第七章
=サン=キリエル=
フランス南部の貿易都市。海運も盛んだが、そちらの面ではサン=ノエルには劣り気味で、どちらかと言えば地中海とフランス中部とを陸路により繋ぐ働きが強い。サン=ノエルとは持ちつ持たれつの関係。公用語は地域の南部訛りのフランス語。都市の中心広場には十二本の巨大な時計塔があり、『サン=キリエル十二鉄塔』として全国的に有名。
サン=キリエルは、今から百五十年ほど前に、凶悪な黒魔女たちの襲撃によって治安が極めて悪化、一時期教皇庁すら統治・管理から手を引いていた時期が存在する。この時代のサン=キリエルの惨状は凄まじかったと言われるが、現在では復興が進んでおり、今となってはその歴史を街並みから推測することは出来ない。むしろ黒魔女による攻撃は、現在では極めて稀な、比較的安全な街となっている。
なお、サン=キリエルの綴りはSan-Kyrielであり、フランス語に本来存在しないKの文字が含まれるが、これは都市名がフランス語ではなく、ギリシア系の聖人・聖キリエルにちなんで名づけられていることに由来する。
競売市前日の昼、あたしは、『主人』が保有する船に乗せられた。沢山の品々が溢れる船内のスペースに、一区画だけ奴隷用の場所が作られ、そこにあと十人ほどの残りの奴隷と一緒に押し込まれたのだ。本当は船に乗るのなんて、死んでも嫌だったけど、『主人』の命令は絶対だ。
極力、過去のことを、頭から追い払う。服に収納した杖とペンダントだけは、こっそり持って行っていたから、その感触を確かめながら、それのことだけを考えるようにした。けれど、どうしても頭から、完全にあの恐怖を消し去ることはできなかった。
神様があたしを裏切った、あの日の記憶は、未だに脳裏から消えてはくれない。
そのまま船は出港した。本当は、やることもないし早く寝たかったのだけれど、こんな船の揺れの中で寝たら、あの日の夢を見てしまう気がして、どうにも怖くて眠れなかった。それどころか、あたしの周りの、他の奴隷たちの顔が、皆徐々に歪んできて、仮面のようになり、こっちを見つめているかのように感じられてきた。沢山の品物を積んだ木の箱の模様から、顔が浮かび上がってきて、あたしに不気味に笑いかける。幾ら目を閉じても無駄だ。理屈とは関係ない、なんとも言えない、得体のしれない恐怖が、あたしを捉えて離さなかった。全身が常に、無数の手に乱暴に掴まれ、相手の意のままに動かされるかのような感覚が、どうしても消えてくれない。あたしは、船酔いとは別に、ずっと吐きそうだった。涙がほんのりと、目の端に滲んでいた。シャルルは、一つ上の階にいて、鍵のかかったここからでは、彼に助けを求めることすらできなかった。
死ぬまで続くかのように思われた船旅が終わり、やっとサン=キリエルに着いた時、辺りは既に夜だった。『主人』はあたしたち奴隷を一斉に船から出し、大量の荷物の運搬を手伝わせた(流石に、あまりの量だったから、地元の業者にも相当頼んではあったが)。そしてそれが終わると、くたくたのあたしたちを、サン=キリエルの中心街の奥の方の、とある場所へ連れて行った。
暗闇に包まれた広い道の中を、一団が通っていく。目的地に近づくにつれ、家畜の臭いが強くなってきた。藁と、動物の糞とを混ぜたような、強烈な臭い――。
辿り着いた。
「死んでも問題起こすんじゃないよ」
目的地の扉を閉じる直前、『主人』はあたしに個人的に言った。
「まぁ、どうせあんたを買う奴なんていないさ。精々ここで、三日間ずっと待ってな」
横にいたシャルルは、何かとても言いたそうだった。でも、あたしの顔をちらりと見ただけで、特に何も言わなかったし、言えなかったのだろう。横に母がいる、その間は。
あたしたちはそのまま、無言で、家畜小屋の扉へと入っていった。
大競売市には、毎年恒例の奴隷市場がある。普段はサン=ノエルの別の小屋がその役割を果たすのだが、今回それとして機能するのは、どうやらここのようだ。
市の仕事で忙しい間、商人たちは、個人資産の奴隷たちの殆どを売り物として出すという、昔からの嫌なしきたりがある(どうしても手放したくない奴隷の場合、お気に入りの証として、金の首輪を嵌め、主人と共に行動することを義務付けて「免除」できるのだが、あまりよく聞く話ではない)。奴隷は皆一か所に集められ、この家畜小屋で売りに出される。奴隷ごとに、誰がどんな値段で買うと言ったかを、そこの担当者が記録していき、随時主人と交渉するという段取りをとっているのだ。当然、最初から値段を決める方が効率は良いのだが、何せ互いに可能な限り儲けたい。ここの市では、多少非効率であっても、競が好まれる。
藁が薄く地べたの上に敷かれただけの、暗くて汚い家畜小屋の中は、酷い臭いが充満していた。ハエが頭上を飛び回っている。足元をゴキブリが走り去る。周りの空気には、諦めに満ちた溜息が、重苦しく渦巻いていた。既にそこにいた他の奴隷達も、新しく来たあたしたちも、大半の本質は同じだ――希望を持てない、人生とすら呼べない人生を、歪みきった支配者たちの元で送っている。あたしだけその中で特別なんだという思いは、今ばかりは、最高のことには思えなかった。そして、何より――怖かった。シャルルと引き離されてしまうことが。
大競売市、当日になった。
去年のサン=ノエルと同じ賑わいが、この街を包んでいた。広々とした通りは人々でごった返し、色とりどりの服を着た、地中海中の商人達が、人ごみの喧騒の中で忙しなく動き回っている。値段交渉の叫び声がそこら中で響く。どの通りの上にも豪華な色彩の垂れ幕がかかり、サン=ノエルの何倍も高い建物のどの窓からも、人々が旗を振って、商人達を笑顔で出迎えていた。
サン=キリエルは、サン=ノエルと並ぶ、周辺地域の代表的港街だ。都市としての有り様としては、サン=ノエルは横に広がっているが、サン=キリエルは縦に伸びている。サン=キリエルの建物は、どれも普段あたしが見慣れているそれの何倍も高い。特に、街の象徴でもある、荘厳にそびえ立つ十二鉄塔なんかは、今まであたしが見てきた建物で一番高かった。ジネットの言う通りだろう――魔女の攻撃が、そんな頻繁に起きる場所だったら、こんな高い建築は建てられない。
目の前の通りでは、沢山の店が、せわしなく流れる人々を必死に引き留めようとしたり、互いに命がけのような値段交渉で怒鳴り合ったりして、全員バラバラの合唱のような騒がしさに発展していた。日常品、名産の食品、宝石、各種書物、家具、船、そして武器――全てここには揃っている。『世界が、ここで買える』――それが毎年恒例の、この大競売市の輝かしいキャッチコピーだった。
でも、あたし達は、そのどれをも買えないんだ。たとえ、一生かけても。それどころかあたし達は、売られ、買われる側なのだ。
溜息をついて、膝に顔を埋めた。周りの奴隷たちも、あたしも、皆気力を失って藁の上で座り込んでいる。普段の仕事から、三日間解放されたことは悪いことじゃない。でもやっぱり、シャルルと引き離される可能性があること自体が、絶望的な程に恐ろしい。
この三日間の間、あたしたちは、この狭い空間から出ることすら許されない。裏にある狭いトイレ以外、設備も何もないし、衛生状態も酷い。しかも、あたしたちは一日中、品物としてそこで並ばされ、ずっと知らない男達に見続けられるのだ。
あたしの近くで寝そべっていた、とある筋肉質の男は、何回か商人達によって呼ばれ、値段を付けられた。周りの成人奴隷の多くは、大体ここで誰かに買ってもらえる。あたしは今まで二回ここの市に来て、買ってもらったことは無い――それに、これからも、買われたくはない。
もし万が一誰かがあたしを買うと言ったら、『主人』が拒否でもしない限り、あたしはそれに従うしかない。そうしたらあたしはシャルルから引き離されてしまう。だからあたしは極力目立たない位置に行くことに励み、ずっと怯えていた。
あくまでも、奴隷は「商品」だ。買いたいと思う人がいなければ、買われない。こちら側も、それなりに、それを生かして工夫する。
今の主から早く離れたい奴隷は、極力凛々しく、逞しく、堂々と振舞うことに専念する。上手くいけば、どこかもっといい扱いをしてくれる商人が、買ってくれるかもしれないからだ。一方、既に現在の主人からの待遇に満足している奴隷ならば、如何にも疲れ果て、惨めな雰囲気を漂わせることで、相手側の購買意欲を削ごうとする。あたしは、『主人』は嫌いだが、シャルルのことを重い、極力後者の態度に徹することに励んだ。¥
ふと、前の方から、別の男の声が聞こえていた。
「オラ、お前らも早く行け! チンタラすんなっつってんだろ!」
扉が開き、何十人かの奴隷が、一斉になだれ込んできた。きっと遅れて到着した豪商人の奴隷達だろう。大半は男だが、ところどころ、女子供も混じっている。そして中でも、一際際立っているのが、燃えるように真っ赤な髪の、どこかけろっとした少女で――。
新しく入ってきた奴隷の大半は、適当な場所に座り込んだが、その少女だけはあたしに向かって一直線上に歩き始めた。周りの男達の横を通り過ぎていっても、誰一人として振り向かない。まるでそもそも、彼女のことが、全く見えていないかのように。
少女があたしの前で立ち止まり、にやりと笑った。その間から、八重歯が覗いた。
「よっ」
奴隷の服を着ていたのは、ジネットだった。
「待たせたな、K」
二日前の夜、ジネットは言っていた――市がどこで開かれようと、黒魔女が現れる危険性は高い。念のためその際には、あんたと合流しておきたい。奴隷に変装して、他の人に紛れ込み、あたしに接近するというアイデアは、それに対してあたしが提案した物だった(多少の《認識拒絶》と合わされば、本来なら目立つ赤い髪も不審に思われない)。
もうひとつ、二日前の夜にジネットが言っていたことは――サン=キリエルは、仮にもサンドリーヌが支配している場所だ。どこにスパイがいるか分からないし、そこにおいてあまり彼女についてだとか、魔術についてだとか、無暗に議論するのは得策ではない。ジネットはただ単に、あたしと一緒に街の様子が見張れればいいということだったし、あたしたちはそこで、また適当にダベっていた。
あたしたちは、行きかう商人たちを、藁の上に座って眺めていた。今は、ジネットだけでなく、あたしにも、弱めの《認識拒絶》がかかっている。先ほど、二人でこっそりトイレに行き、誰も見ていないのを確認した後、ジネットがかけてくれたのだ。
仮にこの魔術を使っても、あたしたちは透明になったわけじゃないから、逃げたと思われることはない。明確に「あたし」個人を探そうという意識がある人間になら、あたしははっきりとその場にいるように見えるのだ。だが、そうでもない限り、彼らはあたしの存在をあまり意識しないし、仮に気付いたとしても、そこまで気に留めない。言うなれば、この魔術を使っている間、周りの人達はあたしたちのことを「極端に気にしない」。だから、これで恐らく、あたしが買われる心配はなくなる。
……サンドリーヌ・メロディ。この街の支配者、か――。
こうして周りの人々の様子を見ている分には、まさか黒魔女が支配している都市のようには思えない。サン=ノエル以上に活気づいて、皆明るく、楽しそうだ。
あたしとジネットは、暇だったし、何十分も、ひょっとすると二時間ぐらい、ずっとしゃべり続けた。本来、やたらめったら話しまくったら、周りからいい顔をされないだろうけれど、今のあたしたちは注目を受けないから便利だ。やがてあるとき、突然、ジネットが、あっ、と声を出して、前をこっそりめに指差した。
「おい、K。あれって、お前の――?」
急いで、指差されたところを見る。通りの向かいの宝石屋のところで、『主人』が別の商人と、明るく、楽しそうに交渉していた。その横ではシャルルが、明らかに宝石に興味を持てない様子で、隣の本屋に入りかけていた。壁に並んだ、沢山の分厚い本を、欲しそうに眺めている。
「……あぁ。うん、そうだよ。……あれが、シャルルなの」
「ふーん。よさげじゃん?」
「えっ……そ、そ、その、そんなわけじゃ、全然――」
ハハハ、とジネットが陽気に笑う。でも一瞬、心なしか、それに――影が差した?
「……でも」
ジネットが、ふと呟いた。
「なんというか。偉いよなぁ、あんた」
「え……偉い……?」
「偉いよ。なんでもありの魔法の力なんざ手に入れたら、大半の奴らはそれを私利私欲に使う。例えば、奴隷だってなら、それまで自分をさんざっぱら酷く扱ってきた主人を殺すだろう。聞く限りじゃあ、あんたの『主人』は、とんでもねぇド畜生なんだろ? あんた――そういう発想には、至らないのな」
「……」
違う。
至らないわけなんて、ない。
そうだ。今まで『主人』に対して、怒りや憎しみを覚えた回数だなんて、あまりにも多すぎて話にならない。蹴り倒されるたび。殴り飛ばされるたび。残飯同然のものを口に突っ込まれて、無理やり食べさせられるたび。吐瀉物と血の中で、弱弱しく、屈辱的に許しを乞いながら、今まであたしが彼女に対して抱いてきた、数え切れないほどの殺意。
むしろ、言われてみれば、未だに殺していないのが不思議に感じるぐらいだ。
そうだ――今のあたしなら、今のあたしの力を以てすれば、殺そうと思えばいつでも殺せるだろう。幾らだって痛みつけて、苦しませながら、過去の無数の罪を懺悔させながら殺すことだってできる。それに罪悪感は覚えない。
でも、殺さない。いや、殺せない。そしてその理由は、既に分かりきっていた。
「……シャルルが、いるから」
気付くともう勝手に、口が動いていた。
「あたしにとって、シャルルは……ずっと、自分が生きて来た理由そのものだったの。何度、何度自殺しようかと思っても、何度この世界が嫌いになっても、シャルルだけはずっと、あたしのことを助けてくれた。心の支えになってくれた。希望に、なってくれた……」
不思議と今は、言うことを、なんら恥ずかしいとは感じなかった。
「あたしはシャルルを愛してる。あたしのせいでシャルルが悲しむのだけは、この命に代えても……絶対に、イヤだから。だから、『主人』のことも殺さない。彼にとっては……あくまでも、お母さんだもん」
「……そうか」
ジネットは俯いていた。あれ、どうしたんだろう――元気が、ない……?
「あぁ……成程なぁ。分かった……うん……そうだよなぁ」
ガタガタと溜息をついた。
「そんな感情……もう、忘れちまったなぁ……」
「えっ……ジネット、ちゃん――どういう――」
「何か来る」
「え?」
あたしは瞬きをした。
「ジネットちゃん――」
ジネットが立ち上がり、空を見上げていた。呆然としている。
「ヤバいぞ――ちょっと待て。コイツは少しヤバい」
「えっ……何――」
ジネットが唇に指をあてて、あたしはハッとした。これは別に、静かにしろという意味の動作ではない。予め決めておいたものだが、何か敵関連の話題が出そうになったら、これを使ってもう一人の方に早めに知らせる、つまるところ「答えられない」ってことを悟らせる、そういうメッセージ代わりの動作だ。
「……ちょっくら行ってくるぞ。できればすぐ戻る」
ジネットが藁から降り、おもむろに、目の前にある柵の上にジャンプした。ガーゴイルのような姿勢にしゃがんで、あたりを見回す。周りの人々は誰一人それに気付かない。ジネットは、あたしの方を一回ちらりとだけ見た後、前に向き直り、柵を飛び超えた。そして人ごみに駆け込み、紛れこんで、見えなくなってしまった。
あたしはあたりを見回した。相変わらず辺りは騒音だらけだ。シャルルが『主人』に、さっきから見ていた、分厚い本の一冊を買ってもらっていた。ジネットが見当たらない……人が行き交い過ぎてぐちゃぐちゃでこそあるけれど、ジネットのあの頭なら、どこでも目立つはずなのに――。
その瞬間だった。
通りの向こうから、凄まじい爆発音が轟いた。地面が激しく揺れ、足元がふらつき、あたしはすっ転んでしまった。他の奴隷達も、よろよろと起き上がる中、あたしは爆発の方向を振り向き、息を飲んだ。
丁度、向こうにある建物の一つが、地面から光の渦をそこら中に巻きあげながら、ガラガラと音を立てて崩壊していくところだった。爆発と共に、石の雨が次々と噴き上がり、降り注ぎ、泣き叫ぶ人の荒れ狂う波の中に突っ込んでは血しぶきを上げていく。さらに――それに混じって、光の束のような物も、崩壊していく建物から噴き出し、人々に降りかかっている。それに当たった人々は、皮膚が生々しく焼けただれ、皆、その場でへたり込んで死んでいった。
世界が悲鳴に包まれている。人々が、雪崩のように、我先にと逃げていく。恐怖に引きつった顔が、目の前を何百と通り過ぎていく。空を眩い閃光が走り、そこら中の建物が、一斉に爆発する。その度に悲鳴が一段と高くなり、混乱が巻き上がり、人々を覆い尽くす。
その時、あたしは上を見てハッとした。空の一部が揺らぎ、歪み、水面から何かが飛び出すようにして、遥か上空に、真っ黒な揺らめく影が現れた。グルグルと忙しなく回転する、小柄な人型の化け物――
黒魔女だ!
「……ジネットちゃん?」
あたりを急いで見回す。
「ジネットちゃん!? ジネットちゃん! ジネットちゃん――魔女が! 黒魔女が現れたの! 急いで、ねぇ、来てよ! 早く!」
一向に返事がない。上空で、けたたましい笑い声がこだまする。
相変わらず、すごい勢いで空中を回転し、暴れる風船のように自由自在に飛び回りながら、魔女が何発もの攻撃を無作為に放った。空中を、魔女の動きに合わせて、回転する紫色の光線が引き裂いていく。石造りの建物が真っ二つにされては、砂嵐を巻き上げながら、内側から爆発する。都市区画が丸ごと吹っ飛ぶ。爆風が通りを駆け抜け、人々の波また波を、いとも軽々と空中へ吹き飛ばしていく。泣き叫ぶ人たちが、屍の上を踏み潰しながら逃げていく。転んだ者は踏み倒される。恐怖に突き動かされている人々に、最早理性は無い。
桁違いだ――本能的に悟った。コイツは、前回のあのレティシア・オラールなんかとは比べ物にならないぐらいに強い。こんな強力な攻撃を受けたら、一発で一貫の終わりだ。白魔女の肉体とて、ひとたまりもないだろう。量産型じゃない――本物の黒魔女だ。
助けないと。シャルル――シャルルはどこ? 横を奴隷たちが、泣き喚いて逃げ惑う中、あたしは人ごみの中を必死に探し――そして――目を見開いた。見つけた。
『主人』と手を繋いでいたはずのシャルルは、人ごみに飲まれて、どんどんどんどん、『主人』から遠ざかって行っていた。『主人』が、必死の形相で、彼の名を泣き叫ぶが、今更どうにもならない。二人は、人の波によって、見る見るうちに引き離されてゆく。
あたりから人が一気に、潮が引くようにして消えていく。逃げ遅れた、大怪我を負った不運な者達が、わずかに右往左往しているだけだ。魔女は、攻撃を一瞬止めたかと思うと、突然そいつら個人個人に、ピンポイントで爆破魔法を放ち始めた。人々が、周りの地面ごと、木端微塵に吹っ飛んでいく。大半には、悲鳴を上げる時間すらなかった。人間を――探知しているっていうのか?
そして未だ、ジネットは現れない。
ジネットが言っていた――今のあたしでは、間違いなく力不足だ。レティシア・オラールのような、『量産型』の雑魚が相手ならともかく、コイツみたいな本物の黒魔女に対しては勝ち目がない。それはあたし自身よく理解していたし、今の段階では、戦ってもどうにかなるとは、正直、思っていなかった。戦闘能力の桁が違う。
でも。
だとしても。
だとしても!
杖を懐から取り出し、天高く振りかざした。あたしは心の中で、強く、自らの魂に誓った。
人間には、時として、戦わねばならない瞬間がある。それは生き死にだとか、勝ち負けだとか、そういうちっぽけな問題じゃない――心を持つ者全ての義務だ。愛する者を守るために、シャルルを守るために、あたしは今ここで、こいつを抹殺する。そこには一切の躊躇いも、罪悪感も、敗北や死への恐怖も無い。
仮にここであたしが逃げれば、あたしは一生逃げ続けることになる。あたしが憎み蔑む者達の上に立つことなんて絶対に一生できなくなるし、そもそも何より、力を手に入れた意味が無い。あたしはこの世界を変革するって、あの日にそう誓ったんだ!
今なら周りには、誰ひとりとして人は居ない。皆既に逃げていってしまった以上、前回と違って、誰かがこの戦闘の巻き添えになる心配が無いんだ。防御呪文だって覚えたし、ジネットから貰った最後の切り札だってある。今のあたしになら戦える!
血塗れの藁の小屋の中、あたしは足を後ろに強く踏み込み、姿勢を、ざっと、堂々と構えた。杖をかざし、目を見開いて、白魔女の力の解放を叫んだ。全力で、高らかに。一切の揺るぎなく。
――弱さを掻き消せ!
全身が燃え盛る。血液が沸騰する。両眼の奥で、星空が疾走する。叫ぶ。駆けだす。空高く、飛び出す。身体が漆黒を身に纏い、降り立つ。
「来い!」
私は叫んだ。空に向かって。黒魔女に向かって。ふざけたようにして飛んでいる、あの抹殺すべき、禍々しい化け物に向かって。
ずっと空中を狂ったように飛んでいた黒魔女が、上下反対の、釣り下がったような状態のまま、突如ぐるりと回転し、勢いよくこちらを向いた。笑った口が、顔を引き裂いて、耳にまで届くどころか、そのままぱっくりと首の両側にまで割れている(そのせいで、口というかは、首まで引き裂いた裂け目のようだ)。よく見ると腕は六本も生え、体の周りで、しきりに、それぞれ独自の意識を持つかのようにして蠢いている。そいつは、宮廷のドレスのような、外側に向けてふわりとした、巨大なスカートを着ていた。青空の背景とのコントラストが著しい。見れば見るほどおぞましい。そして、ただこの外見だけで分かる――こいつは、人間じゃない。
いや、単に人間じゃないってだけじゃない。なんだ、これは? あの目の奥……そこにあった、焦点が定まらない金色の閃光は、黒魔女のそれとすら思えなかった。
黒魔女らしきそれが、六本の腕を、しきりにくねらせながら、全てこちらへと向けた。甲高い、不協和音のような、耳を劈く金切り声で、破壊の呪文を唱え始める。私は杖を掲げ、記憶を辿り――そして、ジネットから前教わった、黒魔女と戦うための呪文、習得した新たなる白魔術呪文を、声を張り上げて叫んだ。
「逃げ逃げ惑えよ、屠所に抱く仔羊よ! 祝福は繊細也。以てして息災也! 溌溂の黄金律よ! その元に集えよ!」
私の周りに、眩い桃色の魔法陣が、空中で幾つも展開された。敵が放った紫色の炎の螺旋が私に到達するほんの一刹那前、私の周りに、膜のような魔力の盾が、眩くきらめいて顕在化した。
攻撃が、轟音と共に直撃する。黒魔術のエネルギーが、膜の周りに一斉に纏わりつき、辺りに噴き上がっていく。凄まじい振動が地面を伝わり、足元を激しく揺らす。膜の周りで、石の欠片が宙を弾け飛んでいく。私の意識の中に、黒魔女の邪悪な攻撃が、強引にこじ開けるようにして入り込もうとして来るのを感じる。叫び声をあげながら、杖をかざし、思いっきり、それを防ぎきることだけに集中する。
と、張りつめていた物が、いきなり緊張から解き放たれたかのような感覚があった。それと共に、バリアが、攻撃を勢いよくはね返した。そのまま上へと、術者に向けて、天高く巻き上がってゆく。
膜がかき消すように消え、私はよろけた。と、次の瞬間、私の目が、衝撃で見開かれた。私の胸の奥を、突如、激痛が駆け巡ったのだ。
黒魔女が、化け物のような、甲高い奇声を上げる。反射された攻撃が当たるより早く、そいつは半ば反射的に、飛行の軌道を強引に捻じ曲げたのだ。結果彼女は、そびえる建物の最上階へと向かってまっしぐらに飛んでいき、弾ける金属音の爆発とともに、壁をぶち破り、中に突っ込んでいった。そこの壁にがぱりと開いた大穴から、渦巻く粉塵が横に向けて吹き出す。と、次の瞬間、建物の最上階丸ごとが、激しい光を何発も放ち、内側から弾け飛んだ。相変わらず、耳を劈くような奇声を上げながら、脱出した黒魔女が空中を駆け抜けていく。瓦礫の間を、縫うようにして、螺旋状に舞って飛んでいく。
私は地面に突っ伏し、震える手で、自らの左胸を必死に抑えていた。呼吸が苦しい――苦しい――苦しい! 口を開き、必死に空気を吸い込もうとするも、駄目だ――息が息にならない。見開いた眼の端に涙が滲む。まるで誰かが直接心臓を思いっきり握り潰そうとしているかのような激痛が、心臓の内側から襲ってくる。何が――何が、起きている!? 呪文自体は成功したけど、こんな副作用があるだなんて、聞いてない――呪文が失敗したのか? だとすると、まずい。まずい!
いよいよ息ができない。泡が滲む口をパクパクさせる。かはぁっ、と、小さく声を漏らす。耐えきれず、地面に転がり込み、悶える。両手で胸を必死に書き毟る。叫びたいのに叫べない。視界が霞んでいく。このままじゃ――私――。
と、痛みが突然消えた。心臓が元に戻り、反動のせいか、今度はすごい勢いで一気に全身に鳴り響く。息が戻る――一気に戻り過ぎて、一瞬また苦しくなり、咳き込む。まだ眩暈は残っているし、身体はふらつくけど――ひとまず、危機は過ぎた。何が起こったのかは分からないけれど――似ている……前回の、レティシア・オラールとの戦いの時とも。このことは、後でジネットに報告しないといけない。
尤も、それも、彼女と無事に出会えれば、だが……。
私は、ふらつきながらも、両膝を手で押さえて立ち上がった。ぼんやりとした視界が、段々冴え戻ってくる。あの黒魔女は、相変わらず狂ったようにして飛んでいる。これといった目的もはっきりしないが――殺す必要があることだけは、何よりも明白だ。
ここから奴に向けて攻撃を放つのは、とてもじゃないが不可能だ。そして私には、飛行魔術はまだ使えない。でも、その代わりに、戦いの為にと思って身に付けた、別の術ならばある。
サン=キリエルの、この高層の建物。これはまさに、絶好の地形だ。というかこれは、元々、ここに大競売市が移ると聞いた時に、考え付いた策だったのだが……。
全身の、ズキズキという痛みを堪え、建物の一つに駆け寄った。上空では相変わらず、あの黒魔女が飛び回っている。私はその建物の壁を、思いっきり蹴り上げた。自らの身体が宙に浮いた瞬間、杖を振り下げ、壁にかざし、念じた。
身体が空中へと、不思議な方向に浮き上がった。もう片方の脚も、振り上げ――それが、壁についた。成功だ。
そして私は、壁の上を、まるで重力の向きが変わったかのように、走り始めた。
不思議な感覚だ――上下感覚が九十度変わって、少し視界にも、足元にも、違和感がある。でも、私の身体を支えている運動術のおかげで、下に落ちたりはしない。上に向かって、壁を走り続けていく。
そもそも、飛行魔術が初心者には扱えない理由は、同時に幾つものことに集中しなければならないからだ――①自らの身体、或いは箒などの魔術道具を用いた飛行魔術の「発動と継続」、②その飛行魔術の「飛行の方向性の操作」、そして③「全身の体重バランスの均衡の継続」。実際の戦闘ともなると、これに④「その状況下での攻撃魔術の発動」が加わり、それに足る集中力、魔力の扱いの慣れなどは、決して並大抵の物ではない。
けれどこうして、運動術の応用で壁を走る分には――自らに対し、地面からの重力を帳消しにする程度の上向きの力と、通常重力より少し弱いぐらいの壁向きの力とを同時に運動術で付加して、壁を移動手段とする分には、複雑な操作性も、バランスの問題も無い。走りながらというぐらいなら、大抵の術式は発動できる。それに、魔女は皆、身体能力が魔力によって若干上昇している。今の私の脚ならば、箒ほどではないが、相当な機動力が出せる。
当然、一度飛行技術を会得さえすれば、わざわざこんな回りくどい手段を使う必要なんて完全になくなってしまうだろうし、特殊な条件下でしか扱えないけど――これは、私のような未熟な白魔女が、黒魔女と戦うにおいて、有効な移動手段となる。
黒魔女が旋回しながら、私のことを、ぎろぎろと探している。そこら中の地面を必死に目で追っているようだが、そんなところには私はいない。円柱のような建物の壁を必死に疾走していき、どんどん、黒魔女に近づいていく。見たところコイツには、知性も感じられない。と、いうか――
……そもそもコイツ、黒魔女なのか?
近づくにつれて、更によく、その異形の詳細が見えてきた。そして、私はぎょっとした――スカートだと思っていた物は、何十本と広がって生えていた、細長い足の束だったのだ。それに、六本のどの腕にも、万遍なく、沢山の吸盤が付いている。目があるべき所は落ち窪み、内側で、金色の炎の球が揺れていた。歯は尖り、獣のよう。その間から、何本かの細長い舌が忙しなく動き回っているのが、時折覗く。
なんだ――コイツ? 黒魔女がこんな風になるだなんて、ジネットには聞いていない。コイツには理性も知性もあるようには見えないし、その上でのこの風貌――一体、どういうモノなんだ? コイツは一体誰、いや、待て、一体何なんだ!?
十分なところまで来て、私は止まった。杖を振りかざし、目の前で飛び回る黒魔女に狙いを定めようとするが、何せこれだけ速く動いているものだから、どうにもそう簡単にはいきそうにない。動きを止め、隙を突く必要がある。
以前自分が使っていた魔術が黒魔術だったということは、私に少なからぬ衝撃を与えていた。というより、正直未だに信じられない。ただの勘違いであって欲しい。でももし、仮に黒魔術だとしたら、それは私が用いる攻撃手段として絶対に適さない。
だから、あれを使うしかない。
その時、突然、黒魔女がこちらを向いた。
目の周りの肉が見開かれ、ぱっくりと顔を裂く、歪な笑いが広がった。奇声を上げ、手を一斉に、こちらに向ける。呪文が口から流れ出す。
この瞬間を待っていた。この攻撃前の、一瞬の隙!
私は、自らのあのペンダントを持ち上げた。黒曜石が跳ねてぎらめく。そして私は、その横にあった、眩い真珠を指の間にはさみ、力を込め――解放の言葉を叫ぶと同時に、潰した。
真珠から真っ白なエネルギーが迸り、前に向け突っ走って行った。黒魔女が驚きの声を上る。次の瞬間、電撃が彼女の身体に襲いかかり、弾け飛んだ。恐ろしい悲鳴が耳を劈く。万魔術の光がその全身を突き抜け、突き破り、彼女に執拗に襲いかかる。色とりどりの血飛沫が噴き上がる。悲鳴が轟く。しばらくしてその中から飛び出した黒魔女は、もうボロボロで、極彩色の血を、あたりに大量に撒き散らしながら、一度はたかれた蠅のようにして弱弱しく逃げ回るだけだった。
私は舌打ちをした。まだ生きてやがる、アイツ。やっぱり幾らなんでも、今の私じゃ未熟すぎるか……
万魔術は本来、最も習得が難しいとされる魔術技能だ。私みたいな初心者に扱える代物じゃない。ジネットが渡してくれたこの真珠は、万魔術のエネルギーを封じ込めた、術式補助目的の魔術道具。これを使えば、初心者でも万魔術が打てる――威力こそ制限されるが、通常はそれでも十分すぎるって話だった。
そうだ――その通りだ。大丈夫だ、全然勝てる! よく見ればきちんと効いている。ぐちゃぐちゃに、力なく回転して回る黒魔女らしき化け物の身体のそこら中から、煙や灰が噴き出している。なおも。なおも! っていうことは身体が浸食されていっているんだ。この万魔術が効いてるんだ! 私の、勝ちだ――。
……ん? 待てよ。あれは……
黒魔女が何やら、地面に何かを見つけたようだ。ズタボロの腕を広げ、口から呪文を流れ出させている。恐らくは奴にとって、文字通り最後の攻撃だ――これを放つことで、奴は魔力残量が底をつき、死んでしまうに違いない。破壊衝動が、暴走しているらしい。
攻撃対象が人間ならば、やっぱりなんとかして止めないと。私は屋根の上を走って行き、下を覗きこんだ。もう大半の人は逃げたはずなのに、誰がいるっていうんだ――?
ハッとした。
そこには、腕に酷い怪我を負い、一人だけ逃げ遅れていた少年がいた。血を流し、朦朧とした様子でふらつき、ゼェゼェと息を吐いている。黒魔女は、彼に手を向けて、呪文を詠唱していたのだ。
そして、その少年は――
私は愕然とした。
シャルルだ!
絶叫した。訳も分からず、私は前に飛びだした。頭からすべての思考が吹っ飛ぶ。助けないと。助けないと! 何としてでも!
名前を叫ぼうとした、「逃げて」と泣き叫ぼうとした――けれど、それを、咄嗟のところで踏み留まる。今の私はKであって、クリスティアーナではない。もしここで名前を知っていたら、それはおかしいのだ。
あぁ――もどかしい! 逃げろと叫びたいのに、そうは今は言えない。今から今更、白魔術は使えない――詠唱の時間なんてない! どうする? どうする? どうする!?
黒魔女が攻撃を放った。真っ黒なエネルギーが手から噴き出し、地上のシャルルに向けて螺旋状に巻き下ってゆく。私は喚きながら、全力で飛び出し――そして、シャルルの前に、一心不乱に飛び込んだ。
気付いた時には、もう既に遅かった。
攻撃が、私に、命中した。
痛み――この世のものとは思えない痛み。全身が炎に包まれ、悲鳴を上げた。思考回路が真っ白に焼き消されて吹っ飛ぶ。私は落下し、地面に転がり落ち、転げまわった。杖が手を離れたのが辛うじてわかった。
悲鳴が止まらない。全身が焼けただれていく。霞む視界の中、伸ばされた手の皮膚を炎が包み込み、でらでらと溶かしていく。自らの肉体が焦げる臭い、生臭さと灰の粉塵との混じった臭いが、辺りに渦巻く。顔を、胸を、全身を必死にはたくけれど、もう何も変わらないし、もう何も分からない。仰け反って、天に手を伸ばし、絶叫する。
まるでそのまま真っ逆さまに地獄に墜ちたかのようだ。こんな痛み耐えられない。溶けていく。焦げていく。全身に纏わりつく炎が、私の身体を殺してゆく。このままじゃ。このままじゃ。このままじゃ――。
その時、視界に、またあれが映り込んだ。私は地面に、横に転がっていた杖を――掴んだ。しがみ付くようにして、握り、抱える。祈る。
全身を覆い尽くしていた炎の激しさが、一気に弱くなった気がした。徐々に、炎が落ち着いてきた。私の身体の上で、揺らめきながら、踊りながら、次第に次第にしぼんでいく。やがてそれもなくなって、私の周りの火はやっと全て消えた。全身から、プスプスと煙が上がっていた。私はその場に、ぐったりと倒れ込んだ。
全身の表面が焼けただれていた。服はもうパリパリに黒焦げになって、あたりに纏わりついているだけに過ぎない。崩れ込んだ私は、体のどこにも最早、力を見つけることができなかった。
開けただれた皮膚は、ただ空気に触れているだけで激痛だった。特に、石の地面に触れている両手は、血が滲み出して広がり、未だに燃えているようにさえ感じた。
ゆっくりと、震えながら、私は起き上がった。そうだ――シャルルだ。彼は大丈夫なのだろうか? それだけ確認しないといけない。それだけ――。
起き上がると、そこには確かに、シャルルが立っていた。今の攻撃のダメージは何も受けていないようだ。思わず、安堵で、顔がほころぶ。でも、シャルルは、私を見て――
恐怖で、顔を、引きつらせていた。
「う……ぅ……あぁ」
シャルルの声は震えていた。ガクガクと膝が震えている。後ずさりしようとして、すっ転び、しりもちをつく。
「あぁぁああぁぁ」
私はぽかんとしていた。どうして? どうしたんだ? だって、私は――。
その時、気付いた。
足元に散らばっていた物の中に、瓦礫に紛れて、鏡が落ちていた。きっとその手の店が破壊された時に散らばったのだろう。そして、その鏡に映っていた、私の顔は、――焼けただれ、血塗れで、見るに堪えぬほど醜く歪んでいた。少なくとも、私であるとは――いやまして、人間であるとは、誰でも到底思えない。
でも……。
「……ャ……ルル――」
声を絞り出そうとするけれど、喉がボロボロで、かすれた声しか出ない。
「ァ……タ……シ――」
「この――化け物ぉっ!」
シャルルが私を指差して叫んだ。
「魔女だな……お前……魔女だなっ!」
私は呆然としていた。口元が震えるが、何も言えない。言うことが出来ない。
「僕達を戦いに巻き込むな……」
シャルルの顔を冷や汗が流れ落ちる。私に向けて突き付けられた指先が震えている。
「お前たちの、身勝手な理由で……僕たちを傷つけるな……!」
「ァ……タ、シ、ハ――」
「お前たちが――お前たちがいるから! お前たちがいるから、皆死んだ! お前たちさえいなければ! この――悪魔の、手先めっ!」
違う、と、叫びたかった。目の端に涙が滲み、零れ落ちていた。
私は白魔女なんだ。黒魔女とは違うんだ。でも、そんなこと今打ち明けられるわけがない。だって、私がクリスティアーナだということが、周りにも万が一知られてしまったら。シャルルにまで、その迷惑がかかってしまったら――。
ふらつきながら立ち上がる。前に歩き出そうとした。
「ャ……ル……ル――」
「来るなぁっ!」
シャルルが、顔を引き攣らせながら、持っていた本を、私に思いっきり投げつけた。本の角が私の頭に当たり、私は小さな悲鳴を上げて崩れ落ちた。シャルルが、喚きながら逃げ出した。私に一度も振り返りもせず、ひたすらに、必死に、純粋な恐怖に駆られて。途中転びかけても、急いで、はじかれるようにして立ち上がり、そのまま逃げていってしまった。自らが忌むべき存在、恐れるべき存在から。この社会において、絶対に正義とは認められぬ、邪悪なる存在から。
魔女である、この私から。Kから!
本当は追うこともできたのかもしれない。シャルルが逃げて行った後には、腕の傷から流れ出した血が点々と続いていっていたから、どこに向かっていったかぐらい容易に判る。でも、その時の私にはとても、そんなことはできなかった。
私はその場で呆然として、へなへなと座り込んでいた。涙がとめどなく頬を伝っていた。皮膚に染み、鋭く痛む。
私は、何もせず、何もできなかった。周りには、時々遠くから響く人の悲鳴や、燃え盛る炎の音を除き、灰色の静寂が立ち込めていた。やがてその沈黙に耐え切れずに、私は声を張り上げて、絶叫した。
私の絶叫が、壁に、瓦礫に、忙しなく、終わり無く、こだましていた。私の世界が崩れていく感覚があった。そのままその場で、呆気なく死んでしまいたいと思った。
私は何も悪くない。ただただ皆を守ろうと思ったんだ。あんなにも日頃から理不尽に、屑以下の存在に扱われ、人間としての尊厳なんて完全に奪われて、何度、何度、世界に殺意を覚えたか。それでもなお私は、負けたら駄目なんだと、立派に白魔女として生きないと駄目なんだと、必死に自らに言い聞かせて、権利を得ずにしてこの義務を背負い、こんな痛みにまで耐えて頑張って戦ったのに。シャルルを守ったのに。それなのに。
あぁ、なのに! シャルルだって、何も悪くないんだ。だって彼にしてみれば、私はただの魔女なんだ。忌むべき化物。教皇庁の敵。世界に災厄をもたらす存在! 憐れな奴隷少女の時の方が、クリスティアーナとして生きていた時の方が、これならよっぽどマシだった!
私は誰を憎めばいいんだ? このもどかしさを、悲しみを、一体誰に、何にぶつければいい!? 運命か? 宿命か? 神様なのか!? 結局またもやそれなのか!?
ずっと張り上げていた絶叫が、やがてこだましながら消えていき、静寂がその場に帰還した。それは私の心を包み込み、暗闇が覆い被さるようにして、緩やかに窒息させていった。私は力を失い、その場に倒れ込み、動かなかった。動こうとも思わなかった。そして、私の意識は、深い、深い闇の底へと、ゆっくりとゆっくりと、落ちていった。