第六章
=白魔女・黒魔女の戦闘技能①=
魔女、特に黒魔女は、個体ごとの強さの差が著しい。全体として総括した場合には、ピラミッドのような形状の階層を形成しているとされる。最下層の黒魔女ならば、「十字架と聖書を持った一般人でも、運が良ければ倒せる」という程度の力しかない一方で、最強クラスの魔女は、国の軍隊の一つや二つ程度、簡単に壊滅させてしまう程の圧倒的な戦闘力を誇るという。
幾らなんでも、これほどの力の差は、偶然や、悪魔の気まぐれの産物とは考えられない。「強力な魔女が誕生する条件」という議題は、当然、遥か昔から、教皇庁の研究機関内でも最重要項目として取り上げられてきた。数百年間に渡る研究、各種考察、「魔法」という技術の仕組みそのものへの理解の深化などにより、様々な有力説が誕生し、現在ではおおよそ、以下のような要素が、黒魔女の強さと深く関係しているらしいことが分かってきた(なお、研究機関内での白魔女に関する調査は数百年前に打ち切られているので、白魔女の強さに関する詳細資料というのは現存しない)。
①契約相手の悪魔の、地獄帝国における「階級」
当然、貴族階級の悪魔(即ち、上位の悪魔)と契約した魔女の方が、一般的な魔女より遥かに強い。これは、黒魔女の持つ魔力の大本が、契約時に悪魔から「分け与えられた」物だからである――強い悪魔ほど、より多くの魔力を、魔女に分け与えることができるというわけだろう。ただし、実際には、上位の悪魔は地獄の最深部から動こうとせず、ほとんど人間との「契約」を結ぼうとしないので、これによって強さを得た魔女の例というのは、実はあまり多くない。
②魔女本人の「願望」の強さ
そもそも、全ての魔法の本質とは「願い」である。魔女は、「自らの精神が望む未来」を実現するべく、本来人間には変えられないはずの「世界の理」を捻じ曲げてしまう――そして、この「世界の法則を破壊し、自らの願望に合わせて作り替える能力」こそが、魔法という技術の「定義」である。本来神にしか許されないはずの行為を平然と行うが故に、魔女は「神に背いた者」と見なされるのである。
ということは、より「高望み」な魔女――よく言えば理想が高い、悪く言えば欲張りな性格の魔女ほど、多くを「変える」必要があるので、必然的にこの「世界を変える力」、即ち「魔力」が強くなる。更に言えば、当然、過酷な環境に暮らす人間ほど、多くの物が足りず、多くの物を望むので、その意味では「現状が満ち足りている魔女」より、「未だ貧しく、まだまだ欲望が充足していない魔女」の方が、より成長しやすいと言えるだろう。
強力な黒魔女の多くは、凄惨な過去を持つというが、それはこの「願望の強さ」と無関係ではあるまい。
尤も、それ以前の問題として、明確な目標のために努力すること自体が「強さ」へと繋がるので、それによる魔術の練習量の差なども、これには関わってくるかもしれない。
③魔導書を所持しているか否か
魔法は、極めて複雑な技術であり、到底独学で学びきれる物ではない。己の「願望の強さ」だけで突き進むには、やはり限界が存在する。
古より伝わり、多くの魔術に関する詳細知識が詰め込まれた「魔導書」を所持する魔女は、当然、これを所持しない魔女に比べ、絶対的なアドバンテージを得ることができる。魔導書は、嘗て強力な魔女が記したもの、悪魔が執筆し、悪戯のつもりで地上世界に落としたものなど、由来は様々だが、一冊所持するだけで、行使可能な魔術の幅は大分広がる。
既に強力な魔女は、「向上心」、或いは「願望」が尽きることを防止する意味も込めて、新しい魔術の開発に心血を注ぐ。強力な黒魔女を放置することは、より多くの魔導書が作られてゆくことを意味し、将来にとって危険なので、教皇庁は随時「聖痕者」などを送り込んで対処に当たっているが、中にはその「聖痕者」ですら手が出せないような、規格外の魔女というのも存在する。
習得が一筋縄ではいかず、効力にも法則性があまり無いこと、ちょっとした偶然が強力な魔法を産むこと、師匠や関連書物が大いに参考になること、開発する前は結果の予想がつきにくいことなどから、魔術は「料理」に例えられることも多い。
④自らの名付け親であるか否か
もし、契約時に悪魔に騙され、契約相手の悪魔に「魔女の名」を授けられてしまった場合、その魔女はほぼ間違いなく、いずれかそれによって破滅する。これを防ぐには、黒魔女になる際、自らの「魔女の名」を自らで決定しておく必要がある。未知なる恐ろしい悪魔との契約の最中、自らの名前を自らで決めるには、相当な「度胸」、「プライド」、或いは「確固たる意志」が必要となるが、この関門を潜り抜けることができなければ、黒魔女としての高みに立つことはできない。何者かに束縛されている状態で、強くなることなどできないからである。
⑤戦闘経験
説明不要だろう。当然の如く、戦い慣れている黒魔女は、新参者に比べて遥かに強い。特に、特定の魔術・戦法への対処法などといった魔術戦闘の専門知識は、実戦以外で身に着けることは極めて難しいだろう。特に黒魔女同士の戦闘では、互いに攻撃力が高く、防御力が低いため、たった一発の攻撃が生死の分かれ目となることが多い。相手が発動して来る技を事前に見抜く、相手の弱点や苦手とする魔術分野を早期段階で解析し特定する、或いはそれこそ戦う前から相手に関する情報を事前に調べておくなどして、相手の手の内を知っておくことこそが、実戦における魔女の強さに繋がる。
一定の強さを越した魔女からは、「寿命」の概念が無くなると言われている。現に、何百年も前から存在が確認されている魔女というのも、ごく僅かながらこの世には存在し、そのような魔女が蓄えてきた知識や戦闘経験は、並の魔女の比ではない。通常の方法で倒すことは、ほぼ不可能と考えてもいいだろう。
私とレティシア・オラールとの戦いの翌日、サン=ノエル司教座聖堂にて特別集会が開かれた。周辺地域の住民は皆、特別集会に出席する権利――義務とも言うべきか――を持ち、それは奴隷や「召し使い」とて例外ではない。あたしは『主人』に無理やり連れられて、サン=ノエル司教座聖堂に行くことになった。
議題は、その場に集まっていた人の多くが思っていた通り、「大競売市」に関してだった。
例年この時期、サン=ノエルでは規格外の規模の競売市が開かれることになっている。一種の祭りのような物だ。地中海中の商人が一堂に会し、優に司教領予算規模の莫大な金が、たった三日間の内に取引される――『主人』にとってこれは、莫大な利益を上げる最高のチャンスだ。現に、毎年の利益の実に約四から五割は、この競売市に集約されていると言っていい。
ただ、それが今年は、開催都市の移動が決定されたというのだ。
方針を打ち出したのは、サン=ノエル司教座聖堂のジャン=ジャック・エドガール・ミカエリス司教だった。七十を過ぎるガリガリの老人だが、対魔女戦闘における「奇跡」の作用に関し幾つかの発明や発見をした功績で、その手の学会では相当な有名人らしい。三十年前に司教領を敷いて以来、ずっとこの都市の行政権力を握り続けてきている。
「ここ二週間、我々は度重なる魔女の攻撃を受け続けてきました」
ミカエリス司教は、聖堂の本堂の中で、集められた群衆に語った。声が出来過ぎた悲しみに満ちている。大半の人達はその話に聴き惚れ、涙する者までいたが――私はそうするわけにはいかなかった。当然、表向き、反抗的な態度こそ取らなかったが……可能ならその場で殴りつけてやりたかった。何せ、こいつには――
恨みがある。
「我々の必死の行いも、被害を完全に抑えるには至らず……遺族その他被害者には本当に申し訳なく思っております。そして、無力な私達が申すのもいかがな物でしょうが、このようなことが外部からのお客様にまで起きてしまうのは極力避けたいのです……」
彼は、自らの古き友人、サン=キリエル聖堂の司教が、競売市の役目を今年に限り引き受けてくれると申し出ていると説明した。その代り、サン=ノエルの商人たちがそこへ荷物を輸送するのにかける手間賃は、全て教会が負担すると保証した。曰く、魔女を止められない責任は自分達にあるから、せめてこれだけでもお許しいただきたい、とのことだ。
それでも『主人』は、この話に不服があったようだ。集会ではいつも通りニコニコしていたが、ひとたび屋敷に変えると、突然形相を変えて周りに怒鳴り散らし始め、教会風情がふざけるんじゃない、あたしたちの仕事に干渉してくんじゃないよ、などと一日中叫んでいた。
彼女が気にしていたのは、サン=キリエルの方が、多少こちらより商売の税率が高いという、ただそれだけのことだった。
街の商会の中心たる貿易商ギルドの家族が一つ丸ごと蒸発しているのだから、移動は当然の措置と言えるだろう。中止にならなかっただけありがたいと思うべきだ。大半の商人はしぶしぶこれに納得していたのだが、他より更に金にがめついからか、それとも単に自分だけは魔女に攻撃されることが無いとでも思っているのか、『主人』はそれについて一日中ずっと苛立っていた。当然その矛先はあたしに向けられる――その日は、仕事をしている時間と同じぐらい、ずっと殴られ蹴られっぱなしだったように感じる。
ただ、それよりかあたしが気になっていたのは、ジネットがあの日言っていたことだった――あたしが初めて使った魔術が、黒魔術だったという事実。どうして、そんなことが……?
魔女になったその瞬間から、既に何らか一つだけ、比較的高等の魔術が使えること。そして、黒魔術が得意であること――。どちらも紛れも無く、黒魔女の性質だ。
でもあたしは、悪魔との契約なんて絶対にしていない。それに、黒魔女には通常、基礎的な物ですら、白魔術は扱えないんだ。あたしはウェルティコディアの魔力を受け継いだ。だからどう考えたって白魔女のはずなんだ。
……ただ、だとしたらどうして、黒魔術が使えたんだ?
もしかして、と、恐ろしい発想が頭をよぎる。もしかして、あたしが神様のこと嫌いだから、あたしの力が、いつの間にか悪魔に染まっていたのかも。もしそうだとしたら、それはもう、あたしが立派な黒魔女だってことになる。その場合、どうしよう?
いや――そんな重要な可能性があるなら、ジネットは言っている筈だ。きっと、どんなに考えても、この答えは出ないだろう。彼女は単に、「感情が強すぎたから何かが起こったんだろう、あまり気にしなくていい」ってぐらいに軽く流していたけど……
大競売市の二日前の夜、ペンダント経由で、ジネットが私に連絡してきた。
「何? 話さないといけないことって」
箒の上で、ジネットにしがみ付いた状態で、私は訊いた(もう流石に、この高度にも段々慣れてきた)。すると、ジネットは難しい顔をした。
「連続殺人事件に関しての、有力説を発見したんだけどよ」
「有力説――?」
「あぁ。詳細はお師匠様の家で話すが……」
森の中にぽつりとある、ウェルティコディアの家の空き地に到着した。水晶の柱から家を再構築し、ジネットは私を自分の部屋に招き入れた。あの同じ、赤いカーテンが壁にかかった洞窟のような、何処か奇妙で不気味だけど、なんだか面白くて、発見に満ちた空間。見ると、革製のランプで照らされた机の上に、普段以上の量のメモがあり、天井に届きそうな勢いで、沢山の分厚い本が山積みになっていた。うち一冊のタイトルを見てみると――
「えっ――『悪魔召喚術』!? ちょっと、ジネットちゃん、なんでこんなものが――」
「いやいやぁ、別にあたしが使うってわけじゃねーぜ」
箒を横に立てかけながらジネットが言う。
「でもお師匠様は有名な黒魔導書も沢山持ってる。だって敵の術を知らないことには、対策も練られないだろ?」
「あ、成程……なんだ、そういうことね。びっくりしたぁ」
「オウ。取り敢えず、座ってくれ」
あの勝手に組み上がる椅子のクッション部分を上手く避けて、私はそれに座り込んだ。ジネットも、自分のクッションを慣れた様子でかわし、椅子に腰かけた。
「えっとだな。取り敢えず――サンドリーヌ・メロディという名前を聞いたことはあるか」
ジネットが切り出した。もうズバッと本題に入るらしい。
……サンドリーヌ・メロディ――か。何か、確か……
「……聞いたことだけなら、ある気がする。一回だけ、教会の集会か何かで」
「まぁ、教皇庁なんかじゃあ有名人だ。一般に、フランス南部で最も強い黒魔女だって言われてる。説によっちゃあ、フランス全土で最強だともされているが、何せそいつの素性は教皇庁にもよく分からなくて、ろくな情報が集まってない。ともかく、ヨーロッパ全体で見ても、トップクラスの実力を持ってるってことだけは確かだ。
基本的に、そいつの縄張りはフランス南部全土に渡るが、最近じゃあ他の国なんかにも広がりを見せ始めている。本拠地はサン=キリエルで、あそこの街全体が、経済的には彼女の支配下に置かれると言っても過言じゃあない。百人以上の魔女を部下として、一つの巨大組織、『サンドリーヌ・ファミリー』を形成してるのさ」
「えっ、サン=キリエルって、今度市場が移されるところの……?」
「あぁそうだ」
「えっ――そんな、そんな危険なところに移して大丈夫なの?」
私は訊かずにはいられなかった。
「そんな、半分黒魔女に支配されてるみたいな……いつ、何が起こるか……」
「ところがどっこい、この『ファミリー』ってのは不思議でなぁ」
ジネットが悩ましげに頭を掻いた。
「サン=キリエルは皮肉にも、サン=ノエルと並んで、犯罪率が滅茶苦茶低い街なんだ。そして、このファミリーのお陰で治安が保たれてると言っても過言じゃない」
「えっ――どういうこと? なんで……」
「なんでって……まぁ、つまるところ……『組織』だからさ」
ジネットは、分かってるのに、言葉に言い表しにくくてもどかしい、とでもいうような顔をしていた。
「本来黒魔女は、無秩序に動き、世界に混沌を広げるだけの存在だ。だが、組織化されることによって、そのような黒魔女の危険分子たちにも、社会的な秩序がもたらされるんだよ。そうしたら、そいつらだって馬鹿じゃない――教会との利害の一致を図ることで、生存を画策する」
「利害の一致……? それって、どういう……」
「一番いい例が治安の安定だよ。サンドリーヌの配下にある黒魔女達は、きちんと統制され、やたらめったらと周りに危害を加えなくなる。なにせ変にそんなことしちまったら、組織全体が教皇庁に目ぇ付けられて終わりだからな。それに、他の地域と違って、サン=キリエル内で縄張り争いが起きることもない。皮肉なことに、魔女の集団が、魔女の犯罪を抑えてるんだよ。結局のところそいつらだって、生き延びたいのは同じだからな」
「はぁ……」
「サンドリーヌ・ファミリーは、正直、感心する程いい具合に立ち回ってる。表に出て問題になるような事は一切しない。黒魔女の破壊欲求は、農村の盗賊狩りだとか、他の黒魔女のファミリーとの抗争だとか、個人的な暗殺依頼だとかに回されてる。利益ルートは、既存の水商売、人身売買、麻薬系なんかの悪徳商人のシンジケートを、後から乗っ取る形で獲得してるらしい。
周辺の黒魔女を束ねてるとあらば、教会は手出しすらできない。そいつの配下の沢山の魔女が、一気にその首輪を外されたら――はっきり言って、サン=キリエルは壊滅する」
そうか、成程――。一口に黒魔女と言っても、色々な奴らがいるらしい。何も、自らの欲望に振り回されて身を滅ぼすような、愚かな奴らだけじゃない。冷静に、知的に、自らの力を制御し、裏社会の高みに昇り詰めるような――そういう、強かな連中もいるのか。
「でも……だとしたら、どうしてそいつらが、このサン=ノエルの連続事件の裏で動いてるかもしれないって思うの? あんまり堂々とは犯罪しないんでしょ?」
ああ、と、ジネットは頷いた。
「以前なら、あたしもそう思っていただろう。サンドリーヌは、理性的に動く。普通ならこんなことには加担しない。でも最近は、諸事情が重なって、どうも怪しい証拠がいくらでもあるんだよ……」
ジネットは、辺りを少し見まわした。鼻で空気をかぎ、耳に手を当て、しばらく待っていた。それが終わると、こちらを向いた。
「第一に――お師匠様がお亡くなりになる丁度一か月ぐらい前あたりから、サンドリーヌ・ファミリーと彼女とが、急に、若干だが、抗争状態に入った。元々両者は相当昔から仲が悪かったが――まぁ、二人の縄張りは接触しているし、そもそも魔女の種類が違うわけだからな――ただ、それまでは双方、敢えて何も言わずに、不干渉の立場を保ち続けてたんだよ。それが突然、抗争が再燃した。サンドリーヌが何らかの陰謀を企てて、それを知ったお師匠様が止めようとした、だなんて可能性も、あるにはあるだろ」
ふと止まり、またあたりを見回す。いや、なんでもない、と呟く。
「二つ目は、そもそも、黒魔女の大量発生だなんて芸当ができる奴が、周辺地域にはそいつしかいないことだ。サンドリーヌ・メロディの最も得意とするのは、悪魔召喚術。常に何百という悪魔を従えている、超一流の腕前だ。或いは悪魔召喚術が得意な部下だっているだろうから、そいつを利用してるかもしれないが。とにかくそうやって、大量の悪魔達をサン=ノエルに派遣し、裏ルートで知り合った人間を誘惑する――そう、お前の言っていたレティシア・オラールのような、社会的に困窮している少女達だ。そしてそうやって、雑魚の黒魔女を大量発生させる……不可能ではない」
栗色の癖っ毛のレティシア・オラールと、あの不気味な銀色の悪魔を思い出した。ジネットの説が正しいのなら、あの悪魔は何者かによって召喚され、レティシアとの契約を結んだ奴ということになる。
「でも、そんなことに……」
そこの納得はいく。だが、別方面での納得がいかない。
「サンドリーヌがそんなに人を殺すのに、どんな利点があるの?」
「お師匠様との諍いが無かったら、あたしも妥当なことを考えてただろうな。単に、サン=ノエルの治安を悪化させ、サン=キリエルに大競売市を移して、縄張りに経済的利益を享受させたいっていう、ただそれだけのこと」
「……なんというか、回りくどいというか……」
「いや、意外と、頭いい黒魔女だと、そんな感じの使い方ばっかするぞ。でも、本当にそれだけなのか、お師匠様と戦うぐらいだし何かがあるんじゃないのかって思って、色々調べ回ったら……面白いとも、恐ろしいともとれる、とある事実が分かった。あたしが思うに、サンドリーヌ・メロディの真の目的は――あたしたちの想像を遥かに超えた、最強クラスの大悪魔の完全召喚術式だ」
「大悪魔の、召喚……? それって例えば、その、サタンだとか、ベルゼ――」
「おい、やめろ! 言うな、言うな!」
シーッ、と、必死の形相になって、ジネットが私の口をふさぐ。
「名前には力がある。特に魔女の言葉には力が宿ることは、あんたならよく知ってるだろ? きちんとそのあたり、気をつけろ」
私は震えながら頷いた。
「あぁ、ご、ごめんなさい……」
「流石にそのレベルまでかは、あたしにゃあ分からない。けれどなんらかの強大な存在には間違いないだろうな……。ホラ、これを見てみろ」
ジネットが、後ろの机の中から、一枚の羊皮紙を引っ張り出した。周辺地域の地図だ。そこら中に、赤い点が打ってある。一か所、ほとんど塗り潰さんというばかりに点に覆われていた箇所があって、そこの上には、「San-Noel」の文字があった。
「見れば分かると思うが」
ジネットが言った。
「これらの点は、ここ最近の黒魔女による事件の発生現場を示している。こうしてみると、どれだけサン=ノエルに集中しているか分かるな」
「うん。……あと」
ふと気付いたことを、指摘する。
「こうやって、サン=ノエルから離れた所でも、何件か起きてるけど……気のせいか……それらが、その、円上に並んでるように見えない? サン=ノエルから、大体同じぐらいの距離というか……」
「その通り。よく気付いたな」
ジネットが地図に、細長い、綺麗な指を走らせ、何か短い呪文を唱えた。と、赤い点の間に、光の線が放射状に広がっていき、一斉に繋がった。
「……あっ!」
声を出さずには、いられなかった。
描かれた線は、まるで地図の上に描かれた、巨大な魔方陣のようだった。ところどころ線が抜け、未完成のように見えるが、その複雑性、完璧な幾何学性、そして荘厳性にも似た美しさは、私の胸を打った。
「どう思う?」
ジネットがこっちを向いた。真剣な表情だ。
「ただの偶然じゃあ、済ませられねぇよな。特にホラ、ここなんか見て見ろ」
彼女が指差したのは、海上に一か所だけぽつりとついた紅い点だった。
「幾らなんでも不自然だよなぁ、これは。とある貿易商人の船が襲われて、数十人もの乗組員を乗せたまま沈没したっていう事件だが……それがこの完璧な位置に来るのには、流石になんらかの作為を感じずにはいられねぇ。
これってのは、超が付くほど高等な、悪魔召喚の術式だ。何せ地図上に描かれるレベルの巨大魔方陣なんだから、貴族階級の奴ぐらいは容易に召喚できるだろうな。そいつの能力は完全に解放され、サンドリーヌの指揮の下、そこら辺の黒魔女や教会勢力なんざ指一本で捻り潰すぐらいの力を発揮するだろう。……そう、それで、そんでもって……」
ジネットがもう一回羊皮紙を叩くと、今度は蒼い線が広がり始めた。幾つかの地点で繋がる。魔方陣が完成した。
「計算上、魔方陣の残りは、これらの地点を通過する。つまるところ今度の事件発生地点は、これらの曲線の交点ってことになるな。そして、ホラ、見ろ。ここだ」
彼女が指差した蒼い点の上には、筆で書かれたような筆記体の字が、不気味に、不吉に、揺らめいていた。
『San-Kyriel』
私は唾を飲み込んだ。
「更に」
ジネットは言った。
「これらの地点での事件の発生順序を調べた。すると、それらの法則性で言えば、今度の大競売市の日、事件はこのサン=キリエルで起きるだろうってことまで絞り込めた」
「……サンドリーヌ自身が、破壊活動に出る可能性ってあるの?」
「それは無い。連中、自らは動かないだろう。誰かしら、あのレティシア・オラールみたいに、適当な量産型の黒魔女を生み出して手駒にして、自らの手は汚さずにここにマークをつけるに違いない。
もし、それ程の大規模な召喚術式を必要とする悪魔なら、恐らくは最低でも地獄帝国の公爵、或いは王族級以上……場合によってはそれこそ、あんたが言ったような、頂点に立つ階層の連中かもしれない。完全状態でその力が解放されれば、周辺地域だとか、大陸だとかどころか、上手くいけば世界全体だって手にすることができる」
目を細める。
「想像してみろ。一発の攻撃で都市一つ木端微塵にできるような、巨大にそびえ立つ、破壊と欲望の化身。地獄の棟梁の一柱が、地図上を駆け巡る魔方陣に炎を走らせながら、この地に降臨するのさ。そいつは、自らが仕える魔女の指示の下、一切の容赦をせずに、あたりを蹂躙していく。あたし達なんかひとたまりもないだろう。山を谷に変え、河を血の色に染め、そいつはローマ、教皇庁本部、ラテナノ宮殿へと進撃する。果たしてその時、『聖痕者』達が太刀打ちできるのかできないのかは、あたしには正直分からない。でも、少なくとも、これだけは確かだ――」
彼女は指を立て、地面に下ろした。
「その悪魔の完全召喚に伴って、魔方陣内のエリアには、そいつが発生させた破壊のエネルギーが満ち溢れ、そして決壊する。つまり、余程の防御結界を張りでもしない限り、周辺地域は全て地獄に飲み込まれ、消滅する」
苦々しく、付け足した。
「サン=ノエルも、だな」
何かが背筋をぞくっと来た。光景が脳裏に浮かぶ。
逃げ惑う人々。轟く雷鳴。巨大な何かが、地面からゆっくりと持ち上がり、あたりから地獄の業火がそこら中を駆け巡っていく。それは、私たちの屋敷をも包み込む。地面が持ち上げられ、吹っ飛び、爆発的な火柱が吹き出す。屋敷が一瞬で掻き消され、それと一緒に、私に手を伸ばし、助けを求めている、シャルルも――。
目を見開き、唇を噛んだ。駄目だ。絶対に、駄目だ!
「そしてだとすると、ここで疑問だ」
ジネットが言った。
「これだけ多くの事件を起こしておいて――教皇庁がどうして、それに気づかないのかだが」
「確かに――そうだよ! そういうことを止めるのが、彼らの仕事なのに――」
「オウ、立派な職務放棄だな。だがあいつらはそもそも、少なくとも今は、あてにしない方が良いぞ」
ジネットが目を細める。
「お師匠様の最期を思い出してみろ。お師匠様を追っていた連中は、他でもない、サン=ノエル司教座聖堂配属の聖職者たちだ。つまるところ――」
彼女は小声で囁いた。
「連中は信頼できない。そっち側だって可能性もかなり高いだろう」
「……うん」
「それと……あぁそうだ……言い忘れてた」
ジネットは身を前に乗り出した。
「あのな。最期の直前のお師匠様は、よくひとり言のようにある言葉を呟きながら、悪魔召喚術関連の魔導書を読み漁っていた。これらの本は全部、その言葉を彼女がブツブツ言いながら読んでた本を引き出したものだが……」
机に積まれた、天井にまで届きそうな、古めかしい本の山を指さす。
「その言葉が……流石に聞いたことはないと思うんだが。《色の無い悪魔》」
「《色の無い悪魔》……? 何、それって」
「実は何かはこっちが訊きたいぐらいでよ、幾ら読んでもそれらしきものが見つからない。あー畜生、そうだよな、お前が何か知ってる僅かな可能性に変に期待しちまったが、そりゃあ知ってるわけねぇよなぁ……」
ジネットが、困ったなー、と、頭を掻く。
「思うにこの《色の無い悪魔》ってのは、相当強い大悪魔を指す隠語なんだろう。お師匠様がずっとそれに拘っていたらしいことを考えると、この《色の無い悪魔》こそ、サンドリーヌが召喚しようとしている規格外の悪魔だと推測していい。ただ、厄介なことに、その正体が掴めないんだ。
透明化能力を持つ大悪魔ならなかなかに多い。でも、なんだかどれをみても、変な言い方だけどよ、『これだっ!』ってレベルのがいないってかな、これならもっと別の奴選ぶんじゃねぇの、みたいな微妙なチョイスばっかりで。本当に強い奴なんて、ほとんど……。一番有力なのが、その筋で言うと、コイツ」
ジネットは腕で、横の魔導書の山に水平チョップを喰らわせた。一冊だけ、横にポンと上手く飛び出させたのを、ジネットがもう片手でキャッチする。
「ジネットちゃん、ナイスキャッチ」
「オウ、ありがと」
ジネットが本をペラペラ捲り始めた。
「えっと、どこのページだっけな……」
と、彼女の周りの羊皮紙が、勝手に空中に漂い始めた。
羽根ペンが空中で踊り始めた。頭上の、小さな龍の全身骨格のような物が、もがき始め、自らを繋ぎ止めている糸を噛み千切ろうと、首を後ろに必死にのけぞり返し始めた。不気味な影が、赤いカーテンに揺らめく。
「……この辞典だと最初の方じゃないんだっけな。分かりにくいな……」
「ジ、ジネットちゃん!? 周りなんか色々すごいことになってるよ!?」
「え? なんのこと――ぎぃああああああ!?」
声にびっくりして振り向くと、私の後ろの棚の中で、何かの緑色の薬品に漬けられていた巨大なクモが、瓶の中で八本の脚を激しく蠢めかしていた。私が釣られて悲鳴を上げて椅子から転げ落ちると、ジネットの衣装ダンスが勝手に開き、大量の彼女の下着がそこら中に吹雪のように吹き荒れ始めた。
「ジ、ジネットちゃん!? 何が起こってるの!?」
「えっ、えぇっと、あたしにも分かんねぇよ! ぎぃああああ! ちょっと、ちょ、そっち見たくない! 怖い!」
「ジネットちゃんクモ苦手なの!?」
「こ、怖くねぇし! ほら、今あたし思いっきりガン見ぎぃあああああああ!」
「滅茶苦茶怖がってるじゃん!」
「うわぁぁああ、えぇっと、そうだ、そうだ……どうすればいいんだ!? ……そうだ!」
ジネットが本を、思いっきりバンと閉じた。
途端に、あたりの物が一斉に静かになった。液体漬けのクモがその場で硬直し、元の縮こまったような姿勢に戻る。上空の小さな龍の骨格も、体勢を元に直した。ジネットの上に被さり、顔を覆っていた大量の下着が、衣装ダンスの中へと吸い込まれていった。羽根ペンが元の場所に戻り、周りの羊皮紙はそのまま地面にひらひらと落下した。赤いカーテンの影が薄れていき、消える。
よかった……胸を撫で下ろす。一応、助かったみたいだ。
「よし、K、今のですごい大事なことがわかったぞ」
ジネットが自信満々に言った。私は期待して顔を上げた。
「えっ、何々?」
「魔導書を当てずっぽで選ぶと大変なことになるってことだ」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……当てずっぽだったの!?」
私とジネットは、ウェルティコディアの家の中心の部屋で、床に巨大な大悪魔辞典をそれぞれ一冊ずつ開き、その中を必死に探していた。《色の無い悪魔》と思しき物が無いか、チェックするためだ。でも、ひたすらそれを読んでいるだけだと、どうもつまらないし、互いになんだかしゃべらないのが嫌だったから、読み進めながらも、適当に会話を続けていた。
「さっきは、部屋の片づけ少し手伝わせて、ごめんな……あぁでもしないと、必要なメモがどこだか分かんなくて」
「いや、別にいいよ……そんな量じゃなかったし。それに、色々面白い物もあったし」
「えっ……そんな面白い物あったか? ってか、Kに分かるような内容の物……おい、なんで笑ってんだよ」
「いや……『紅蓮魔女戦記第十三巻・双頭の焔龍神』面白かったよ」
「お前に掃除を頼んだのは間違いだったよ」
もうしばらく適当にわいわい話しながら、本を読み進めていくと、私はそれっぽい物を見つけた。
「これじゃないかな」
「おっ――なんかあったか?」
「いや、そんな期待しない方がいいと思うけど……」
そこにあったのは、不思議な悪魔の絵だった――クモの身体の上に、左から順に猫と、しかめっ面の男と、ヒキ蛙との顔が乗っかっている。男の頭の上には見事な王冠が乗っており、妙な禍々しい威厳があった。
ソロモン七十二柱、序列第一番目――大悪魔バアルだ。下の説明によると、六十六もの軍団を率い、地獄の貴族の中でもかなり上位に君臨する存在らしい。更に、透明になる力を、術者に授けてくれるという。
「どう、これ」
「あぁ、それはあたしも思ったよ」
ジネットは頭を掻いた。
「そう、あたしコイツのこと言いたかったんだけどな。また名前口に出すと色々大変だから。普通に考えて《色の無い悪魔》、強い奴って言ったらコイツしかいない。ただ、安直すぎる気もしてさ……」
「そう……」
まさか、単に絵にクモの要素が入っていたから悪戯のつもりで「これじゃないかな」とかって言ってみて、後々から透明になる力のくだりを見つけただけとは死んでも言えない。
「……クモの要素が入ってても、絵だと大丈夫なんだね」
「っていうか現実離れし過ぎてるからな。あんまし怖くない」
「えへへ。でもやっぱりクモは怖いんだね」
「あんたをナイフ投げの的にするって案があってだな」
他にも、悪魔召喚術に関する本も何冊かは読んだけれど、結局その日、《色の無い悪魔》に関しての、それ以上の有力な情報は見つからなかった。私はまた箒で、家まで送ってもらった。そして、最後にちょっとした物をもらい、ちょっとした待ち合わせの約束を交わし、その日は別れた。