ずっと、世界を破壊するだけの化け物として生きていくことになる。あんたは、それにやられたんだ。即死してても、おかしくは……無かった」
彼女がまた、ため息をつく。
沈黙の中で、相変わらず、薪だけがパチパチと鳴っている。壁も見えない程薄暗い、この部屋にいると、まるで世界があたし達だけになったかのようにすら感じられる。
「うっ」
突然、ジネットが、苦しげな声を上げた。何か、痛みを堪えているような。顔の左側を包んだ包帯を擦り、ブツブツ呟いている。
「えっ……どうか、したの?」
包帯が何なのかは、訊こうと思っていた。ただ、何かいけないものだったらまずいと思って、黙っていたのだが――何か、どうやら、ただの怪我ではないらしい。
「あぁー、畜生。これあんたにはあんまり……言ったら、またなんか言われるもんなぁ」
「え……何?」
「あたし、白魔術苦手なんだよ」
笑っているのに、彼女の目だけは、どこか悲しげだった。
「……完全な白魔女じゃ、ないからな……所詮は弟子だし」
「苦手……?」
あたしはぽかんとした。
「苦手じゃないよ。だってジネット、あたしの身体、こうやって綺麗に治してくれて……」
「他人の回復ならできる」
ジネットは言った。
「自分の回復が、どうも昔っから無理でな……特にこうやって気持ちが荒むと、尚更だ。あんたを治すことには成功した。後遺症も何一つ無いだろう。それを心配する必要は無い」
自らの包帯をさする。
「ただ、術式は完全な成功じゃなかった。白魔術ってのは、ありとあらゆる魔術の中でも、恐らく最も顕著に、術者の性格に左右される。だから反動で、ばちが当たった」
「えっ……それ……あたしを治した時に……?」
「あんたは気にしなくていい。……あたしのせいだ」
あたしは、一瞬、呆然としていた。やがて、俯いて、唇を噛んだ。
そこまでして、あたしを――
「……ごめんなさい。わざわざ、そんな――」
「謝るな!」
突然泣き叫ばれて、ビクッとした。ジネットは、深い、深い、溜息をついた。
「いや……声を上げるつもりは、無かったんだ。でも分かるだろ? あたしは……義務を果たせなかったんだから。自業自得って奴だよ」
「……」
「ほら、もう。こんな時間だよ」
彼女が横の時計を指した。
「そろそろあんたを、家に戻さないといけない。あんたの家の他の奴らが起きて、あんたがいなかったら、怪しまれるだろ?」
「でも――ちょっと待って。今、だって、皆は、まだサン=キリエルに――」
「いないんだな、これが。もう皆屋敷に戻ってきてる」
「えっ――? でも――」
「あんな戦いがあったんだ。市も中止になるに決まってるさ」
「……シャルルは……無事なの?」
「あんたの家は、皆無事だ。あんたの『主人』とも、無事再会してたよ」
「でも、だとしたら――」
思わず、立ち上がった。まずいことに気付いた。
「あたし、一度――失踪してる扱いなんじゃないの? 今更そこに戻っても、逆に、不自然というか……だって、サン=ノエルに逃げ帰ってくる時、あたしはシャルルたちと一緒に、いなかったんでしょ?」
「そこは……」
ジネットは、慎重に言葉を選んでいた。
「あたしが細工した。あんたの家の奴らは、皆、あんたが一緒に帰ってきたと思ってる。だから、今、あんたを送還する。それで全て矛盾は無くなって、あんたは普段の生活に戻れるだろう」
「えっ……」
「やっぱりお前は……まだ、もう少し訓練が必要だ。いや、確かに勝てたし、敗北者相手だと、変な言い方だけど、やっぱ、割と犠牲は出さないように注意しても出ちまうもんだ。あんたは、判断も的確だったし、素直にすごいと思った。……でも、やっぱり、あたしがやるしかない」
ちょっと待って、と、言いたかった。話題が移る前に、それだけ訊きたかった。彼女のいう、その「細工」って――
でも、その質問も、彼女の次の台詞で、吹っ飛んだ。
「あんたはもう、Kとして戦っちゃいけない」
あたしは、呆然としていた。
「……え?」
意味が分からない。
「それって……どういう……」
「あんたはあのサン=キリエルで、堂々と戦ってしまった」
ジネットは俯いていた。
「悪いことじゃねぇんだ。でもな……あの街全体がサンドリーヌ・ファミリーの支配下。とも考えると普通に言って、あんたはこれで、あいつらに目を付けられたことになる」
「目を、付けられる……?」
「サンドリーヌは百人以上の魔女を従えてるんだ。ほぼ全員、あたしたちなんか片手でひねる潰せるような実力を持っている……前も言っただろ」
ジネットは髪を掻きむしった。
「本気を出されたらひとたまりもねぇよ。あたし自身、自分がまだ生き残ってることが不思議なぐらいだ。でもあんたの場合もっとヤバい、だって直接その縄張んド真ん中で黒魔女と戦っちまったんだから。恐らくもう既にサンドリーヌは、あんたに関する詳細データを全て割り出してる。身長、体重、外見、性格、魔力量、素質、得手不得手、etc……文字通りの全てだろう。今のあんたが無暗に出ていったら、何をされるか分からない。今のあんたじゃ対抗手段が無い。殺されて終わりだ。危険すぎる」
「でも……あたし、白魔女なのに。白魔女なのに、使命が果たせなくなったら……」
「あんたには世界最後の白魔女としての生存義務がある!」
ジネットはあたしの肩を掴んだ。歯を食いしばり、眼の端からは涙が滲んでいる。
「あたしだってこんなこたぁしたくねぇよ、でももうどうしようもないんだ。一旦あんたは、戦うのをやめてくれ。お願いだ! お前が戦ったあの敗北者ですら、恐らくサンドリーヌにとっては数にも入らねぇんだ。死んだら何もかも終わりだろ!?」
「……でも……」
「普通に暮らしてる分には……力を行使してない分には……白魔女は、黒魔女には探知されない」
ジネットが続ける。
「当然、奴隷としての素性まで割り出されたら終わりだが……そうなったらどちらにせよ防ぎようがないからな。ただ、もう一度派手に黒魔女と戦ったりなんかしたら、それこそ絶対に気付かれる。そしたらあんたは終わりだ。だからあんたはもうしばらくは、黒魔女と戦えない。……危険すぎる」
「……」
あたしは震えていた。そんな――でも――
「……まだ――あたしがいる」
ジネットは立ち上がった。残された右目には、決して揺るがない決意が宿っていた。
「あたしなら……場合によっては、あたしなら……奴らにマークされてないあたしなら……切り抜けられる、かも……しれない」
「……で、でも……そうしたら、ジネットちゃんも――」
「あたしはあんたに借りが出来た。あんたは、一旦……休め。あたしが、白魔女であるあんたの代わりに、戦ってやる。サンドリーヌの野望は、あたしが一人で止めてみせる。何としてでも」
えっ――
あたしは、瞬きをした。今、なんて言った?
白魔女である、あたしの――
『代わりに』……?
「ははっ」
ジネットが目を拭った。
「口が滑っちまったかな。あたしゃあ半端者なんだよ。お師匠様が、あたしを弟子にしてくれたお陰で、少しずつ、少しずつ、あたしは白魔女になってきた。でも……元が元だったから、その変化の速度が遅いってわけでさ。まだなりきれちゃあいない」
元が元……? なりきれちゃいない……?
「……ジネット……ちゃん……?」
「あたしは、な」
ジネットが、悲しく笑った。
「一年前まで……黒魔女だったんだよ」
深淵なる闇の中、寝静まったサン=キリエルの上空を、無数の影が渦巻いて飛びまわっていた。黒い、蝙蝠の影のような、小さな悪魔達。何千何万とが、幾重にも螺旋状に連なり、塔や建物の間を駆け抜けてゆく。真っ赤にぎらつく目が光る。流れる暗雲の間から、おぼろげな月が覗き、その上を照らしていく。裏路地の道、建物の屋根、ありとあらゆる月明かりの上に、悪魔達の影の嵐が流れてゆく。
「サンドリーヌ様」
暗い部屋の中に、一人の女性の声が響いた。彼女は膝をつき、前を向き、頭を恭しく下げていた。長い黒髪が、床の上に垂れている。床に置かれた、一本の蝋燭の明かりだけが、狭苦しい暗闇の中をほのかに照らす。
「サンドリーヌ様。例の白魔女の詳細が、判明致しました」
その先、まるで横の蝋燭のか細い炎から暖を取るようにして、黒いヴェールを全身に羽織った女が、一人でうずくまっていた。艶めかしい手足が、蝋燭に照らされて浮かび上がっている。
その彼女が、ゆっくりと、その顔をもたげた。
サンドリーヌ・メロディが、顔を上げた。
サン=キリエルの上空を、何千何万という小さな影が、ゆっくりと覆い始めていた。